巻第1-5~6
5 霞(かすみ)立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける わづきも知らず むら肝(ぎも)の 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣き居(を)れば 玉たすき 懸(か)けのよろしく 遠つ神 我が大君(おほきみ)の 行幸(いでまし)の 山越す風の ひとり居(を)る 我が衣手(ころもで)に 朝夕(あさよひ)に 返らひぬれば 大夫(ますらを)と 思へる我れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣(や)る たづきを知らに 網(あみ)の浦の 海人娘子(あまをとめ)らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下心(したごころ) 6 山越(やまごし)の風を時(とき)じみ寝(ぬ)る夜(よ)落ちず家なる妹(いも)をかけて偲(しの)びつ |
【意味】
〈5〉霞が立つ長い春の日が、いつの間にか暮れてしまった。そんな日は胸が痛むので、ぬえ鳥のように一人忍び泣きしていると、心に懸けて思うのも好ましく、かつて神であられた天皇が行幸されている山からの朝夕の風が、家を離れて一人いる私の袖に何度も吹き返す。立派な男子として自負している私だが、旅の空にあるため思いを晴らすすべもなく、網の浦の海女たちが焼く塩のように、家恋しさに焼け焦がれている私の胸の内であるよ。
〈6〉山を越して、風が時ならず吹いて来るので、ひとり寝る毎夜毎夜、家に残っている妻を心にかけて思い慕っている。
【説明】
舒明天皇の讃岐国行幸の折に、随行した軍王が、都を遥かに隔てる山を見て作った長歌と反歌。ただし、舒明天皇がこの地に行幸されたことは『日本書紀』には載っておらず、天皇はその11年(639年)に伊予の温湯の宮に行幸しているので、その帰途この地に立寄ったのではないかといわれています。作者の軍王については他に所見がなく伝未詳ながら、「こにきし」は百済王族に対する尊称であったことから、百済王族の出身者またはその末裔とされ、あるいは舒明3年(631年)に入朝した百済の皇子・余豊璋(よほうしょう)ではないかとする説があります。一方で、一介の微臣にすぎず、何らかの官命を帯びて、国庁のあった当地に単身で赴いた人であり、公務の性質上、やや長い期間の滞在を余義なくされた人ではないかとする見方もあるようです。
5の「霞立つ」は「春」の枕詞。「わづき」は他に例のない語ながら、区別、見境の意味とみられています。「むら肝の」の「むら」は群らで、群がっている肝のこと。五臓六腑の中に心がある意で「心」にかかる枕詞。「ぬえこ鳥」はトラツグミのことで「うら泣き」の枕詞。「玉たすき」は「懸く」の枕詞。「懸け」は、心に懸け。「よろしく」は、好ましく。「遠つ神」は「我が大君」の枕詞。「草枕」は「旅」の枕詞。「たづき」は、手立て。「網の浦」は、坂出市付近の海岸。「焼く塩」は、海水に浸した藻草を焼いて製する塩のこと。6の「時じみ」は、その時でない意。「寝る夜落ちず」の「落ちず」は、漏れず。夕方の心を歌った長歌から夜の心を歌った短歌に展開し、いっそう妻を思う気持ちをうたっています。
なお、この長歌については、派手ながらも平面的で、枕詞の濫用や、題詞に「山を見て作る歌」とあるのに、結びに用いた「海人処女らが焼く塩」の比喩が唐突であることなどから、ありあわせの知識と技巧を用いた机上の作歌のよう、との評があります。詩人の大岡信は、「巻一という重要な巻の、しかも巻首に近い個所に置かれているのが不思議に思われる」、また「作風からしてずっと後代の人麻呂の亜流としか思われない作」と言っています。
※「反歌」とは
和歌の長歌のあとにつけ加えられた一首または数首の短歌で、長歌の意を補足したり、その大意を要約したりします。『万葉集』に多く見られ、短歌形式が主ですが、時には旋頭歌形式(5・7・7・5・7・7)によるものもあります。反歌は中国文学の「反辞」や「乱」の影響を受けたものと見られ、「乱(おさ)め歌」として、長歌末尾の繰り返しなどによって成立したものとされます。
教養としての『万葉集』
『万葉集』が日本人の一般的教養書目に加わったのは、そんなに古いことではない。千年以上にわたって、三十一文字の和歌は詠みつづけられて来たが、手本とされたのは『古今集』(まれに『新古今集』)であって、『万葉集』ではなかった。歌人や連歌師たちの必読書としては、一口に万葉・古今・伊勢・源氏と教えられたが、そのうち万葉だけは、彼らの精読書ではなかったし、また彼らにとって『万葉集』の世界は一種エキゾチックな感じの伴う遠い異郷であった。
契沖が『万葉集代匠記』の注釈作業を思い立ったとき、それは人々から忘れ去られていたものを再発見することであった。国学の勃興は『万葉集』の再発見に始まったが、それは人々が『万葉集』の歌を通して、日本の古代生活にもう一度めぐり合い、その豊かな言葉の世界によって生き生きとそのイメージを蘇らせ、記紀その他の古典のリヴァイヴァルを果しえたということなのである。
だがそれがあまねく日本人の教養となったのは、正岡子規の万葉調短歌の唱導以来、アララギ派の歌人たち、すなわち伊藤佐千夫、島木赤彦、斎藤茂吉らの精力的な啓蒙運動によるところが大きいのである。もちろん彼らは学者ではないし、作歌上の動機にうながされて、繰り返し『万葉集』を精読し、その声調を讃嘆し、作者の心の集中をそこに見出し、「歌を作(な)すほどの人は、誰でも万葉集の心に始終すればいい」(赤彦)とさえ言ったのである。だがそれは、歌を作る者の座右の書となったばかりではなかった。歌も作らないし、歌というものにさして興味を抱いていない人たちにも、『万葉集』は拒みがたい魅力を発揮し、あたかもそこに魂の故郷があるかのようななつかしさを、人々に感じさせたのだ。
~山本憲吉著『万葉秀歌鑑賞』から引用
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歌の形式
片歌
5・7・7の3句定型の歌謡。記紀に見られ、奈良時代から雅楽寮・大歌所において、曲節をつけて歌われた。
旋頭歌
5・7・7、5・7・7の6句定型の和歌。もと片歌形式の唱和による問答体から起こり、第3句と第6句がほぼ同句の繰り返しで、口誦性に富む。記紀や万葉集に見られ、万葉後期には衰退した。
長歌
5・7音を3回以上繰り返し、さらに7音の1句を加えて結ぶ長歌形式の和歌。奇数句形式で、ふつうこれに反歌として短歌形式の歌が1首以上添えられているのが完備した形。記紀歌謡にも見られるが、真に完成したのは万葉集においてであり、前記に最も栄えた。
短歌
5・7・5・7・7の5句定型の和歌。万葉集後期以降、和歌の中心的歌体となる。
仏足石歌体
5・7・5・7・7・7の6句形式の和歌。万葉集には1首のみ。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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