巻第1-72
玉藻(たまも)刈る沖辺(おきへ)は漕(こ)がじ敷栲(しきたへ)の枕のあたり忘れかねつも |
【意味】
海女たちが玉藻を刈っている沖のあたりには舟を漕いでいくまい。昨夜旅の宿で枕を共にした女のことが、忘れられないから。
【説明】
藤原宇合(ふじわらのうまかい)は不比等の3男で、藤原4家の一つである「式家」の始祖にあたります。若いころは「馬養」という名前でしたが、後に「宇合」の字に改めています。霊亀3年(717年)に遣唐副使として多治比県守
(たじひのあがたもり) らと渡唐。帰国後、常陸守を経て、征夷持節大使として陸奥の蝦夷 (えみし) 征討に従事、のち畿内副惣管、西海道節度使となり、大宰帥
(だざいのそち) を兼ねましたが、天平9年(737年)、都で大流行した疫病にかかり44歳で没しました。正三位参議で終わりましたが、長く生きていれば当然、納言・大臣になれたはずの人です。『万葉集』には6首の歌が載っています。
この歌は、慶雲3年(706年)、文武天皇の難波宮行幸の際に作った歌で、宇合はこの時まだ13歳です。旅の宿であてがわれた女への情愛の気持ちを初々しく詠んでいます。「玉藻刈る」は「沖」の枕詞。「敷栲の」は「枕」の枕詞。「枕」は、昨夜共にした女の枕をいっています。「忘れかねつも」の「も」は、詠嘆。独詠というより、舟遊びをしていて、親しい部下あたりから沖の方へ漕ぎ出しましょうかと問われ、答えた歌のようです。
昔こそ難波田舎(なにはゐなか)と言はれけめ今は都(みやこ)引き都(にやこ)びにけり |
【意味】
昔こそは、難波田舎と呼ばれていたであろう。しかし、今では都を引き移してすっかり都らしくなってきた。
【説明】
神亀元年(724年)2月に即位した聖武天皇は、荒廃していた難波宮(大阪市中央区)の改修という大事業に取りかかります。難波宮を再建し、首都に対して副都の位置づけにしたかったものと思われます。その造営に関わる最高指揮官である知造難波宮事に任ぜられたのが藤原宇合でした(神亀3年:726年)。この歌は、造営工事のが完了が近くなった時期に、聖武天皇の御前で歌った予祝歌とされます。「言はれけめ」の「けめ」は「こそ」の結びで、過去推量。「都引き」は、都を引き移しての意で、天皇の行幸を、都自体が移ってきたかのように言っています。「都び」は、都めく意。自身の責務の完了を目前にして喜ぶだけでなく、皇威を賀した、調べの明るいさわやかな歌となっています。
宇合は、上に記した経歴のように、遣唐使の一員として唐に渡ったほか、国内のあちこちを旅から旅へと飛び回り、さまざまな仕事に携わっています。ここの知造難波宮事の仕事もその一つに過ぎず、生涯を通して、大和にいた期間は短かったとみられます。藤原四兄弟の中で最もよく働いた人であり、またいちばん損な籤を引いた人だったようにも感じられます。
難波宮(なにわのみや)について
難波宮は、7世紀中~8世紀末に、現在の大阪市中央区法円坂一帯に所在した宮殿です。上町台地を中心とするこの地には,古くは応神天皇の大隅(おおすみ)宮、仁徳天皇の高津宮、欽明天皇の祝津(はふりつ)宮などの宮室が置かれたと記紀は伝えています。
大化元年(645年)6月、飛鳥板蓋(いたぶき)宮における蘇我入鹿暗殺事件を発端として大化改新が開始されると、同年12月、孝徳天皇は都を飛鳥から難波長柄豊碕(ながらとよさき)に移しました。654年に天皇が没すると、都は再び飛鳥に遷りました。壬申の乱に勝利して即位した天武天皇は、難波宮の整備にも力を注ぎ、天武6年(677年)に丹比(たじひ)麻呂を摂津職大夫とし、難波に羅城を築きました。しかし、朱鳥元年(686年)1月、難波の大蔵省から失火して宮室はことごとく焼けたと『日本書紀』に記されています。焼失後の難波宮については明らかでないものの、文武・元正・聖武の各天皇の難波宮行幸の記事が残されています。
神亀3年(726年)、聖武天皇は藤原宇合を知造難波宮事に任じて、難波宮の大規模な再建に着手しました。工事は天平4年(732年)ごろに一段落しましたが、740年に藤原広嗣の乱が起こると、天皇は伊勢に難を避け、その後、都を平城京から山背の恭仁(くに)京,近江の紫香楽(しがらき)宮と転々と移し,次いで744年難波宮を皇都と定めました。しかし翌年には再び平城京に還都することになります。その後も難波宮は維持されていましたが、延暦12年(793年)の太政官符に「難波大宮はすでに停止されたので、摂津職を摂津国に改めよ」との記載があるので、このころ廃絶したものとみられます。
