巻第8-1418
石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の萌え出づる春になりにけるかも |
【意味】
岩の上を勢いよく流れる滝のほとりに、わらびがやわらかに芽吹いている。ああ、春になったのだなあ。
【説明】
巻第8の「春雑歌」の巻頭歌で、「志貴皇子(716年没)の懽(よろこび)の御歌」とあります。志貴皇子は天智天皇の第7皇子で、白壁王(光仁天皇)、湯原王らの父にあたります。『万葉集』に6首の歌を残し、哀感漂う歌が多く、すぐれた歌人との評価が高い人です。この歌は、雪解けの水かさが増した滝のほとりに、わらびが芽吹いているのを発見し、長い間待ち焦がれた春の訪れを喜んでいる歌であり、『万葉集』を代表する秀歌とされます。「の・の・の」
の律動がいかにも流動的、音楽的であり、その上で、「萌え出づる春になりにけるかも」と言葉を引き伸ばして言っているのも、ゆったりとして、春風駘蕩の感じに満ち溢れています。
「石ばしる」は、岩の上を勢いよく流れる。「垂水」は滝。志貴皇子の宮は奈良の春日にあったので、この垂水もその近辺にあったのでしょう。「蕨」は当時、自然の風物というより食材としてのみ認識されており、宮中の食膳にも「清春菜料」として供されたことが記録されています。文学作品の題材とする例は、志貴皇子と同時代には見当たらず、芽吹く蕨に生命力を感じるこの歌は特異と言えます。あるいは春先の宴席に供された料理に春の到来を感じ、蕨の芽吹く様子を想像して詠んだのかもしれません。
斉藤茂吉は、この歌について次のように評しています。「この歌は、志貴皇子の他の御歌同様、歌調が明朗・直線的であって、しかも平板に堕ちることなく、細かい顫動(せんどう)を伴いつつ荘重なる一首となっているのである。御よろこびの心が即ち、『さ蕨の萌え出づる春になりにけるかも』という一気に歌いあげられた句に象徴せられているのであり、小滝のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは、感覚が極めて新鮮だからである。この『けるかも』と一気に詠みくだされたのも、容易なるが如くにして決して容易なわざではない」
なお、この歌の冒頭句「石激」の読みは、平安時代以来「いはそそく」とされていたのが、江戸時代中期の国学者・賀茂真淵の考案によって「いはばしる」と変えられ、今に定着していった経緯があります。しかし一方では、戦後、一部に「いはそそく」が復活した時期があり、さらに今でも、真淵が「いはばしる」とした論拠がかなり強引であることを指摘し、他の文献に見られる「激」の用例との照合などによって、やはり「いはそそく」が万葉時代の正しい読みだとする見方があります。
それによれば、古代日本語の「そそく」は、「お湯をそそぐ」「雨がそそぐ」のような現代の穏やかな語感とは違い、水が岩に当たって高く飛び跳ね、勢いよく降り注ぐさまを表現する言葉だったといいます。ところが江戸時代にはそうした語感はすでに失われており、当時の感覚に合わせて、「いはそそく」から「いはばしる」に改変されたようなのです。
巻第8-1466
神奈備(かむなび)の磐瀬(いはせ)の杜(もり)の霍公鳥(ほととぎす)毛無(けなし)の岳(をか)に何時(いつ)か来鳴かむ |
【意味】
神奈備の岩瀬の森で鳴いているほととぎすよ、自分の住んでいる毛無の岡には一向に声が聞こえないが、いつになったら来て鳴いてくれるのか。
【説明】
「神奈備」は神のいる神聖な場所という意味で、ここは飛鳥の神奈備ではなく竜田の神奈備で、その南方に「岩瀬の森」があります。「磐瀬の社」で霍公鳥が鳴くことを詠む歌は他にもあり(巻第8-1470)、霍公鳥の名所だったのかもしれません。「毛無の岡」の所在未詳ながら、「毛無」は、樹木の生えていないはげ山などの土地を示す場合が多いようです。
国文学者の窪田空穂は、この歌について次のように評しています。「磐瀬の社へ行って、そこに鳴いている霍公鳥を聞いた時、わがいる毛無の岳へはいつ来るだろうと、その時の早からんことを願った心のものである。『磐瀬の社』『無毛の岳』という地名の重い響と霍公鳥の優婉な声とがおのずから対照的となり、一首にある深みを帯びさせている。調べも重くさわやかで、その心を生かすものとなっている。単純な、品位の高い歌である」
志貴皇子は天智天皇の第7皇子で、天武朝ではすでに成年に達していたとみられ、天武8年(679年)5月に、吉野宮における有力皇子の盟約に参加しています。続く持統朝では不遇であったらしく、撰善言司(よきことえらぶつかさ)に任じられたほか要職にはついていません。しかし、志貴皇子の薨去から50年以上を経た宝亀元年(770年)、息子の白壁王(しらかべのおおきみ)が62歳で即位し光仁天皇となって天智系が復活したのに伴い、春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしらしめすすめらみこと)と追尊、また田原天皇とも称されるようになりました。
天智天皇の弟の大海人皇子が、壬申の乱に勝利し天武天皇として即位して以来、持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳の8代にわたって天武系の皇統が続きましたが、孝謙女帝が重祚して称徳天皇になった時点で、天武系の子孫は絶え、天智天皇の皇孫である白壁王が第49代光仁天皇として即位しました。そして、その子の山部(やまのべ)皇子が第50代桓武天皇となり、時代は平安時代へと移っていきます。その意味で、志貴皇子の存在は、はからずも歴史上重要な結節点となったのです。
時代別のおもな歌人
●第1期伝誦歌時代
磐姫皇后/雄略天皇/聖徳太子/舒明天皇
●第1期創作歌時代
有間皇子/天智天皇/鏡王女/額田王/天武天皇
●第2期
持統天皇/大津皇子/柿本人麻呂/高市黒人/志貴皇子/長意吉麻呂
◆第3期
山上憶良/大伴旅人/笠金村/高橋虫麻呂/山部赤人/大伴坂上郎女/湯原王
◆第4期
大伴家持/大伴池主/市原王/田辺福麻呂/笠女郎/中臣宅守/狭野茅上娘子
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巻第8について
巻第8は、春夏秋冬の四季に分類した歌を、さらに雑歌と相聞に分け、それぞれ時代順に配列しています。原則的には作者名が明らかな歌を収めています。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |