巻第8-1421
春山の咲きのをゐりに春菜(はるな)摘(つ)む妹(いも)が白紐(しらひも)見らくしよしも |
【意味】
春の山の花が咲き乱れているあたりで菜を摘んでいる子、その子のくっきりした白い紐を見るのはいいものだ。
【説明】
尾張連の「連」は姓(かばね)で「名は欠けている」とあり未詳。万葉集には2首残しています。尾張氏は『日本書紀』によると、天火明命(あめのほあかりのみこと)を祖神とし、古来、后妃・皇子妃を多く出したと伝えられる氏族です。
「をゐり」は「ををり」とも。花が多く咲いて枝がたわむさま。咲いているのは桜とみられます。但し、賀茂真淵は「岬(さき)の撓(たを)り」と訓み、春山の崎の撓(たわ)んだ所で、と解釈しています。「春菜」は、春の野に生える食用の雑草。「わかな」と訓む本もあります。「白紐」は、衣の上着に結んでいる紐。「見らくしよしも」の「見らく」は「見る」の名詞形、「し」は、強意。「よし」は、愛でたい意。
巻第8-1422
うち靡(なび)く春(はる)来(きた)るらし山の際(ま)の遠き木末(こぬれ)の咲きゆく見れば |
【意味】
どうやら春がやってきたらしい。遠い山際の木々の梢に次々と花が咲いていくのを見みると。
【説明】
「うち靡く」は、春の草木がやわらかく靡く意で、「春」の枕詞。「山の際」は、山と山の合間、山の稜線。「遠き木末」は、奥まったほうの樹木の梢。前の歌と同じく花の名前は言っていませんが、こちらも桜とみられます。『万葉集』では、このように桜の花の花名を略して詠まれている歌が少なくありませんが、桜の花の鑑賞は平安期に入ってからなので、ここでは山の桜が群がる光景が対象になっています。「咲きゆく見れば」の原文は「開往見者」で、「咲きぬる見れば」とも訓めます。斎藤茂吉はこの歌を評し、ゆったりとした迫らない響きを感じさせ、春の到来に対する感慨が全体にこもり、特に結句の「見れば」のところに集まっているようだ、と言っています。
なお、巻第8-1865に、「うち靡く春さり来らし山の際の遠き木末の咲きゆく見れば」という、作者未詳の類似歌があります。
巻第8-1423
去年(こぞ)の春いこじて植ゑし我(わ)がやどの若木(わかき)の梅は花咲きにけり |
【意味】
去年の春、地面を掘り起こして植えた我が家の庭の若木の梅は、いま初めて花を咲かせた。
【説明】
阿倍広庭は、壬申の乱で活躍して後に右大臣となった阿倍御主人(あべのみうし)の子。神亀4年(727年)に従三位、中納言。『万葉集』には4首の歌を残しています。「いこじて」の「い」は、強意の接頭語、「こじて」は、堀り起こして。奈良朝のころになると、貴族たちの間に造園趣味がかなり広まっていたらしいことが窺えます。
巻第8-1434
霜雪(しもゆき)もいまだ過ぎねば思はぬに春日(かすが)の里(さと)に梅の花見つ |
【意味】
霜も雪もまだ消えやらぬのに、思いがけず春日の里で梅の花を見かけた。
【説明】
大伴三林は伝未詳。大伴三依(おおとものみより)の誤記ではないかともいわれます。「思はぬに」は、思いがけず。「春日の里」は、奈良市東方、春日山一帯の里。
巻第8-1438~1440
1438 霞(かすみ)立つ春日(かすが)の里(さと)の梅の花(はな)花に問はむと我(わ)が思はなくに 1439 時は今は春になりぬとみ雪降る遠山(とほやま)の辺(へ)に霞(かすみ)たなびく 1440 春雨(はるさめ)のしくしく降るに高円(たかまど)の山の桜はいかにかあるらむ |
【意味】
〈1438〉霞が立つ春日の里に咲いている梅の花が咲いている。でも、花だけに対して物を言おうと思っているのではない。
〈1439〉時節は今まさに春になったと、雪が降り積もった遠山のあたりに霞がたなびいている。
〈1440〉春雨がしきりに降り続いているけれど、高円山の桜はどんな様子だろう。
【説明】
