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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

由縁ある雑歌(巻第16)~その1

巻第16-3786~3787

3786
春さらばかざしにせむと我(あ)が思(おも)ひし桜の花は散り行けるかも
3787
妹(いも)が名にかけたる桜花(さくらばな)散(ち)らば常(つね)にや恋ひむいや年のはに
 

【意味】
〈3786〉春になったら、髪飾りにしようと思っていた、桜の花は散ってしまった。
 
〈3787〉あの子の名のついた桜の花が咲いたなら、いつも恋しさに堪えきれないだろう、年がくるたびに。

【説明】
 悲劇の乙女「桜児(さくらこ)」を歌った歌です。序文には次のような説明があります。

 ―― 昔、一人の娘子(おとめ)がいた。字(あざな)を桜児といった。二人の若者が、共に桜児に結婚を求めたことから、殴り合って死をも恐れぬ争いとなった。それを見た桜児はすすり泣きながら言った。「昔から今に至るまで 一人の女の身で二人の男に嫁ぐなど聞いたことも見たこともありません。もうあの人たちを仲直りさせることはできない。私が死んで二人が傷つけ合うのを止めるしかありません」と。そして林の中に深く分け入り、首を吊って死んでしまった。
 二人の若者は悲しみをこらえきれず、溢れる血の涙を衣の襟に流した。そして、それぞれが思いを述べて歌を作った。――
 
 3786の「春さらば」は、春になったら。「かざしにせむと」は、妻にすることの譬え。「桜」は、桜児の名を掛けており、「散りにけるかも」は、その死を喩えたもの。3787の「名にかけたる」は、名と関係した、名を負い持った。「いや」は、いよいよ。「年のは」は、毎年の意の熟語。

 いずれの歌も、歌だけ読めば叙景の歌のようですが、「題詞」に「由縁」となる物語を記述し、その登場人物の歌を併せて収録している、すなわち「題詞(由縁)」+「歌」で一つの歌物語をなす形になっています。また、『万葉集』にはこの伝説がどこの地のものとは書かれていませんが、畝傍山の東北方にある娘子塚に関係しているといわれます。ただ、ここでは、叙景の歌が先にあって、それに合う物語があとから付加されたのだろうと考えられています。

巻第16について
 「由縁(ゆゑよし)有る雑歌」との題目があり、いわれのあるさまざまな歌が収められています。題詞や左注に作歌事情や縁起が記されており、また格式・形式にとらわれない愉快な歌が多くあります。収録歌数は104首で、巻第1に次いで少なく、第一次の成立時から次々に追補が行われて、最終的に独立した巻となったようです。
 なお、この題目については、ある本に「有由縁幷雑歌」とあり、「有由縁幷せて雑歌」と読む説もあります。後半には由縁を欠く歌が並ぶため、後者の方が巻全体の内容をよく表しているようです。
 また、和歌は和語で歌われるとを原則とし、漢語は排除されているのですが、巻第16は例外で、仏教語などの漢語が意識的に用いられた歌が何首か見られます。
   

巻第16-3788~3790

3788
耳成(みみなし)の池し恨(うら)めし我妹子(わぎもこ)が来つつ潜(かづ)かば水は涸(か)れなむ
3789
あしひきの山縵(やまかづら)の子(こ)今日(けふ)行くと我(わ)れに告(つ)げせば帰り来(こ)ましを
3790
あしひきの玉縵(たまかづら)の子 今日(けふ)のごといづれの隈(くま)を見つつ来(き)にけむ
 

【意味】
〈3788〉耳成山の池が恨めしい。いとしいあの子がやってきて身投げするのだったら、水を涸らしてほしかったのに。
 
〈3789〉山縵の子が、きょう逝ってしまうと私に告げてくれていたなら、急いで帰ってきたのに。
 
〈3790〉山の玉縵の名を持つ彼女は、後を追おうとさまよう今日の私のように、いったいどの曲がり角を見ながらやって来たのだろう。

【説明】
 別にこんな話もあるとして、次のような説明があります。むかし三人の男がいた。同時に一人の乙女に求婚した。乙女は嘆き悲しんでこう言った。「一人の女の身である私は、露のように消えやすいのに 三人の男の心は石のように硬くて和らげることなどできない」。そしてとうとう池のほとりを思い悩んでさまよい、水の底に沈んでしまった。その時、その男たちが激しい悲しみをこらえきれず、それぞれの思いを述べて作った歌三首。[乙女は、字(あざな)を縵児(かずらこ)という]
 
 3788の「耳成の池」は、奈良県橿原市の耳成山の麓にあった池。「涸れなむ」の「なむ」は願望の終助詞。3789の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山縵」は、ヒゲノカズラ。3790の「玉縵」の「玉」は美称。ただし、「あしひきの」の続きから「山」の誤写ではないかとの説があります。

 いずれもいわゆる妻争い伝説の歌で、この二つの伝説に共通しているのは、複数の男性に求婚された女性が自ら命を絶ってしまうという点です。複数の男性に求婚されて自殺してしまう乙女の話は、『万葉集』中、ほかにもあり、真間娘子伝説(巻第9-1807~1808)、菟原処女伝説(巻第9-1809~1811)も同様です。

巻第16-3791~3793

3791
みどり子の 若子髪(わかごかみ)には たらちし 母に抱(むだ)かえ ひむつきの 這児(はふこ)髪には 木綿肩衣(ゆふかたぎぬ) 純裏(ひつら)に縫ひ着(き) 頚(うな)つきの 童髪(わらはがみ)には 結(ゆ)ひ幡(はた)の 袖(そで)つけ衣(ごろも) 着し我(わ)れを 丹(に)よれる 子らがよちには 蜷(みな)の腸(わた) か黒し髪を ま櫛(くし)持ち ここにかき垂(た)れ 取り束(つか)ね 上げても巻きみ 解き乱(みだ)り 童(わらは)になしみ さ丹(に)つかふ 色になつける 紫(むらさき)の 大綾(おほあや)の衣(きぬ) 住吉(すみのゑ)の 遠里小野(とほさとをの)の ま榛(はり)持ち にほほし衣(きぬ)に 高麗錦(こまにしき) 紐(ひも)に縫(ぬ)ひつけ 刺部(さしへ)重部(かさねへ) なみ重ね着て 打麻(うちそ)やし 麻続(をみ)の子ら あり衣(きぬ)の 財(たから)の子らが 打ちし栲(たへ) 延(は)へて織る布 日ざらしの 麻手(あさて)作りを 信巾裳(ひらみ)なす 脛裳(はばき)に取らし 若やぶる 稲置娘子(いなきをとめ)が 妻(つま)どふと 我(わ)れにおこせし 彼方(をちかた)の 二綾下沓(ふたあやしたぐつ) 飛ぶ鳥の 明日香壮士(あすかをとこ)が 長雨(ながめ)禁(さ)へ 縫ひし黒沓(くろぐつ) さし履(は)きて 庭にたたずみ 退(そ)けな立ち 禁娘子(さへをとめ)が ほの聞きて 我れにおこせし 水縹(みはなだ)の 絹の帯(おび)を 引き帯なす 韓帯(からおび)に取らし わたつみの 殿(との)の甍(いらか)に 飛び翔(か)ける すがるのごとき 腰細(こしぼそ)に 取り装(よそ)ほひ まそ鏡 取り並(な)め懸けて おのがなり かへらひ見つつ 春さりて 野辺(のへ)を廻(めぐ)れば おもしろみ 我れを思へか さ野(の)つ鳥 来鳴き翔(かけ)らふ 秋さりて 山辺(やまへ)を行けば なつかしと 我れを思へか 天雲(あまぐも)も 行きたなびく かへり立ち 道を来れば うちひさす 宮女(みやをみな) さす竹の 舎人壮士(とねりをのこ)も 忍ぶらひ かへらひ見つつ 誰(た)が子ぞとや 思はえてある かくのごと せらゆる故(ゆゑ)し いにしへ ささきし我れや はしきやし 今日(けふ)やも子らに いさとや 思はえてある かくのごと せらゆる故し いにしへの 賢(さか)しき人も 後の世の 鑑(かがみ)にせむと 老人(おいびと)を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり
3792
死なばこそ相(あひ)見ずあらめ生きてあらば白髪(しろかみ)子らに生(お)ひずあらめやも
3793
白髪(しろかみ)し子らに生(お)ひなばかくのごと若けむ子らに罵(の)らえかねめや
 

