巻第2-114~116
114 秋の田の穂向(ほむき)の寄れる片寄りに君に寄りなな言痛(こちた)くありとも 115 後(おく)れ居(ゐ)て恋ひつつあらずは追ひ及(し)かむ道の阿廻(くまみ)に標(しめ)結(ゆ)へわが背 116 人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み己(おの)が世に未(いま)だ渡らぬ朝川(あさかは)渡る |
【意味】
〈114〉秋の田の実った稲穂が一方に片寄っている。私もそのようにあの人に寄り添いたい、どんなに人の噂がうるさくても。
〈115〉後に残って恋焦がれてばかりいるより、いっそのこと追い慕って行こう。私が無事に追いつけるよう、道の曲がり角に目印をつけておいてください、あなた。
〈116〉人の噂が激しくわずらわしいので、生まれてまだ一度も渡ったことのない朝の川を渡ります。
【説明】
いずれも、但馬皇女が穂積皇子(ほづみのみこ)を恋い慕ってつくった歌です。但馬皇女は天武天皇の皇女で、穂積皇子も天武天皇の皇子ですが、異母兄にあたります。当時は母親が違えば恋愛も結婚も許されていましたが、但馬皇女はこのとき、同じく異母兄の高市皇子(たけちのみこ)の妻でした。高市皇子は父の天武天皇を助け、壬申の乱で軍事の全権を担って勝利に導いた人で、この時も政界第一の実力者でしたから、彼女の恋愛事件は宮廷社会で大きな騒ぎとなったようです。
但馬皇女の母は、藤原鎌足の娘の氷上娘(ひかみのいらつめ)であり、父鎌足の政治的な思惑によって天武天皇に献上されました。やがて生まれた娘が、今度は天皇の配慮によって、17歳も年長の高市皇子のもとへおくられたようです。その後の穂積皇子との出逢いがどのようなものだったか分かりませんが、二人は同年齢であり、おそらく皇女にとっては自分の立場も忘れるほどに運命的、決定的な出逢いだったのでしょう。
114は、但馬皇女が夫の高市皇子の宮にいながら、つまり妻でありながら、穂積皇子を恋い慕ってつくった歌。115は、勅命によって穂積皇子を近江の志賀の山寺に行かせた時に皇女がつくった歌。志賀の山寺とは天智天皇創建の崇福寺(大津市にあった)のことで、皇子が派遣された理由は不明ですが、但馬皇女との関係が露見し勅勘によって追放され、一時、僧になったとする説と、寺の造営あるいは法会などのために勅使として遣わされたという説があります。116は、穂積皇子との関係が露見した時につくった歌。
114の「穂向」は、稲穂の傾いた向き。上3句は「寄る」の比喩。「言痛くありとも」は、人の噂がうるさくても。115の「後れ居て」は、後に残って。「追ひ及く」は、追いつく。「阿廻」は、曲がり角。「標」は、本来は所有を示すしるしですが、ここでは道行きを示す目じるし。114では、たとえ噂になってもひたすら寄り添いたいと歌い、115では、激しい思いを抑えきることができず、都を離れる恋人を追って行こうと歌い、116では、事が露見した後も、自分から恋の障壁(飛鳥川)を渡って恋人に逢いたいと願っています。
当時の結婚は、男性が女性の許に通う妻問い婚が普通でしたから、それとは逆に、女性が男性を追いかけて行くというのは、かなり大胆です。実際には追っては行かなかったのでしょうが、誰の目を憚るゆとりもない、身をしぼるような切実な訴えとなっています。一方、穂積皇子は、この時には、皇女の歌に対して1首の返歌もしていません。二人の恋がいつまで続いたのかは分かりませんが、高市皇子は思いがけず43歳の若さで亡くなり、それから12年ばかりして但馬皇女も亡くなります。そして、冬の雪が降る日に彼女の墓を望見した穂積皇子は、悲嘆にくれて次の歌を詠んでいます(巻第2-203)。
〈203〉降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の岡の寒からまくに
・・・雪が降っているが、そんなに多く降らないでくれ。吉隠の猪養の岡が寒かろう。
但馬皇女の墓は、吉隠(奈良県桜井市吉隠)猪養の岡にありました。穂積皇子のいる藤原京からはかなり離れており、墓の方角を見やって、「中で眠る皇女が寒そうだから、雪よ、そんなにひどく降らないでくれ」と言っています。穂積皇子はそれから数年後、40歳を過ぎたくらいで亡くなりました。
→ 穂積皇子と但馬皇女の歌(巻第8-1513~1515)
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