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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

舎人皇子と舎人娘子の歌

巻第2-117~118

117
丈夫(ますらを)や片恋ひせむと嘆けども醜(しこ)の大夫なほ恋ひにけり
118
嘆きつつ大夫(ますらを)の恋ふれこそ我(わ)が髪結(かみゆ)ひの漬(ひ)ちて濡(ぬ)れけれ
 

【意味】
〈117〉丈夫(ますらお)たるもの、片思いなどするものかと嘆いても、情けない丈夫だ、やはりどうしても恋しい。

〈118〉嘆き続け、立派なお方が私を恋い焦がれていらっしゃるからこそ、結い上げた私の髪がぐっしょり濡れてほどけてしまったのですね。

【説明】
 117は、舎人皇子(とねりのみこ)が舎人娘子(とねりのおとめ)に贈った歌。舎人皇子は天武天皇の第三皇子で、後に『日本書紀』編纂に携わり、中心的な役割を果たしたとされます。「舎人」の名は、乳母が舎人氏であったところから称せられたのではないかといわれます。『万葉集』には3首の歌を残しています。735年没。
 
 117の「丈夫(ますらお)」は「まされる男」を語源とする説が有力で、『万葉集』では、たくましく強い男を多く指します。しばしば「大夫」とも書かれ、中国の士・大夫(たいふ)が意識されており、官人貴族の指標の一つであったことがうかがえます。「片恋ひ」は、片思い、一方的な愛情。「せむ」の「む」は、推量の助動詞。「醜の大夫」の「醜」は、みにくい、の意で、柄にもなく恋に悩む様子を自ら嘲って嫌悪しています。

 江戸時代中期の国学者・賀茂真淵が『万葉集』の歌風を「ますらをぶり」と評したように、『万葉集』には「ますらを」の語が、その変化形を含むと60例以上も出てきます。力と勇気に満ち、私情を捨てて公に尽くす男の表現でありますが、実際は、「ますらを」が歌を歌う時とは、覆い隠していた私情が漏れ出る時であるようです。

 118は、舎人娘子が答えた歌。舎人娘子は伝未詳ながら、皇子の傅(ふ)だった舎人氏の娘ではないかともいわれます。舎人氏は帰化人の末とされます。「漬つ」は、びっしょり濡れる意。「濡れけれ」の「ぬる」は、結んだものがゆるんでほどける意。「けれ」は過去の助動詞。当時の人々は、人の嘆きは霧になって現れると考え、また、結った髪や結んだ紐が自然にほどけるのは、想い人が自分を思ってくれているからだと考えていました。娘子は、皇子の恋の嘆きが霧となって現れたために自分の髪が濡れてほどけてしまったと言い、皇子の片恋を婉曲に否定しつつ、御心を受け入れようとしています。

舎人皇子の歌

巻第9-1706

ぬばたまの夜霧(よぎり)は立ちぬ衣手(ころもで)を高屋(たかや)の上にたなびくまでに

【意味】
 夜霧がたちこめている。屋敷の高殿の上まですっぽり覆いつくしてたなびくほどに。

【説明】
 『柿本人麻呂歌集』に載っている歌。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「衣手を」は「高屋」の枕詞。「高屋」は、邸内の高楼。一方、「高屋」は、現在の桜井市高家の地名であり、飛鳥から東にある高家の方を見て詠まれた歌ではないかとする見方もあります。

巻第20-4294

あしひきの山に行きけむ山人(やまびと)の心も知らず山人や誰(たれ)