【意味】
〈3791〉私が赤ん坊の産毛髪のころには、上等の布にくるまれてで母に抱かれ、稚児になると木綿のちゃんちゃんこを着せられ、髪を首まで切りそろえた童頭のころには絞り染めの袖つきの着物を着ていた。薄桃色の頬のあなたがたと同じような年頃になると、黒髪を上物の櫛でかいて前に垂らし、取り束ねて巻き上げてみたり、あるいは解き乱してざんばら髪にしたものだ。赤みを帯び心惹かれる紫染めの大綾模様の着物に、住吉の遠里小野の、あの高級な榛の実で染めた上着に、高麗錦の紐を飾りに縫いつけ、その上、刺部や重部を重ねて着飾ったものだ。麻を摘む娘や機織りの娘がこさえた白布、日にさらした真っ白な麻衣を、美しい屋根のように盛り上がり、ひれをなした上着を羽織っていた。若さにあふれ、どんな男も否としてきた稲置娘子が結婚しようと贈ってよこした二色の綾織りの足袋と、明日香の工男がどんな長雨でも平気と縫ってくれた黒靴を履いて娘子の家の庭に立っていると、「去れ、そこに立つな」と家の者が咎めるのを聞いた禁娘子が、こっそりと私に贈ってくれた薄青色の絹の帯を、紐のように韓帯にして、海神の御殿の屋根を飛び回るジガ蜂のように、細腰の格好に装い、その自分を鏡に映して何度もほれぼれしたものだ。春がやってきて野辺を行けば、野の鳥までが近寄ってきて鳴きながら飛び回る。秋になって山辺を行けば、天雲までも私に惚れ込んでなびいてくる始末。帰り道で都大路にさしかかると、女官たちも舎人たちも、ちらちらと振り返って見ては、どこの若様かと思われたものだ。こんなふうにちやほやされて、その昔は時めいていた私が、今となれば、あなたがたのような若い方にどこのじじいかと侮られるなんて。とかく年寄りはこんな目にあうものだから、古き世の賢人は、後の世の鑑とするように、じいさんを捨てに行った車を持ち帰ったとさ、持ち帰ったとさ。
 
〈3792〉若くして死んでしまったならば、こんな目にあわずにすんだのに。でも、生きていれば、白髪はあなたがたにも生えてくるんですよ。

〈3793〉もしも白髪があなた方に生えて来たなら、あなた方だって今の私のように若い子たちから馬鹿にされずにいられるはずはないでしょう。

【説明】
 題詞の説明を要約すると、次のようになります。

 昔、竹取の翁(おきな)と呼ばれる老人がいた。この翁が、春の終わりの3月に、丘に登って遠くを眺めていたところ、たまたま汁物を煮ている9人の乙女らに出会った。溢れんばかりのなまめかしさはたとえようもなく、花のような美しさは比べるものがないほどだ。すると、乙女らが、翁を呼んでからかい半分に言った。「おじいさん、ここに来て焚火の火を吹いてくださいな」。翁は「いいよ」と答え、ゆっくりと近づいて行き、その座に加わった。しばらくすると、乙女らは皆くすくす笑い出し、「誰がこのおじいさんを呼んだの」と互いに責め立てて言った。そこで翁は、「思いもかけず、偶然に仙女の方々にお目にかかり、動揺する心を抑えようがありません。馴れ馴れしく近づいた過ちは 歌を歌ってお許し願いたいと思います」と謝罪した。そして作った歌。
 
 3791の「みどり子」は赤子。「若子」は幼児。「たらちし」は「母」の枕詞。「ひむつき」は語義未詳ながら、くるむ物、背負う帯などのことか。「這児」は這うことのできる稚児。「童髪」は肩のあたりで切り揃えた子供の髪型。「結ひ幡」は絞り染め、くくり染め。「よち」は同じ年頃。「蜷の腸」は「か黒し」の枕詞。「さ丹つかふ」は赤みを帯びている。「紫の大綾の衣」について、紫の着物は最上級の身分の人が着る衣服。大綾は模様の大きさを表し、当時の機織りでは大きな模様を織り出すのはとても困難だったという。「遠里小野」は、大阪市住吉区の地名。「ま榛」は茶色の染料に用いる榛(ハンノキ)。「刺部重部」は、語義未詳。「打麻やし」は「麻続」の枕詞。「麻続の子ら」は麻糸を作る職人。「あり衣の」は「財」の枕詞。「財の子ら」は布を織る職の財部(たからべ)の女性。「稲置娘子」は稲置の姓の乙女。「彼方」は、大阪府富田林市の地名。「二綾下沓」は二色の綾織の足袋。「飛ぶ鳥の」は「明日香」の枕詞。「退けな立ち」は去れ、そこに立つな。「水縹」は淡い藍色。「わたつみ」は海の神。「すがる」はジガバチ。「まそ鏡」は澄んだ鏡。「うちひさす」「さす竹の」はそれぞれ「宮女」「舎人」の枕詞。「舎人壮士」は天皇・皇族の近くに仕え、雑務や警護をする者。「ささしき」は、語義未詳。「はしきやし」は、ああ、あわれの意。「いにしへの賢しき人」のくだりは老子伝にある、父に命じられ、祖父を乗せて捨てに行った手車を持ち帰り、父の時にも使うからといって諫めたという原穀説話のこと。

 3792の「こそ~め」は、逆説条件法。「めやも」は反語。3793の「白髪し」の「し」は強意の助詞。「かくのごと」は、今の私のように。「罵る」は悪口を言う。「や」は反語。

巻第16-3794~3798

3794
はしきやし翁(おきな)の歌におほほしき九(ここの)の子らや感(かま)けて居(を)らむ
3795
恥(はぢ)を忍(しの)び恥を黙(もだ)して事もなく物言はぬ前(さき)に我(わ)れは寄りなむ
3796
否(いな)も諾(を)も欲しきまにまに許すべき顔(かほ)見ゆるかも我(わ)れも寄りなむ
3797
死にも生きも同(おや)じ心と結びてし友や違(たが)はむ我(わ)れも寄りなむ
3798
何すと違(たが)ひは居(を)らむ否も諾(を)も友の(な)並み並み我(わ)れも寄りなむ
 

【意味】
〈3794〉ああ、いとおしいお爺さんの歌に、こんなぼんやりの私たち九人の女子は、ただ聞き惚れていてよいのでしょうか。
 
〈3795〉恥を忍び、恥を黙って何ごともなく、かれこれ物を言う前に、私はお爺さんに従いましょう。
 
〈3796〉否も応もなく、私たちの好きなままにさせてくれそうなお爺さんの顔つき、私もお爺さんに従いましょう。
 
〈3797〉死ぬも生きるもいつも一緒と誓い合った友だから、何で一人異を立てたりしません、私もお爺さんに従いましょう。
 
〈3798〉どうして私が異を立てたりなどしましょう、否も応もみんなと同じ、私もお爺さんに従いましょう。

【説明】
 3792・3793の翁の歌に対し、乙女らが自らの行為を反省して詠んだ歌9首のうちの5首。3794の「はしきやし」は、ああいとおしいの意。「おほほしき」は、はっきりしない、愚かしい意。3795について、「物言はぬ前に(物不言先丹)」が「物を言わない先に」では、日本語として意味をなさない表現であるため、解釈はいろいろ分かれているようです。「寄りなむ」は、任せて従う意。3796の「まにまに」は、~に従っての意。

巻第16-3799~3802

3799
あにもあらじおのが身のから人の子の言(こと)も尽(つく)さじ我(わ)れも寄りなむ
3800
はだすすき穂(ほ)にはな出(い)でそ思ひたる心は知らゆ我(わ)れも寄りなむ
3801
住吉(すみのえ)の岸野(きしの)の榛(はり)ににほふれどにほはぬ我(わ)れやにほひて居(を)らむ
3802
春の野の下草(したくさ)靡(なび)き我(わ)れも寄りにほひ寄りなむ友のまにまに
 

