巻第1-1
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ふくし)持ち この岳(をか)に 菜(な)摘(つ)ます児(こ) 家(いへ)告(の)らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(いま)せ われこそは 告らめ 家をも名をも |
【意味】
おお、籠よ、良い籠を持ち、おお堀串も、良い堀串を持って、この丘で若菜を摘んでいる娘さん、家はどこか言いなさい、何という名前か言いなさいな、神の霊に満ちた大和の国は、すべて私が平らげている、すべて私が治めているのだが、私のほうから告げようか、家も名をも。
【説明】
天皇と娘子との聖なる結婚によって、国土の繁栄が約束されることを歌った歌。作者は、5世紀後半の第21代・雄略天皇(412~479年)とされます。雄略天皇は允恭(いんぎょう)天皇の第5皇子で『古事記』下巻に登場する英雄的な君主です。歌をよくし、その霊力によって女性や国を獲得したという伝説があります。権勢は全国に及んだようで、埼玉県の稲荷山古墳と熊本県の江田船山古墳から、雄略天皇をしめすと思われる「ワカタケル」の銘のある鉄剣が出土しています。478年に中国へ使節を送った倭王「武」も、この雄略天皇とみられています。
「籠」は、摘んだ若菜を入れるカゴ、「掘串」は、土を掘るヘラのこと。「み籠」「み掘串」の「み」は相手の持ち物を讃える接頭語。「もよ」は、詠嘆の助詞。「菜」は、食用になる野の雑草。早春に娘たちが野山に出て若菜を摘み食べるのは、成人の儀式だったといわれます。「摘ます」は「摘む」の敬語。「児」は、女性を親しんで呼ぶ語。「告らせ」は「告る」の敬語を添えての命令形。「告る」は発言の中で最も重要なものを行う場合に使われる語。「名」は真の名。「そらみつ」は「大和」の枕詞。「おしなべてわれこそ居れ」は、私がすべて平らげているのだが。「しきなべてわれこそ座せ」は、私がすべて治めているのだが。「座せ」は、天皇が自身について敬語を用いる、いわゆる自称敬語。
古代、名にはそのものの霊魂が宿っていると考えられていました。通称とは異なり、真の名は母親と自分のみ知るものとして秘する習いだったのです。ですから、名告りは重要なことであり、女が男に自分の名を告げ知らせるのは、自分のすべてをさらけ出し、相手の意のままになる、すなわち男の求婚に応じることになります。逆に、男が女の名を聞くのは、その霊魂を請い取ることを求め、求婚を意味しました。
「菜摘ます児」と、天皇が敬語を使って呼びかけたのは、ただの行きずりの女だったのではなく、尊重した扱いをすべき村の豪族の娘だったからでしょう。娘は、見知らぬ男から突然声を掛けられて求婚され、羞恥と恐懼の感からものが言えなかったのでしょう。それに気づいた天皇が自身の身分を告げたところ、女はその男性が大和の統治者であることを知らされ、ますます驚いて何も言えなかったようです。天皇は、女の情を察して、「われこそは告らめ」と、やさしく言い、また婉曲に女の応諾を促しています。もっとも、ここでの天皇の求婚は、豊作を祈る一種の農耕儀礼だったともいわれます。
この歌は、『万葉集』ができた時代から約200年も遡る古いものながら、万葉の当時の人々も、雄略天皇の時代に日本の国土が統一されたと考えていたようです。そうした英雄である天皇の歌を『万葉集』の冒頭に据えたのには、『万葉集』を立派な書物であると権威づける、あるいは、天皇の権威をたたえると共に、その優しさや慈愛を強調することによって、天皇のイメージを膨らませる意図があったと考えられます。ただ、この歌は天皇の実作ではなく、もともとは共同体のなかで、毎年春、農作業に取りかかる時期に五穀豊穣を祈って歌われた伝承歌謡だと考えられており、中間へ「そらみつ~我こそ座せ」の部分を挿入して天皇の歌としたもののようです。「籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち」と、ちょうどしりとりのようになっていて、対句になって、3音、4音、5音、6音・・・と発展していく、大変リズミカルな歌になっています。