【意味】
 わざわざ、人里離れた山まで行かれたという山人のお気持ちもはかりかねます。お会いになった山人とは、いったい誰のことなのでしょう。

【説明】
 元正太上天皇(太上天皇は上皇のこと)が山村に行幸した時、上皇が詠んだ次の歌に和した歌です。

〈4293〉あしひきの山行きしかば山人の我に得しめし山づとそこれ
 ・・・人里離れた山を歩いていたら、その山に住む山人が私にくれた山のお土産なのです、これは。

 「あしひきの」は「山」の枕詞。「山人」は、山に住んでいる人の意ですが、ここでは天皇が尊んで言っているので、仙人を意味します。当時は神仙思想が流行っていた時代であり、天皇もそれを信じておられたようです。「我に得しめし」は、私に与えた。「山づと」は、山で採れた土産。これに対し皇子は、上皇の御所を仙洞御所と呼んでいたことから、上皇を「仙女」にたとえて戯れています。つまり、仙人が仙人に逢ったとは解しかねる、と言っています。

 窪田空穂は、「(天皇の)御歌の語に即しつつも、内容はすっかり変え、今日山にいらっしゃったという天皇は、すでに人界を超えた仙人でいらっしゃるのに、それとも知らずに、仙人の振舞いをした人は誰であるぞ、といって、天皇のすでに不老不死の仙人でいらせられることを、和え歌の形をもって賀したのである。行幸の際は賀歌を奉るのが習いとなっていたので、山踏みをなされた天皇を、御歌と同じく仙人につなぎ合わせるということは、この場合不自然ではなかったのである。和え歌という条件の下に、賀の心を安らかに言いおおせて、しかも高い意気を示しているところ、すぐれた技巧である」と評しています。

舎人娘子の歌

巻第1-61

大丈夫(ますらを)のさつ矢(や)手挟(たばさ)み立ち向ひ射(い)る圓方(まとかた)は見るにさやけし

【意味】
 ますらおが、矢を手挟んで立ち向かい射貫く的、その名の圓方の浜は見るからに清々しい。

【説明】
 大宝2年(702年)の持統天皇三河行幸に従駕したときの作。この歌から、舎人娘子は持統天皇に仕えた宮女だったのではないかともいわれます。「大丈夫の~射る」は「圓方」を導く序詞。「圓方」は「的」の意味で続き、地名の「圓方(三重県松坂市)」の「圓」に転じています。「さつ矢」は、神の加護がある幸多き矢の意で、矢のほめ言葉。

 土地を讃える歌の場合、その土地を修飾する枕詞、あるいは序詞を用い、さらにその土地の愛でたさを言い添えるのが型になっています。ここでも3句以上の長い序詞を用いて「圓方」を言い、讃える語も添えられています。

巻第8-1636

大口(おほくち)の真神(まがみ)の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに

【意味】
 真神の原に降っている雪よ、そんなにひどく降らないでほしい。身を寄せるべき家はないのだから。

【説明】
 「大口の」は、口が大きい意で、狼を真神と称したところから「真神」の枕詞。「真神の原」は、明日香村にある飛鳥寺の南方の原。「いたくな降りそ」の「いたく」は、ひどく、「な~そ」は、禁止。人家のない真神の原を通っていて、折から降ってきた雪に呼びかけているとみられ、立ち往生している様子が目に浮かびます。率直な歌ですが、あるいは誰かに贈った歌ではないかともいわれ、もしそれだと、いったい何を意味しているのでしょう。

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皇子
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草壁皇子
大津皇子
忍壁皇子
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舎人皇子
長皇子
弓削皇子
新田部 皇子(生年未詳)
磯城皇子(生没年未詳)

皇女
十市皇女
大伯皇女
但馬皇女
田形皇女
託基皇女
泊瀬部皇女(生年未詳)
紀皇女(生没年未詳)


(天武天皇)

『日本書紀』

奈良時代に成立した勅撰の歴史書。『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、養老4年(720年)に舎人皇子主裁のもと完成したと伝わるが、その編集過程は未詳。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたり、神典の一つに挙げられる。天地開闢で始まる神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文により年紀をたてて編年体で配列されている。全30巻のうち2巻までが神代。 『古事記』がおもに天皇家の歴史を示しているのに対し、『日本書紀』は国家の公式な歴史を記すものとなっているが、両者の関係は深く、『古事記』の撰録者である太安万侶(おおのやすまろ)も編纂者として参加している。

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