【意味】
〈3799〉決して異など立てはしません。このような私の身で一人前の口をたたくなんて。私もお爺さんに従いましょう。

〈3800〉はだ薄の穂のように表面に出したりなさいますな。お爺さんを思っている皆さんの心はお見通し。私もお爺さんに従いましょう。

〈3801〉あの住吉の岸野の榛で染めようとしても、いっこうに染まらない意地っ張りの私だけど、今回は皆さんと同じ色に染まっていましょう。

〈3802〉春の野の下草が靡くように、私も靡いて、同じ色に染められ身をまかせましょう、皆さんに従って。

【説明】
 3792・3793の翁の歌に対し、乙女らが自らの行為を反省して詠んだ歌9首のうちの4首。3799の「あにもあらじ」の「あに」は、打消・反語を導く副詞。「おのが身のから」の「から」は原因・理由を示す、ゆえ、ための意。3800の「はだすすき」は「穂」の枕詞。「穂に出づ」は、表面に出る。「な出そ」の「な~そ」は、禁止。3801の「住吉」は、大阪市住吉区。「榛」はハンノキ。「にほふ」は、美しく染まる。3802の「まにまに」は、思うままに、に従って。

巻第16-3803

隠(こも)りのみ恋(こ)ふれば苦し山の端(は)ゆ出(い)でくる月の顕(あらは)さばいかに

【意味】
 隠れて恋仲でいるのは辛いのです。山の端から出てくる月のように、そろそろ表沙汰にしてはどうかしら。

【説明】
 題詞に「むかし男と美女がいた。姓名はわからない。両親に告げずに密かに交接した。その美女は二人の仲を親に知らせたくて、歌を作ってその夫に送った」とある歌です。「隠り」は人目を忍ぶ意。「山の端ゆ」の「ゆ」は、動作の起点または通過点。「山の端ゆ出でくる月の」は、「顕す」を導く序詞。なお、左注に、この歌には男の答歌があったともいうが、まだ探し求めることができていない旨の記載があります。

巻第16-3804~3805

3804
かくのみにありけるものを猪名川(ゐながは)の奥(おき)を深めて我(あ)が思(おも)へりける
3805
ぬばたまの黒髪(くろかみ)濡れて沫雪(あわゆき)の降るにや来ます幾許(ここだ)恋ふれば
 

【意味】
〈3804〉こんなにやつれ果てているとも知らず、猪名川の深い川底のように、心の底深く私はそなたのことを思い続けていた。

〈3805〉黒髪も濡れて沫雪が降るのにおいでになったのですか。ひどく私が恋しく思っていたので。

【説明】
 序詞に次のような説明があります。むかし男がいた。結婚早々まだそれほど時が経っていないときに、突然、駅使として遠い国に遣わされることになった。役所の仕事なので自由がなく、いつ逢えるかわからない。妻は深い悲しみに心を痛め、とうとう病の床に臥してしまった。年を重ね、男が帰って来て役所に報告を終え、家に着いて顔を合わせると、妻の容姿はやつれて変わり果てていた。むせび泣いて声も出ない。男は嘆き悲しんで涙を流し、歌を作って口ずさんだ。

 「駅使」というのは、駅馬を利用して情報伝達を行う使者。「猪名川」は、兵庫県東部を流れる川で、ここでは「奥」の枕詞として使われています。夫の出張先は播磨の国だったのでしょうか。そして、帰ってきた夫の歌を、横になりながら聞いた妻が、枕から頭をあげて返歌をしたのが3805です。ただ「雪が降るのにわざわざ来てくれた」と歌っているのが不自然であり、左注に「今考えてみると、この歌は、夫が派遣されてすでに何年も経ってから帰って来たとき、ちょうど雪の降る冬だったので、それで女は沫雪の句を作ったものか」との記述があります。「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。

巻第16-3806

事しあらば小泊瀬山(をはつせやま)の石城(いはき)にも隠(こも)らばともにな思ひ我(わ)が背(せ)

【意味】
 二人の仲を妨げるようなことが起こったら、あの泊瀬山の岩屋に葬られるなら葬られるで、私もずっと一緒にいます。ですから心配なさらないで、あなた。

【説明】
 左注に「この歌には言い伝えがある」として次のような説明があります。あるとき娘子がいた。父母に知らせず、ひそかに男と交わった。男は女の両親の怒りを恐れ、だんだん弱気になってきた。そこで娘子はこの歌を作って男に贈り与えたという。
 
 「事しあらば」は、二人の結婚に何かの障害が起こったら。「小泊瀬山」の「小」は美称で、奈良県桜井市初瀬にある山。「泊瀬」は葬地として知られていて、泊瀬山は共同墓地となっていました。「石城」は、墓のこと。石城に葬られるのは、しかるべき身分の者に限られていたといいます。「な思ひ」の「な」は、禁止。

 いわば「偕老洞穴」の誓いの歌ですが、常陸風土記に「こちたけば小泊瀬山の石城にも率て隠らなむ恋ひそ吾妹」という、男が女に言った歌が載っており、また、巻第4-506に安倍女郎による「我が背子は物な念ほし事しあらば火にも水にも我がなけなくに」という歌があり、広く流行していた類の歌とみられます。

巻第16-3807

安積山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を我(わ)が思はなくに

【意味】
 安積山の姿をも映す澄んだ山の泉、その安積山の泉のような浅い思いで私は慕っているのではないのです。

【説明】
 この歌には次のような言い伝えがあります。葛城王(かずらきのおおきみ、のちの橘諸兄)が陸奥国に派遣せされた時、国司の接待の方法があまりにもいい加減だった。王は不快に思って怒りを顔にあらわし、せっかくのご馳走にも手をつけない。その時、かつて采女(うねめ)を務めていた女性がそばに仕えていて、左手に盃を捧げ、右手に水を入れた瓶を持ち、その水瓶で王の膝をたたいてこの歌を詠唱した。それで王はすっかり機嫌がよくなり、終日酒を飲んで楽しく過ごしたという。

 つまり、官官接待において、陸奥国の官人の接待があまりに田舎くさかったために、中央官人である葛城王が腹を立て、その窮地を救ったのが、宮廷ふうの雅を会得していた元采女だったというわけです。「采女」は、天皇のそばで日常の雑務に奉仕した女官のことで、地方豪族の子女の中から容姿端麗な者が選ばれました。葛城王の初叙位は和銅3年(710年)、臣籍降下は天平8年(736年)なので、陸奥に下向したのはその間のいずれかの時期ということになります。当時の陸奥は蝦夷の反乱のために軍事体制が敷かれており、養老6年(722年)には、陸奥の民の負担軽減のため、陸奥出身の采女を本国へ帰らせる措置がとられています。
 
 この元采女の動作がどのようなものであったかは判然としませんが、その動作のあとにこの歌を詠んだという一連の行為は、風流を解する王を満足させるに十分な「わざ」だったか、あるいは舞の所作だったのかもしれません。水瓶で王の膝をたたいたというのもかなり大胆な行為で、単なる媚態とも思えませんが、如何。「安積山」は、福島県郡山市北部の山とされます。「影さへ見ゆる」は、影まで映っている。「山の井」は、湧き水によって山中にできた泉。上2句が「浅き」を導く序詞。
 
 この歌は『古今集』の序に「歌の母」として掲げられており、和歌を習う人が最初に習ったとされる歌です。葛城王に酒を捧げながらこの歌を奉った女性は、宮中の雅を会得しており、即座に和歌を詠むこともできたとはいうものの、いわば田舎出身の女官の作が、歌の「母」として採り上げられていることには驚きます。まさに日本人が「和歌の前に平等」との原理を受け継いできた所以であるといえましょう。
 
 また、特に秀歌とはいえないこの歌が古代において別格の尊敬を受けていた理由について、渡部昇一氏は、「われわれの先祖は、今日とは違った和歌の評価の仕方を持っていた」として、次のように説明しています。「今日では、和歌を評価するとき、主として美的見地からのみ見る。美的感興を起こさせるものであれば、いい和歌である。ところが昔の人には言霊という信仰があるから、いい歌とはその結果がよかったという歌になるのである。文学の評価法が結果論的であるというのはおそらく日本独特の方法といってもよいかもしれないが、それは純粋に文学というよりは、呪術的・宗教的要素を含む文学様式だからであろう」

 なお、2008年5月に、聖武天皇の紫香楽宮跡からこの歌と同じ歌が書かれた木簡の一部が見つかったと発表され、話題になりました。木簡は天平16~17年初頭くらいまでのものなので、『万葉集』が編纂された時期よりも早かったことになります。歌を木簡に書いた人は『万葉集』を見ていたのではなく、何かからこの歌を知ったのであり、ある程度流布していたことが窺えます。

