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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

吹黄刀自の歌

巻第1-22

河上(かはのへ)のゆつ岩群(いはむら)に草むさず常にもがもな常処女(とこをとめ)にて 

【意味】
 川上の神聖な岩にいつまでも苔が生えないように、わが皇女の君もその岩のように変わらず永久に美しい乙女でいらっしゃってほしい。

【説明】
 十市皇女(とをちのひめみこ)が伊勢神宮にお参りしたときに、従っていた女官の長老だったらしい吹黄刀自(ふふきのとじ)が詠んだ歌です。伊勢神宮は、皇室の祖神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る神社で、左注によれば、この時十市皇女は阿閉皇女(あへのひめみこ:後の元明天皇)とともに伊勢神宮へ出かけています。

 十市皇女は大海人皇子(後の天武天皇)と額田王との娘で、天智天皇の子の大友皇子と結婚し葛野王を生みますが、672年の壬申の乱で夫と父が戦うという悲劇に接します。結局、夫が敗北し自害、父は天武天皇として即位。皇女は夫と住んだ大津の宮から、父に従い、明日香の浄御原の宮に移って暮らしました。十市皇女が伊勢神宮に赴いたのは、天皇が、皇女の傷心を癒すために派遣したものともいわれます。

 題詞には「波多(はた)の横山の巌を見て作った歌」とあり、「波多の横山」は、三重県津市一志町井関付近の丘陵ではないかとされます。「河上」は、河のほとり。「ゆつ岩群」の「ゆつ」は「斎つ」で、「斎」は神に関わる清浄さを表す語、「つ」は現代語の「の」にあたる格助詞。「常にもがもな」の「もがも」は、願望の助詞、「な」は詠嘆の助詞。「常乙女」は、永遠に若い女子の意。
 
 この歌が詠まれたのは天武4年(675年)で、壬申の乱の3年後です。亡き夫への思慕と絶望、寂寥感のなかで身を細らせていった十市に対し、刀自は、神々しくみずみずしい岩々のように永遠に若くあってほしいと祈っています。しかし、天武7年(678年)4月、十市は宮中で突如亡くなってしまいます。父の天武天皇が祭儀のため行幸に出ようと、まさに行列が動き出したその時でした。あまりに唐突な死だったため、自殺ではなかったかとみられています。まだ30歳前後の若さでした。行幸は急きょ中止され、天武天皇は声を上げて泣いたといいます。
 
 そして、この十市皇女の死を悲しんだ高市皇子(たけちのみこ)の歌が『万葉集』に載っています(巻第2-156~158)、高市皇子は天武天皇の第一皇子で、十市皇女の異母弟にあたります。しかし、壬申の乱では天武側で奮戦し、十市にとっては夫を死に至らしめた敵軍の将でもありました。そして、夫を亡くした十市に対し、高市は熱い心を寄せてきます。十市も高市に心惹かれるものの、激しく自分の心を責める・・・。そうした葛藤が彼女の死に追い打ちをかけたのかもしれません。

 この歌に対する斉藤茂吉の評があります。「『常処女』という語も、古代日本語の特色をあらわし、まことに感嘆せねばならぬものである。今ならば、『永遠処女』などというところだが、到底この古語には及ばない。作者は恐らく老女であろうが、皇女に対する敬愛の情がただ純粋にこの一首にあらわれて、単純古調のこの一首を吟誦すれば寧ろ壮厳の気に打たれるほどである」。また、作家の田辺聖子は、「この刀自は、皇女の鑽仰者でいたのかもしれない。それゆえにこの歌には願望というより、どこか巫呪(ふじゅ)的な祈りがある」、そして、「『常乙女』――永遠の乙女、という言葉を『万葉集』で見つけようとは思わなかった。『常にもがもな常乙女にて』――は、吹黄刀自がわれら女性すべてに捧げてくれた願望とはげましであるかもしれない」と言っています。

巻第4-490~491

490
真野(まの)の浦の淀(よど)の継橋(つぎはし)心ゆも思へや妹(いも)が夢(いめ)にし見ゆる
491
川の上(へ)のいつ藻(も)の花のいつもいつも来(き)ませわが背子(せこ)時じけめやも
 

【意味】
〈490〉真野の浦の継橋のように、絶えず私を思ってくれているからだろうか、夢にあなたが現れるのは。
 
〈491〉川のほとりのいつ藻の花のように、いつもいつも来てください、あなた。私に都合が悪いなどということがあるものですか。

【説明】
 題詞に「吹黄刀自が歌2首」とあるものの、490は男の歌で、491が刀自の答えた歌とされます。490の「真野の浦」は、神戸市長田区東池尻町と真野町の新湊川の河口あたりか。「淀」は、水の澱んでいる所。「継橋」は、水中に打った杭に板を継ぎ渡して作った橋。水量が増した時に取り外すようにしたものだろうといわれます。この時代の、相手を思えばその夢に自分の姿が見えるという俗信を踏まえた歌です。

