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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)の歌

巻第1-56

川上のつらつら椿(つばき)つらつらに見れども飽かず巨勢(こせ)の春野は

【意味】
 川沿いに連なっている椿をよくよく眺めているけれど、巨勢の春野は飽きないことだ。

【説明】
 大宝元年(701年)9月、持統太上天皇の紀伊国行幸に随行して詠まれた歌。作者の春日蔵首老は、弁記という法名の僧だったのが、朝廷の命により還俗させられ、春日倉首(かすがのくらのおびと)の姓と老の名を賜わったとされる人物です。『万葉集』には8首の歌が載っています(「春日歌」「春日蔵歌」と記されている歌を老の作とした場合)。
 
 題詞には「秋九月」の作とあるので、椿の花が咲いているのを想像して詠んだ歌のようです。「つらつら椿」は、椿の花や葉が連なっている様子または椿の並木、「つらつらに」はつくづくと、念を入れてみる様子。椿は古来、春の到来を告げる聖なる 木とされ、椿の生える山は椿山と呼んで神を祭っていました。野山に自生する椿は「ヤブツバキ」と呼ばれ、この歌もヤブツバキをうたっています。花は全開せずに、ややうつむき加減に咲くのが特徴です。「巨勢」は奈良県御所市古瀬のあたりとされ、飛鳥・藤原から紀伊国に向かう時に通る地です。
 
 なお、同じ題詞の下に、坂門人足(さかとのひとたり)の「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を」の歌(54)もあります。同時代の人なので、どちらが後から模倣して作ったかは明らかではありませんが、歌の出来栄えから、人足の方が模倣したとみられています。模倣とはいえ、当時の歌は口承文学の域を脱しきらず、創意ある歌であっても、一たび発表すれば共有の物と化しましたから、問題にされたりはしませんでした。いずれも口調のいい楽しい歌で、のどかな童謡のようでもあります。

巻第1-62

在(あ)り嶺(ね)よし対馬(つしま)の渡り海中(わたなか)に幣(ぬさ)取り向けて早(はや)帰り来ね

【意味】
 対馬の海を渡るときに、海の神への幣をささげて、一日も早く無事に帰って来てほしい。

【説明】
 三野連(みののむらじ)が遣唐使として唐に渡るときに、春日蔵首老が作った歌。三野連の名は岡麻呂。大宝元年(701年)入唐。なお、この時には山上憶良も同行していたとされます。対馬を経由する航路(北路)は比較的安全とされましたが、後に新羅との関係が悪化してからは東シナ海(南路)を渡らざるを得なくなりました。この時とった航路も南路であり、出航の機をうかがい、1年あまりも筑紫にとどまっていたといいます。「在り嶺よし」は「対馬」の枕詞。「対馬の渡り」は、壱岐と対馬の間の渡りのことだろうとされます。「幣」は、航路の安全を祈って捧げる品。「早帰り来ね」の「ね」は、願望の助詞。

 当時の人たちが、願いが叶うようにと行った願掛けには、「幣をささげる」ほか、「領巾(ひれ)を振る」「松の枝を結ぶ」「標(しめ)を結う」などがありました。「領巾」は女性が肩にかけた細長い布のことで、「標」を結うというのは縄を張り巡らすことです。

巻第3-282・284

282
つのさはふ磐余(いはれ)も過ぎず泊瀬山(はつせやま)いつかも越えむ夜(よ)は更けにつつ
284
焼津辺(やきづへ)に我(わ)が行きしかば駿河(するが)なる阿倍(あへ)の市道(いちぢ)に逢ひし子らはも
 

【意味】
〈282〉まだ磐余の地も過ぎていない。こんなことでは、泊瀬の山を越えるのはいったいいつになるだろう。夜はもう更けてしまったというのに。

〈284〉焼津のあたりに私が行ったとき、駿河の阿倍の市で偶然出逢ったあの若い女は、今頃どうしていることか。

【説明】
 282の「つのさはふ」は「磐余」の枕詞。「磐余」は、藤原京のすぐ東、奈良県桜井市池之内と橿原市池尻の一帯。「泊瀬山」は、桜井市の初瀬にある山。何らかの急用で、泊瀬山を越えようと出立したものの、夜が更けていく磐余の地を歩きつつ、焦燥感を深めています。

 284の「焼津辺」は、静岡県焼津市。日本武尊が賊に襲われ火を放って難を逃れたという名高い事蹟のあった地です。「阿倍」は、国府のあった静岡市。「市場」は、歌垣が行われた所。「子らはも」の「ら」は親愛などの情を示す接尾語。公務によって当地を訪れた時の歌とみられますが、「焼津」「駿河」「阿倍」という3つの地名を取入れ、それらが「児らはも」に集中されているので、濃い地域色とともに、その土地への好感をあらわした歌となっています。

巻第3-298

真土山(まつちやま)夕(ゆふ)越え行きて廬前(いほさき)の角太川原(すみだかはら)にひとりかも寝む

【意味】
 真土山を夕方越えて行って、廬前の角太川原で、ただ独り旅寝することになるのだろうか。

【説明】
 題詞に「弁基(べんき)の歌」とあり、左注に「或いは、春日蔵首老が法師であったときの名」とあります。「真土山」は、大和と紀伊の国境にある山。「廬前の角太川原」は、和歌山県橋本市隅田町付近を流れる紀ノ川の川原。大和から紀伊へ向かっての旅の途上で、その夜の寝場所を心配している歌です。

巻第9-1717・1719

1717
三川(みつかは)の淵瀬(ふちせ)もおちず小網(さで)さすに衣手(ころもで)濡れぬ干(ほ)す子はなしに
1719
照る月を雲な隠しそ島蔭(しまかげ)に我(わ)が船(ふね)泊(は)てむ泊(とま)り知らずも
 