正岡子規は、この歌について次のように評しています。「この御歌、善きか悪きかと問ふに面白からずといふ人あり。吾は驚きぬ。思ふに諸氏のしかいふはこの調が五七調にそろひ居らねばなるべし。もし然らばそは甚だしき誤なり。長歌を五七調に限ると思へるは五七調の多きためなるべけれど、五七調以外のこの御歌の如きはなかなかに珍しく新しき心地すると共に、古雅なる感に打たるるなり。趣向の上よりいふも初めに籠ふぐしの如き具象的の句を用ゐ、次にその少女に言いひかけ、次にまじめに自己御身の上を説き、終に再びその少女にに言ひかけたる處、固よりたくみたる程にはあらで自然に情のあらはるる歌の御様なり。殊にこの趣向とこの調子と善く調和したるやうに思はる。もしこの歌にして普通五七の調にてあらば、言葉の飾り過ぎて真摯の趣を失ひ却ってこの歌にて見る如き感情は起こらぬなるべし。吾はこの歌を以て萬葉集中有数の作と思ふなり」。また、文学者の中西進は、「この歌をくり返し口ずさんでみるとき、それの大らかな味わいはどうだろう。何という牧歌的なしらべだろう」と言っています。
なお、天皇の詠まれた歌は「御製歌」と記されていますが、漢文風に「ごせいか」と訓まれたか、あるいは国風に「おおみうた」と訓まれたかは、はっきりしていません。題詞は漢文で書かれており、当時の文章はすべて漢文であったため、漢文風の訓みが存在し得た一方、『古事記』では、天皇の歌を「大御歌(おおみうた)」と呼んでいるからです。
「大和」の名は、大和朝延の勢力の及んだ地方名から起こり、大和中央平原部、奈良県全体、近畿一帯から日本全国の総名へと発展しました。ただ、この歌の訓読文にある「大和」は、原文では「山跡」となっており、『万葉集』で「大和」が歌われている他の歌の原文は、「山跡」のほか、「山常」「倭」「八間跡」「夜麻登」などとなっており、「大和」の文字は使われていません。「大和」という文字が当てはめられたのは孝謙上皇の時代とみられており、争乱のない、皆が大きく協力しあえる国を目指すものとして定められたようです。
巻第9-1664
夕されば小倉(をぐら)の山に伏(ふ)す鹿の今夜(こよひ)は鳴かず寝(い)ねにけらしも |
【意味】
夕暮れになると小倉の山に伏す鹿は、今夜は鳴かずに寝てしまったようだ。
【説明】
巻第9の冒頭の歌。舒明天皇を作者とする説もあります。「小倉の山」の所在には様々な説があり、一説には桜井市の今井谷あたりといわれています。万葉時代の人々は、他いくつかの歌を検証すれば、妻を求めて鹿は鳴くと理解していたことが分かります。とすれば、鹿が鳴かないのを歌ったこの歌は、ああ、妻が見つかって共寝をしているんだろう、よかったね、結婚相手が見つかって、という歌になります。
『万葉集』の編纂者は、各巻の冒頭にどの歌をもってくるかに配慮したあとが窺えます。巻第1の1番の歌も雄略天皇の御製歌で、巻第9の冒頭にも雄略天皇の歌を置いています。国土を統一した英雄だからという理由からかもしれませんが、鳴かない鹿の鳴き声を歌って鹿への優しい愛情を示したこの歌を選んだことに、編纂者の格別な思いが感じられるところです。
なお、巻第8に、岡本天皇の御製歌として「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも」(1511)という同じような歌があります。岡本天皇は舒明天皇またはその皇后でもあった斉明天皇をさし、何らかの因縁でこれらの混同が生じたようです。
巻第1について
巻第1は、万葉集が形成されるに際し原核となった部分を主とし、雑歌が天皇の御代の順(雄略天皇の御代から寧楽(なら)の宮の時代まで)にしたがって配列されています。全20巻におよぶ万葉集は、この巻第1を核とし、数次にわたる編さん過程を経て形成されたものとみられています。雑歌は、公的な場で歌われたさまざまの歌で、相聞・挽歌とともに万葉集の三大部立の一つです。
万葉集に収められた4500あまりの歌は、20巻を通して必ずしも年代順に配列されてはいません。各巻のほとんどは1巻ずつ編集されていて、例外的に巻第17~20の4巻がひとまとまりであるにすぎません。すべての歌を年代順にそろえるとすると、いろいろの巻から歌を抽出して並べ替えることになります。
