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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

額田王と大海人皇子の歌

巻第1-20~21

20
あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖(そで)振る
21
紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば人妻(ひとづま)ゆゑにあれ恋ひめやも
 

【意味】
〈20〉茜色に輝く紫草が栽培されている野、天皇が占有されているこの野には番人がいます。その番人たちに見られてしまうではありませんか、あなたが私に袖を振っているのを。それが不安です。

〈21〉茜色の紫草のように色美しいあなたを憎く思うのであれば、もはや人妻であるあなたに、これほどまでに恋するはずはないではないか。そういう危ないことをするのも、あなたが可愛いからだ。

【説明】
 「あかねさす」は、茜色のまじっている意で「紫」にかかる枕詞。「紫野」は、紫草の栽培されている野で、根から染料をとっていました。当時、紫色は貴重な色とされ需要が多かったものの、野生の紫草は少なかったため、諸国に命じて栽培させていたといいます。「標野」は、他人が入れないように標(しめ)を結ってある土地。袖を振るのは求愛のしるしとされました。「野守」は、紫野の番人で、この地は朝廷が独占する猟場でありました。

 天智天皇7年(668年)5月5日、新都、近江大津宮から1日の行程の蒲生野(がもうの)で、天智天皇による宮廷をあげての薬狩りが催されました。薬狩りは鹿の角袋や薬草を採る、夏の宮廷行事でした。この2首は、その折に額田王(ぬかたのおおきみ)が大海人皇子(おおあまのおうじ)に贈り、それに大海人皇子が答えた歌とされます。額田王の歌には「茜」「紫野」「標野」「野守」「袖(宮廷人の装い)」と、この日の行事に関する景物がすべて詠み込まれています。

 額田王は初め大海人皇子の妻となり、十市皇女(とをちのひめみこ)を生みましたが、後に天智天皇となった兄・中大兄皇子の後宮に入りました。この歌の贈答には、額田王がかつての夫・大海人皇子の人目をはばからない求愛の行為に対して、口ではそれをたしなめながらも心ではひそかに皇子に好意を寄せている複雑な女心、そして、大海人皇子の大胆で率直な男心がみごとに表出されています。ただし、ここの歌は「相聞」ではなく、公的な場での歌である「雑歌」に分類されていることから、実際には、狩りの後の宴席で、3人の関係を知る人たちを前に座興として交わされた歌のようです。

 具体的には、宴の終わりごろになって、大海人皇子が武骨な舞を舞って袖を振ったのを、額田王がからかいかけ、大海人皇子が即座にしっぺ返しをしたのがこのやり取りだといわれます。二人の過去は宮廷人も周知の事実でしたから、この際どいやりとりに、場は大いに盛り上がったことでしょう。しかし、当の二人の内心はどうだったのでしょう。座興としてしか思いを表出できない関係だからこそ、この上ない恋の揺れ動きが潜んでいる気がしないでもありません。

 作家の田辺聖子は、額田王の歌について次のように述べています。「この歌の愛すべき明るさ、派手やかさ、心ときめきする美しいしらべはどうだろう。陽光とかぐわしい花や樹液の匂い、人々の歓声、どよめきがたちのぼりそうな歌である。額田も大海人も40前後の中年であったろう。したたかで世故たけたかつての恋人同士は、ユーモアでもって巧妙にカムフラージュしつつ、消えやらぬ愛を戯(ざ)れ交わす。まことにのびのびした大人の歌である」

 一方、その後、壬申の乱に至った歴史を見ると、単なる座興ではすまされない、凄まじい心の葛藤も垣間見えないではありません。しかし、そこにいる誰もが、3年後に天皇が崩御し、その翌年に壬申の乱が勃発することなど知るよしもありません。

 壬申の乱は、天智天皇の死後、弟の大海人皇子と息子の大友皇子(おおとものおうじ)が後継者を争った、古代最大の争乱といわれる事件です。生前の天智天皇は最初は、白村江の戦いから大津宮への遷都などの苦難をともに乗り越えてきた弟の大海人皇子を皇位継承者として認めていました。しかし、実の子の大友皇子が成長すると、やはり我が子がかわいくなり、しだいに大海人皇子を遠ざけるようになったのです。

 大海人皇子は暗殺を恐れて、病床の天智天皇に、皇位に野心のないことを示すため出家の意志を告げて、吉野に引きこもります。そして、天智天皇の死後、大友皇子は弘文天皇として即位し、吉野攻めの準備を始めます。それを知った大海人皇子は、東国からの大友皇子への支援ルートをさえぎるため鈴鹿関をふさぎ、自軍を組織。大海人皇子への信頼・同情や弘文天皇への反発もあり、中小豪族や没落した中央豪族などが大海人皇子方につきました。そして不破関から近江に入り、大津宮を襲いました。

