巻第9-1682~1686
1682 とこしへに夏冬行けや裘(かはごろも)扇(あふぎ)放(はな)たぬ山に住む人 1683 妹(いも)が手を取りて引き攀(よ)ぢふさ手折(たお)り我(わ)が挿(かざ)すべく花咲けるかも 1684 春山は散り過ぎぬとも三輪山(みわやま)はいまだ含(ふふ)めり君待ちかてに 1685 川の瀬の激(たぎ)ちを見れば玉かも散り乱れたる川の常(つね)かも 1686 彦星(ひこほし)のかざしの玉し妻恋(つまごひ)に乱れにけらしこの川の瀬に |
【意味】
〈1682〉いつだって夏と冬が同時にやってくることなどないのに、毛皮の衣と扇を放そうとはしない、山に住む仙人は。
〈1683〉あの娘の手を取って引き寄せるようにつかみとって、私の髪飾りにするほどに花を咲かせたことだ。
〈1684〉春の山の花々は散ってしまった。でも、三輪山だけはつぼみのままでいます。あなたのおいでを待ちかねて。
〈1685〉川瀬の激しい流れを見ると、きれいな玉が散り乱れているかのようだ。いつもこのような川なのか。
〈1686〉天上の彦星の髪を飾っていた玉が、妻恋しさに乱れて散り落ちたらしい、この川の瀬に。
【説明】
1682は「忍壁皇子(おさかべのみこ)に獻(たてまつ)る歌」とあり、皇子の邸にあった仙人の姿を描いた絵か何かに添えた歌と考えられています。忍壁皇子は、天武天皇の第9皇子。「山に住む人」は、仙人のこと。神仙思想は、この時代には上流の知識階級にかなり浸透していたとされますが、この歌は、皇子の興を買おうとしての即興で、仙人を尊ぶ心は見られません。
1683・1684は「舎人皇子(とねりのみこ)に献る歌」。舎人皇子は、天武天皇の第3皇子。1683の「妹が手を」は「取りて」の枕詞。「引き攀ぢ」は、引き寄せる。「ふさ手折り」は、ふさふさと手折って。宴席の装飾として花をかざしにする風習があったため、その席で詠まれた歌とみられています。1684の「三輪山」は、奈良県桜井市三輪の山。大神(おおみわ)神社の神体とされています。「含めり」は、花が開ききらないままである。「含(ふふ)む」は、もともと口の中に何かを入れる意で、その口がふくらんだ様子から蕾がふくらむ意に転じた語です。「かてに」は、できないで、しかねて。
1685・1686は「泉川の辺にして間人宿禰(はしひとのすくね)の作れる歌」。間人宿禰は伝未詳。「泉川」は、京都府南部を流れる木津川。1685の「激ち」は、水の激しい流れ。「川の常かも」は、この川の平生のさまなのか。1686の「乱れにけらし」は、乱れ散ったのであろう。連作となっており、川の水の泡立ち流れるのを玉と見ただけでは心足らず、それを天上の物であるとし、彦星の妻恋の嘆きを連想してうたっています。七夕の日が近い秋の時季だったのかもしれません。
巻第9-1687~1689
1687 白鳥(しらとり)の鷺坂山(さぎさかやま)の松陰(まつかげ)に宿(やど)りて行かな夜(よ)もふけ行くを 1688 あぶり干(ほ)す人もあれやも濡れ衣(ぎぬ)を家には遣(や)らな旅のしるしに 1689 荒磯辺(ありそへ)につきて漕(こ)がさね杏人(からたち)の浜を過ぐれば恋(こほ)しくありなり |
【意味】
〈1687〉鷺坂山の松蔭に泊まろう。夜も更けてきたことだから。
〈1688〉ずぶぬれになった着物を火にあぶって乾かしてくれる人がいるはずもいない。いっそ家に送ろうか旅路にいるという証拠に。
〈1689〉岩場に沿って船を漕いでください。杏人の浜を過ぎれば恋してたまらなくなるそうだから。
【説明】
