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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

磐姫(いわのひめ)皇后が天皇を慕ってつくった歌

巻第2-85~88

85
君が行き日(け)長くなり山尋ね迎へ行かむ待ちにか待たむ
86
かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根(いはね)し枕(ま)きて死なましものを
87
ありつつも君をば待たむうちなびく我(わ)が黒髪に霜(しも)の置くまでに
88
秋の田の穂(ほ)の上(へ)に霧(き)らふ朝霞(あさかすみ)何処辺(いつへ)の方にあが恋ひ止まむ
  

【意味】
〈85〉あなたがお出かけになってずいぶん長くなった。山を越えて尋ねてお迎えに行こうかしら、それともこのままお待ちしていようかしら。

〈86〉これほどに恋い焦がれているくらいなら、高い山の岩を枕にして、いっそのこと死んでしまえばよかった。

〈87〉このままずっとあなたをお待ちしましょう。私の黒髪に暁の霜が降りてくるまでも。

〈88〉秋の田に実った稲穂の上に立ちこめる朝霞、その霞のようにずっと晴れない私の恋は、いったいいつになったらやむのでしょう。

【説明】
 難波の高津の宮で天下を治められた天皇(仁徳天皇)の時代、「磐姫皇后(いわのひめのおほきさき)、天皇(すめらのみこと)を思(しの)ひて作らす歌四首」。巻第1の雄略天皇御製歌と同様に、巻第2の巻頭を飾る古歌として置かれています。磐姫皇后は仁徳天皇の皇后で、ひどく嫉妬深い女性として、『古事記』『日本書紀』に書かれています。「ねたみ妻」といい、日本の女性の、ねたみ妻の列伝があるとすれば、古代の須勢理毘売命(すせりびめのみこと)に続いて第二に位置する女性とされます。天皇が侍女や妃を宮殿に入れることを許さず、ふだんと違う気配があると「足もあがかに妬みたまひき」、つまり地団駄を踏んで嫉妬したといいます。

 仁徳天皇といえば、民の竈(かまど)の煙が上がらないのを見て税を3年間免除なさったという慈悲深い天皇です。しかし、健康な男子たる天皇は、女性も大好きでした。そしてあるとき、決定的な事件が起きます。磐姫が旅行中に、天皇がかねてご執心の異母妹・八田皇女(やたのひめみこ)をこっそりと宮中に入れたのです。それを知った磐姫は宮中に帰らず、山城国の帰化人の所に身を寄せてしまいました。

 慌てた天皇は再三磐姫を迎えに来ましたが、磐姫は天皇に会うこともなく、5年後にその地で生涯を終えたといいます。実は磐姫は、当時、大和最大の豪族だった葛城氏の息女で、皇族ではありませんでした。いっぽう八田皇女は皇族でしたから、位は磐姫のほうが低かったのです。だから、たとえ宮廷に戻ったとしても、彼女の地位はそれまでのようにはいかなかったでしょう。
 
 もともと磐姫が仁徳天皇のもとに嫁いだのは、天皇家が王権を維持するために葛城氏の力と結託しようとする政略結婚だったといわれます。磐姫には多くのライバルがおり、八田皇女のほかにも、吉備の海部直(あまのあたい)の娘である黒日売(くろひめ)、日向諸県君(ひむかのもろのあがたのきみ)の娘である髪長日売(かみながひめ)などが知られています。そうした中にあって、磐姫は葛城氏を重く背負う立場にありました。そのためもあってか、とても気性の激しい女性だったようですが、激しい嫉妬も深い愛情があってのこと。
 
 なお、磐姫は5世紀初頭の人で、『万葉集』に登場する最も古い人物です。前万葉期ともいえるこの時代の和歌は、記録にとどめるのではなく、口頭から口頭への口誦によって伝えられてきました。従って必ずしも原型が維持されるとは限らず、その時々の人たちの新たな感情によって支えられ、受け継がれてきました。この4首も、記紀の伝説から生まれた仮託の歌とされ、実際の作者が誰であるかは分かりません。しかしながら、『万葉集』が載せる最も古い歌が磐姫の歌であるのは、『万葉集』にとって女性の歌が大変重要だったことを示していましょう。

