巻第1-2
大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は |
【意味】
大和には、数々の山があるけれど、なかでも特別に神聖な天の香具山、そこに登り立って国見をすれば、広々とした平野にはあちらこちらに煙が立ち、広々とした海にはあちらこちらに鴎が飛び立っている、ああ、良い国だ、蜻蛉島、大和の国は。
【説明】
作者の第34代舒明天皇(593~641年)は、敏達(びたつ)天皇の孫で、彦人大兄皇子(ひこひとのおおえのみこ)の子、また天智・天武天皇の父にあたります。先代の推古天皇が継嗣を定めずに崩御したため、蘇我蝦夷(そがのえみし)が群臣に諮ったところ、意見が田村皇子(舒明天皇)と山背大兄皇子(聖徳太子の子)に分かれているのを知り、田村皇子を推して天皇に立てたという経緯があります。奈良県高市郡の岡本に都を移したので、岡本天皇ともよばれ、初期万葉の人々にとって始祖的な存在です。在位13年(593~641年)。
この歌は、宮廷の国見の儀式に、大和国原を褒め称えた歌です。国見は、古代の為政者が高所に登り支配地を望み見る儀礼であり、支配地の確認とともに、その地の豊穣を予祝するものです。国見を行うことが、すなわち春の到来を意味しました。これは必ずしも天皇のみの行事ではなく、各地の国造、村々の長、族長なども行った呪術的行事でした。国内各地に国見山や国見峠、国見岳などの地名があるのは、みなそれぞれ土地の統治者がそこへ上って国土を褒め称えた場所です。ここで歌われている香具山(かぐやま)は、標高わずか152mの低い山ですが、天上から降った聖なる山との伝説があり、畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)とともに大和三山の一つとされています。高い所から見渡した壮大な景観が、素朴ながらも鮮明に描かれ、煙と鴎とに代表された民の繁栄と豊かな風光が賛美されています。
「とりよろふ」の解釈は定まりませんが、多くの人々から見られる、あるいは多くの精霊たちが集る、というように解されています。「天の」は香具山を讃えて添える語で、慣用されているものです。「国原」は広々とした平野。「煙」は水蒸気や民の炊煙。「立ち立つ」は、あちらこちらに立つ意。「海原」は、海ではなく埴安池(はにやすのいけ)・磐余池(いはれのいけ)等の多くの池を海に見立てた表現。「鴎」は、池に遊ぶ鳥をカモメとしてとらえたもので、鳥が飛び立つのは、そこに多くの魚がいることを表現しているのでしょうか。「うまし」は、立派だ、素晴らしいの意で、満ち足りた理想の状態を賛美する語。
「蜻蛉島」は「大和」の枕詞。孝安天皇の「室之秋津島宮(むろのあきつしまのみや)」のあった奈良県御所市大字室(旧秋津村)付近の地名が次第に広がり、大和および日本国の総称になったとされます。「蜻蛉」はトンボで、穀霊の象徴とされますが、「秋つ島」(実りの秋の意)、「明つ島」の意とみる説もあります。
天皇が国を見るのは、また、天皇がその魂を国土に深く乗り移らせることでもありました。そして、その国土が盛んな生命力を見せて賑わっていると歌うのは、上代の人々にとって、その言葉どおりの事実が約束されることでもありました。巻第1ー1の雄略天皇の御製歌とともに、天皇が統治する国土のますますの繁栄を予祝する歌となっています。
巻第8-1511
夕されば小倉(をぐら)の山に鳴く鹿は今夜(こよひ)は鳴かずい寝(ね)にけらしも |
【意味】
夕暮れになるといつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない。もう夫婦で寝てしまったのだろう。
【説明】
「岡本天皇の御製歌」とあり、岡本天皇は、飛鳥岡本宮に都を定めた舒明天皇。ただし、天皇の皇后で舒明の死後に即位して皇極天皇となり、さらに重祚して斉明天皇となった女帝も、岡本宮に都したことがあるため、斉明天皇の御製とする説もあります。鹿が鳴くのは、妻を求めているからといわれ、今夜鳴かないのは、きっと妻にめぐり逢えたからだと思いやっています。「夕されば」は、夕暮れになるといつも。「小倉の山」は、奈良県にある山ながら所在未詳で、桜井市の多武峰付近の山かとされます。
なお、巻第9-1664に、雄略天皇の御製歌「ゆふされば小倉の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寝ねにけらしも」が載っており、左注に、類似歌であるがどちらが正しいか審(つまび)らかでないから、塁(かさ)ねて載せたとあります。歌調からすると、少し新しすぎるので、雄略天皇御製ではなく舒明天皇御製とみる説が有力です。また、「臥す鹿の」と「鳴く鹿は」とで、好みも分かれているようで、「鳴く鹿は」「鳴かず」という同音の繰り返しは、声調がややざわついており、「臥す鹿の」の方が、鎮静した気分にはふさわしいとする意見があります。一方、作家の田辺聖子は、調べが美しい「鳴く鹿」の方が好みだと言っています。
斎藤茂吉はこの歌を評し、御製は調べ高くして潤いがあり、豊かにして弛(たる)まざる、万物を同化包摂したもう親愛の御心の流露であって、「いねにけらしも」の一句はまさに古今無上の結句だと思う、また、第四句で「今夜は鳴かず」と、其処に休止を置いたから、結句は独立句のように、豊かにして逼(せま)らざる重厚なものとなったが、よく読めばおのずから第四句に縷(いと)の如くに続き、また一首全体に響いて、気品の高い、言うに言われぬ歌調になった、と言っています。そして、「この歌は万葉集中で最高峰の一つと思う」とも。
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舒明天皇
628年に推古天皇が崩御すると、その後嗣をめぐって、田村皇子を推挙する勢力と山背大兄王を擁立しようとする一派とに群卿は真っ二つに割れました。その対立のため、舒明天皇(田村皇子)が即位するまで皇位は9か月間も空白のままでした。
群卿による会議は何回となく繰り返されました。蘇我馬子の後を継いで大臣となった蘇我蝦夷は、山背大兄王の即位に強く反対し、そのため蝦夷は推古天皇の遺詔を矯(かた)るという大罪を犯してまで田村皇子を推挙したといわれています。血統から見れば、山背大兄王は蘇我一族の血を多くひいていましたが、聖徳太子の子であり、その遺徳と精神の正統を継承していることから、かならずや蘇我一族の繁栄の妨げになるだろうとの思惑があったからです(聖徳太子が在世中には、蘇我馬子は大臣の地位にも就けなかった)。
一方の田村皇子は、蘇我一族とは全く血縁関係がなかったものの、蝦夷は妹の法堤郎女(ほてのいらつめ)を皇子の妃の一人に入れていて、法堤郎女はすでに古人大兄皇子(ふるひとのおひねのみこ)をもうけていました。田村皇子が皇位に就けば、蝦夷は天皇の外戚にとなり、さらに古人大兄皇子が皇位に就くという好機がくるかもしれない、との目論見がありました。
しかし、そうした蝦夷の野望と陰謀を打ち砕いたのは、ほかならぬ舒明天皇その方でした。田村皇子は舒明天皇として即位すると、皇統の宝皇女(たからのひめのみこと)を皇后として立て、その間に生まれた中大兄皇子と大海人皇子の兄弟が蘇我一族の息の根を止めたのです。
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(舒明天皇陵)
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