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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

軽皇子が安騎の野にお宿りになった時、柿本人麻呂が作った歌

巻第1-45~49

45
やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太(ふと)敷かす 京(みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は 真木(まき)立つ 荒山道(あらやまみち)を 石(いは)が根 禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さりくれば み雪降る 阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき) 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿りせす 古(いにしへ)思ひて
46
阿騎(あき)の野に宿る旅人うちなびき寐(い)も寝らめやも古(いにしへ)おもふに
47
ま草刈る荒野(あらの)にはあれど黄葉(もみぢば)の過ぎにし君が形見とぞ来し
48
東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月(つき)傾(かたぶ)きぬ
49
日並皇子(ひなみしのみこ)の尊(みこと)の馬 並(な)めて御猟(みかり)立たしし時は来向(きむか)ふ
 

【意味】
〈45〉天下のすべてをお治めになるわれらの大君、空高く輝く日の神の皇子は、神であるままに神のお振る舞いをなさるというので、宮殿の柱も太く揺るぎない都を後にし、隠れ処の泊瀬の山は、真木が茂り立つ荒々しい山道なのに、地に根が生えたような岩々や、行く手をさえぎる樹々を押し伏せ、鳥のように軽々と朝越えて来られ、夕方には美しい雪が降る安騎の大野で、のぼりのように背の高い薄(すすき)や、小竹の群生を押しなびかせて、旅の宿りをなさる、昔のことを思いながら。

〈46〉阿騎野に今宵宿る旅人たちは、くつろいで寝つくことなどできないだろう。昔のことを思うにつけて。

〈47〉荒れ野ではあるけれど、ここを亡き皇子の形見の地と思ってやって来ました。

〈48〉東の野にあけぼのの茜色が見え始め、振り返ってみると、もう月が傾きかけている。

〈49〉日並の皇子が、馬を並べて猟をなさろうとした、その時刻が今まさに到来した。

【説明】
 持統天皇6年(692年)の晩秋から初冬ころ、軽皇子(かるのみこ:後の文武天皇)が宇陀の阿騎野(あきの)で遊猟した際、これに供奉した柿本人麻呂が詠んだ歌です。軽皇子は草壁皇子(くさかべのみこ)の皇子で、この時10歳。人麻呂は、かつて軽皇子の父君である草壁皇子の狩りのお供をして安騎野に来た時のことを回想し、草壁皇子に対する追憶と憂愁とを歌いました。草壁皇子は、皇位継承者として天武・持統天皇に期待されながら、689年、28歳の若さで他界しました。持統天皇が即位したのは、軽皇子に皇位を継がせるまでの中継ぎ的なものでした。

 「安騎野」は、現在の奈良県宇陀郡大宇陀町付近の野。この一帯には広く水銀鉱床が分布し、古来、吉野と同じく神仙境として意識されていました。この地を選んでしばしば遊猟が行われたのも、その地の神秘に触れることで、生命力の再生をはかる狙いがあったとされます。また、壬申の乱の時、吉野を脱した大海人皇子が立ち寄ったとの記録が『日本書紀』にあり、天武朝とゆかりの深い地でもあります。

 45の上4句は、天武系の皇子に用いられた賛美の表現。「やすみしし」「高照らす」「隠口の」は、それぞれ「わが大君」「日の皇子(軽皇子のこと)」「泊瀬」の枕詞。「泊瀬の山」は、奈良県櫻井市の山々で、古くからの墓所として人々に恐れられていました。「坂鳥の」「玉かぎる」「草枕」「ま草刈る」「黄葉の」は、それぞれ「朝越ゆ」「夕」「旅」「荒野」「過ぐ」の枕詞。人麻呂は、このわずか10歳の、しかも立太子以前の軽皇子に、「神ながら神さびせすと」と、天皇と同格の表現をあたえています。当時の都は飛鳥浄御原宮で、そこから出かけ、初瀬の谷に入り、山越えをして安騎野に到着するところまでを詠んでいます。続く4首の反歌は連作になっていて、時間的経過の順を追っています。
 