 491の「いつ藻」の「いつ」は、賛美の接頭語。上2句が「いつも」を導く序詞。「時じく」は、その時ではない、の意。「めやも」は、反語。刀自の許に通ってこようとする男が、あらかじめ都合を尋ねてきたのに対し答えたもののようです。なお、この歌は巻第10-1931と重複しています。

麻続王の歌ほか

巻第1-23~24

23
打麻(うちそ)を麻続王(をみのおほきみ)海人(あま)なれや伊良虞(いらご)の島の玉藻(たまも)刈ります
24
うつせみの命(いのち)を惜(を)しみ波に濡(ぬ)れ伊良虞(いらご)の島の玉藻(たまも)刈り食(は)む
 

【意味】
〈23〉麻続王は海人なのだろうか。そうではないのに、伊良湖の島に自ら出かけて玉藻を刈っていらっしゃる。

〈24〉私はこの世の命の惜しさに、波に濡れながら、伊良湖の島の玉藻を刈って食べている。

【説明】
 23は、麻続王(おみのおおきみ)が伊勢の国の伊良虞の島に流されたとき、人々が傷み哀しんで作った歌。24は、麻続王がこれを聞いて悲しんで和した歌。麻続王は伝未詳。何の罪で失脚したのかは分かりませんが、左注に次のような説明があります。「日本書紀によれば、三位の位にあった天武4年(675年)4月、罪により因幡に流される。同時に一子は伊豆島、別の一子は血鹿の島(長崎県の五島列島)に流されたという。ここに伊勢の国の伊良虞の島に流されたとあるのは、後の人が歌のことばによって誤って記したか」。また、常陸国風土記には、麻続王は常陸国の行方郡板来村(今の潮来)に流されて住んだという記録があり、なぜこのような混乱と違いがあるのか不明です。
 
 「伊良虞の島」は、愛知県の渥美半島の伊良湖岬、あるいはその南の神島(三島由紀夫の『潮騒』の舞台になった所)で、実際は伊勢の国ではなく三河の国。23の「打麻を」は「麻続」の枕詞。「海人」は漁人。「玉藻」の「玉」は美称、「藻」は食料としての物。「ます」は、いる意の敬語。いらせられる。24の「うつせみの」は「命」の枕詞。この和した歌も、実際には麻続王の歌ではなかったでしょう。

 麻続王は当時有名な人だったらしく、高貴な身分である王が流罪になった上に、あろうことか海人と同じように島の藻を刈っていらっしゃる――そうした悲哀と憐情からこの歌が詠まれ、うたい継がれていったものと思われます。地名についても、「因幡」「伊良湖」「板来(潮来)」は、音がよく似ていますから、よく似た音をもつ各地にどんどん伝わっていったのかもしれません。。

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万葉歌の人気ベスト10 ~NHK『万葉集への招待』から
 

第1位
あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
~額田王(巻1-20)

第2位
石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
~志貴皇子(巻8-1418)

第3位
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
~大伴家持(巻20-4516)

第4位
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山
~持統天皇(巻1-28)

第5位
田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
~山部赤人(巻3-318)

第6位
恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき言尽くしてよ 長くと思はば
~大伴坂上郎女(巻4-661)

第7位
東の 野に炎の立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ
~柿本人麻呂(巻1-48)

第8位
熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな
~額田王(巻1-8)

第9位
銀も 金も玉もなにせむに 優れる宝 子に及かめやも
~山上憶良(巻5-803)

第10位
我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし
~大伯皇女(巻2-105)
  

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万葉集の三大部立て

雑歌(ぞうか)
 公的な歌。宮廷の儀式や行幸、宴会などの公の場で詠まれた歌。相聞歌、挽歌以外の歌の総称でもある。
 
相聞歌(そうもんか)
 男女の恋愛を中心とした私的な歌で、万葉集の歌の中でもっとも多い。男女間以外に、友人、肉親、兄弟姉妹、親族間の歌もある。
 
挽歌(ばんか)
 死を悼む歌や死者を追慕する歌など、人の死にかかわる歌。挽歌はもともと中国の葬送時に、棺を挽く者が者が謡った歌のこと。

『万葉集』に収められている約4500首の歌の内訳は、雑歌が2532首、相聞歌が1750首、挽歌が218首となっています。

天武天皇の子女

皇子
高市皇子
草壁皇子
大津皇子
忍壁皇子
穂積皇子
舎人皇子
長皇子
弓削皇子
新田部 皇子(生年未詳)
磯城皇子(生没年未詳)

皇女
十市皇女
大伯皇女
但馬皇女
田形皇女
託基皇女
泊瀬部皇女(生年未詳)
紀皇女(生没年未詳)


(天武天皇)

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