巻第16-3808

住吉(すみのえ)の小集楽(をづめ)に出でてうつつにもおの妻(づま)すらを鏡と見つも

【意味】
 妻と二人で住吉の歌垣の集まりに出てみたが、自分の妻ながら、夢ではなくまざまざと、鏡のように光り輝いて見えた。

【説明】
 この歌には次のような注釈があります。昔、ある田舎者がいた。姓名はわからない。ある時、村の男女が大勢集まって野で歌垣を催した。この集まりの中にその田舎者の夫婦がいた。妻の容姿は大勢の中で際立って美しかった。そのことに気づいたこの夫はいっそう妻を愛する気持ちが高まり、この歌を作って美貌を讃嘆した。
 
 「小集楽」の「小」は親しんで呼ぶ接頭語で、「集楽」は橋のたもと。歌垣は橋のたもとで行われることが多かったため、「小集楽に出でて」は、歌垣に参加することを意味します。住吉の歌垣は有名だったようです。歌垣は、もともとは豊作を祈る行事で、春秋の決まった日に男女が集まり、歌舞や飲食に興じた後、性の解放が許されました。昔の日本人は性に関してはかなり奔放で、独身者ばかりではなく、夫婦で歌垣に参加して楽しんでいたようです。

巻第16-3809

商返(あきかへ)しめすとの御法(みのり)あらばこそ我(あ)が下衣(したごろも)返し給(たま)はめ

【意味】
 契約を反古にしてもかまわないという法令があるのでしたら、私がさしあげた形見の下着をお返し下さるのも分かりますが・・・。

【説明】
 左注に「この歌には言い伝えがある」として、次のような説明があります。あるとき、幸(うるわしみ)せらえし(寵愛を受けた)娘子がいた。姓名はわからない。その寵愛が薄らいだのち、差しあげた形見を返してこられた。そこで娘子は恨みに思ってこの歌を作って献上した。「幸」は天皇から寵愛を受けたことを表す語で、相手の男は天皇かそれに近い身分の人だったとみえます。

 「商返し」は、商取引を反故にして、商品を返却したり代価を取り返したりすることで、法令で禁じられていたようです。「めす」は、法令として施行する意。「下衣」は、愛情の証の形見として交換した肌着。
 
 恋人同士で交わされた形見、とりわけ衣のような品は、二人の関係が絶えると相手に送り返したようです。そうした品にはお互いの魂が宿っているので、それをいつまでも手許に留めておくのは許されないとされていたとみられます。

巻第16-3810

味飯(うまいひ)を水に醸(か)みなし我(わ)が待ちし効(かひ)はさね無し直(ただ)にしあらねば

【意味】
 おいしいご飯を醸(かも)してお酒をつくって待っていましたが、全く甲斐がありませんでした。あなたが直接来るわけではないので。

【説明】
 夫を恨む女の歌。左注に「この歌には言い伝えがある」として、次のような説明があります。「昔、娘子がいた。夫と別れ別れになって恋い続けながら何年かが過ぎたとき、夫は他の女を妻にして、本人は逢いに来ず、ただ贈りものだけをよこしてきた。そこで娘子はこの恨みの歌を作って、返事として送ったという」

 「味飯」は、味のよい飯。「水に醸みなし」の「水」は酒で、酒を醸造して。もっとも原始的な酒の製法は「口醸み」とされ、水に漬して柔らかくした米を口でよく噛み、唾液の作用で糖化させ、容器に吐き入れたものを、空気中の酵母によって発酵させていたことから、このように言っています。「効」は、効果。「さね無し」は、少しもない。「直に」は、直接に。酒は元来、祓い清め祝福して作られるものでしたが、ここではせっかく用意した待酒が無駄となり、人の心の澱(おり)を貯めた酒となっています。

巻第16-3811~3813

3811
さ丹(に)つらふ 君がみ言(こと)と 玉梓(たまづさ)の 使(つか)ひも来(こ)ねば 思ひ病(や)む 我(あ)が身ひとつそ ちはやぶる 神にもな負(お)ほせ 占部(うらへ)すゑ 亀(かめ)もな焼きそ 恋ひしくに 痛き我(あ)が身そ いちしろく 身にしみ通り むら肝(きも)の 心(こころ)砕(くだ)けて 死なむ命(いのち) にはかになりぬ 今さらに 君か我(わ)を呼ぶ たらちねの 母の命(みこと)か 百(もも)足(た)らず 八十(やそ)の衢(ちまた)に 夕占(ゆふけ)にも 占(うら)にもそ問ふ 死ぬべき我(わ)がゆゑ
3812
占部(うらへ)をも八十(やそ)の衢(ちまた)も占(うら)問(と)へど君を相(あひ)見むたどき知らずも
3813
我(わ)が命(いのち)は惜(を)しくもあらずさ丹(に)つらふ君によりてぞ長く欲(ほ)りせし
 

【意味】
〈3811〉あなたの言葉を伝える使いもやって来ないので、嘆いて病んでいる我が身です。この病を神のせいにしないで下さい。占い師に頼んで亀の甲を焼いたりしないで下さい。あなたを恋しく思って病んでいる我が身なのです。恋しさがはっきりと身に染みとおり、心も砕け失せて、今にも死にそうな命になってきました。今さら、あなたなのか、私の名をお呼びなのは、それとも母上なのか。道の寄り集まる辻に立って、どなたかが夕占いをする声なのかな、死んでゆく私のために。

〈3812〉占い師に頼んだり、道の寄り集まる辻で占いをしたところで、あの方に逢える手だてなど知られない。

〈3813〉私の命など惜しくありません。ただ美しいあなたゆえに長く生きたいと思うのです。

【説明】
 題詞に「夫(せ)の君に恋ふる歌」とあり、左注に次のような説明があります。「右の歌には言い伝えがある。あるとき娘子がいた。姓は車持氏であった。その夫は久しく通って来なかった。娘子は恋しく思うあまり心を痛め、病の床に臥せってしまった。日増しに体は痩せ衰え、間もなく死に瀕する状態になった。そこで使いを遣って夫を来させた。娘子はすすり泣き、涙を流しながらこの歌を口ずさんでそのまま亡くなったという」
 
 3811の「さ丹つらふ」は、つややかな、の意で「君」の枕詞。「玉梓の」は「使ひ」の枕詞。「ちはやぶる」は「神」の枕詞。「占部」は、占いをする人。「いちしろく」は、著しく、はっきりと。「むら肝の」は「心」の枕詞。「たらちねの」は「母」の枕詞。「百足らず」は「八十」の枕詞。「八十の衢」の「八十」は、数の多いこと、「衢」は、辻。「夕占」は、夕方、辻に立って、通行人の物言いによって吉凶を占うこと。3812の「たどき」は、手段、手がかり。3813は「或る本の反歌に曰く」とある歌です。

巻第16-3814~3815

3814
白玉(しらたま)は緒絶(をだ)えしにきと聞きしゆゑにその緒(を)また貫(ぬ)き我(わ)が玉にせむ
3815
白玉(しらたま)の緒絶(をだ)えはまこと然(しか)れどもその緒(を)また貫(ぬ)き人持ち去(い)にけり
 

【意味】
〈3814〉あなたの大切な真珠の緒が切れてしまったと聞きましたので、私が再び緒を通して、私の宝にいたしましょう。

〈3815〉真珠の紐が切れたというのは本当です。でも、別の人が再び緒を通して、持っておいでになりました。

【説明】
 左注に「この歌には言い伝えがある」として、次のような説明があります。あるとき娘子がいた。夫に棄てられ、あらためて他家の男に嫁いだ。そのとき別のある男がいて、娘子が再婚したのを知らずにこの歌(3814)を贈り届け、女の父母に結婚を申し込んだ。女の両親は、男がまだ詳しい事情を聞いていないのだなと思って、この歌(3815)を作って送り返し、女が再婚したことを明らかにしたという。

 3814の「白玉」は真珠で、娘子の譬え。「緒絶え」は、真珠に通していた緒が切れることで、夫婦関係が切れた譬え。「我が玉にせむ」は、わが妻にしようの譬喩。3815の「人」は、他の男。

