巻第19-4264~4265
4264 そらみつ 大和(やまと)の国は 水の上(うへ)は 地(つち)行くごとく 船の上(うへ)は 床(とこ)に居(を)るごと 大神(おほかみ)の 斎(いは)へる国そ 四(よ)つの船 船(ふな)の舳(へ)並べ 平(たひ)らけく 早(はや)渡り来て 返り言(こと) 奏(まを)さむ日に 相(あひ)飲まむ酒(き)そ この豊御酒(とよみき)は 4265 四(よ)つの船(ふね)早(はや)帰り来(こ)と白香(しらか)付く我(わ)が裳(も)の裾(すそ)に斎(いは)ひて待たむ |
【意味】
〈4264〉大和の国は、水上にあっては地上を行く如く、船上にあっては床にいる如く、大神が慎み守りたまう国である。四つの船が舳先を並べて唐に渡り、つつがなく早々と帰ってきて、復命を奏上する、その日にまた共に飲むための酒である、この美酒は。
〈4265〉四つの船よ、早く帰って来なさいと、白香付く我が裳の裾に、祈りをこめて無事の帰りを待っている。
【説明】
天平勝宝2年(750年)9月に遣唐大使となり、同4年3月に入唐することとなった藤原清河らに、孝謙天皇が酒肴を賜われ、任務の無事を祈って詠われた歌。題詞には「従四位上の高麗朝臣福信(こまのあそみふくしん)に仰せられて難波に遣わし、酒肴を入唐使藤原朝臣清河らに下賜なさった」旨の記載があります。
孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の第二皇女として生まれ、同母弟の基(もとい)親王が早世したため、21歳で女性皇太子に立てられ、749年、父帝の譲位によって即位しました。藤原清河は光明皇太后の甥にあたり、皇太后が清河のために詠んだ歌が、巻第19-4240にあります。唐に渡った清河は、阿倍仲麻呂とともに唐朝に仕えましたが、帰国の途上に逆風に遭い漂着、同船の者は土人に殺されたものの、清河のみ助かって唐に留まり、結局、帰国することなく、宝亀9年(778年)ころ唐国で没しました。
4264の「そらみつ」は「大和」の枕詞。「斎へる」は、鎮護なされる。「四つの船」は遣唐使船のことで、大使、副使、判官、主典がそれぞれ分乗する4隻からなっていました。「返り言」は、使者が帰ってきてする報告。「豊御酒」は、酒を讃えた語。4265の「白香付く」は、祭祀用の純白な幣帛の一種。女性の裳には神秘な力があると信じられていました。国文学者の窪田空穂は「女帝であるがゆえの思召しであるが、天皇というよりも、一人の慈愛深い女性としての思召しと言いうるものである。天皇の御真情の発露である」と評しています。
なお、この同じ機会に光明皇太后が詠んだ歌が巻第19-4240に載っており、「大船(おほぶね)に楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)きこの我子(あこ)を唐国(からくに)へ遣(や)る斎(いは)へ神たち」(大船に櫂(かい)をたくさん取りつけて、この我が子を唐の国へ遣(つか)わします。どうか守ってやってください、神々よ)というものです。このとき光明皇太后は52歳、孝謙女帝は35歳、経験や貫禄の違いはあるものの、皇太后の歌が「遣る」「斎へ」と強く一直線に詠み下しているのに対し、女帝の歌は乙女のように純情で、艶を帯びた趣になっています。
巻第19-4268
この里は継(つ)ぎて霜(そも)や置く夏の野に我(わ)が見し草はもみちたりけり |
【意味】
この里は止むことなく霜が降りるのだろうか。夏の野に私が見たこの草は、もう色づいている。
【説明】
天平勝宝4年(752年)、孝謙天皇が光明皇太后とともに大納言藤原家に行幸なさった時に、色づいた沢蘭(さわあららぎ:キク科のサワヒヨドリの古名)を一株抜き取って、内侍(女官の称)の佐々貴山君(ささきやまのきみ:伝未詳)に持たせて、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)と陪従の大夫らにお贈りになった歌。藤原仲麻呂は光明皇太后の甥にあたり、平城京近くの田村の里に邸を構えていました。「この里」は、仲麻呂の邸のある里。「継ぎて」は、ひっきりなしに、止むことなく。「草」は、沢蘭。「もみつ」は、黄葉する意の動詞。「けり」は、詠嘆。