1687は「鷺坂(さぎさか)にて作れる歌」一首。鷺坂は今の京都府城陽市久世にある坂道で、大和から近江へ行く街道にあたります。「白鳥の」は「鷺」の枕詞。「鷺坂山」は、鷺坂にある丘といわれています。「行かな」の「な」は、意志・願望。
1688・1689は「名木川(なきがわ)にて作れる歌」2首。名木川は、京都府宇治市南部を流れていた川ではないかとされます。1688の「あれやも」の「やも」は、反語。あろうか、ありはしない。「遣らな」の「な」は、意志・願望。この歌のように、衣を干すことが家妻の象徴のように歌われている歌は、巻第9の行旅歌群にも多く見られ、当時の男たちは妻のこの仕事に愛の姿を見出そうとしていたようです。1689の「荒磯辺」は、岩石が露わになっている海岸。「漕がさね」の「さ」は敬語、「ね」は、願望。「杏人の浜」は、未詳。名木川ではなく琵琶湖を航行している時の作で、舟子に言った言葉を歌にしたものとされます。
巻第9-1690~1693
1690 高島(たかしま)の阿渡(あど)川波(かはなみ)は騒(さわ)けども我(わ)れは家(いへ)思ふ宿(やど)り悲しみ 1691 旅なれば夜中(よなか)をさして照る月の高島山(たかしまやま)に隠(かく)らく惜(を)しも 1692 我(あ)が恋ふる妹(いも)は逢(あ)はさず玉の浦に衣(ころも)片敷(かたし)き独(ひと)りかも寝(ね)む 1693 玉櫛笥(たまくしげ)明けまく惜(を)しきあたら夜(よ)を衣手(ころもで)離(か)れて独りかも寝(ね)む |
【意味】
〈1690〉高島の安曇川は波だって騒がしいけれども、私はただひたすら家のことばかり思っている。旅のひとり寝が悲しくて。
〈1691〉旅の途上にあっても、ま夜中に向けて照り輝く月が、高島山に隠れていくのが惜しくてならない。
〈1692〉私が恋い焦がれるあの子は逢ってくれようとしない。この玉の浦で、着物を独りで敷いて寂しく寝るしかないのか。
〈1693〉このまま明けてしまうのが惜しい夜なのに、恋しい人の袖もなく、私は独りで寝るしかない。
【説明】
1690・1691は「高島にて作れる歌」。「高島」は、今の滋賀県高島市で、琵琶湖の西岸。1690の「阿渡川」は、現在の安曇川で、東流して琵琶湖に流れ出る川。1691の「夜中」は原文「三更」で、本来は夜半の意ですが、ここでは地名とする説もあります。「高島山」は、高島の地の山であるものの、その名が伝わっていないので、どの山か分かっていません。「隠らく」は「隠る」の名詞形。
1692・1693は「紀伊国にて作れる歌」。1692の「逢はさず」は「逢はず」の敬語。「玉の浦」は、和歌山県那智勝浦町の海岸。「衣片敷く」は、自分の衣だけを敷くことから、独り寝する意。「独りかも寝む」の「か」は疑問、「も」は詠嘆。窪田空穂は、「語が美しく艶があり、調べも張っているので、魅力のあるものとなっている。すぐれた手腕である」と評しています。1693の「玉櫛笥」は「明け」の枕詞。「明けまく」は「明けむ」の名詞形。「あたら夜」は、明けるのが惜しい夜。上の歌との連作で、以前に関係があって、その地に行ったら逢おうとしていた女と、予期に反して逢えない嘆きをうたっています。
巻第9-1694~1698
1694 栲領巾(たくひれ)の鷺坂山(さぎさかやま)の白つつじ我(わ)れににほはね妹(いも)に示さむ 1695 妹(いも)が門(かど)入(い)り泉川(いづみがは)の常滑(とこなめ)にみ雪残れりいまだ冬かも 1696 衣手(ころもで)の名木(なき)の川辺(かはへ)を春雨に我(わ)れ立ち濡(ぬ)ると家思ふらむか 1697 家人(いへびと)の使ひにあらし春雨の避(よ)くれど我(わ)れを濡(ぬ)らさく思へば 1698 あぶり干(ほ)す人もあれやも家人(いへびと)の春雨すらを間使(まつか)ひにする |
