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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴家持が史生尾張少咋を教え諭した歌

巻第18-4106~4109

4106
大汝(おほなむち) 少彦名(すくなひこな)の 神代(かみよ)より 言ひ継(つ)ぎけらく 父母(ちちはは)を 見れば尊(たふと)く 妻子(めこ)見れば 愛(かな)しくめぐし うつせみの 世の理(ことわり)と かくさまに 言ひけるものを 世の人の 立つる言立(ことだ)て ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の児(こ)と 朝夕(あさよひ)に 笑(ゑ)みみ笑まずも うち嘆き 語りけまくは とこしへに かくしもあらめや 天地(あめつち)の 神(かみ)言寄(ことよ)せて 春花(はるはな)の 盛りもあらむと 待たしけむ 時の盛りぞ 離れ居て 嘆かす妹(いも)が いつしかも 使ひの来(こ)むと 待たすらむ 心さぶしく 南風(みなみ)吹き 雪消(ゆきげ)溢(はふ)りて 射水川(いみづがは) 流る水沫(みなわ)の 寄るへなみ 左夫流(さぶる)その児(こ)に 紐(ひも)の緒(を)の いつがり合ひて にほ鳥(どり)の 二人(ふたり)並び居(ゐ) 奈呉(なご)の海の 奥(おき)を深めて さどはせる 君が心の すべもすべなさ〈左夫流(さぶる)と言ふは遊行女婦の字(あざな)なり〉
4107
あをによし奈良にある妹(いも)が高々(たかたか)に待つらむ心しかにはあらじか
4108
里人(さとびと)の見る目恥づかし左夫流子(さぶるこ)にさどはす君が宮出(みやで)後姿(しりぶり)
4109
紅(くれなゐ)はうつろふものぞ橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ)になほしかめやも
 

【意味】
〈4106〉大汝命(おおなむちみこと)や少彦名(すくなひこなみこと)の、遠い遠い神代の時代から言い継がれてきた、「父母は見るに尊く、妻子は見るに愛しくいじらしい。これがこの世の道理である」と。そしてこれが世の人の立てる誓いであり、チサの花が真っ盛りに咲く頃に、愛しい妻や子と朝に夕に、時にはほほえみながら、時には真顔で、溜息をつきながら言葉を交わしたものだ。「いつまでもにこんな貧しい状態が続くことがあろうか。天地の神々の御加護によって、春の花のように栄える時もあるだろう」との言葉を頼りに待っておられただろう。その盛りの時が今ではないか。離れて暮らしている妻は、いつになったら夫の使いが来るのだろうと心寂しく待っておられよう。南風が吹いて雪解け水があふれ、射水川に浮かんで流れる水の泡のように、寄る辺もなく寂れるような名の左夫流(さぶる)という娘などに、紐の緒のようにくっつき合って、かいつぶりのように二人並んで、奈呉の海の海の底のように深々とのめりこんでいるあなたの心は、どうしようもないこと。(左夫流は遊行女婦(うかれめ)の字(あざな)なり)。
 
〈4107〉遠い奈良の家にあって、高々と爪先立って待っている心。妻の心情とはそういうものではないのか。
 
〈4108〉里人が見る目のことを思うと、この私も恥ずかしくなる。左夫流子に血迷っているあなたが、いそいそと国庁を後にする後姿は。
 
〈4109〉紅(くれない)は派手だが、色褪せやすいもの。着古した地味な着物には、やっぱりかなうはずがない。

【説明】
 題詞に「史生尾張少咋を教へ諭す歌」とあり、家持の下僚で史生(ししょう)の役にあった尾張少咋(おわりのおくい)が、妻を顧みず遊行女婦に夢中になっているのを諭した歌です。「史生」というのは公文書の書写などを司る役職のこと。なお、序文には家持により、婚姻に関する律令と詔書が列挙されており、整理すると次のような内容です。

