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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

長田王(ながたのおほきみ)の歌

巻第1-81~83

81
山辺(やまのへ)の御井(みゐ)を見がてり神風(かむかぜ)の伊勢娘子(いせをとめ)どもあひ見つるかも
82
うらさぶる心さまねしひさかたの天(あま)のしぐれの流らふ見れば
83
海(わた)の底(そこ)沖つ白波(しらなみ)龍田山(たつたやま)いつか越えなむ妹(いも)があたり見む
 

【意味】
〈81〉山辺の御井を見に訪ねると、はからずも、伊勢の美しい乙女たちに出逢うことができた。
 
〈82〉うら寂しい思いでいっぱいになる。天からしぐれが流れるように降ってくるのを見ると。
 
〈83〉海の沖に白波が立つ、その立つという名の竜田山、あの山をいつ越えられるのだろうか。早くこの山を越えて彼女の家のあたりを見たい。

【説明】
 和銅5年(712年)4月、長田王が伊勢の斎宮(伊勢神宮)に遣わされたときに、山辺の御井で作った歌。「井」とは、水を得るための場所や施設を言い、生活用水だけでなく宗教的行事にも用いられました。いわゆる掘り抜き井戸のほか、川や池に設けられた水場や水が湧き出る場所なども、すべて「井」と呼ばれました。

 長田王は、聖武朝初期に、六人部王、門部王、佐為王、桜井王ら10余人と共に「風流侍従」とよばれた皇族の一人で、漢詩文・和歌をよくし風流を解する人として知られていました。最終官位は散位正四位下。737年没。『万葉集』に6首の歌があります。なお、長田王の「王」というのは天皇の孫の世代の名のりであり、とくに天智・天武両天皇は多くの子をもうけたので、その孫や曾孫の世代の人々の数はますますふくれあがっていきました。その対策の一環として、姓を与えて臣籍に降ろすことが、天平の後半ごろから積極的に進められました。
 
 81の「山辺の御井」は名井として三重県のどこかとされますが所在未詳で、鈴鹿市山辺町などいくつかの説があります。井は一般に尊重されており、ここでは見物のためにわざわざ立ち寄ったとみえ、御井の由緒を重んじてのことのようです。さらにその水を汲む宮女について触れ、神聖な土地の神のご加護に授かろうという土地誉めの歌ともなっています。「見がてり」の「がてり」は、がてら。「神風の」は「伊勢」の枕詞。ただ、この歌にはややミステリアスなところがあり、「伊勢娘子」を「あひ見た」というのは、斎宮(宮に奉仕している宮女)を侵犯したという捉え方もできます。
 
 82の「うらさぶる」の「さぶ」は、魂が肉体から遊離していくこと。その動詞から「さびしい」という語が生まれました。「さまねし」の「さ」は接頭語で「まねし」は数が多くいっぱいである意。「ひさかたの」は、悠久の天の彼方の意で「天」の枕詞。「しぐれ」とあるのは、しぐれは暮秋のころに降る小雨なので、81とは時季が異なります。83の上2句は「竜田山」を導く序詞。「海の底」は「沖」の枕詞。「竜田山」は、奈良県生駒郡の、摂津との国境に近い山。伊勢の御井とは方向が違います。左注にも、82と83は山辺の御井で作った歌には見えない、思うに、その時に誦(よ)んだ古歌か、とあります。いかにも心細い心情をうたっているところから、あるいは、下の248の歌にある、九州へ派遣された時に詠んだものかもしれません。

巻第3-245~246

245
聞きしごとまこと尊(たふと)く奇(くす)しくも神(かむ)さびをるかこれの水島(みづしま)
246
芦北(あしきた)の野坂(のさか)の浦ゆ船出(ふなで)して水島に行かむ波立つなゆめ
 

【意味】
〈245〉かねて話に聞いていたとおり、尊くて霊妙で神々しく見えることか、この水島は。
 
〈246〉芦北の野坂の浦から船出して、水島に行こうと思う。波よ、決して立ってくれるなよ。

【説明】
 長田王が筑紫に遣わされて水島に渡ったときの歌2首。筑紫に赴いたのは大宰府管内の巡察のためだったのではないかとされます。「水島」は、熊本県八代市の南川河口にある小島。昔、ここで景行天皇が神に祈り、島の崖から塩気のない水が湧き出たという言い伝えがあり、245は、その信仰を感動をもって詠んだ歌。「奇し」は、霊妙不思議をあらわす語。「これの」は「この」の古形。246の「芦北」は、熊本県葦北郡と水俣市の地。「野坂の浦」は、不知火海に面した海岸。

 なおこの歌の次に、石川大夫(いしかわだいぶ)が和した歌が載っています。石川大夫は、王の巡視に随行した大宰府の官人とみられます。

〈247〉沖つ波辺波(へなみ)立つともわが背子(せこ)がみ船(ふね)の泊(とま)り波立ためやも
 ・・・沖の波や岸の波が立とうとも、あなたの御船の着く所に、波が立ちましょうか、立ちはしません。

巻第3-248

隼人(はやひと)の薩摩(さつま)の瀬戸を雲居(くもゐ)なす遠くも我(わ)れは今日(けふ)見つるかも

【意味】
 隼人の住む薩摩の瀬戸よ、その瀬戸を、空の彼方の雲のように遙か遠くだが、私は今この目に見納めた。

【説明】
 長田王が筑紫に派遣され、薩摩国に赴いたときに作った歌。『万葉集』の歌のなかで、最も南の地で詠まれた歌とされ、船中にあって、海上遠く薩摩の瀬戸を眺望して詠んだ趣きです。当時の薩摩は、朝廷の影響力がなかなか及ばず、問題の多い所だったといいます。「隼人」は、大隅・薩摩地方の精悍な部族で、朝廷への敵対した後には、宮の守護や歌舞の演奏などをして仕えたといいます。「薩摩の瀬戸」は、鹿児島県阿久根市黒之浜と天草諸島の長島との間の海峡。
 
 上の82・83の歌は、この歌と脈絡がつくものです。王が筑紫に派遣された理由が、もし、81の斎宮侵犯による、体のいい配流だったとすれば、歌に漂う寂寥とした空虚感も何となく理解できるところです。

 『万葉集』の歌の舞台は日本中に広がっており、北は陸奥(宮城県)から南は薩摩(鹿児島県)にまで及んでいます。これをほとんど都中心の王朝の文学と比べると、そこにも一つ、『万葉集』の大きな特徴を見出すことができます。しかもその歌の風土はほとんどが実際にその場所で詠まれたもので、知識や想像のみによって土地の名前を詠み込んだというものではありません。

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風流侍従

聖武朝初期に「風流侍従」とと称せられる人たちが存在していたことが、『藤原武智麻呂伝』に見え、六人部王、長田王、門部王、佐為王、桜井王、石川朝臣君子、阿倍朝臣安麻呂、置始工ら8人の名が記されています。ただし、この「風流侍従」は律令制における正式の官の呼称ではなく、聖武天皇の新宮廷に始まった新しい文化である「風流」をリードしていく役割を担っていたとされます。

 神亀6年(729年)に国家的イベントとして催された朱雀門における歌垣において、門部王、長田王がその頭を務めたとの記録が残っています。さらに「風流侍従」の役割としては、歌舞の整備が推し進められるなかで、地方歌舞を宮廷歌舞に取り込むこともあったのではないかともみられています。


(聖武天皇)

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