巻第2-101~102
101 玉葛(たまかづら)実ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふならぬ木ごとに 102 玉葛(たまかづら)花のみ咲きてならずあるは誰(た)が恋にあらめ我(あ)は恋ひ思(も)ふを |
【意味】
〈101〉玉葛のように実の成らない木には神が取り憑くと世間ではいいます。実の成らない木ごとに。
〈102〉玉葛のように花だけが咲いて実が成らないというのは、誰の恋のことでしょう(あなたの恋にほかなりません)。私の方はひたすら恋い慕っていますのに。
【説明】
101は、「大伴宿祢(おほとものすくね)、巨勢郎女(こせのいらつめ)を娉(よば)ふ時」、つまり結婚しようと言い寄った時の歌です。102は、巨勢郎女が答えて贈った歌です。
101の「玉葛」の「玉」は美称、「葛」はつる草で、「実」に掛かる枕詞。雌木は実をつけ、雄木は花だけが咲きます。「実ならぬ木」は、靡こうとしない女の譬え。「ちはやぶる」は、荒々しい、たけだけしい意で、荒々しい神ということから「神」に掛かる枕詞。宿祢の求婚は、言葉では優しく応じながら、実際になかなか相逢おうとしない郎女に対し、当時の言い伝えを持ち出して威嚇し、自分に靡くように誘いかけています。
102の「玉葛」は、ここは「花」の枕詞。「ならずあるは」は、相手に誠意のないことの譬え。宿祢の歌に反撃しながらも、末句では自身の愛情をよりいっそう表出しています。なお4・5句の原文は「誰恋尓有目
吾孤悲念乎」となっており、はじめの「恋」は一般的な「恋」の字で表記しているのに対し、あとの方の「恋」は「孤悲」と表記しています。『万葉集』では多くが正訓の「恋」の文字で記されており、なかには「孤悲」の音仮名も使われていますが、ここでは同じ歌の中で使い分けがされています。同じ恋でも、あなたの不誠実な恋と、私の孤独な悲しみを伴う一途な恋とは違うということを表現しようとしたのでしょうか。とすれば、文字の視覚による情報がとても重要であるのが理解できます。
大伴宿祢は、諱(いみな)を安麻呂(やすまろ)といい、右大臣・長徳(ながとこ)の第6子、旅人・田主・宿奈麻呂・坂上郎女らの父にあたります。672年の壬申の乱では、叔父の馬来田(まぐた)、吹負(ふけい)や兄の御行(みゆき)とともに天武側について従軍して功をあげました。天武政権になって後は功臣として重んぜられ、新都のための適地を調査したり、新羅の使者接待のため筑紫に派遣されたりしました。和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍・正三位の地位にあり、佐保に居宅があったため、「佐保大納言卿」と呼ばれました。
巨勢郎女は、近江朝の大納言巨勢臣人の娘で、安麻呂の妻となり、後に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子を生んでいます。『万葉集』にはこの1首のみです。
巻第3-299
奥山の菅(すが)の葉しのぎ降る雪の消(け)なば惜(を)しけむ雨な降りそね |
【意味】
奥山の菅の葉を覆い、降り積もった雪が消えるのは惜しいから、雨よ降らないでおくれ。
【説明】
題詞に「大納言大伴卿の歌一首 未だ詳ならず」との記載があり、旅人とみる説があるものの、この巻は大体年代順となっており、その比較考証から、作者は旅人の父である大伴安麻呂とされます。大納言であるために、尊んで名を記さず、三位以上の敬称である卿を用いたもので、本巻の撰者にとって問題になることではなかったとみえます。したがって、「未だ詳ならず」の注記は後人が加えたものとわかります。
「菅」は、自生する草。ここでは山菅。「しのぎ」は、押さえつけて、押し分けて。「雨な降りそね」の「な~そ」は、禁止。「ね」は、願望。
神樹(かむき)にも手は触(ふ)るといふをうつたへに人妻といへば触れぬものかも |
【意味】
触れたら罰が当たるという御神木にも手を触れる人があるというのに、人妻だからと言うだけで、決して触れられないものだろうか。
【説明】
壬申の乱の功労者であり、大納言兼大将軍、また旅人の父であり家持の祖父である大伴安麻呂といえども、人妻には心を乱されたようです。道義心と恋情とが激しくせめぎ合うジレンマに陥っているようですが、果たして彼の許されぬ恋の結末やいかに。
「神樹」は、神が降りるとして清められている神聖な樹木。「うつたへに」は、打消しの語を伴って、決して、まったくの意。「触れぬものかも」の「かも」は、単純な疑問と解すれば「触れてはならないものだろうか」の意になりますが、反語とすれば「触れないものか、いや触れるぞ」という意になります。