  • 七出例(しちしゅつれい)
    夫の意思で離婚できる、妻側の7つの原因に関する条例。①子がないこと、②淫乱であること、③舅・姑に仕えないこと、④口舌(くぜつ:おしゃべり)であること、⑤盗癖のあること、⑥嫉妬深いこと、⑦悪疾のあることの7つで、この7つのうち1つに該当すれば離別できる。ただしどれにも当たらないのに自分勝手に捨てた者は、懲役1年半に処する。
  • 三不去(さんふきょ)
    仮に妻の行為が「七出」のどれかに該当しても離婚できない3つの場合。①舅姑の喪事(3年)を助けた者、②娶って後に高貴の位となった者、③娶った当時は妻の家があったが、今は帰る家が者、以上3つの場合は離婚できない。これに違う者は杖で100叩きとする。ただし、浮気した者、悪疾の者は捨ててよい。
  • 両妻例(りょうさいれい)
    重婚に関する条例。妻があってさらに娶った者は懲役1年、女は杖で100叩きとする。
  • 詔書
    「義夫節妻を慰(めぐ)み賜う」とのりたまう。 ただし、いつの詔書かは不明。

 そうして家持は、次のように言っています。「謹んで思うに、先の件(くだり)の数条は、法を立てる基礎であり、道を教える根源である。だから、正しい夫の行いとは、妻に愛情を持ち、差別することなく家財を共有することである。一家の一員である古くからの妻を忘れて新しい女を愛する心などあってよかろうはずがない。そこで、数行の歌を作って、古い妻を捨てようとする心の迷いを悔い改めさせようと思う」
 
 この時代は一夫多妻だったとはいえ、正妻は基本的に一人です。それなのに少咋は、左夫流の家から出勤し、左夫流もまた正妻然と振る舞っていたのでしょう。家持はそうした彼を見かねて、犯しそうになっている重婚の罪を未然に防がねばならないとの強い義務感から、わざわざ詩歌を作って諭し𠮟りつけたというわけです。
 
 4106の「大汝」は大国主神、「少彦名」は大国主神の国づくりに協力した神。「うつせみの」は「世」の枕詞。「ちさの花」はエゴノキ。「はしきよし」は、ああ愛しいの意。「春花の」は「盛り」の枕詞。「南吹き~寄るへなみ」の5句は「左夫流」を導く序詞。「射水川」は富山湾に注ぐ小矢部川。「紐の緒の」は「いつがり」の枕詞。「いつがり合ひて」は、くっつき合っての意。「にほ鳥の」は「二人並び居」の枕詞。「奈呉の海の」は「奥を深めて」の枕詞。「さどはせる」は、血迷う、惑う意。
 
 4107の「あをによし」は「奈良」の枕詞。「高々に」は、爪先立って遠くを眺めるように待ち望むさま。「しかにはあらじか」は、そうではなかろうか。4108の「里人」は国庁のあたりに住む人々。「宮出後姿」は国庁を退出して行く後姿。4109の「紅」は左夫流子の喩えで、「橡」は妻の譬え。ドングリの皮を煎じて褐色に染めた衣に華やかさはないが、共に重ねた時間と絆にかなうものはない、目を覚ませと𠮟りつけています。
 
 とはいうものの、家持自身も、都にいる間は数多くの女性と交渉を重ねてきた身です。越中に来て多くの部下を持つ立場になってからは謹厳実直な生活を過ごしていましたが、少咋に対する叱り方は、決して頭ごなしではなく、どことなく温かみのある、余裕のあるトーンになっています。これも、男女関係の機微に熟知した家持ならではと感じるところです。なお、鄙の女とデキてしまう都下りの官僚があまりに多かったためか、天平16年(744年)に、国司が管内の女を妻妾とするのを禁じる勅が出されています。尾張少咋のこの件は、その5年後の天平感宝元年(749年)の出来事です。

 窪田空穂は、「下僚に対してこのように優しい態度をもって臨んでいるのは、大体は彼の人柄から来ているのであろうが、そこには少咋に対しての私的な情もまじっていたのではないかと思われる。それは(歌の中の)『ちさの花咲ける盛に』から『待たしけむ時の盛ぞ』までは、少咋の史生となる以前の貧窮時代を敍しているものであって、それも推量によってのみ描いたものではなく、親しく眼に見て、知悉していたことを思わせるものである。それだと、少咋を史生に抜擢したのは家持であって、彼は少咋に対して個人的にも責任のある仲となる。また彼の少咋の妻に対しての深い愛燐も、根拠のあることとなるのである。異常の優しさはそのためではないか」と述べています。