 窪田空穂は、3814について「求婚の歌としては情熱のない事務的な言い方であるが、これはその親に申込んだものであり、親しい間柄などの関係からであろう。言い方のやすらかで、洗練されているのは、双方身分ある者だったからであろう」、また3815について、「実用性の歌で、それにふさわしく、気分を現わさず、平坦に、行き届いた言い方をしている」と述べています。

巻第16-3816

家に有る櫃(ひつ)に鏁(かぎ)刺し収(おさ)めてし恋の奴(やつこ)がつかみかかりて

【意味】
 家にある櫃に鍵をかけ、しまい込んでいたはずの、あの面倒な恋の奴めがつかみかかって来て。

【説明】
 穂積皇子(ほづみのみこ)の歌。左注に、宴会が盛り上がってきたときに、好んでこの歌を詠み、お定まりの座興となさった、とあります。一説によれば、穂積皇子は「つかみかかりて」と歌いながら、宴席に侍って酒を勧める女性に不意に抱きついて驚かせ、場の座興にしていたのだろうとも言われています。「櫃」は、蓋のついている木箱。「恋の奴」の「奴」は賤民身分の男の使用人のことで、ここでは自分を苦しめる「恋」を擬人化しています。当時かなり流行った言葉らしく、幾つかの歌にも用いられています。穂積皇子は、若いころの但馬皇女(たじまのひめみこ)との恋愛で有名な人ですが、不幸にみちた愛への懊悩からか、その後の皇子は恋をすることはなかったといいます。初老のころに若い坂上郎女をめとりますが、寵愛こそすれ、恋はしなかったのかもしれません。

 この歌を宴会で必ずうたっていたということは、自作の歌ではなく、当時流行っていた歌だったのかもしれません。

巻第16-3817~3818

3817
かるうすは田廬(たぶせ)の本(もと)に我(わ)が背子(せこ)はにふぶに笑(ゑ)みて立ちませり見ゆ
3818
朝霞(あさがすみ)鹿火屋(かひや)が下(した)の鳴くかはづ偲(しの)ひつつありと告げむ子もがも
 

【意味】
〈3817〉二人で搗(つ)く韓臼(からうす)は田圃の伏屋の中にあると、私の愛しいあなたがにこにこと嬉しそうに立っていらっしゃる。

〈3818〉鹿追い小屋の陰で鳴くカジカガエルの美しい声に惹かれるように、お慕いしていますと言ってくれる娘子がいたらなあ。

【説明】
 左注に「河村王(かわむらのおおきみ)が、宴席で琴を弾きながら、まずこの歌を口ずさむのをお決まりの芸としていた」旨の記載があります。3817の「かるうす」は、韓臼か、あるいは意味未詳の枕詞と見て、単に「田圃の伏屋のそばに、私の愛しいあなたがにこにこと嬉しそうに立っていらっしゃる」と解するものもあります。「にふぶに」は、にこやかに。3818の「朝霞」は、掛かり方未詳ながら「鹿火屋」の枕詞。上3句は「偲ひ」を導く序詞。「鹿火屋」は、田畑を荒らす鹿猪を追うための火を焚く小屋。「もがも」は、願望。

巻第16-3819~3820

3819
夕立(ゆふだち)の雨うち降れば春日野(かすがの)の尾花(をばな)が末(うれ)の白露(しらつゆ)思ほゆ
3820
夕(ゆふ)づく日さすや川辺(かはへ)に作る屋(や)の形(かた)をよろしみうべ寄(よ)そりけり
 

【意味】
〈3819〉夕立の雨が降ると、春日野の尾花の先につく白露が思い出される。

〈3820〉夕日が射している、川のほとりに造ってあるこの家の形がよいので、なるほど人が引き寄せられて来ることだ。

【説明】
 左注に「小鯛王(こだいのおおきみ)が、宴席で琴を手にすると、いつもすぐにこの歌を吟唱していた」とある歌。小鯛王は系譜未詳ながら、同じく左注に「またの名は、置始多久美(おきそめのたくみ)、この人なり」とあるので、臣籍に下った人。奈良朝風流侍従の一人、置始工と同一人物とみられます。
 
 3819の「春日野」は、奈良市の春日山の裾野一帯。「尾花が末」は、ススキの穂先。3820の「夕づく日」は、夕日。「うべ」は、なるほど、もっともなことに。3819の穂積皇子の歌の左注にもあったように、いろいろな人が宴会のときのお家芸として歌をうたっていた様子が窺えます。

巻第16-3821

うましものいづく飽(あ)かじを坂門(さかと)らが角(つの)のふくれにしぐひ合ひにけむ

【意味】
 美しい女だったらどんな相手だって結婚できるのに、坂門の娘は、よりによって角の太っちょ男なんかと情交を通じるなんて。

【説明】
 題詞に「児部女王(こべのおほきみ)が嗤(わら)ふ歌」とあります。左注に説明があり、「あるとき娘子がいた。姓は坂門氏で、この娘子は、高い身分の家の美男子の求婚を断り、卑しい家の醜男の求婚を受け入れた。そこで、児部女王はこの歌を作ってその愚かさを嘲笑した」

 「うましもの」は、美しく立派なもの。「角」は、相手の男の氏かとされます。「ふくれ」はふくらんだもの。「しぐい合ふ」の語義未詳ながら、男女がくっつき合う、交わるなどの意ではないかとされます。

巻第16-3822

橘(たちばな)の寺の長屋(ながや)に我(わ)が率寝(ゐね)し童女放髪(うなゐはなり)は髪(かみ)上げつらむか

【意味】
 橘寺の僧坊長屋に私が連れ込んで寝たおかっぱ頭の少女は、もう一人前の女になって、髪を結い上げたであろうか。

【説明】
 「古歌に曰はく」とある歌。「橘の寺」は、明日香にあった橘寺のことで、聖徳太子建立の七ケ寺の一つとされます。「長屋」は、僧坊長屋で、寺の奴婢などの住居。「童女放髪」は、肩のあたりで切ったお下げ髪。「髪上げ」は、成人した女が、垂らした髪を結い上げること。「つらむか」は、しているだろうか。要は「昔、俺が連れ込んでヤッちゃった少女は、もう大人になっただろうか」という、まことにもってケシカランことを言っている歌です。
 
 なお、この歌の左注に椎野連長年(しいののむらじながとし:伝未詳)による解説があり、そもそも寺の建物は俗人の寝られるところではない、また、成人した女を「放髪」というのであって、第4句で放髪と言い、結句で重ねて成人をあらわす語を言うのでは意味が通らないとしています。そして、正しくは、

〈3823〉橘の照れる長屋に我が率寝し童女 放髪に髪上げつらむか
 
だと定めています。「橘の寺の長屋」を、橘寺ではなく橘が照り映える長屋とし、「童女放髪」を「童女」と「放髪」の2語と見て改めていますが、これは曲解による改悪であるとする見方があります。そもそも僧坊と少女という、あってはならない取り合わせだからこそ刺激的であり、歌に生彩が与えられているのであって、長年が修正した歌では、面白味が全く消滅しています。しかも、元歌には「橘の寺」と明示しているのです。

 作家の田辺聖子は、「お下げ髪の童女と若い僧であろうか、それとも寺に使われる堂童子でもあろうか、相手がうない髪の童女だけに卑猥感はなく、『我が率寝し』は強引に力ずくで迫ったのではない、童女が誘われて諾(うん)といって、ついてきたのである。・・・それらの思い出が『童女放髪は髪上げつらむか』という懐かしさになって唇にのぼってきたのだ。この歌を好んで伝えた庶民も、僧院の情事に低俗な好奇心を持ったというより、大らかな性愛に共感し、寛大になる、その心持を愛したのであろう」と述べています。
 
 ところで、この寺には、寄宿している僧や召使のための私的な部屋を集合した施設があったことが窺えます。あたかも江戸時代の長屋に似た居住形態のようで、寺に特有の施設だったかもしれませんが、狭い土地に大人数が住むために工夫されたものであれば、寺以外でも設けられていた可能性があります。

巻第16-3824~3827

3824
さし鍋(なべ)に湯(ゆ)沸かせ子ども櫟津(いちいつ)の檜橋(ひばし)より来(こ)む狐(きつね)に浴(あ)むさむ
3825
食薦(すごも)敷(し)き青菜(あをな)煮(に)て来(こ)む梁(うつばり)に行騰(むかばき)懸(か)けて休むこの君
3826
蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの意吉麻呂(おきまろ)が家なるものは芋(うも)の葉にあらし
3827
一二(いちに)の目のみにはあらず五六三四(ごろくさむし)さへありけり双六(すごろく)のさえ
 