【意味】
〈1694〉鷺坂山の白つつじよ、私の衣をみごとに染めてくれ、帰って妻に見せるから。
〈1695〉妻の家の門を出入りする時に見る、泉川の石にはまだ雪が残っている、まだ冬なのだろうか。
〈1696〉名木(なき)の川辺で、私が春雨に濡れて立っていると、家の妻は思ってくれているだろうか。
〈1097〉 これは家族の使いなのだろうか。春雨が、いくら避けようとしてもしつこく私を濡らしてしまうのを思えば。
〈1698〉濡れた着物を干してくれる人などありはしないのに、家の妻は疑って、春雨までも使いに寄こしてくる。
【説明】
1694は「鷺坂にて作れる歌」。「栲領巾の」の「栲領巾」は 楮(こうぞ)などの繊維で織った栲布(たくぬの)で作った領巾(ひれ)で、女性の肩にかける飾り布。その白く細いところが鷺の頭の長い毛に似ているところから「鷺坂山」の枕詞。「鷺坂山」は、今の京都府城陽市久世にある丘といわれています。「にほふ」は、美しい色に染まる、色に現れる。
1695は「泉川にて作れる歌」。「泉川」は、奈良県を流れる木津川。「妹が門入り出(い)づ」と「泉川(いづみがは)」が掛詞になっています。「常滑」は、上面が床のように平らになっている大岩。「み雪」の「み」は、接頭語。
1696~1698は「名木川にて作れる歌」。「名木川」は、宇治市南部を流れる川かといわれます。1696の「衣手の」は、続きの意が不確かながら「名木」の枕詞。衣の袖がなえて和(な)ぐ意の和(な)ぎを、同音で名木に続けたとする見方があります。「家」と1697の「家人」は、妻のことを言っており、この2首は連作とされます。1698の「あれやも」の「やも」は、反語。「間使ひ」は、二人の間を往来する使い。適当な雨具や雨着がなかった時代であり、雨にあう侘しさをうたった歌は集中に数多くあります。
巻第9-1699~1700
1699 巨椋(おほくら)の入江(いりえ)響(とよ)むなり射目人(いめひと)の伏見(ふしみ)が田居(たゐ)に雁(かり)渡るらし 1700 秋風に山吹(やまぶき)の瀬の鳴るなへに天雲(あまくも)翔(かけ)る雁(かり)に逢へるかも |
【意味】
〈1699〉巨椋池の入江が騒がしくなった。射目人が伏すという伏見の田園に、雁が飛び渡っていく音らしい。
〈1700〉秋風吹く山吹の瀬の音が鳴り響いているが、折も折、はるか天雲の彼方を翔けていく雁の群れが見える。
【説明】
「宇治川にて作れる歌」。1699の「巨椋の入江」は、宇治市の西にあった巨椋池(おぐらいけ)。雨が多く降ると宇治川の水と連なって江湾となるため、「入江」とも呼ばれたとされます。「射目人の」は、狩猟のときに隠れ伏して弓を射る人の意で、「伏し」と続いて「伏見」の枕詞。「伏見」は、京都市の桂川と宇治川の合流地。「田居」は、田んぼ。斎藤茂吉は、「入江響むなり」と、ずばりと言い切っているのは古調のいいところであり、こうした使い方は万葉にも少なく簡潔で巧みなもの、さらに、調べが大きく、そして何処かに鋭い響きを持っているところは、或いは人麻呂的、とも言っています。
1700の「山吹の瀬」は所在未詳ながら、宇治橋下流の瀬ではないかとされます。「なへに」は、とともに、と同時に。窪田空穂は、「自然界の大きな力をもって動乱するさまを、子細に見やって、その力を身に感じている」歌と評しています。