 86の「磐根し枕きて」の「磐根」は、岩。「し」は強意の助動詞。「枕きて」は、枕にして。87の「うちなびく」は、黒髪のなよなよと靡くさま。「霜の置く」は、白髪に変わることの譬え。88の「朝霞」は、朝に立つ霞。この4首は、煩悶→興奮→反省→嘆息の起承転結の心情の推移として組み立てられており、85では、夫を待とうか、迎えに行こうかと悩み、86ではその後者を選び、待つ辛さよりは行き倒れになってでも迎えに行きたいと歌い、さらに87ではやはり待つほうを選ぶと言い、結局88のように、いつまでも恋し続ける辛さを嘆いています。この歌の構成に柿本人麻呂が関わっていたのではないかとの説もあるようです。

 なお、85の「山尋ね」は、身体を遊離した霊魂を迎え取る呪術だともいわれます。また、87の「霜」の解釈は、現実の霜ではなく、霜を比喩と見て、黒髪が白くなるまで、すなわち老齢になるまでと解釈するものもあります。

 ところで、磐姫が亡くなった後に皇后になった八田皇女には、子ができなかったため、次代の天皇には、磐姫が生んだ皇子たちが即位しています。磐姫には4人の男子があり、反乱を起こした次男の住吉仲皇子(すみよしのなかのみこ)を除き、長男が履中(りちゅう)天皇、三男が反正(はんぜい)天皇、四男が允恭(いんぎょう)天皇です。その允恭天皇の子に、軽大娘皇女(かるのおおのいらつめひめみこ)がいます。別名を衣通姫(そとおりひめ)といい、美しさが衣の外にまで光彩を放つほどに美しい女性だったとされます。祖母である磐姫の美貌が受け継がれたのでしょうか。

巻第2-89~90

89
居(ゐ)明かして君をば待たむぬばたまの我(わ)が黒髪に霜(しも)は降るとも
90
君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ
 

【意味】
〈89〉このまま夜明けまで、あなたをお待ちします。私の黒髪にたとえ霜が降りようとも。

〈90〉あの方が行ってしまってから日数が経ってしまいました。いつまでもじっと待ってなどいられません、迎えに行きましょうか。

【説明】
 89は「或る本の歌に曰く」とあり、87の類歌として載せられたもの。「或る本」は『古歌集』をさしますが、この集は今に伝わっていません。「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。

 90は、前の4連作との比較のため引用された歌で、「古事記に曰く」として次のような説明があります。「軽太子(かるのひつぎのみこ、允恭天皇の皇太子)が妹の軽太郎女(かるのおおいらつめ)を犯した。そこでその太子を伊予の湯(松山市の道後温泉)に追放した。衣通王(そとおりのおおきみ、軽太郎女の別名)は恋しさに堪え切れずあとを追い、そのときに歌った歌」。「山たづの」は「迎へ」の枕詞。また、左注に、「この一首は古事記と類聚歌林とで内容が異なっていて作者も違う。そこで日本書紀を見てみると・・・」云々の記載がありますが、割愛します。

仁徳天皇の事績
仁徳天皇4年
 民の窮乏を救うため3年間の課役を止める。仁徳天皇10年、ようやく課役を命じ、宮室を造る。
 河内平野における水害を防ぎ、開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(まむたのつつみ:大阪府寝屋川市付近〕を築造。
仁徳天皇12年
 山背の栗隅県(くるくまのあがた:京都府城陽市西北〜久世郡久御山町)に灌漑用水を設営。
仁徳天皇13年
 茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立。
仁徳天皇13年
 和珥池(わにのいけ:奈良市)、 横野堤(よこののつつみ:大阪市生野区)を築造。
仁徳天皇14年
 猪飼津に橋を渡し、そこを名付けて小橋(おばせ)とする。
仁徳天皇14年
 灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ:大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓する。
仁徳天皇41年
 国郡の境を分け、郷土の産物を記録。

 

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巻第2について
 巻第2は巻第1と姉妹篇をなし、巻第1と同様に天皇の御代の順に配列されています。巻第1が雑歌を収めているのに対し、巻第2は、私的に個人の情を伝え合う「相聞」と、死を悲しむ歌、葬送の歌である「挽歌」を収めています。雑歌・相聞・挽歌は万葉集の三大部立となっています。

 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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舒明天皇までの歴代天皇

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  3. 安寧天皇
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  33. 推古天皇
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(仁徳天皇)

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