【意味】
〈3824〉さし鍋に熱い湯を沸かしてくれ者ども。櫟津の檜橋からこんこん鳴いてやって来るキツネのやつに浴びせてやろう。

〈3825〉食薦(すごも)を敷いて青菜を煮て持って来なさい。屋敷の棟木に、行騰(むかばき)を解いてひっかけて休んでおられるこの方に

〈3826〉蓮の葉というのは、まあ何とこんな立派な形をしているのか。してみると、この意吉麻呂の家に生えているのは、どうやら芋の葉だな。
 
〈3827〉一二の目だけでなく、五、六に加え、三、四の目さえあるのだからな、双六のサイコロには。

【説明】
 作者の長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)は、柿本人麻呂と同時代の人ながら、生没年未詳。

 3824は、左注に、この一首には言い伝えがあり、あるとき大勢が集まって酒宴を開いた。時刻は夜半となり、折しも狐の声が聞こえた。そこで人々は興麻呂をけしかけて言うには、「これらの食器、雑器、狐の声、橋などのものにひっかけて何か歌を作れ」というので、すぐにこの歌を作った、とあります。「さし鍋」は、つぎ口と柄のついた鍋。「櫟津」は地名で、奈良県大和郡山市または天理市のあたり。中に櫃(ひつ)の音が含まれています。「檜橋」は、檜(ひのき)で作った橋。「来む」は、狐の声のコンにあたります。
 
 3825は「行騰(むかばき)、蔓菁(あおな)、食薦(すごも)、屋樑(うつはり)を詠む」歌。「行騰」は、乗馬のときに腰から下を覆う毛皮。「食薦」は、食卓に料理を置くための敷物。「屋樑」は、家の柱に懸け渡す梁。3826は「蓮の葉を詠む」歌。この時代の宴席では、「蓮葉」は、食器としても用いられましたが、ここでは宴席の美女のこととして言っており、「芋の葉にあらし」は、自分の妻をおとしめています。「芋」は里芋。「あらし」は、あるらし。きっと~だろう。

 3827は「双六(すごろく)の賽(さい)の目を詠む」歌。双六は、万葉人も夢中になった遊びの一つです。白黒それぞれ12個の石を、2つのさいころを投げて出た数に応じて敵方に進めます。双六はもともとはインドが発祥地で、中国を経由して日本に伝わってきました。ところが、『日本書紀』には、持統天皇の時代の689年に双六を禁止したという記述があり、698年にも禁止令が出されていて、その熱狂ぶりは尋常ではなかったようです。この歌は、人間の目が2つであるのに対して、いくつもの目を出すさいころを面白がって歌っています。「双六のさえ」の「さえ」は、さいころ。

巻第16-3828~3831

3828
香(かう)塗(ぬ)れる塔(たふ)にな寄りそ川隈(かはくま)の屎鮒(くそぶな)食(は)めるいたき女奴(めやつこ)
3829
醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗(つ)きかてて鯛(たひ)願(ねが)ふ我(わ)れにな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)
3830
玉掃(たまはばき)刈(か)り来(こ)鎌麻呂(かままろ)むろの木と棗(なつめ)が本(もと)とかき掃(は)かむため
3831
池神(いけがみ)の力士舞(りきしまひ)かも白鷺(しらさぎ)の桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて飛び渡(わた)るらむ
   

【意味】
〈3828〉香を塗ったきれいな塔に近寄ってはならん。川隅にいる糞鮒(くそふな)を食っている汚い女奴よ。
 
〈3829〉醤(ひしお)や酢にニンニクをつきまぜたタレに、鯛を漬けたのを食べたい私に、見せてくれるな、粗末な水葱(なぎ)の吸い物を。

〈3830〉箒(ほうき)にするための玉掃(たまはばき)を刈って持ってきてくれ、鎌麻呂よ。むろとなつめの木の下を掃除するから。

〈3831〉池の神が演じる力士舞なのだろうか。白鷺が桙を持つように枝をくわえて飛んでいくよ。

【説明】
 長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌。3828は「香、塔、厠(かわや)、屎(くそ)、鮒(ふな)、奴(やつこ)を詠む」歌。「香塗れる塔」は、邪気を払い清浄にするため香木の粉末を塗っている塔。香を塗った仏塔。「な寄りそ」の「な~そ」は、禁止。「川隅」は、厠の屎が停滞する場所。当時の厠は川の上にあり、川に流れた屎が、川が曲がっている隅に停滞したのです。「屎鮒」は、その屎を食っているとして、鮒を卑しめた語。「いたき」は、甚だしい、ひどい。「女奴」は下女。

 3829は「酢、醬(ひしお)、蒜(ひる)、鯛(たい)、水葱(なぎ)を詠む」歌。「醬」は、大豆と麦を混ぜて麹にしたものに塩水を加え貯蔵して作る調味料。当時は、酢も醬も高級なものだったといいます。「蒜」はニンニク、野蒜(のびる)などネギの一種。「な見えそ」の「な~そ」は禁止。「水葱」は、ミズアオイで、安価な食材。「羹」は、野菜や肉などを煮込んだ吸物。美食への憧れをユーモアたっぷりに詠んでいます。

 3830は「玉掃(たまはばき)、鎌(かま)、天木香(むろのき)、棗(なつめ)を詠む」歌。「玉掃」の「玉」は美称で、箒(ほうき)にする葦。「鎌麻呂」は、人名とする説と鎌を擬人化したものとする説があります。「むろの木」は杜松(ねず)の古名で、ヒノキ科の針葉樹。「棗」はクロウメモドキ科の落葉小高木。

 3831は「白鷺が木をくわえて飛ぶのを詠む」歌。「池神」は、池の神のほか、地名や寺の名とする説もあります。「力士舞」は、日本最初の舞楽である伎楽の一つで、仏教と共に伝わったことから仏教儀式に不可欠なものとされ、奈良時代の大仏開眼供養でも上演されました。内容は、美女を追う怪物を金剛力士が討つ様子を演じるもので、力士が怪物のマラ形(男根)を桙で落とし、それを桙に縛りつけて舞います。この歌は、その様子を白鷺が枝をくわえて飛ぶ様に見立てています。

巻第16-3832~3833

3832
からたちの茨(うばら)刈(か)り除(そ)け倉(くら)建てむ屎(くそ)遠くまれ櫛(くし)造る刀自(とじ)
3833
虎(とら)に乗り古屋(ふるや)を越えて青淵(あをふち)に蛟龍(みつち)捕(と)り来(こ)む剣太刀(つるぎたち)もが
 

【意味】
〈3832〉カラタチの茨を刈り取って倉を建てよう。屎は遠くでやってくれ、櫛作りのおばさんよ。
 
〈3833〉虎に乗って古屋を飛び越えて、青淵に棲む蛟龍(みづち)を生け捕りできる、そんな剣太刀がほしいものよ。

【説明】
 3832は、忌部首(いむべのおびと)が数種の物を詠んだ歌。「名は忘失した」との注記がありますが、3848の忌部首黒麻呂(いむべのおびとくろまろ)と同一人とされます。天平宝字2年に従五位下。「茨」は、とげのある小木の総称。「まれ」は、大小便をすること。「刀自」は、主婦に対しての敬称。

 3833は、境部王(さかいべのおおきみ)が数種の物を詠んだ歌。境部王は穂積親王の子とあります。どうやら恐ろしいものを取り合わせた歌のようですが、「虎」は日本にはいませんから、大陸伝来の絵図などから想像したのでしょう。古屋がなぜ恐ろしいのか疑問に思いますが、昔は、人が住まない古屋や廃屋には鬼が住むとして忌避され、「虎や狼より古屋の雨漏りのほうが怖い」という諺もあったほどです。虎も古屋の雨漏りを恐れるとされていたようです。「青淵」は深く水をたたえて青く見える淵。「蛟龍」は、水の霊で竜に似た想像上の動物。「蛟」は蛇に似て4本足だといいます。

巻第16-3834

梨(なし)棗(なつめ)黍(きみ)に粟(あは)つぎ延(は)ふ葛(くず)の後(のち)も逢はむと葵(あふひ)花咲く

【意味】
 梨(なし)、棗(なつめ)、黍(きび)に続いて粟(あわ)が実り、それからまた、延び続ける葛(くず)のようにその後も逢いたいと、葵(あおい)の花が咲いている。