1701 さ夜中と夜(よ)は更けぬらし雁(かり)が音(ね)の聞こゆる空に月渡る見ゆ 1702 妹(いも)があたり繁(しげ)き雁(かり)が音(ね)夕霧(ゆふぎり)に来(き)鳴きて過ぎぬすべなきまでに 1703 雲隠(くもがく)り雁(かり)鳴く時は秋山の黄葉(もみち)片待つ時は過ぐれど 1704 ふさ手折(たを)り多武(たむ)の山霧(やまぎり)繁(しげ)みかも細川(ほそかは)の瀬に波の騒(さわ)ける 1705 冬こもり春へを恋ひて植ゑし木の実になる時を片待つ吾等(われ)ぞ |
【意味】
〈1701〉夜は更けて真夜中に入っているようだ。雁が鳴きながら渡っていく夜空を月も渡っていくのが見える。
〈1702〉妻の家のあたりで騒がしい雁の声が聞こえていたが、夕霧の中を鳴きながら来て通り過ぎていった。ああ、どうしようもなく切ないことだ。
〈1703〉雲に見え隠れし雁が鳴く時になると、秋山のもみじがひたすら待ち遠しい。雁の季節が過ぎていくのは残念だけれど。
〈1704〉枝を手折ってたくさんためるという、多武に立ちこめた霧が深いためか、ここ細川の瀬の波音が高い。
〈1705〉冬のさなかに、春が来るのを心待ちにして植えた木が、花開いて実になる時を、ただじっと待ち続けている我らであります。
【説明】
1701~1703は弓削皇子に献上した歌。弓削皇子は、天武天皇の第9皇子。1701の「さ夜中」の「さ」は接頭語。斎藤茂吉はこの歌について、「ありのままに淡々と言い放っているのだが、決してただの淡々ではない。本当の日本語で日本的表現だということもできるほどの、流暢にしてなお弾力を失わない声調」と評しています。この歌は巻第10-2224に類歌が存在し、『古今集』でも「空を」を「空に」として採録しており、人々に愛唱され、伝承されたものと見えます。1702の「すべなきまでに」は、どうしようもないほどに私を悲しませて。1703の「片待つ」は、ひたすら待つ。結句の「時は過ぐれど」を「時は過ぎねど」と訓んで「その季節は来ないけれども」と解するものもあります。
1704~1705は舎人皇子に献上した歌。舎人皇子は、天武天皇の第3皇子。1704の「ふさ手折り」は、ふさふさと手折ってたわむ意で「多武」の枕詞。「多武の山」は、奈良県桜井市南方の多武峰(とうのみね)。「かも」は、疑問。窪田空穂は、「捉えていっていることは、多武の山と細川の、その目立った秋霧の状態という、微細なものであるから、これは皇子が目にしていられるものでなくては意味をなさない。皇子の少なくともその日の御座所がその辺りにあって、そこへ伺候した人麿が挨拶代わりに詠んだという関係のものと思われる。・・・感覚の微細に働いた歌である。こうしたことは、そこの状態を見馴れている者でないと興味を感じないことで、二人の間にのみ通じる心である。一首の調べが張っていて、心をこめて詠んだものである点から見て、皇子と人麿の関係が思わせられる」と述べています。
1705の「冬こもり」は「春」の枕詞。「春へ」は、春のころ。「片待つ」は、ひたすら待つ。この歌について窪田空穂は、「何事かを譬喩的にいっているもので、その本義の何であるかは、皇子と人麿以外にはわからないことである。舎人皇子は皇子の中でも勢力のある人であり、人麿はきわめて身分が低かったらしく、また、『吾』を『吾等』といっているので、代弁者という形である。秋、移植した木の、春、花が咲き実の結ぶのを片待つということは、常識的に考えると、春を定期の叙任の時とし、その時の推挙支持を皇子に乞いたいとの心をほのめかしたものではないかと思われる」と述べています。
一方、斎藤茂吉は、さまざまな寓意が込められているとしていろいろな解釈を加えようとする向きがあるのに対し、斎藤茂吉は、これだけの自然観照をしているのに寓意寓意というのは鑑賞の邪魔物であると断じています。
