巻第2-126~127
126 遊士(みやびを)とわれは聞けるを屋戸(やど)貸さずわれを還(かへ)せりおその風流士(みやびを) 127 遊士(みやびを)にわれはありけり屋戸(やど)貸さず還(かへ)ししわれそ風流士(みやびを)にはある 128 我(わ)が聞きし耳によく似る葦(あし)の末(うれ)の足ひく我が背(せ)つとめ給(た)ぶべし |
【意味】
〈126〉みやびなお人だと聞いていましたのに、私をそのまま帰してしまうなんて、何と無粋な風流士ですこと。
〈127〉私こそが風流士です。あなたと一夜を共にすることもなく帰したのですから、私こそ本当の風流士です。
〈128〉聞いていた噂どおり、葦の葉先のように弱々しく足を引きずるお方、せいぜいお大事になさって下さい。
【説明】
大伴田主(おおとものたぬし)に片思いをしていた石川郎女(いしかわのいらつめ)が、ある夜、老女に変装し、「東隣に住む貧しい老婆です。火種がきれてしまいましたので、お貸しください」という口実をつくって、田主の家にやって来ました。ところが期待に反し、本当に火種を貸してくれたのみで帰されてしまいました。126の「屋戸貸さず」は、泊めて共寝をせず、の意で、恥をかかされたと思った郎女が次の日に贈った歌、127は田主がそれに答えた歌です。
「遊子」を「みやびを」と訓んだのは本居宣長とされ、下の「風流士」の字もあてています。「遊子」とは「風流秀才の士」であり、また大宮人の風情をもった人の意ですが、ここでは転じて、情に対して敏感な人、物わかりのよい人というような意味になっています。郎女は、田主を「おその風流士」、つまり鈍感で無粋な風流士だといって嘲りましたが、田主は、郎女の恥ずべき振舞いは、それと知っても、わざと知らぬふりをしたのだと言外にいって嘲り返しています。
128は、さらに郎女が相手の身体についてあげつらった歌を贈り、言い返しています。左注に「足疾(あしひき)により、この歌を贈り訊(とぶら)へるなり」とあり、田主は足が悪くて引きずっていたので、それにひっかけてやり返したというのです。「耳によく似る」は、噂どおりの。「葦の末の」は「足ひく」の枕詞。「末」は、木の枝や草葉の先端。
大伴田主は、大伴安麻呂(おおとものやすまろ)の次男で、旅人の実弟、家持の叔父にあたります。左注には「容姿佳艶、風流秀絶、見る人聞く者、歎息せざることなし」とあるものの、正史に名を残していないため、五位以上の官位に就く前に、若くして亡くなったのではないかとみられています。『万葉集』にはこの1首のみ。
石川郎女については、万葉集に8首の相聞歌があり、相手の男性は7名にのぼりますが、すべてを同一人物の作と見ることは困難なようです。相手はいずれもそのころの代表的な貴公子、美男ばかりで、そうした男性と浮名を流した女性として聞こえていたようです。126・129では、大伴田主・宿奈麻呂の兄弟に思いを寄せた歌が詠まれています。
万葉時代の女性の中でも、特に奔放な恋愛を謳歌したことで知られる石川郎女ですが、彼女らが恋に積極的でありえた背景には、当時の結婚が「妻問婚」だったという事情が大きくかかわっています。庶民については確かでないものの、中流以上の家では、女は成人後も親元に残り、そこに夫である男を迎えて結婚生活を営みました。古くからの母系社会的な構造がこの時代にも残っており、経済的にも男に依存することがなかったのです。かの大伴坂上郎女も恋多き女として知られ、少なくとも3度結婚していますが、自身は親の家である佐保の邸に住み、後には家刀自として家を取り仕切っています。
巻第2-129
古(ふ)りにし嫗(おみな)にしてやかくばかり恋に沈まむ手童(たわらは)のごと [一云 恋をだに忍びかねてむ手童のごと] |
【意味】
使い古したお婆さんなのに、まあどうしたことでしょう、これほど恋に没頭するなんて。まるで幼子みたい。
【説明】
石川郎女が、大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ)に贈った歌です。宿奈麻呂は大伴安麻呂の三男で、上掲の田主の異母弟です。「古りにし」は、年をとってしまった。「嫗」は、老女の称。この時の郎女は40歳くらいだったとされます。女の方から言い寄るという、不自然な振る舞いから、「古りにし」といわずにはいられなかったでしょうか。
なお「一に云ふ」によれば、「恋すら我慢できないものなのか、聞き分けのない幼子のように」のような意味になります。
巻第4-518
春日野(かすがの)の山辺(やまへ)の道を恐(おそ)りなく通(かよ)ひし君が見えぬころかも |
【意味】
春日野の山添いの道、その恐れ多い道を恐がることもなく通って来られたあなたなのに、近ごろはいっこうにお見えになりませんね。
【説明】
ここの石川郎女は「佐保の大伴家の大刀自(女主人」とあり、大伴安麻呂の妻ということになります。大伴安麻呂は、旅人、坂上郎女の父。「春日野」は、奈良の春日山、三笠山のふもとに広がる野で、現在の奈良公園を含む地域。「妻問い婚」の時代にあっては、結ばれて夫婦になった後も、待つ身の女にとっては、こうした悩みの種は尽きなかったようです。
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賀茂真淵の『万葉考』
江戸時代中期の国学者・歌人である賀茂真淵(1697~1769年)の著書には多くの歌論書があり、その筆頭が、万葉集の注釈書『万葉考』です。全20巻からなり、真淵が執筆したのは、『万葉集』の巻1、巻2、巻13、巻11、巻12、巻14についてであり、それらの巻を『万葉集』の原型と考えました。また、その総論である「万葉集大考」で、歌風の変遷、歌の調べ、主要歌人について論じています。
真淵の『万葉集』への傾倒は、歌の本質は「まこと」「自然」であり「端的」なところにあるのであって、偽りやこまごまとした技巧のようなわずらわしいところにはないとの考えが柱にあり、そうした実例が『万葉集』や『古事記』『日本書紀』などの歌謡にあるという見解から始まります。総論の「万葉集大考」には以下のように書かれています。「古い世の歌というものは、古いそれぞれの世の人々の心の表現である。これらの歌は、古事記、日本書紀などに二百あまり、万葉集に四千あまりの数があるが、言葉は、風雅であった古(いにしえ)の言葉であり、心は素直で他念のない心である」。
さらに、若い時に『古今集』や『源氏物語』などの解釈をしてきた自身を振り返り、「これら平安京の御代は、栄えていた昔の御代には及ばないものだとわかった今、もっぱら万葉こそこの世に生きよと願って、万葉の解釈をし、この『万葉考』を著した」と記しています。そして「古の世の歌は人の真心なり。後の世の歌は人の作為である」とし、万葉の調べをたたえ、万葉主義を主張して、以後の『万葉集』研究に大きな影響を与えました。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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(柿本人麻呂)