巻第1-40~42
40 嗚呼見(あみ)の浦に船乗りすらむをとめらが玉裳(たまも)の裾(すそ)に潮(しほ)満つらむか 41 釧(くしろ)着く手節(たふし)の崎に今日(けふ)もかも大宮人(おほみやひと)の玉藻(たまも)刈るらむ 42 潮騒(しほさゐ)に伊良虞(いらご)の島辺(しまべ)こぐ船に妹(いも)乗るらむか荒(あら)き島廻(しまみ)を |
【意味】
〈40〉あみの浦で船乗りをしているだろう若い女官たちの美しい裳の裾に、今ごろ潮が満ち寄せているだろうか。
〈41〉美しい釧(くしろ・腕輪)をつけて、手節の岬に今日もまた、大宮人たちは藻を刈っているのだろう。
〈42〉潮が満ちてきて鳴りさわぐころ、伊良虞の島あたりを漕ぐ船に、供奉してまいった私の恋人も乗っていることだろう。あの波の荒い島のあたりを。
【説明】
持統天皇6年(692年)3月の伊勢行幸の折、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の宮に留まった人麻呂が、供奉した女官たちが禊の祭儀のために船乗りしているようすを思い描いて詠んだ歌です。天皇が女帝であったことから、女官の人数も多く、華やかな行幸だったのでしょう。大和の平原で生活する大宮人にとって、海は、強いあこがれと魅力を感じさせられる対象であったことが、集中の多くの歌から察せられます。
40の「鳴呼見の浦」の詳細な地は不明ですが、鳥羽湾の西に突出している小浜の入海で、今も「アミの浜」と呼ばれている地とされます。「玉裳」の「玉」は美称、「裳」は、当時の女官たちがはいていた長く裾を引くロングスカートのこと。裳の裾を濡らす若い女性の姿は、当時の男たちにとってはかなりセクシーだったに違いありません。斎藤茂吉も「若く美しい女官等が大和の山地から海浜に来て珍しがって遊ぶさまが目に見えるようである。そういう朗らかで美しく楽しい歌である。しかも『らむ』という助動詞を二つも使って、流動的歌調を成就しているあたり、やはり人麿一流と言わねばならない」と評しています。
41の「釧着く」の「釧」は、装身具の腕輪で、釧を着ける手と続き「手節」にかかる枕詞。「手節」は、三重県鳥羽市答志町。42の「伊良虞の島」は、渥美半島先端の伊良湖岬。3首の歌に詠まれた地名は順にだんだん都から遠ざかっており、それにつれて、人麻呂の、旅する人たちへの思いが羨望から不安に変化しています。ただの船遊びであれば波の荒い島廻を廻ったりはせず、神聖な行事に参加しているのだという緊張感を伴ってきています。そして、供奉した女官の中に人麻呂の恋人がいたらしく、船上で荒々しい波に揺られるその身を心配しています。
この時の行幸は、伊勢参詣のみならず、参河(三河)や遠江にも足を伸ばしており、たいへん大がかりなものでした。とくに伊勢は、壬申の乱において大海人皇子(後の天武天皇)を勝利に導いた神の坐す地でありました。
巻第1-43~44
43 我(わ)が背子(せこ)はいづく行くらむ沖つ藻(も)の名張(なばり)の山を今日(けふ)か越ゆらむ 44 我妹子(わぎもこ)をいざ見(み)の山を高みかも大和(やまと)の見えぬ国遠みかも |
【意味】
〈43〉今ごろ夫はどのあたりを旅しているのだろう。名張の山を今日にでも越えているのだろうか。
〈44〉妻を「いざ見よう」という名のいざみ山が高いせいか、妻のいる大和が見えない。それとも国を遠く隔てて来たせいだろうか。
【説明】
43は、上と同じ行幸の際に従駕した当麻真人麻呂(たぎまのまひとまろ)の妻が、旅路にある夫を案じて作った歌。44は、同じく従駕した石上大臣(いそのかみのだいじん)の歌。当麻真人麻呂は、その妻とも伝未詳。石上大臣は、慶雲元年(704年)に右大臣、和銅元年(708年)に左大臣となった石上朝臣麻呂。
43の「沖つ藻の」は「名張」の枕詞。「名張」は、三重県名張市。この歌について斎藤茂吉は、「一首中に『らむ』が二つ第二句と結句とに置かれて調子を取っている。・・・この歌は古来秀歌として鑑賞せられたのは万葉集の歌としては分かりよく口調もよいからであったが、そこに特色もあり、消極的方面もまたそこにあるといっていいであろうか。しかしそれでも古今集以下の歌などと違って、厚みのあるところ、名張山という現実を持ってきたところ等に注意すべきである」と言っています。なお、この歌は巻第4-511に重出しています。
44の「我妹子」は「いざ見」の枕詞。「いざ見の山」は、伊勢・大和の国境の高見山かといわれます。標高1250mの高見山は、東西方向から見ると尖った山頂が見え、伊勢側から見て大和国が遮られているように感じたもののようです。江戸時代の僧で国学者の契沖はこの歌について、妻の家が見えないのを幼い子供のようにまどい、理屈の通らないことをあえて表現することによって、心の感動を深く表していると言い、そのように詠むのを「歌のならひ」であると説いています。
なお、左注には、この行幸の際のエピソードが記されており、中納言だった三輪朝臣高市麻呂(みわのあそんたけちまろ)が冠を脱いで天皇に捧げ、農繁期の行幸は民を苦しめるとして諫めたが、天皇はこれを聞き入れず伊勢へ行幸した、とあります。冠を脱いで天皇に捧げるのは職を辞する覚悟を示したもので、高市麻呂はこの後しばらく官職を解かれたといわれます。『日本書紀』にもこの顛末は書かれており、ただ、持統天皇は行幸を強行したというだけでなく、訪れた地域や随行した人々の税を免除し、大赦を行うなどもしたともあります。高市麻呂は壬申の乱の功臣だったため諫言を呈することができたようですが、持統天皇には、その功臣の諫言を退けても行幸を実行したい事情があったのかもしれません。