巻第9-1707~1711
1707 山背(やましろ)の久世(くせ)の鷺坂(さぎさか)神代(かむよ)より春は張りつつ秋は散りけり 1708 春草(はるくさ)を馬(うま)咋山(くひやま)ゆ越え来(く)なる雁(かり)の使(つか)ひは宿(やど)り過ぐなり 1709 御食(みけ)向(むか)ふ南淵山(みなぶちやま)の巌(いはほ)には降りしはだれか消え残りたる 1710 我妹子(わぎもこ)が赤裳(あかも)ひづちて植ゑし田を刈りて収(をさ)めむ倉無(くらなし)の浜 1711 百伝(ももづた)ふ八十(やそ)の島廻(しまみ)を漕ぎ来れど粟(あは)の小島(こしま)は見れど飽(あ)かぬかも |
【意味】
〈1707〉山城の久世の鷺坂には、遠い神代の昔から、春になると木々が芽吹き、秋にはこのように散ってきたことである。
〈1708〉春の草を馬が食う、その咋山を越えてやってきた雁の使いは、何の伝言も持たず、この旅の宿りを通り過ぎていくようだ。
〈1709〉南淵山の山肌の巌には、はらはらと降った淡雪がまだ消えずに残っている。
〈1710〉愛しい妻がが赤裳を泥まみれにして植えた田が、刈り入れの時期を迎えたのに、刈りとって収める倉がないという、この倉無の浜よ。
〈1711〉多くの島々を漕ぎ巡って来たけれど、粟の小島のこの景色はいくら見ても見飽きることがない。
【説明】
1707は「鷺坂(さぎさか)にて作れる歌」。「鷺坂」は、京都府城陽市久世の久世神社東方にある坂道。「張り」は、草木が芽を出すこと。「つつ」は、継続。「けり」は詠嘆で、事実が過去から現在まで繰り返し行われてきたことを表す用法。1708は「泉河の辺(ほとり)にて作れる歌」。「泉河」は、木津川。「春草を馬」は、春の草を馬が咋うと続け「咋山」の「咋」に転じて7音の序詞としたもの。「咋山」は、京田辺市飯岡の丘。「ゆ」は、経過地点を表す語。「使ひ」は、他所へ出かけて行き伝言したりすること、また、その人。「雁の使ひ」は、漢の蘇武(そぶ)が匈奴(きょうど)に捕らえられた時、雁の足に手紙を付けて故郷に送ったという『漢書』蘇武伝の故事を踏まえた表現で、『万葉集』中に何例か見られます。
1709は、弓削皇子に献上した歌。「御食向ふ」は「南」に掛かる枕詞で、ここでは「南淵山」の枕詞。「御食」は貴人の食事の意ですが、掛かり方は未詳。「南淵山」は、明日香村稲淵の山。「はだれ」は、薄く降る雪。この歌も寓意云々が指摘されますが、斎藤茂吉は「学者等の一つの迷いである」として、「叙景歌として、しっとりと落ち着いて、重厚にして単純、清厳ともいうべき味わい」と言っており、国文学者の池田彌三郎は、「春先の雪を歌っているのだから、この歌は初春の言寿(ことほぎ)の歌で、それを弓削皇子に献上したのだ」と言っています。南淵山と皇子との関係は不明ながら、皇子の邸から近くに見える山だったともいわれます。
1710・1711は、左注に「或いは柿本人麻呂が作といふ」とあります。1710の「ひづち」は、泥によごれて。上4句までが「倉無」を導く序詞という極端な形になっており、「旅をしている都の人(人麻呂?)が倉無という地名に出会って、その名から物語を作った」ものという見方があります。「倉無の浜」は、所在未詳。1711の「百伝ふ」は、数えていって百に達する意から「八十」の枕詞。「八十」は、数の多いこと。「粟の小島」は、播磨灘のいずれの島かとされますが、未詳。
巻第9-1715・1720・1721ほか