なお、この歌の次に、安麻呂の妻となって坂上郎女を生んだ石川郎女の「春日野の山辺の道を恐りなく通ひし君が見えぬころかも」(518)という歌があるので、あるいは安麻呂の歌と贈答の関係にあるのかとも見られますが、この点については518のところで記述します。
ところで、安麻呂が、すでに巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子供をもうけているにもかかわらず、石川郎女と結婚したのはなぜでしょうか。それは、蘇我氏を継承する石川氏と姻戚関係を結びたいとの理由からだったとされます。ライバルの藤原不比等も蘇我(石川)娼子を娶っています。天武天皇の皇子女の多くは蘇我氏の血を引いており、皇室の中でも際立った存在であり、安麻呂は石川郎女との結婚を通じて、石川氏の持つ尊貴性を自家にも取り入れ、皇室と結びつこうとしたのです。そして生まれたのが、坂上郎女です。蘇我氏の血を引く唯一の女子であり、安麻呂は郎女を皇室に嫁がせようと早くから考え、念願かなって穂積皇子に嫁がせることができました。10代後半のころだったとされます。しかし、子を授からぬまま、皇子は亡くなってしまいます。
大伴家の人々
大伴安麻呂
壬申の乱での功臣で、旅人・田主・宿奈麻呂・坂上郎女らの父。大宝・和銅期を通じて式部卿・兵部卿・大納言・太宰帥(兼)となり、和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍。正三位の地位にあった。佐保地内に邸宅をもち、「佐保大納言卿」と呼ばれた。
巨勢郎女
安麻呂の妻で、田主の母。旅人の母であるとも考えられている。安麻呂が巨勢郎女に求婚し、それに郎女が答えた歌が『万葉集』巻第2-101~102に残されている。なお、大伴氏と巨勢氏は、壬申の乱においては敵対関係にあった。
石川郎女(石川内命婦)
安麻呂の妻で、坂上郎女・稲公の母。蘇我氏の高貴な血を引き、内命婦として宮廷に仕えた。安麻呂が、すでに巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子供をもうけているにもかかわらず、石川郎女と結婚したのは、蘇我氏を継承する石川氏との姻戚関係を結びたいとの理由からだったとされる。
旅人
安麻呂の長男で、母は巨勢郎女と考えられている。家持・書持の父。征隼人持節使・大宰帥をへて従二位・大納言。太宰帥として筑紫在任中に、山上憶良らとともに筑紫歌壇を形成。安麻呂、旅人と続く「佐保大納言家」は、この時代、大伴氏のなかで最も有力な家柄だった。
稲公(稲君)
安麻呂と石川郎女の子で、旅人の庶弟、家持の叔父、坂上郎女の実弟。天平2年(730年)6月、旅人が大宰府で重病に陥った際に、遺言を伝えたいとして、京から稲公と甥の古麻呂を呼び寄せており、親しい関係が窺える。家持が24歳で内舎人の職にあったとき、天平13年(741年)12月に因幡国守として赴任している。
田主
安麻呂と巨勢郎女の子で、旅人の実弟、家持の叔父にあたる。『万葉集』には「容姿佳艶、風流秀絶、見る人聞く者、嘆せずといふことなし」と記され、その美男子ぶりが強調されている。しかし、兄弟の宿奈麻呂や稲公が五位以上の官職を伴って史書にしばしば登場するのに対し、田主は『続日本紀』にも登場しない。五位以上の官位に就く前に亡くなったか。
古麻呂
父親について複数の説があり確実なことは不明。長徳あるいは御行の子とする系図も存在するが、『万葉集』には旅人の甥とする記述がある。旅人の弟には田主・宿奈麻呂・稲公がいるので、古麻呂はこのうち誰かの子であったことになる。天平勝宝期に左少弁・遣唐副使・左大弁の職をにない正四位下となる。唐から帰国するとき、鑑真を自らの船に載せて日本に招くことに成功した。のち橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂の排除計画に与し、捕縛されて命を落とした。
坂上郎女
安麻呂と石川郎女の子で、旅人の異母妹、家持の叔母にあたる。若い時に穂積皇子に召され、その没後は藤原不比等の子・麻呂の妻となるが、すぐに麻呂は離れる。後に、前妻の子もある大伴宿奈麻呂(異母兄)に嫁して、坂上大嬢と二嬢を生む。後に、長女は家持の妻となり、次女は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の妻となった。家持の少・青年期に大きな影響を与えた。
書持
旅人の子で、家持の弟。史書などには事績は見られず、『万葉集』に収められた歌のみでその生涯を知ることができる。天平18年(746年)に若くして亡くなった。
