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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌

巻第1-57

引馬野(ひくまの)ににほふ榛原(はりはら)入り乱れ衣(ころも)にほはせ旅のしるしに

【意味】
 引馬野に色づいている榛の原、さあ、この中にみんな入り乱れて衣を艶やかに染めようではないか、旅の記念(しるし)に。

【説明】
 持統太上天皇の三河国行幸に従駕した時の歌で、高市黒人が「安礼の崎」を詠んだ歌(巻第1-58)と同じ時のものです。持統天皇は31回も吉野行幸を重ね、最晩年の大宝2年(702年)10月に大がかりな東国巡幸を行い、三河まで車駕を進めました。吉野も東国も、壬申の乱に勝利するまでに亡夫・天武と歩んだ苦難への思い出の地であり、この行幸の目的は不詳ながら、権力基盤がなお波乱含みであるなか、東の勢力への信頼と絆を強めようとするためだったともいわれます。46日間にわたる長旅を終え、その約1ヵ月後の12月22日に女帝はこの世を去っていますから、生涯最後の大旅行だったことになります。
 
 「引馬野」は、愛知県豊川市または静岡県浜松市付近の地名。「にほふ」は、色の艶やかなこと。「榛原」の「榛」はハンノキで、当時は樹皮や実を染料に用いました。「にほはせ」は「にほほす」の命令形で、「にほふ」と同じく、艶やかにせよ、の意。これは単に記念として衣を染めようというのではなく、それによって土地の神のご加護を身につけようとの呪術的な意図が込められているものです。

 現代語の「にほふ」は、もっぱら嗅覚について用いられますが、ここの歌からは、むしろ視覚を中心に「にほふ」が用いられていることが分かります。「にほふ」の文字表記では「に」に「丹」の字をあてたものが少なくないため、赤系統の色を意味する言葉だったとみられます。ただし、嗅覚について用いた例も見られ、必ずしも視覚に限定された表現ではなかったようです。
 
 長忌寸意吉麻呂(生没年未詳)は、渡来人の裔(すえ)であり、柿本人麻呂や高市黒人などと同じ時期に宮廷に仕えた下級官吏だったとされます。行幸の際の応詔歌、羇旅歌、また宴席などで会衆の要望にこたえた歌、数種の物の名前を詠み込んだ歌、滑稽な歌など、いずれも短歌の計14首を残しています。

巻第3-238

大宮(おほみや)の内(うち)まで聞こゆ網引(あびき)すと網子(あこ)ととのふる海人(あま)の呼び声

【意味】
 大君のおられる御殿の中まで聞こえてくる、網を引こうとして、網子たちを指揮する漁師の威勢のいい掛け声が。

【説明】
 題詞に「詔(みことのり)に応(こた)ふる歌」とあり、文武3年(699年)の持統上皇・文武天皇の難波行幸の時の歌とされます。「大宮(皇居の尊称)」は、大阪市中央区法円坂にあった難波離宮。ふだん大和の藤原京に住まわれる天皇には、海の光景がたいへん珍しく面白く思われ、供奉の意吉麻呂に歌を作れと仰せられたようです。

 「網引」は地引き網。「網子」は、地引き網を引く人。「ととのうる」は、網子たちの動作の調子を合わせること。「海人」はもともと部族の名であったのが、彼らが海で漁をするところから、転じて漁師の意味になったといいます。下3句の句頭が「あ」の繰り返しになっていて、また5句すべての句頭が母音になっています。また、巻第16にある、数種類の物の名前を詠み込んだ歌(3824~3831)のように、即興でありながら、いきいきと言葉を活動させているところに、彼の詩性の本質があったようです。
 
 この歌について斎藤茂吉は次のように言っています。「応詔の歌だから、調べも謹直であるが、ありのままを詠んでいる。しかしありのままを詠んでいるから、大和の山国から海浜に来た人々の、喜ばしく珍しい心持が自然にあらわれるので、強いて心持を出そうなどと意図しても、そう旨くいくものではない。また、特に帝徳を賛美したような口吻もなく、離宮に聞こえてくる海人等の声を主に歌っているのであるが、それでも立派に応詔歌になっている」。