1715 楽浪(ささなみ)の比良山風(ひらやまかぜ)の海吹けば釣りする海人(あま)の袖(そで)返る見ゆ 1720 馬 並(な)めてうち群(む)れ越え来(き)今日(けふ)見つる吉野の川をいつかへり見む 1721 苦しくも暮れゆく日かも吉野川(よしのがは)清き川原(かはら)を見れど飽(あ)かなくに 1722 吉野川(よしのがは)川波(かはなみ)高み滝(たき)の浦を見ずかなりなむ恋(こひ)しけまくに |
【意味】
〈1715〉比良山から湖上に吹き下ろす風に、釣り人の着物の袖がひらひらと翻っている。
〈1720〉馬を並べ鞭をくれながらみんなで山を越えてきて、今日やっと吉野川を見ることができた。この美しい川の流れをいつまた見ることができるだろう。
〈1721〉残念ながら日が暮れて行く。吉野川の清らかな川原は、いくら見ていても飽きることがないというのに。
〈1722〉吉野川の波が高いので、上流の滝の入江までは見ずに終わってしまいそうだ。後で悔やむことになりそうだ。
【説明】
1715は、題詞に「槐本(えにすのもと)の歌一首」とあるものの、「槐本」は「柿本」の誤写だとして、人麻呂の作とみる説があります。「楽浪」は、琵琶湖の西南沿岸。「比良山風」は、比良山から吹き降ろす風。「比良山」は、京都府と滋賀県との境に立つ山で、伊吹山と相対しています。「海」は、琵琶湖。「返る」は、ひるがえる。斎藤茂吉はこの歌を、「張りのある清潔音の連続で、ゆらぎの大きい点も人麻呂調を連想せしめる、まず人麻呂作といっていいものだろう」と言っています。
1720~1722は「元仁(がんにん:伝未詳)の歌三首」とあり、吉野へ遊んだ歌。以下6首は、吉野へ遊んだ歌が収められています。1720の「馬並めて」は、友と乗馬を並べて。1722の「高み」は、高いので。「浦」は、流れが湾曲した入江。当時の人は、池や川に対して、海の名を流用して喜んでいました。「見ずかなりなむ」は、見ずに終わるのだろうか。「恋しけ」は、形容詞「恋し」の未然形。「まく」は、推量の助動詞「む」の名詞形。「に」は、詠歎。
巻第9-1723~1725
1723 かわづ鳴く六田(むつた)の川の川柳(かはやぎ)のねもころ見れど飽(あ)かぬ川かも 1724 見まく欲(ほ)り来(こ)しくも著(しる)く吉野川(よしのがは)音(おと)のさやけさ見るにともしく 1725 いにしへの賢(さか)しき人の遊びけむ吉野の川原(かはら)見れど飽(あ)かぬかも |
【意味】
〈1723〉河鹿が鳴く六田の川の川柳、その根のように念入りに見ても、見飽きることのない川だ。
〈1724〉一度見てみたいと思ってやって来た甲斐があって、吉野川の瀬音の何とすがすがしいことか。見れば見るほど魅せられる。
〈1725〉昔の賢人たちも来て遊んだという吉野の川原、この川原は、見ても見ても見飽きない。
【説明】
1723は、題詞に「絹が歌」とあるものの、「絹」は伝未詳。土地の遊行女婦あるいは絹麻呂などの略称か。「川柳」は、川岸の柳。上3句は「ねもころ」を導く序詞。「かはづ」は、カジカガエル。「六田の川」は、吉野川の奈良県吉野郡の六田の地での呼称。「川柳」は、川岸の柳。「ねもころ」は、念入りに。
1724は、題詞に「島足(しまたり)が歌」とあるものの、「島足」は伝未詳。「見まく欲り」は、見たいと願って。「来しく」は「来し」の名詞形。「著く」は、効果があって。「ともしく」は、心惹かれて、珍しくして。
1725は、題詞に「麻呂が歌」とあるものの、「麻呂」は伝未詳。人麻呂かともいわれます。「いにしへの賢しき人」は、天武天皇の御製(巻第1-27)の「よき人」を意識しているとされます。「遊びけむ」の「けむ」は、過去の伝聞。窪田空穂は、「吉野川の河原を見て、言い伝えとなっている古の賢い人の遊んだ所だと思ってなつかしむというのは、この当時としては深みのある心で、上の五首とは類を異にしている。人麿の詠み口ではあるが、それとしては凡作である」と述べています。