 なお、家持によるここの歌は、かつて山上憶良が、家族の困窮を顧みない出家者への諫言として作った「惑へる情を反さしむる歌」(巻第5-800・801)を元に構想されているとの指摘があります。もっとも、国守として国内の民を教化する職責があるので、憶良も家持もそれをしたのであって、模倣とのみは言えません。

巻第18-4110

左夫流子(さぶるこ)が斎(いつ)きし殿(との)に鈴(すず)懸けぬ駅馬(はゆま)下れり里もとどろに

【意味】
 左夫流子が大切にお仕えしている少咋の家に、都から鈴もつけずに早馬が下って来た。里じゅうに音を響かせて。

【説明】
 4106~4109の歌を作った2日後の歌です。都の妻が、よからぬ噂を聞きつけたのか、夫からの使いを待たずに自ら早馬に乗ってやって来たというので、もう府内は大騒動。このあとの顛末と尾張少咋の運命や如何に・・・。

 「斎きし殿」は、大切にかしずいていた御殿。左夫流子の家を大げさに表現したもの。「駅馬」は、本来は官吏が使用する早馬で、鈴をかけていましたが、少咋の妻は私用なので、駅馬ではなく鈴もかけていません。ここは、わざと諧謔的に駅馬と言ったようです。「里もとどろに」も同様で、鈴もかけていないので里もとどろくばかりに乗り込んできたわけではなく、里の人々の騒ぎの様子をこう表現しています。

国司について
 国司(こくし、くにのつかさ)は、令制により、地方行政単位である国を支配する行政官として中央から派遣された官吏のことです。四等官からなる守(かみ:長官)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)を指し、その下に書記や雑務を担う史生(ししょう)がいました。国を大・上・中・下の4等級として、それに応じた一定数の国司をおいたとされます。大国、上国の守は、中央では中級貴族に位置しました。

 任期は6年(のちに4年)で、国衙(政庁)において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、赴任した国内では絶大な権限を与えられました。国司たちは、その国内の各郡の官吏(郡司)へ指示を行ないました。郡司は中央官僚ではなく、在地の有力者、いわゆる旧豪族が任命されました。その郡司の業務監査や、農民への勧農などの業務を果たすため、責任者である守は、毎年1回国内の各郡を視察する義務がありました。これを部内巡行といいます。

 国司は、家族を連れて任国に赴くことが認められていました。また、公務の都合などで在任中もたびたび上京しており、在任中ずっと帰京できなかったわけではありません。 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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官人の位階

親王
一品~四品

諸王
一位~五位(このうち一位~三位は正・従位、四~五位は正・従一に各上・下階。合計十四階)

諸臣
一位~初位(このうち一位~三位は正・従の計六階。四位~八位は正・従に各上・下があり計二十階。初位は大初位・少初位に各上・下の計四階)

これらのうち、五位以上が貴族とされました。また官人は最下位の初位から何らかの免税が認められ、三位以上では親子3代にわたって全ての租税が免除されました。
さらに父祖の官位によって子・孫の最初の官位が決まる蔭位制度があり、たとえば一位の者の嫡出子は従五位下、庶出子および孫は正六位に最初から任命されました。

三十六歌仙

柿本人麻呂
紀貫之
凡河内躬恒
伊勢
大伴家持
山部赤人
在原業平
遍昭
素性
紀友則
猿丸大夫
小野小町
藤原兼輔
藤原朝忠
藤原敦忠
藤原高光
源公忠
壬生忠岑
斎宮女御
大中臣頼基
藤原敏行
源重之
源宗于
源信明
藤原清正
源順
藤原興風
清原元輔
坂上是則
藤原元真
小大君
藤原仲文
大中臣能宣
壬生忠見
平兼盛
中務

・・・万葉歌人からは3名


(大伴家持)

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