 戦いは1ヶ月で終わり、大友皇子は自殺。大海人皇子は都を飛鳥に戻し、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位して天武天皇となります。

大海人皇子(天武天皇)の歌

巻第1-25

み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくぞ 雪は降りける 間(ま)無くぞ 雨は振りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道(やまみち)を

【意味】
 吉野の耳我の山には、時となく雪は降っていた。絶え間なく雨は降っていた。その雪が定めのないように、雨の晴れ間がないように、曲がり角という曲がり角を不安に襲われながらやってきたのだ、この山道を。

【説明】
 壬申の乱直前の天智10年(671年)10月、皇太弟の地位を辞して出家し、吉野に入る時の歌とされます。この時、大海人皇子は40代の前半。『日本書紀』には大海人皇子の吉野入山以外のことは何も書かれていませんが、この歌は、兄の天智方と争わなくてはならない運命への深刻な思いが歌われているとするのが有力です。21で額田王に和した歌で示した、開けっぴろげで大胆なさまとは全く別人の感のある歌となっています。
 
 「み吉野」の「み」は美称。「耳我の嶺」は、吉野山中の高峰とされますが、どの峰かは不明。「隅もおちず」の「隅」は、道の曲がり角、「おちず」は、漏らさずで、絶えずの意。「思ひ」が何であるかには全く触れられていないものの、吉野の山道の寒く暗い情景と、陰鬱にとざされて山中を辿る皇子の姿が想像され、その思いの重大さ、深刻さが感じられます。
 
 一方で、この歌はほとんど同一の歌が巻第13(3293)にあり、もともと恋人の家に通う気持ちを歌った民謡であるとする見方があります。けれども、これが大海人皇子の歌とされたのは、いかにも吉野入りの時の気持ちに合致するものだったからだろうといいます。
 
 『日本書紀』の記述には、大海人皇子は宇治まで左大臣・右大臣・大納言の見送りを受けたとあります。そこから飛鳥に入って島の宮に泊まり、吉野に向かい、吉野の宮滝にあった離宮に入ったといわれます。皇子を見送って帰る際、ある人が言った「虎に翼を着けて放てり」という、その後の壬申の乱の勃発を暗示するような記述もあります。
 
 なお、藤原氏の家史『藤原鎌足伝』に、次のような話が載っています。――668年、天智天皇の即位後に酒宴が開かれ、大海人が長槍で敷板を刺し貫くという暴挙を働いた。驚き怒った天智が大海人を殺そうとしたが、藤原鎌足がそれを諫めて止めた。その後、天智が亡くなり、皇位をめぐって天智の息子の大友皇子と争うことになった時、大海人は、「大臣(鎌足)が生きていれば、私はこのような苦しい目にあわずに済んだのに」と嘆いたという。―― もっとも、『藤原鎌足伝』を撰述者は藤原仲麻呂といわれ、この話の信憑性には大いに疑問があるとされています。

巻第1-26

み吉野の 耳我(みみが)の山に 時じくそ 雪は降るといふ 間(ま)無くぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道(やまみち)を

【意味】
 吉野の耳我山に、絶え間なく雪は降るという。晴れ間なく雨は降るという。その雪の絶え間がないように、雨の晴れ間がないように、曲がり角という曲がり角を不安に襲われながらやってきたのだ、この山道を。

【説明】
 25の「或る本の歌」とある歌です。本集の資料とは別の資料による歌で、詞句の類似の多い歌や、作者、作歌事情で伝えの異なっている歌を参考として載せているものです。25の歌は、耳我の嶺の雪と雨とを、目前にして扱っているのに、この歌は、それを話に聞いたものとしていっています。巻第13-3293にも類似の歌があります。

巻第1-27

淑(よ)き人のよしとよく見て好(よ)しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

【意味】
 昔の立派な人々がよく見てよい所だと言った、この吉野をよく見なさい、今の立派な人々よ。

【説明】
 天武8年(679)5月5日、天武天皇が吉野離宮に行幸された時の歌。「よ」の音の反復により、言葉遊びとなっています。ここの「淑き人」は天武天皇と持統皇后を寓しており、「良き人」は、同行していた草壁皇子ほか大津・高市・河嶋・忍壁・志貴の6皇子を指しています。天皇はこの折に、草壁皇子を次期天皇とし、他の皇子らとともに、千載の忠誠と結束を盟約させました(吉野の誓い)。壬申の乱による自身の即位の経緯から、自分の子たちが同じ事態にならないようにとの狙いがあったとみられます。
 
