巻第8-1513~1515
1513 今朝(けさ)の朝け雁(かり)が音(ね)聞きつ春日山もみちにけらし吾(あ)がこころ痛し 1514 秋萩(あきはぎ)は咲くべくあらし我が屋戸(やど)の浅茅(あさぢ)が花の散りゆく見れば 1515 言(こと)繁(しげ)き里に住まずは今朝(けさ)鳴きし雁(かり)にたぐひて行かましものを |
【意味】
〈1513〉今朝雁の声を聞いた。春日山はもう紅葉したらしい。私の心は痛む。
〈1514〉秋萩はもう咲いたに違いない。うちの庭の浅茅が花が散ったのを見ると。
〈1515〉人の噂がうるさい里には住まず、今朝鳴いた雁といっしょに飛んでい行けばよかったのに。
【説明】
1513・1514は穂積皇子(ほづみのみこ)、1515は但馬皇女(たじまのひめみこ)の歌。二人は熱烈な恋愛関係にありましたが、穂積皇子は天武天皇の第5皇子、但馬皇女も天武の皇女で二人は異母兄妹でした。しかし、当時は母親が違えば結婚も許されましたから、兄妹の間で恋愛をするのは決して珍しくありませんでした。ただ、但馬は同じく異母兄の高市皇子の妃でしたから、話はややこしくなります。やがて、二人の関係は噂になっていきます。
高市皇子は天武天皇の長子で、672年に起こった壬申の乱では父をたすけて戦い、大功をあげました。しかしながら母の身分が低かったので皇太子にはなれず、持統天皇の世になって太政大臣として迎えられ、皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えました。穂積皇子も父亡きあと持統天皇に信任され、位階も順当に進みました。また、多情多感な貴公子であったことも知られ、『万葉集』には4首の歌を残しています。
1513の「朝け」は、朝明けの約。夜明け方、早朝。「もみちにけらし」の「もみち」は、紅葉する意の動詞。「けらし」は、過去の事柄の根拠に基づく推定。1514の「咲くべくあらし」の原文は「可咲有良之」で、「咲くべくあるらし」「咲きぬべからし」などと訓むものもあります。「浅茅」は、背丈の低い茅花(つばな)。1515の「言繁き」は、人の噂がうるさい。「たぐひて」は、伴って、一緒に。「行かましものを」の「まし」は反実仮想。「ものを」は、詠嘆。
作家の田辺聖子は、1513について次のように述べています。「まことに近代的な憂愁というべきか、流麗なしらべ、沈潜した物がなしさ、すでにしてかの、高らかにうたい上げるという白鳳期の人麻呂や額田王の時代を去り、といって家持もまだ生まれていない、宮廷詩人の時代は終わったが、まだ個人的感性を育てるにはいたらない、そういう時代に、すでに穂積皇子は、『わが心痛し』・・・と、吐息とも呻吟ともつかぬ思いを洩らすのである」。斎藤茂吉は、「但馬皇女との御関係があったのだから、それを参考にするとおのずから解釈できる点がある」と述べ、また1515の皇女の歌については、「甘く迫る語気がある」と評しています。
(関連歌)⇒但馬皇女の歌(巻第2-114~116)
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巻第8-1516
秋山にもみつ木(こ)の葉のうつりなばさらにや秋を見まく欲(ほ)りせむ |
【意味】
秋山の紅葉した木の葉が散ってしまったなら、さらにいっそう、色づく秋を見たくてならなくなるだろう。
【説明】
「山部王(やまべのおほきみ)、秋葉(もみち)を惜しむ」歌。山部王は伝未詳で、山前王(忍壁皇子の子)の誤りかともいわれます。「もみつ」は、紅葉する。「うつりなば」は、散ってしまったならば。
巻第8-1534
をみなへし秋萩(あきはぎ)折れれ玉桙(たまほこ)の道行きづとと乞(こ)はむ子がため |
【意味】