難波津を中心とする古代の交通・外交・経済・軍事の要所に設けられた難波宮は、孝徳朝の長柄豊碕宮以来、聖武朝の難波宮に至るまで約150年の間、日本の首都としてまた副都として古代史上に大きな役割を演じました。
巻第8-1535
我(わ)が背子(せこ)をいつぞ今かと待つなへに面(おも)やは見えむ秋の風吹く |
【意味】
愛しいあの方はいつ来るのか、今か今かとお待ちしているのに、あなたは見えず、秋風だけが吹いている。
【説明】
七夕の歌で、牽牛を待ち焦がれる織女の立場で詠んだとされます。「なへに」は、とともに、と同時に。「面」は、顔。「やは」は、反語。「秋の風」は、7月1日から吹くものとされていました。宇合は漢詩文にも素養があり、わが国最古の漢詩集『懐風藻』にも6編の漢詩を残しています。秋風が吹く中、女性が男性の訪れがないことを閨房(けいぼう=寝室)で嘆く詩が、『玉台新詠(ぎょくだいしんえい)』など中国の宮廷詩にいくつも見られ、宇合はそれらを踏まえて作歌したのではないかとみられています。
巻第9-1729~1731
1729 暁(あかとき)の夢(いめ)に見えつつ梶島(かぢしま)の礒(いそ)越す波のしきてし思ほゆ 1730 山科(やましな)の石田(いはた)の小野(をの)のははそ原見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ 1731 山科(やましな)の石田の杜(もり)に幣(ぬさ)置かばけだし我妹(わぎも)に直(ただ)に逢はむかも |
【意味】
〈1729〉明け方の夢にたびたび見えて、梶島の磯を越えては打ち寄せる波のように、妻のことがしきりに思われてならない。
〈1730〉山科の石田の小野のははそ原を見ながら、今頃あなたはその山道を越えようとしておられるのでしょうか。
〈1731〉山科の石田の杜にお供え物を捧げたなら、ひょっとして愛しい妻に直(じか)に逢えるだろうか。
【説明】
1729は、旅にあって京の妻を恋う歌。「梶島」は、所在未詳。第3、4句は「しきて」を導く序詞。「しきて」は、幾重にも重なり合って、しきりに。1730は、妻の立場の歌。「山科の石田」は、京都府山科区の南部。「ははそ」は、コナラ、クヌギなどの総称。「山道」は、都から東国へ下る際に通る、山科から逢坂山にかかる上り道。「らむ」は、現在推量。1731は、1730に応じた形になっています。「杜」は、霊域、神社。「幣」は、神に祈るときの供え物。「けだし」は、ひょっとして、もしかすると。「直に」は、直接に。
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藤原宇合の略年譜
694年
藤原不比等の三男として生まれる。初名は「馬養」
716年8月
遣唐副使に任ぜられ、717年に入唐、翌年10月に帰国。
このころ「宇合」に改名。
719年正月
遣唐副使の功により正五位下から正五位上に昇叙。
719年7月
常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任命される。
721年
正四位上に昇叙。
724年4月
式部卿の官職にあったが、蝦夷反乱の平定のため持節大将軍に任命され出兵、11月帰還。
725年
従三位に昇叙。
726年
式部卿のまま、難波宮再建工事の最高責任者である知造難波宮事に任ぜられる。
732年
参議・式部卿として西海道節度使に任ぜられる。
737年8月
平城京に疫病が蔓延、藤原四兄弟(※)の最後に死去。最終官位は参議式部卿兼太宰帥正三位。
※藤原四兄弟
藤原武智麻呂(680~737年)・・・藤原南家の開祖
藤原房前(681~737年)・・・藤原北家の開祖
藤原宇合(694~737年)・・・藤原式家の開祖
藤原麻呂(695~737年)・・・藤原京家の開祖
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(藤原宇合)
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