これについては、信濃方面への遷都を企図したものではなかったかとする説があります。わが国は天智天皇2年(663年)の白村江の戦い以来、大陸からの外圧が気がかりな情勢が続いており、天智天皇が都を飛鳥から大津宮に遷したのも、天武天皇が飛鳥に都を戻したのも、その影響が大きかったと見られています。さらに天武天皇は、天武13年(684年)に三野王らを信濃に遣わし地形の調査をさせています。藤原宮の造営は天武天皇の発案だったとされますが、持統天皇は続いて信濃遷都を真剣に考えており、そのための遠江、参河行幸だったのではないか、と。高市麻呂が冠を脱いでまで天皇を諫めたのは、それに大反対したからだというのです。持統天皇は死の直前の大宝2年(702年)のも再度、参河行幸を決行しています。また、持統天皇が亡くなって後の和銅6年(713年)には美濃と信濃を結ぶ木曽路が開通しています。この時の天皇は元明天皇であり、持統の強い意志を受け継いでいたということでしょうか。
巻第1-66~68
66 大伴(おほとも)の高石(たかし)の浜の松が根を枕(まくら)き寝(ぬ)れど家し偲(しの)はゆ 67 旅にしてもの恋(こほ)しきに鶴(たづ)が音(ね)も聞こえざりせば恋ひて死なまし 68 大伴(おほとも)の御津(みつ)の浜なる忘れ貝(がひ)家なる妹(いも)を忘れて思へや |
【意味】
〈66〉大伴の高石の浜に立つ松の根を枕にして寝ていても、やはり大和の家が思い起こされてならない。
〈67〉旅先でただでさえもの恋しいのに、鶴の鳴き声すら聞こえなかったら、家恋しさのあまり死んでしまうだろう。
〈68〉大伴の御津の浜にある忘れ貝だが、家に残っている妻のことをどうして忘れたりしよう。
【説明】
66は、置始東人(おきそめのあずまひと)の歌。67は、高安大島(たかやすのおおしま:伝未詳)の歌。68は、身人部王(むとべのおおきみ)の歌。置始東人は文武期の宮廷歌人。身人部王は奈良朝風流侍従の一人。この時の行幸の年月は未詳ながら、文武天皇3年正月の難波行幸に同列で行幸になったのではないかともいわれます。
66の「大伴」は、難波あたり一帯の地。「高石の浜」は、大阪府堺市南部から高石市にかけての海岸。「枕き寝れど」の「枕きは「枕」を動詞化した語で、枕にして寝るけれど。67の「もの恋しきに鶴が音も」の原文は「物恋之鳴毛」で解読困難なため、文字を補って「物恋之伎尓鶴之鳴毛」とする案が提示されています。「死なまし」の「まし」は、仮設の推量の助動詞。68の「御津の浜なる」「家なる」の「なる」は、~にある。「忘れ貝」は、殻のみとなった貝。「思へや」の「や」は、反語。
なお、67の歌のように、「鶴」が詠まれている歌は『万葉集』全体では47首あり、難波の鶴だけでも11首あります。詠まれた季節も、遣新羅使が真夏の瀬戸内海を航行した折の歌が3首あるなど、こんにちのような越冬期だけの棲息ではなかったことが分かります。当時は各地の河川の出口のいたるところに鶴の好む湿原が広がっていたらしく、万葉の鶴が全国に及んでいるのはそのためだったと見られています。
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教養としての『万葉集』
『万葉集』が日本人の一般的教養書目に加わったのは、そんなに古いことではない。千年以上にわたって、三十一文字の和歌は詠みつづけられて来たが、手本とされたのは『古今集』(まれに『新古今集』)であって、『万葉集』ではなかった。歌人や連歌師たちの必読書としては、一口に万葉・古今・伊勢・源氏と教えられたが、そのうち万葉だけは、彼らの精読書ではなかったし、また彼らにとって『万葉集』の世界は一種エキゾチックな感じの伴う遠い異郷であった。
契沖が『万葉集代匠記』の注釈作業を思い立ったとき、それは人々から忘れ去られていたものを再発見することであった。国学の勃興は『万葉集』の再発見に始まったが、それは人々が『万葉集』の歌を通して、日本の古代生活にもう一度めぐり合い、その豊かな言葉の世界によって生き生きとそのイメージを蘇らせ、記紀その他の古典のリヴァイヴァルを果しえたということなのである。
だがそれがあまねく日本人の教養となったのは、正岡子規の万葉調短歌の唱導以来、アララギ派の歌人たち、すなわち伊藤佐千夫、島木赤彦、斎藤茂吉らの精力的な啓蒙運動によるところが大きいのである。もちろん彼らは学者ではないし、作歌上の動機にうながされて、繰り返し『万葉集』を精読し、その声調を讃嘆し、作者の心の集中をそこに見出し、「歌を作(な)すほどの人は、誰でも万葉集の心に始終すればいい」(赤彦)とさえ言ったのである。だがそれは、歌を作る者の座右の書となったばかりではなかった。歌も作らないし、歌というものにさして興味を抱いていない人たちにも、『万葉集』は拒みがたい魅力を発揮し、あたかもそこに魂の故郷があるかのようななつかしさを、人々に感じさせたのだ。
~山本憲吉著『万葉秀歌鑑賞』から引用
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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(持統天皇)
(柿本人麻呂)
(山部赤人)
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