女郎花も秋萩も手折っておきなさい。旅のおみやげは?と言ってせがむ愛しい妻のために。
【説明】
石川朝臣老夫(いしかわのあそみおきな)は、伝未詳、『万葉集』にはこの1首のみ。「をみなえし」は原文では「娘子部志」となっており、『万葉集』ではほかに「姫押」「姫部志」「佳人部志」などの字があてられています。この時代にはまだ「女郎花」の字は使われていませんでしたが、いずれも美しい女性を想起させるものです。「姫押」は「美人(姫)を圧倒する(押)ほど美しい」意を語源とする説もあるようです。「折れれ」は「折れり」の命令形。折っておきなさい。「玉桙の」は「道」の枕詞。「道行きづと」は、旅のみやげ。
旅の帰途にあって、同行の誰かに語りかけた歌、あるいは帰途につく旅人を見送った時の歌でしょうか。その優しい心遣いと、みやげの花を受け取って喜ぶ妻の姿が思い浮かぶようです。
巻第8-1536
宵(よひ)に逢(あ)ひて朝(あした)面(おも)なみ名張野(なばりの)の萩は散りにき黄葉(もみち)早(はや)継(つ)げ |
【意味】
宵に逢って翌朝には恥じらって面と向かえず隠(なば)るという、その名張野の萩は散ってしまった。もみじよ、すぐに続け。
【説明】
縁達帥(えんだちし)は伝未詳。縁達は僧の名、師は法師かとも言います。上2句は「名張」を導く序詞。「面なみ」は、恥ずかしいので。「名張野」は、三重県名張市付近の平野で、京から伊勢へ通じる要路にあたります。「名張」と「隠(なば)り」を掛けています。
巻第8-1543
秋の露(つゆ)は移しにありけり水鳥(みづどり)の青葉(あをば)の山の色づく見れば |
【意味】
秋の露は染料だったのか。青く茂っていた山が、秋の色に染まっていくのを見ると。
【説明】
三原王(みはらのおおきみ)は、舎人皇子の子で、淳仁天皇の兄。『万葉集』には、この1首のみ。「移し」は、染料。正確には移し染めの材料のことで、染料を紙、布、綿などに染ませ、それをさらに染めようとする物に移しました。ここでは、秋の露を木の葉を紅葉させる染料に見立てています。「水鳥の」は、その羽の多くが青いところから、「青」に掛かる枕詞。
巻第8-1556
秋田刈る仮廬(かりいほ)もいまだ壊(こほ)たねば雁(かり)が音(ね)寒し霜(しも)も置きぬがに |
【意味】
秋田の田を刈り取るために作った仮小屋もまだ取り払っていないのに、早くも雁が寒々とした鳴き声を発している。霜が降りるばかりに。
【説明】
忌部首黒麻呂(いむべのおびとくろまろ)は、天平宝字2年(758年)に従五位下。「仮廬」は、稲刈りのために作った仮小屋、番小屋。「壊たねば」は、取り払ってもいないのに。「雁が音」は、雁の鳴き声。「置きぬがに」の「がに」は、ほどに、ばかりに。農民の立場に立って、季節の移ろいの慌しさをうたっている歌で、当時の下位の官人は農民に直に接し、またそれに近い生活をしていたと見られます。
巻第8-1573
秋の雨に濡(ぬ)れつつ居(を)れば賤(いや)しけど我妹(わぎも)が宿(やど)し思ほゆるかも |
【意味】
秋の雨に濡れて佇んでいると、粗末ながらも妻の住む家が思われてならない。
【説明】
大伴利上(おおとものとしかみ)は、他には見えず伝未詳。大伴村上(巻第8-1436~1437ほか)の誤りではないかともいわれます。「いやしけど」は、粗末だけれど、むさくるしいけれど。「宿し」の「し」は、強意。「かも」は、詠嘆。雨をしのぐ場所もない所を歩いており、家からそれほど遠くない旅先での歌とされます。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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