【説明】
 作者未詳歌。「延ふ葛の」は、這う葛が別れてもまた逢う意で「後も逢はむ」の枕詞。「葵(あふひ)」は「逢ふ日」を掛けています。

巻第16-3835

勝間田(かつまた)の池は我(わ)れ知る蓮(はちす)なししか言ふ君が鬚(ひげ)なきごとし

【意味】
 勝間田の池は私はよく知っておりますが、蓮(はす)はありません。蓮があるとおっしゃるあなたに髭がないのと同じです。

【説明】
 左注に次のような記載があります。人が聞いて言うには、新田部親王(にいたべのみこ)が、都の中にお出ましになり、勝間田の池をご覧になって深く感動なさった。その池から戻っても、喜びを隠しておけなかった。そこで、傍らの婦人に語って言うには、「今日遊びに出て、勝間田の池を見ると、水の影は波に揺れ動き、蓮の花が盛りとばかりに咲いていた。その素晴らしさは腸(はらわた)を断つばかりで、とても言葉にできないほどだった」。すると婦人が、この戯れの歌を作って口ずさんだという。

 新田部親王は、天武天皇の第七皇子。第三皇子の舎人親王(とねりのみこ)と並び、朝廷で重きをなした人。「勝間田の池」は所在未詳ながら、唐招提寺、薬師寺近傍にあった池とされます。「婦人」は、親王の寵愛を受けていた愛人とみられ、当時の一人前の男が当たり前に蓄えている髭が親王にないのをからかっています。さらに「蓮(れん)」には同音の「恋」が掛けられており、「蓮なし」には「私への愛情が近ごろはめっきり薄いではありませんか」との、媚態とも訴えともとれる意味が込められています。親王の身体的欠陥をあげつらった悪口の歌ではありますが、親王は苦笑するより他なかったかもしれません。
 
 しかしながら、悪口の歌であるにせよ、こうした高度な文芸的表現を織り交ぜて社交の具としても用いられている歌には、天平期の爛熟した宮廷文化が大いに窺えるところです。

巻第16-3836

奈良山(ならやま)の児手柏(このてがしは)の両面(ふたおも)にかにもかくにも侫人(こびひと)の伴(とも) 

【意味】
 奈良山の児の手柏のように、表と裏の顔を、その場次第で使い分けては、巧みにへつらってばかりいる輩よ。

【説明】
 題詞に「佞人(こびひと)を謗(そし)る歌」とあり、左注に「博士の消奈行文大夫(せなのゆきふみのまえつきみ)が作る」とあります。「佞人」は、へつらい人、おべっか使いのこと。「児手柏」は、ヒノキ科の常緑樹で、直立する掌形の葉の表裏が区別できないところから、二心ある者の譬え。上2句は「両面」を導く序詞。「かにもかくにも」は、ああにもこうにも、その場次第のことをする。「侫人」は様々な訓みがあって定まらず、「へつらひびと」「かだひと」「ねじけびと」などとも訓まれます。

 作者の消奈行文は渡来人の名族であり、優秀な学者として朝廷の大学寮に仕えた人です。官人のなかに媚びへつらいばかりする人がいるのを謗った歌とされますが、一方で、武蔵国から来た行文が都人とうまく意思疎通ができなくてこのような歌を作ったのか、あるいは、謗っているのは「佞人」ではなく「倭人」を指しているのではないかとする見方もあります。『西本願寺萬葉集』では「俀人」と表記されており、中国の『隋書』で「俀」の文字を「倭」の別体としていることによります。

 作家の田辺聖子は、この歌について次のように評しています。「いかにもブツブツと一人腹を立ててつぶやくようなリズムがおかしい。いや、それはこちらが思うだけで、本人はおかしいどころではなく、大まじめである。学者の世界にも政治感覚のある人、処世術に長けた人、さまざまあろうが、また学者馬鹿というような、学問以外には無頓着で、無垢な人柄の先生もいるに違いない。そういう人から見ると、フタオモテで、口のうまい人は、唾棄すべき奸佞人(かんねいじん)とみえたであろう。大まじめに腹を立てているところが、何となくユーモラスで、『万葉集』のふところの深いゆえんである」

巻第16-3837

ひさかたの雨も降らぬか蓮葉(はちすば)に溜(た)まれる水の玉に似(に)たる見む 

【意味】
 久々に雨でも降ってくれないかな。蓮の葉に溜まった水が、玉のようになるのを見たいから。

【説明】
 右兵衛(うひょうえ:禁中の警備や行幸の供奉を掌る役所)に属する人が、あるとき、酒食を用意して府の役人たちをもてなすことがあり、料理はすべて蓮の葉に盛りつけていて、酒宴が進むうち、「その蓮の葉に懸けて歌を作れ」と言われて、即座に作ったという歌。「ひさかたの」は、ここでは「雨」の枕詞。ごく普通の歌ながら、これを詠んだ際の機知を愛されて伝えられた歌のようです。

巻第16-3838~3839

3838
我妹子(わぎもこ)が額(ひたひ)に生(お)ふる双六(すごろく)の特負(ことひ)の牛の鞍(くら)の上の瘡(かさ)
3839
我(わ)が背子(せこ)が犢鼻(たふさき)にするつぶれ石の吉野の山に氷魚(ひを)ぞ下がれる
 

【意味】
〈3838〉うちの女房のおでこに生えている、双六の、牡牛の鞍のできもの。

〈3839〉うちの亭主がふんどし代わりにする丸石の転がっている吉野の山に、氷魚がぶら下がっている。

【説明】
 題詞に「無心所著(むしんしょじゃく)の歌」とあり、「心の著(つ)く所無き歌」、心が依り憑かない歌、つまり意味のつけようがない歌のことです。左注に説明があり、舎人親王(とねりのみこ)が侍者らに、「もし意味のつながらない歌を作る者がいたら、銭や絹布をほうびに与えよう」とお命じになった。そこで大舎人(おおとねり)の安倍朝臣子祖父(あべのあそみこおおじ)がこの歌を作って献上した。親王は皆から集めたものと銭二千文をお与えになった、とあります。舎人親王は天武天皇の第三皇子。大舎人は天皇の側近。安倍朝臣子祖父は伝未詳。

 この2首は、意味不明ながらも、男女がそれぞれ相手の容姿をからかったものとして詠まれているようです。3838の「特負の牛」は、力の強い牡牛。「瘡」は、できもの、はれもの。3839の「犢鼻」は、ふんどし。「つぶれ石」は、丸い石。「氷魚」は、アユの稚魚。とくに「氷魚ぞ下がれる」は、男の性器の小さいことを言っているのだいいます。「鮎の稚魚がぶら下がってる」って。

 巻第16を高く評価する正岡子規は、「この歌は理屈の合わぬ無茶苦茶な事をわざと詠めるなり。馬鹿げたれど馬鹿げ加減が面白し」と述べています。

巻第16-3840~3841

3840
寺々(てらでら)の女餓鬼(めがき)申(まを)さく大神(おほみわ)の男餓鬼(をがき)賜(たば)りてその子産まはむ
3841
仏(ほとけ)造る真朱(まそほ)足らずは水(みづ)溜(た)まる池田の朝臣(あそ)が鼻の上を掘れ
  

【意味】
〈3840〉方々の寺の女餓鬼どもが申すには、大神の朝臣の男餓鬼を私にいただいて、その子供の餓鬼を産み散らかしてやりたい、と。

〈3841〉仏を造るま朱が足りないのだったら、水の溜まる池、その池田の朝臣の赤い鼻の上を掘るのがよい。

【説明】
 3840は、池田朝臣(いけだのあそみ)が、大神朝臣奥守(おおみわのあそみおきもり)をからかった歌。3841は、大神朝臣奥守が、そのからかいに答えた歌。池田朝臣は天平宝字8年に従五位下となった池田朝臣真枚か。大神朝臣奥守は同年に従五位下になった人ということ以外は未詳。二人は親しかったと見えますが、どちらも中級官人です。
 