一読しただけでは意味を捉えにくい歌ですが、この時期、独身の女帝と仲麻呂は愛人関係にあったともいわれ、それを念頭に置くと、なかなか意味深長な相聞ととれます。しかも、光明皇太后も同道していたのですから、二人の仲は世間に知られ、皇太后も認める関係だったのでしょう。
孝謙天皇(称徳天皇)について
孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の第一皇女として生まれ、同母弟の基(もとい)親王が早世したため、21歳で女性として初めての皇太子に立てられ、749年、父帝の譲位を受けて32歳で即位しました。当時の政治の実権は光明皇太后と藤原仲麻呂(皇太后の甥)が握っていましたが、新帝は格別の不満を抱くことなく、日々の政務をこなしていました。それから9年後の758年、女帝は病気になった皇太后に仕えるという理由で、皇太子の大炊王(おおいおう:淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となります。
一方、恵美押勝という姓名を与えられた藤原仲麻呂は、貨幣鋳造権を与えられるなど権力が急拡大し、孝謙上皇をないがしろにして独断専行に走ることが多くなりました。しかし、760年に光明皇太后が崩御すると、大きな後ろ盾を失った仲麻呂の立場は微妙になっていきます。761年、上皇が急病に臥せり、看護にあたった弓削氏の僧で医療の心得もある道鏡が、献身的な治療によって回復させるという出来事がありました。以来、上皇は道鏡を寵愛し、かつての上皇の教育係だった吉備真備と共に政治の中枢を委ねるようになります。
これに焦りを感じた仲麻呂は、淳仁天皇と図って、何とか道鏡を上皇から引き離そうとします。道鏡と二人きりで過ごすことが多くなるにつれ、上皇にはよからぬ噂が広がってきましたが、淳仁天皇の度重なる諫言にも聞く耳を持たず、仲麻呂をも疎んじて遠ざけるようになりました。764年、仲麻呂はついに軍事準備を進め反旗を翻そうとますが、それを察知した上皇側が機先を制して圧勝、仲麻呂は近江国で敗死というあっけない結末を迎えました。仲麻呂が亡くなると、上皇は道鏡を大臣禅師に引き上げ、自らは淳仁天皇を廃して重祚、称徳天皇となります。以降、称徳天皇と道鏡の二頭体制による政権運営が6年間続き、女帝は道教を太政大臣禅師、ついには天皇と同格の法王に引き上げ、次第に道鏡に譲位することを考えだします。
769年、女帝の心を慮った大宰府の主神(かんづかさ:管内の諸祭祀を司る長官)の中臣習宣阿曽麻呂(なかとみすげのあそまろ)が、「道鏡が皇位につけば天下泰平になる」との宇佐八幡宮の託宣を報じました。天皇はこれを確かめるため、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送りましたが、正当な皇位継承を望む清麻呂は「この託宣は虚偽である」と上申。これに怒った天皇は、清麻呂を別部穢麻呂 (わけべきたなまろ)に改名させ、大隅国に配流しました(宇佐神宮神託事件)。
これで道教への譲位はうまくいくと思われましたが、朝廷内の反対が強く、結局、天皇は断念せざるを得ませんでした。失意の天皇は、その翌年に崩御(享年53)。これによって道鏡の勢力はたちまち衰え、下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向、再び中央に戻ることなく任地で死去しました。なお、清麻呂は道鏡の失脚後に大隅国から呼び戻されて官界に復帰することができました。
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(孝謙天皇)
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