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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

元興寺の僧の歌

巻第6-1018

白珠(しらたま)は人に知らえず知らずともよし 知らずともわれし知れらば知らずともよし 

【意味】
 真珠は、その真の価値を人に知られない。しかし、世の人が知らなくてもよい。たとえ世の人が知らなくても、自分さえ知っていれば構わない。

【説明】
 元興寺(がんごうじ)は、6世紀末に蘇我(そが)氏が飛鳥に法興寺(ほうこうじ)という寺を建て、それが後に元興寺と呼ばれるようになり、さらに平城京遷都後に都に移された寺です。朝廷の厚い保護を受けた有力な寺の一つであり、現在は「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。

 この歌は、577・577という旋頭歌体です。天平10年(738年)の作で、左注には、ある人が言うには「元興寺の僧は独り悟得して智恵も多かったが、それが世間に知られず、人々は侮り軽んじていた。それで、その僧はこの歌を作って自分の才能を嘆じた」ということだ、とあります。真珠に託して、自分の真価を正当に評価されない嘆きを歌ったものです。こうした不満は、いつの世にも、またいかなる分野の人も、多く抱いているもので、本来、寺というところは情実人事などなかるべき所で、もし高下があるとすれば、それは知能によってのみ定められるべきなのに、そこにも情実が幅を利かせ、知能が公平に認められていないと憤っています。

 なお、元の法興寺も残されて「本元興寺」よ呼ばれ、平城京に移された元興寺とともに「飛鳥寺」とも称されました。こうして生じた二つの飛鳥寺について、大伴坂上郎女は「元興寺の里を詠む歌」として、「故郷の飛鳥はあれどあをによし奈良の飛鳥を見らくしよしも」(巻第6-1992)という歌を残しています。

丹比屋主真人(たぢひのやぬしのまひと)の歌

巻第6-1031

後(おく)れにし人を思はく思泥(しで)の崎(さき)木綿(ゆふ)取り垂(し)でて幸(さき)くとぞ思ふ  

【意味】
 あとに残してきた人を思っては、思泥(しで)の崎で、木綿(ゆう)を取り垂らし、無事でいてくれとお祈りしている。

【説明】
 丹比屋主真人は、神亀元年(724年)に従五位下。天平12年(740年)10月に藤原広嗣が九州で謀反を起こした時、聖武天皇が伊勢の国に行幸し、河口の仮宮に10日間滞在しました。そのときに、従駕した丹比屋主が詠んだ歌とされています。ただし、左注には、「丹比屋主に勅して、河口の仮宮から都に帰し従駕していないので、この仮宮での作ではないのではないか」と書かれています。

 「後れにし人」は、旅から後れている人で、都に残している妻のこと。「思泥の崎」は、三重県四日市市の羽津の岬。「木綿」は、楮(こうぞ)の皮の繊維を裂いて作った糸で、幣帛(へいはく)として榊の枝などにかけました。

高丘河内連(たかをかのかふちのむらじ)の歌

巻第6-1038~1039

1038
故郷(ふるさと)は遠くもあらず一重山(ひとへやま)越ゆるがからに思ひぞ我(わ)がせし
1039
我(わ)が背子(せこ)とふたりし居(を)らば山高み里(さと)には月は照らずともよし
  

【意味】
〈1038〉奈良の旧都は遠いわけではない。たった山一つを越えるだけで、こんなに恋しい思いをしている。

〈1039〉あなたとこうして二人でいれば、山が高くて、この里に月が照らさなくても構いません。

【説明】
 高丘河内(たかおかのこうち)は、百済の公族の子孫で帰化人。養老5年(721年)に教育係として首皇子(のちの聖武天皇)に侍すよう命じられ、東宮侍講となった一人で、聖武天皇即位後に無姓から高丘連に改姓。天平勝宝6年(754年)に正五位下。

 天平12年(742年)12月に、奈良京から恭仁京に遷都されました。廷臣らは新京に移らなければなりませんが、住居の手配が間に合わず、家族を旧都に残す場合が多くありました。ここの歌もそれで、1038は、旧都の奈良に残した妻を思った歌。「故郷」は、恭仁京から見た奈良京のこと。「越ゆるがからに」の「からに」は、たった~のゆえに。1039は、その妻が新京にいる夫を思う形になっています。「山高み」は、山が高いので。

万葉歌の人気ベスト10 ~NHK『万葉集への招待』から
 

第1位
あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
~額田王(巻1-20)

第2位
石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
~志貴皇子(巻8-1418)

第3位
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
~大伴家持(巻20-4516)

第4位
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山
~持統天皇(巻1-28)

第5位
田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
~山部赤人(巻3-318)

第6位
恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき言尽くしてよ 長くと思はば
~大伴坂上郎女(巻4-661)

第7位
東の 野に炎の立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ
~柿本人麻呂(巻1-48)

第8位
熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな
~額田王(巻1-8)

第9位
銀も 金も玉もなにせむに 優れる宝 子に及かめやも
~山上憶良(巻5-803)

第10位
我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし
~大伯皇女(巻2-105)  

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万葉集の時代背景

万葉集の時代である上代の歴史は、一面では宮都の発展の歴史でもありました。大和盆地の東南の飛鳥(あすか)では、6世紀末から約100年間、歴代の皇居が営まれました。持統天皇の時に北上して藤原京が営まれ、元明天皇の時に平城京に遷ります。宮都の規模は拡大され、「百官の府」となり、多くの人々が集住する都市となりました。

一方、地方政治の拠点としての国府の整備も行われ、藤原京や平城京から出土した木簡からは、地方に課された租税の内容が知られます。また、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた大宰府は、北の多賀城とともに辺境の固めとなりましたが、大陸文化の門戸ともなりました。

この時期は積極的に大陸文化が吸収され、とくに仏教の伝来は政治的な変動を引き起こしつつも受容され、天平の東大寺・国分寺の造営に至ります。その間、多大の危険を冒して渡航した遣隋使・遣唐使たちは、はるか西域の文化を日本にもたらしました。

ただし、万葉集と仏教との関係では、万葉びとたちは不思議なほど仏教信仰に関する歌を詠んでいません。仏教伝来とその信仰は、飛鳥・白鳳時代の最大の出来事だったはずですが、まったくといってよいほど無視されています。当時の人たちにとって、仏教は異端であり、彼らの精神生活の支柱にあったのはあくまで古神道的な信仰、すなわち森羅万象に存する八百万の神々をおいて他にはなかったのでしょう。

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