 46は草枕の旅の宿をした最初の歌で、「うちなびき」の「なびき」は、横になる意。「寝らめやも」の「やも」は、反語。47の「ま草刈る」は「荒野」の枕詞。「荒野」は、文字通り開墾されていない荒れた野ですが、「荒」は、本来は始原的で霊力を強く発動している状態をあらわす言葉だともいわれ、「荒野」は、霊威が強くてむやみに近づいてはならない野を指すとされます。しかし一方、狩猟の場所をそのように捉えるのは間違いであり、「荒野にはあれど」(8音の字余り句)ではなく「荒野はあれど」と訓み、歌の解釈も「荒野は今も変わらず存在するけれども、黄葉が過ぎ去るようにはかなかく亡くなられた皇子の形見の地としてやって来た」とするものもあります。「黄葉の」は「過ぎ」の枕詞。草壁皇子の思い出としてやって来たことを歌っています。

 48は、その夜明け。この歌はとても有名ですが、その真意は、沈む月を逝去した草壁皇子に喩え、昇る朝日を息子の軽皇子に喩えているといわれます。また、「東野炎立所見而反見為者月西渡」とわずか14字で書かれている原文の訓みは長らく定まらず、かつては「東野(あづまの)のけぶりの立てるところ見て・・・」などと読まれていたようです。それを上掲のように訓んだのは、人麻呂の時代から1000年も下った江戸時代中期の国学者・賀茂真淵だとされます。当時は無謀だとか大胆だとかの批判もあったようですが、それを現在のように定着するに至らしめた真淵の功績とその影響力は大です。
 
 しかしながら、『万葉集』の他の歌や『古事記』に見える「かぎろひ」はすべて春の陽炎(かげろう)を示す言葉であり、日の光を意味する例が一つもないことから、やはり真淵の読解にはかなりの無理、強引さがあるようです。そうすると、ここはあくまで「けぶり」が「立つ」のであり、御狩に来ているとあるのだから、狩猟の烽火(のろし)、焼き狩りの煙が立つさまをうたっていることになります。したがって、人麻呂の名歌として親しまれているといっても、この場合の名歌というのは、あくまで真淵の訓に対する評価であることに留意しなければなりません。その意味では、この歌は訓詁学の立場からは「未解読歌」に属するといえます。

 49の「日並皇子」は、亡き草壁皇子のこと。「日並」は、天皇と並び天下に臨む意。「立たす」は、開催なさる。「来向かふ」は、到来する、近づく。いよいよ狩猟が始まるのに際し、草壁皇子の映像を思い浮かべています。

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柿本人麻呂の略年譜
662年 このころ生まれる
672年 壬申の乱
680年 このころまでには出仕していたとみられる
686年 天武天皇崩御
689年 このころ巻第1-29~31の近江荒都歌を作る
689年 草壁皇子没。巻第2-167~170の殯宮挽歌を作る
690年 持統天皇の吉野行幸。巻第1-36~37の吉野賛歌はこの時の作か
691年 泊瀬部皇女・忍壁皇子に奉る挽歌(巻第2-194~195)を作る
692年 持統天皇の伊勢行幸。都に留まって巻第140~42の歌を作る
692年 軽皇子(文武天皇)が宇陀の阿騎で狩猟した際に、巻第1-45~49の歌を作る
694年 藤原京へ遷都
696年 高市皇子没。巻第2-199~201の殯宮挽歌を作る
697年 文武天皇即位
700年 明日香皇女没。巻第2-196~198の殯宮挽歌を作る(作歌年が明らかな最後の歌)
702年 持統上皇崩御
707年 文武天皇崩御、元明天皇即位
710年 平城京へ遷都
724年 このころ亡くなる

 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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長歌と短歌

長歌は、「5・7・5・7・7」の短歌に対する呼び方で、5音と7音を交互に6句以上並べて最後は7音で結ぶ形の歌です。長歌の後にはふつう、反歌と呼ぶ短歌を一首から数首添え、長歌で歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりします。

長歌の始まりは、古代の歌謡にあるとみられ、『古事記』や『日本書紀』の中に見られます。多くは5音と7音の句を3回以上繰り返した形式でしたが、次第に5・7音の最後に7音を加えて結ぶ形式に定型化していきました。

『万葉集』の時代になると、柿本人麻呂などによって短歌形式の反歌を付け加えた形式となります。漢詩文に強い人麻呂はその影響を受けつつ、長歌を形式の上でも表現の上でも一挙に完成させました。短歌は日常的に詠まれましたが、長歌は公式な儀式の場で詠まれる場合が多く、人麻呂の力量が大いに発揮できたようです。

人麻呂には約20首の長歌があり、それらは平均約40句と長大です。ただ、長歌は『万葉集』には260余首収められていますが、平安期以降は衰退し、『古今集』ではわずか5首しかありません。

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