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雄略天皇と赤猪子の物語
『古事記』の雄略天皇の巻に、次のようなエピソードが載っています。
長谷朝倉宮(はつせのあさくらのみや)で天下を治めていた雄略天皇は、あるとき三輪山のふもと、美和河(みわがわ)のほとりで洗濯をしている少女に出会います。見目麗しいその少女を、天皇は一目で気に入り「おまえは誰の子か」と尋ねると、少女は恥ずかしそうに「私は引田部の赤猪子(あかいこ)と申します」と答えました。天皇は「おまえは誰にも嫁がずにいなさい。そのうち私が宮中に召すから」と言って、宮に帰っていきました。
その後、赤猪子は天皇の言葉を信じてお召しを待ちました。しかし、何の音沙汰もないまま、5年、10年、20年、さらに80年もの年月が過ぎてしまいました。若かった体もすっかり痩せ縮まって、顔も見るかげもありません。彼女は、せめて、今日まで待ち続けた誠意だけでも天皇に打ち明けたいと思い、意を決して宮中へ参内します。天皇は彼女のことなどすっかり忘れており、「お前はどこの婆さんだ、何の用で来たのか」と追い返そうとします。
その薄情な言葉に、赤猪子はすべてを語ります。若かりし日の出逢い、夢のような天皇のお言葉。そして、信じて待ち続けた、気の遠くなるような長い年月を。事情を聞いた天皇はひどく驚かれ、赤猪子を不憫に思って歌と品物を贈ったということです。
雄略天皇の御代
雄略天皇は5世紀後半の英雄的な天皇で、その性質はまことに勇敢で、しばしば乱暴で残虐な行いもあったと『記紀』には記されています。また、中国の『宋書』の「夷蛮伝」には、478年に倭王「武」が上表文を奉じたと記されています。この「武」が雄略天皇であるというのが一般的な定説です。それによると、「武」の2、3代前の天皇または皇族たちは自ら武装して蝦夷(えみし)、熊襲(くまそ)、朝鮮の国々を征伐したと書かれています。
雄略天皇の御代には、国内はほぼ平定され、朝鮮半島にあった日本府「任那(みまな)」を中心として日本軍は大いに活躍して、盛んに新羅、高麗などを征討しました。はじめ463年に任那府の混乱に乗じようとした新羅を伐ち、翌464年には新羅の要請を受けて高麗を大いに破りました。
この時代の中国はまさに『三国志』の時代にあたり、その混乱を避けて、「呉」の貴信が百済から帰化したのをはじめ、呉、晋および朝鮮半島から多くの大陸の人々が日本に帰化しました。三国時代とそれに続く時代は社会的混乱を極め、難を避けて日本に帰化するものが後を絶たなかったといわれています。
彼らは高い文明の所有者として尊敬され、社会的にも政治的にも良い待遇を与えられました。その中には、秦の始皇帝の子孫と称していた融通王のように、120余県の人民をそっくり率いて帰化したものもいたし、また後漢の霊帝の子孫と称した阿智王も17県の人民を率いて帰化したし、魏の文帝の子孫と称していた安貴王も多数の臣下を連れて帰化しました。雄略天皇の時代にはこれら帰化人の人口は1万8千人以上に達したといわれています。当時の日本の人口は約1千万人前後と推定されていますから、帰化人の比率はかなり大きかったといえます。
これら帰化人たちの多くは、工芸・技術を伝えて、わが国の文化の発展に貢献しました。また宮中に入ったものは儒教思想を宣伝し、わが国の伝統的な政治思想と全く異質な政治思想を浸透させていきました。また、諸国に記録の官吏を置く制度ができてからは、帰化人が多くこれに任じられ、その官職はただ諸国の記録をつくるだけでなく、朝廷の出納も記録しました。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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(舒明天皇陵)
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