池主
出自は不明で、池主という名から、田主の子ではないかと見る説がある。家持と長く親交を結んだ役人として知られ、天平年間末期に越中掾を務め、天平18年(746年)6月に家持が越中守に任ぜられて以降、翌年にかけて作歌活動が『万葉集』に見られる。
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巻第3-313
み吉野の滝(たき)の白波(しらなみ)知らねども語りし継(つ)げばいにしへ思ほゆ |
【意味】
吉野の滝の流れの白波、その白波のように吉野宮のことは知らないけれど、語り継がれているので遠い昔がしのばれる。
【説明】
刀理宣令は渡来系の人で、東宮(聖武天皇)に仕えた文学者とされます。官位は正六位上・伊予掾。『万葉集』には2首、『懐風藻』に2首の詩が載っています。「み吉野」の「み」は接頭語。上2句は「知らねども」を導く序詞。「語りし」の「し」は、強意。語り継がれたのは、天武・持統朝の吉野の故事とみられます。
巻第8-1470
もののふの石瀬(いはせ)の社(もり)の霍公鳥(ほととぎす)今も鳴かぬか山の常蔭(とかげ)に |
【意味】
石瀬の社にいるホトトギスが、今の今鳴いた。この山の陰で。
【説明】
「もののふの」は、八十氏と続くのと同じ意で、五十の「い」、すなわち「石瀬」に掛かる枕詞。「石瀬の社」は未詳ながら、奈良県斑鳩町または三郷町という説があります。「今も鳴かぬか」は「今しも鳴きぬ」と訓むものもあります。「常陰」は、いつも日が射さない所の意で、他には用例がない語です。
三大歌集の比較
■万葉集
①歌を呪術とする意識が残り、対象にはたらきかける積極的な勢いが、力強く荘重な調べとなる。
②実感を抑えず飾らず大胆率直に表現する。簡明にして力強く、賀茂真淵は「ますらをぶり」と評する。
③日常生活そのままでないにしても、現実の体験に即して歌うことが多く、具象的、写実的で印象が鮮明。
④用語、題材についてすでに雅俗を分かつ意識が生じているが、なお生活に密着したものが比較的多く、素朴、清新の感をもって訴えかける。時に粗野。
⑤五七調で、短歌は二句切れ、四句切れが多く、重厚な調べ。後期には七五調も現れる。歌謡の名残をとどめ音楽的効果をねらった同音同語の反復もある。
⑥素朴な枕詞、序詞を多用。ほかに掛詞、比喩、対句を使用。
⑦率直に表現するため、断言的な句切れが多い。終助詞による終止、詠嘆「も」「かも」を多用。
■古今集
①宗教や政治を離れ、歌それ自体が目的となり、洗練された表現により美の典型をひたすら追求する。
②感情を生のまますべてを表すことを避け、屈折した表現をとる。その婉曲さが優美繊細の効果を生む。
③日常体験から遊離した花鳥風月や恋・無常など、情趣化された世界を機知に富んだ趣向や見立てにより表現する。理知がまさり、時に観念の遊戯に陥る。
④優雅の基準にかなう題材を雅かなことばで詠ずるため、流麗であるが、単調となる弊がある。
⑤七五調で、三句切れが多く、流暢な調べとなる。
⑥掛詞、縁語の使用が多い。それらが観念的な連想を生み、虚実あるいは主従二様のイメージを交錯させ、纏綿たる情緒を楽しませる。掛詞がさらに進んでことばの遊戯となったものが物名であり、それで一巻をなす。ほかに枕詞、序詞、比喩、擬人法などを用いる。
⑦理知的に屈折した表現をとるため、推量、疑問、反語による句切れが多い。助動詞による終止が目立つ。詠嘆の終助詞は「かな」を用いる。
■新古今集
①乱世の現実を忌避し、王朝に憧れる浪漫的な気分が支配し、唯美的、芸術至上主義的な立場に立つ。
②世俗的な感情を拒否し、「もののあはれ」という伝統的な感覚を象徴的な手法で縹渺とただよわせる。幽玄余情の様式を完成するが、時に晦渋に陥る。
③客観的具象的な世界を浪漫的な心情風景に再構成し、現実を超えた絵画あるいは物語のごとき世界をつくる。
④選び抜かれた素材を言語の論理性を超えた技巧によって表現し、幽玄妖艶の美、有心の理念を追求する。
⑤七五調で、三句切れが多く、また初句切れも目立つ。
⑥掛詞、縁語、比喩はかなり用いられるが、枕詞、序詞の使用は著しく減少する。古歌の句を借用しただけの単純な本歌取りは古今集にもみられるが、新古今集では高度な表現技法にまで磨かれ、物語的な情緒を醸し出す象徴の手法として用いられる。
⑦体言止めを多く用いる。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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