 このとき天皇は、異なる母から産まれていても、今後は同母の兄弟のように愛すると言い、衣の襟を開いて6人の皇子を抱擁し、さらに、もしこの誓いを破れば私は死ぬと言って誓ったと伝えられています。持統皇后も同じ誓いを立てており、後に持統天皇として即位してからのたび重なる吉野行幸はここに根ざしているとされます。
 
 『万葉集』には「吉野」という地名が数多く出てきており、古来霊力に満ちた神聖な場所とされてきました。『日本書紀』にも、応神天皇が行幸を行ったり、雄略天皇が狩りを楽しんだりしたという記事が載っています。天武天皇も、吉野の霊力の恩恵に授かろうとしたのかもしれません。しかしながら結局は、天武天皇が亡くなった後、皇位継承を巡る様々な思惑の中で、この盟約の場にもいた大津皇子が謀反の罪を着せられ処刑されるなど、血なまぐさい争いと悲劇が起こってしまうのでした。
 
 なお、天武天皇があらかじめ定めた皇子の序列は次のようなものでした。

① 草壁皇子(生年662年、母は天智天皇の皇女の鵜野皇后=持統天皇)
② 大津皇子(生年663年、母は天智天皇の皇女の太田皇女=鵜野皇后の同母姉)
③ 高市皇子(生年654年、母は九州の豪族宗像氏の娘)

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大海人皇子(天武天皇)略年譜
668年 中大兄皇子が天智天皇として即位し、大海人皇子が東宮となる(1月)
668年 蒲生野で、宮廷をあげての薬狩りが行われる(5月)
671年 天智天皇が大友皇子を太政大臣に任命(1月)
671年 天智天皇が発病(9月)
671年 天智天皇が大海人皇子を病床に呼び寄せる(10月)
    大海人皇子はその日のうちに出家、吉野に下る
    大友皇子を皇太子とする
672年 天智天皇が崩御(1月)、大友皇子が朝廷を主宰
672年 大海人皇子が挙兵(6月)、壬申の乱が勃発
672年 大友皇子が自殺(7月)
672年 飛鳥浄御原宮を造営
673年 大海人皇子が天武天皇として即位(2月)
679年 6人の皇子らと吉野に赴き「吉野の誓い」を行う
681年 草壁皇子を皇太子に立てる(2月)
683年 大津皇子にも朝政を執らせる
686年 発病(5月)
686年 皇后と皇太子に政治を委ねる
686年 崩御(9月)
 
 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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額田王について

額田王の出自に関する記述は非常に少なく、『日本書紀』にみえる「鏡王の娘で大海人皇子に嫁し、十市皇女を生む」という一文がほぼその全てと言ってよいものです。父の鏡王も他史料にみえず、「王」とつくことから2~5世の皇族(王族)と推定され、一説には宣化天皇の曾孫ではないかといわれます。

また額田王の出生地に関しても、大和国平群郡額田郷(現在の奈良県大和郡山市付近)、出雲国意宇郡(現在の島根県東部)など、諸説あります。

そうしたミステリアスな横顔とともに、『万葉集』の歌における対人関係の謎めいた経歴、またその歌柄の魅力などから、研究者や作家、歴史ファンの知的好奇心を大いにくすぐる存在となっています。


(額田王)

万葉時代の天皇

第29代 欽明天皇
第30代 敏達天皇
第31代 用明天皇
第32代 崇俊天皇
第33代 推古天皇
第34代 舒明天皇
第35代 皇極天皇
第36代 孝徳天皇
第37代 斉明天皇
第38代 天智天皇
第39代 弘文天皇
第40代 天武天皇
第41代 持統天皇
第42代 文武天皇
第43代 元明天皇
第44代 元正天皇
第45代 聖武天皇
第46代 孝謙天皇
第47代 淳仁天皇
第48代 称徳天皇
第49代 光仁天皇
第50代 桓武天皇


(天武天皇)

人気歌トップ10

第1位
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
~額田王

第2位
石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
~志貴皇子

第3位
新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
~大伴家持

第4位
春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山
~持統天皇

第5位
田子の浦ゆうち出でて見ればま白にそ富士の高嶺に雪は降りける
~山部赤人

第6位
恋ひ恋ひて逢へる時だに愛しき言尽くしてよ長くと思はば
~大伴坂上郎女

第7位
東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
~柿本人麻呂

第8位
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎいでな
~額田王

第9位
銀も金も玉もなにせむに優れる宝子に及かめやも
~山上憶良

第10位
我が背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露に我が立ち濡れし
~大伯皇女

~NHK『万葉集への招待』から
 

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