 3840では、大神奥守がひどく痩せているのを、そんなに細い体では寺の女餓鬼にもてるのが精々だろうとひどいことを言っています。「餓鬼」は、貪欲の報いで餓鬼道に落ちた亡者で、寺にはその像が置かれており、常に飢えているとされました。3841の「真朱」は、仏像などを彩色するときに用いる赤の顔料。「水溜まる」は「池」の枕詞。お互いに仏教に関係した事物によって歌を作っています。いずれもにぎやかな宴席での余興の歌だったとみられますが、後の王朝和歌の世界では、こうした歌は全く見られません。
 
 斎藤茂吉は「この諧謔が自然流露の感じでまことに旨い。古今集以後ならば俳諧歌、滑稽歌として特別扱いするところを、大体の分類だけにして特別扱いしないのは、万葉集に自由性があっていい点である」と言っています。このような歌が載せられている巻第16の存在によって、私たちは、万葉時代の歌は正統的、文学的な歌だけではなかったこと、すなわち「文化の幅」といったものを知ることができます。

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正岡子規による「巻第16」評
 巻第16は、巻第15までの分類に収めきれなかった歌を集めた付録的な巻とされ、伝説的な歌やこっけいな歌などを集めています。しかし、かの正岡子規は、この巻第16について、次のように述べています。
 
 万葉20巻のうち、最初の2、3巻がよく特色を表し、秀歌に富めることは認めるが、ただ、万葉崇拝者が万葉の歌の「簡浄、荘重、高古、真面目」を尊ぶばかりで、第16巻を忘れがちであることには不満である。寧ろその一事をもって万葉の趣味を解しているのか否かを疑わざるを得ない。第16巻は主として異様な、他に例の少ない歌を集めており、その滑稽、材料の複雑さ等に特色がある。

 それら滑稽のおもむきは文学的な美の一つに数えられるものであり、その笑いを軽んじたり、嫌ったりすべきでない。その調子は万葉を通じて同じであり、いかに趣向に相違があるとしても、まごうことなき万葉の歌である。そうした歌が、はるか千年前に存在したことを人々に紹介し、万葉集の中にこの一巻があることを広く知らしめたい。「歌を作る者は万葉を見ざるべからず。万葉を読む者は第16巻を読むことを忘れるべからず」。
 
   

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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万葉集の時代背景

万葉集の時代である上代の歴史は、一面では宮都の発展の歴史でもありました。大和盆地の東南の飛鳥(あすか)では、6世紀末から約100年間、歴代の皇居が営まれました。持統天皇の時に北上して藤原京が営まれ、元明天皇の時に平城京に遷ります。宮都の規模は拡大され、「百官の府」となり、多くの人々が集住する都市となりました。

一方、地方政治の拠点としての国府の整備も行われ、藤原京や平城京から出土した木簡からは、地方に課された租税の内容が知られます。また、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた大宰府は、北の多賀城とともに辺境の固めとなりましたが、大陸文化の門戸ともなりました。

この時期は積極的に大陸文化が吸収され、とくに仏教の伝来は政治的な変動を引き起こしつつも受容され、天平の東大寺・国分寺の造営に至ります。その間、多大の危険を冒して渡航した遣隋使・遣唐使たちは、はるか西域の文化を日本にもたらしました。

ただし、万葉集と仏教との関係では、万葉びとたちは不思議なほど仏教信仰に関する歌を詠んでいません。仏教伝来とその信仰は、飛鳥・白鳳時代の最大の出来事だったはずですが、まったくといってよいほど無視されています。当時の人たちにとって、仏教は異端であり、彼らの精神生活の支柱にあったのはあくまで古神道的な信仰、すなわち森羅万象に存する八百万の神々をおいて他にはなかったのでしょう。

主要歌人の生年

593年 舒明天皇
614年 藤原鎌足
626年 天智天皇
630年 額田王
631年 天武天皇
640年 有馬皇子
645年 持統天皇
654年 高市皇子
660年 山上憶良
660年 元明天皇
661年 大伯皇女
662年 柿本人麻呂
663年 大津皇子
665年 大伴旅人
668年 志貴皇子
673年 弓削皇子
676年 舎人皇子
680年 元正天皇
681年 藤原房前
683年 文武天皇
684年 長屋王
684年 橘諸兄
694年 藤原宇合
700年 山部赤人
700年 大伴坂上郎女
701年 聖武天皇
701年 光明皇后
706年 藤原仲麻呂
715年 笠金村
715年 藤原広嗣
718年 大伴家持
718年 孝謙天皇
721年 橘奈良麻呂

※生年不明の歌人を除く。


(藤原房前)

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『歌よみに与ふる書』

正岡子規が明治31年に書いた『歌よみに与ふる書』の現代語訳です。

仰せの通り、近来和歌は一向に振るわない。正直に申せば『万葉集』以来、源実朝以来一向に振るわない。実朝という人は三十にも足らず、いざこれからというところで敢え無い最期を遂げられ、誠に残念であった。あの人を今十年も生かしておいたなら、どんなに名歌を沢山残したかも知れない。とにかく第一流の歌人であると存ずる。むやみに柿本人麻呂・山部赤人のよだれを舐(ねぶ)るでもなく、もとより紀貫之・藤原定家の糟粕(そうはく)を嘗(な)めるでもなく、自己の本領が屹然(きつぜん)として山岳と高さを争い、日月と光を競うところは、実に恐るべき尊ぶべきで、知らず知らずのうちに膝を屈する思いになる。古来、凡庸な人と評価してきたのは間違いなく誤りであるに違いなく、北条氏を憚って韜晦(とうかい)した人か、さもなければ大器晩成の人ではなかったかと思える。人の上に立つ人で文学技芸に達するような者は、人間としては下等の地にいるのが通例であるが、実朝は全く例外の人に相違ない。なぜかと言うと、実朝の歌はただ器用というのではなく、力量があり見識があり威勢があって、時流に染まらず世間に媚びないところが、例の物好き連中や死に歌を詠む公家たちとはとても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間でなければ、実朝の歌のように力のある歌は詠み出されるはずはない。賀茂真淵は力を極めて実朝を褒めた人だが、真淵の褒め方はまだ足りないように思う。真淵は実朝の歌の妙味の半面を知って、他の半面を知らなかったが故にそうなったのだろう。

真淵は歌については近世の達見家で、『万葉集』崇拝のところなどは当時にあって実に偉い者だが、私の眼から見れば、なお『万葉集』を褒め足りない心地がする。真淵が「万葉にも善い調があり、悪い調がある」ということをいたく気にして繰り返し言うのは、世の人が『万葉集』の中の詰屈な歌を取って「これだから万葉はだめだ」などと攻撃するのを恐れているかと見える。もとより真淵自身もそれらを善い歌とは思わなかったが故に弱みが出たのだろうか。しかしながら世の人が詰屈と言う『万葉集』の歌や真淵が悪い調と言う『万葉集』の歌の中には、私が最も好む歌もあると存ずる。それはなぜかと言うと、他の人は言うまでもなく真淵の歌にも私が好むところの万葉調というものが、一向に見当たらないのだ(もっともこの辺の論は短歌についての論と御承知されたい)。真淵の家集を見て、真淵は存外に『万葉集』の分からない人であると呆れた。こう言ったからと言って、全く真淵をけなす訳ではない。楫取魚彦(かとりなひこ:江戸中期の歌人)は『万葉集』を模した歌を多く詠んだが、なおこれと思うものは極めて少ない。それほど古調はなぞらえるのが難しいのかと疑っていたところ、近来私たちが知っている人の中に、歌人ではなくて返って古調を巧みに模倣する人が少なくないことを知った。これによって見ると、昔の歌人の歌は今の歌人ではない人の歌よりも、遥かに劣っているのかと心細くなった。してみると今の歌人の歌が、昔の歌人の歌よりも更に劣っていることはどのように言うべきか。

長歌のみは、やや短歌とは異なる。『古今集』の長歌などは箸にも棒にもかからないが、かような長歌は『古今集』の時代にも後世にもあまり流行らなかったことが物怪もっけの幸いと思われる。されば後世でも長歌を詠む者には直接『万葉集』を師とする者が多く、従ってかなりの作を見受ける。今日でも長歌を好んで作る者は、短歌に比べれば多少手際よくできる。(御歌会派が気まぐれに作る長歌などは端唄(はうた)にも劣る)。しかしある人は非難して長歌が『万葉集』の模型を離れることができないことを笑う。それももっともではあるが、歌よみにそんなに難しいことを注文すると、『古今集』以後はほとんど新しい歌がないと言わなくてはならない。

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