巻第3-265

苦しくも降り来る雨か三輪(みわ)の崎(さき)狭野(さの)の渡りに家もあらなくに

【意味】
 何と鬱陶しいことに雨が降ってきた。三輪の崎の狭野の渡し場に、雨宿りする家もないのに。

【説明】
 何らかの命を帯びて紀伊へ旅した時の歌のようです。「三輪の崎」は、和歌山県新宮市の三輪の崎。「狭野の渡り」は、今の新宮港あたり。なお、「家もあらなくに」の解釈は、最近では「家の者もいないのに」とするのが主流になってきています。『万葉集』に登場する「家」と「宿」の比較研究において、「家」を主語として「居り」「恋ふ」「念ふ」「待つ」などの述語を伴う例が多いことから、「家」は人格的に表現された語であり、家人、家庭とほぼ同じ意味であると考えられ、一方、「家」を建造物そのものと解される例も少なからずあるが、もっぱら「宿」が建造物そのものとして捉えられている、と。その考え方に従えば、この歌は、雨に濡れた衣を乾かしてくれる等あれこれ世話をしてくれる妻のことを思い、さらにその妻と遠く離れていることを実感してうたわれたものと解釈されます。
 
 古来有名な歌であり、斎藤茂吉は、「第2句で『降り来る雨か』と詠嘆して、うったえるような響きを持たせたのにこの歌の中心がある。そして心が順直に表され、無理なく受け容れられるので、古来万葉の秀歌とされた」と述べています。後の藤原定家はこの歌を「本歌取り」し、「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮」という歌を詠んでいます。「本歌取り」というのは、古歌のことばや内容などをそのまま用いることで、古歌が描く世界を自作の歌の背景に採り入れ、二重映しの効果を得る方法で、定家が理論づけ、『新古今集』でもっとも盛んに行われました。しかし、定家のこの歌の本歌取りに対して茂吉は、「意吉麻呂は実地に旅行しているのでこれだけの歌を作り得た。定家の空想的模倣歌などと比較すべき性質のものではない」と手厳しく述べています。

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『万葉集』の歌番号
 『万葉集』の歌に歌番号が付されたのは、明治34~36年にかけて『国歌大観歌集部』(正編)が松下大三郎・渡辺文雄によって編纂されてからです。「正編」には、万葉集・新葉和歌集・二十一代集・歴史歌集・日記草紙歌集・物語歌集を収め、集ごとに歌に番号が付されました。これによって、国文学者らは、いずれの国書にでている和歌なのかをたちどころに知ることができるようになりました。『万葉集』の歌には、1から4516までの番号が付されています。ただ、当時のテキストとなった底本は流布本であり、またそれまでの研究が不十分だったために、一首の長歌を二分して二つの番号を付す誤りや、「或本歌」の取り扱いなどの問題もあり、4516という数字が『万葉集』の歌の正確な総数というわけではありません。しかし、ただ番号を付すというそれだけのことで、その後の国文学研究は大きく進展したのです。 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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斎藤茂吉

斎藤茂吉(1882年~1953年)は大正から昭和前期にかけて活躍した歌人(精神科医でもある)で、近代短歌を確立した人です。高校時代に正岡子規の歌集に接していたく感動、作歌を志し、大学生時代に伊藤佐千夫に弟子入りしました。一方、精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学をはじめ、青山脳病院院長の職に励む傍らで、旺盛な創作活動を行いました。

子規の没後に創刊された短歌雑誌『アララギ』の中心的な推進者となり、編集に尽くしました。また、茂吉の歌集『赤光』は、一躍彼の名を高らかしめました。その後、アララギ派は歌壇の中心的存在となり、『万葉集』の歌を手本として、写実的な歌風を進めました。1938年に刊行された彼の著作『万葉秀歌』上・下は、今もなお版を重ねる名著となっています。


(斎藤茂吉)

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