【意味】
〈1717〉三川の淵にも瀬にも残さず小網を張っているうちに、着物の袖が濡れてしまった。干してくれる人もいないのに。

〈1719〉明るく照る月を、雲よ隠さないでおくれ。島陰に我らの舟を泊めるのに、暗くて船着場が分からないではないか。

【説明】
 1717は題詞に「春日が歌」とあるのみで、春日蔵首老の作であるかは確定しません。「三川」は、所在未詳。「小網」は、柄のある網。1719は「春日蔵が歌」とあります。「雲な隠しそ」の「な~そ」は禁止。

丹比真人笠麻呂と春日蔵首老の歌

巻第3-285~286

285
栲領巾(たくひれ)の懸(か)けまく欲(ほ)しき妹(いも)が名をこの背(せ)の山に懸(か)けばいかにあらむ
286
よろしなへ我(わ)が背の君(きみ)が負ひ来(き)にしこの背の山を妹(いも)とは呼ばじ
 

【意味】
〈285〉妻の名を声に出して呼びかけたいものだ。いっそのこと、この背の山を妹(いも)山と替えてみてはどうだろう。

〈286〉よい具合にも我が背の君にふさわしい背の山の名を、いまさら妹(いも)山とは呼べません。

【説明】
 285は、丹比真人笠麻呂(たじひのまひとかさまろ)が紀伊の国に行き、背の山を越えたときに作った歌、286は、春日蔵首老がすかさず和した歌。丹比真人笠麻呂は伝未詳。打ち揃っての旅であるところから、行幸の供奉の時の歌ではないかとみられています。

 285の「栲領巾の」は「懸け」の枕詞。「栲領巾」は、女の肩にかける飾り布で、楮(こうぞ)などの繊維で織った栲布(たくぬの)で作った領巾(ひれ) 。「背の山」は和歌山県伊都郡かつらぎ町にある山。紀ノ川の対岸にある妹山とともに歌によく歌われています。286の「よろしなへ」は、よい具合に、ふさわしく。老は笠麻呂の心を宜いながらも、「私は君の言われんとする妹のことは思いません。君がおられるので十分です」との気持ちを込めて和しています。

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万葉歌の人気ベスト10 ~NHK『万葉集への招待』から
 

第1位
あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
~額田王(巻1-20)

第2位
石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
~志貴皇子(巻8-1418)

第3位
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
~大伴家持(巻20-4516)

第4位
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山
~持統天皇(巻1-28)

第5位
田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
~山部赤人(巻3-318)

第6位
恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき言尽くしてよ 長くと思はば
~大伴坂上郎女(巻4-661)

第7位
東の 野に炎の立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ
~柿本人麻呂(巻1-48)

第8位
熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな
~額田王(巻1-8)

第9位
銀も 金も玉もなにせむに 優れる宝 子に及かめやも
~山上憶良(巻5-803)

第10位
我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし
~大伯皇女(巻2-105)
  

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古典に親しむ

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万葉の植物

サネカズラ
常緑のつる性植物で、夏に薄黄色の花を咲かせ、秋に赤い実がたくさん固まった面白い形の実がなります。別名ビナンカズラといい、ビナンは「美男」のこと。昔、この植物から採れる粘液を男性の整髪料として用いたので、この名前がついています。

ススキ
秋の七草の一つであるススキはイネ科の 多年草で、十五夜の月見の際にハギと共に飾られます。古来、ススキの穂を動物の尾に見立てて「尾花」と呼び、『万葉集』では他に「はた薄」とか「はだ薄」と詠んでいる場合があります。また「茅(かや)」とも呼ばれ、農家で茅葺屋根の材料に用いたり、家畜の餌として利用したりしていました。

チガヤ
イネ科の草で、日当たりのよい場所に群生します。細い葉を一面に立て、白い穂を出します。新芽には糖分が豊富に含まれており、昔は食用にされていました。 チガヤの「チ」は千を表し、多く群がって生える様子から、千なる茅(カヤ)の意味で名付けられた名です。

ツバキ
ツバキ科ツバキ属の常緑高木で、光沢のある濃い緑の葉をもちます。 花は赤いもの、白いもの、または八重咲きのものなど多くの品種がありますが、野山に自生するツバキをヤブツバキと呼びます。花は全開することなく、少しうつむき気味に咲くのが特徴です。

ヌバタマ
アヤメ科の多年草。平安時代になると檜扇(ひおうぎ)と呼ばれるようになりました。花が終わると真っ黒い実がなるので、名前は、黒色をあらわす古語「ぬば」に由来します。そこから、和歌で詠まれる「ぬばたまの」は、夜、黒髪などにかかる枕詞になっています。

ヤマブキ
バラ科の落葉低木。山野でふつうに見られ、春の終わりごろにかけて黄金色に近い黄色の花をつけます。そのため「日本の春は梅に始まり、山吹で終わる」といわれることがあります。 万葉人は、 ヤマブキの花を、生命の泉のほとりに咲く永遠の命を象徴する花と見ていました。ヤマブキの花の色は黄泉の国の色ともされます。

万葉時代の年号

大化
 645~650年
白雉
 650~654年
 朱鳥まで年号なし
朱鳥
 686年
 大宝まで年号なし
大宝
 701~704年
慶雲
 704~708年
和銅
 708~715年
霊亀
 715~717年
養老
 717~724年
神亀
 724~729年
天平
 729~749年
天平感宝
 749年
天平勝宝
 749~757年
天平宝字
 757~765年

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