1438は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の歌。坂上郎女の次女である二嬢の夫。「霞立つ」は「春日」の枕詞。「春日の里の梅の花」は、女を暗示しており、下の「花」に同音で掛けている序詞。「花に問はむ」は、花だけに対して物を言おうと(花だけに引かれて訪ねようと)の意で、「花」は「実」に対比させての語。すなわち仇心ではなく我が実意を誓っているという歌です。二嬢に宛てたものとみられます。
1439は中臣武良自(なかとみのむらじ:伝未詳)の歌。中臣宅守の縁者かともいわれます。「み雪」の「み」は美称。1140は河辺東人(かわべのあずまひと)の歌。天平5年(733年)の山上憶良の沈痾の時に、藤原八束の使者としてお見舞いに来た人です。宝亀元年(770年)に石見守。「しくしく」は、しきりに。「高円の山」は、奈良市東方、春日山の南の山。
巻第8-1442~1444
1442 難波辺(なにはへ)に人の行ければ後(おく)れ居(ゐ)て春菜(はるな)摘(つ)む児(こ)を見るが悲しさ 1443 霞(かすみ)立つ野の上(うへ)の方(かた)に行きしかば鴬(うぐひす)鳴きつ春になるらし 1444 山吹(やまぶき)の咲きたる野辺(のへ)のつぼすみれこの春の雨に盛(さか)りなりけり |
【意味】
〈1442〉難波の方へ夫が行ってしまい、ひとり残されて春菜を摘んでいるその妻を見るとあわれに感じる。
〈1443〉霞がかっている野山のあたりに行ってみたら、ウグイスが鳴いていた。今こそ春になったらしい。
〈1444〉山吹が咲いている野辺のつぼすみれ、春雨を浴びて今が真っ盛りだ。
【説明】
1442は、大蔵少輔(おおくらのしょうふ:大蔵省の次官)の丹比屋主真人(たじひのやぬしのまひと)の歌。「難波辺に」は、難波の方へ。「後れ居て」は、取り残されて。「児」は、女性に対する愛称。同棲していた夫婦とみえます。
1443は、丹比真人乙麻呂(たじひのまひとおとまろ:屋主真人の第二子)の歌。「なるらし」の「らし」は、根拠に基づく推定。
1444は、高田女王(たかたのおおきみ)の歌。題詞の注に「高安の女なり」とあるので、高安王の娘とみられます。「つぼすみれ」はスミレの一種で、春に白く小さな花が咲きます。
巻第8-1660
梅の花散らすあらしの音(おと)のみに聞きし我妹(わぎも)を見らくしよしも |
【意味】
梅の花を散らす嵐の音のように、貴女のことは噂にだけ聞いていましたが、実際にお逢いできるのはうれしい。
【説明】
大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の歌。上2句は「音」を導く序詞。「我妹」は、坂上郎女の次女の二嬢のこととされます。「音のみに聞きし」は、噂(評判)にだけ聞いていた。「見らくし」の「見らく」は、見るの名詞形。「し」は、強意。妻となる二嬢と初めて逢った夜の、喜びの挨拶の歌とみられます。
この歌について窪田空穂は、「奈良朝中期の序詞は、それが叙述であるとともに、一首の上に気分のつながりをもつべきものとなっていたので、その意味ではこの序詞は、気分としてはふさわしくなく、時代おくれの古風なものである。喜びの中心を、女の評判の高い点に置いているのも、場合柄ふさわしいとはいえない」と評しています。
時代別のおもな歌人
●第1期伝誦歌時代
磐姫皇后/雄略天皇/聖徳太子/舒明天皇
●第1期創作歌時代
有間皇子/天智天皇/鏡王女/額田王/天武天皇
●第2期
持統天皇/大津皇子/柿本人麻呂/高市黒人/志貴皇子/長意吉麻呂
◆第3期
山上憶良/大伴旅人/笠金村/高橋虫麻呂/山部赤人/大伴坂上郎女
◆第4期
大伴家持/大伴池主/田辺福麻呂/笠女郎/中臣宅守/狭野茅上娘子/湯原王
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