巻第9-1761~1762
1761 三諸(みもろ)の 神奈備山(かむなびやま)に 立ち向かふ 御垣(みかき)の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝月夜(あさづくよ) 明けまく惜しみ あしひきの 山彦(やまびこ)響(とよ)め 呼び立て鳴くも 1762 明日(あす)の宵(よひ)逢はざらめやもあしひきの山彦(やまびこ)響(とよ)め呼び立て鳴くも |
【意味】
〈1761〉神奈備山に向き合う御垣の山並みの中で、秋萩の花妻と手枕を交わそうと、有明の月の夜が明けてゆくのを惜しむように、山彦を響かせて、雌鹿がしきりに呼び立てて鳴いている。
〈1762〉今宵に逢えないはずはなかろう。それなのに山彦を響かせて、雌鹿がしきりに呼び立てて鳴いている。
【説明】
「鳴く鹿を詠んだ」一首と短歌。1761の「三諸」は、神の降臨する場所。「神奈備山」は、神霊が鎮座する山。ここでは明日香の雷丘(いかずちのおか)か。「御垣の山」は、甘樫丘(あまかしのおか)か。「秋萩」は、牡鹿の妻の譬え。「朝月夜」は、明け方になっても夜空にある月。1762の「明日の宵」は、今宵。日没から一日が始まるという見方からの表現。「あしひきの」は「山彦」の枕詞。「やも」は、反語。左注にこれらの歌は「或は云ふ、柿本朝臣人麿の作なりと」とあります。
巻第9-1773~1775
1773 神奈備(かむなび)の神寄(かみよ)せ板(いた)にする杉(すぎ)の思ひも過ぎず恋の繁(しげ)きに 1774 たらちねの母の命(みこと)の言(こと)にあらば年の緒(を)長く頼め過ぎむや 1775 泊瀬川(はつせがは)夕(ゆふ)渡り来て我妹子(わぎもこ)が家の金門(かなと)に近づきにけり |
【意味】
〈1773〉神奈備山の神寄せ板に用いる杉のように、私の恋心も過ぎ去り消えることがない、その激しさに耐え難くて。
〈1774〉母の言われることなので、当てにさせたまま長くやり過ごすなんてことはありません。
〈1775〉泊瀬川を夕方に渡ってきて、いとしい女の家の門が近くなってきた。
【説明】
1773は弓削皇子に献上した歌。1773の「神奈備」は、神が鎮座する山や森のことをいう普通名詞で、ここでは三輪山。「神寄せ板」は、神を寄せる板で、神事を行う前に神を招くために叩くものとされます。上3句は「杉」の同音反復で「思ひも過ぎず」を導く序詞。「過ぎず」は、消えない。
1774・1775は、舎人皇子に献上した歌。1774の「たらちねの」は「母」の枕詞。「命」は、目上の人を敬っていう語。この歌の事情は複雑で、窪田空穂によれば、「娘が母に知らせずに男と結婚し、夫をその家へ通わせようとして、承認を得るために打明けると、母は自身としては承認するが、父や周囲の者に打明けることはしばらく時機を待ってのことにしようと言い、それを娘が男に話したところ、男はある不安を感じ、その時機というのはいつのことであろうか、ひどく先のことではなかろうかと危んだのに対して娘が、わが母のいうことなので、何年も先などということがあろうかと打消した」というものです。
1775の「泊瀬川」は、奈良県桜井市初瀬の峡谷に発し、三輪山の南を通り大和川に合流する川。「金門」は、門、金属で扉や柱を補強した門。恋しい女の家に近づいた時の歌で、斎藤茂吉は「快い調子を持っており、伸々と、無理なく情感を湛えている」と評しています。
巻第9-1782~1783
1782 雪こそは春日(はるひ)消(き)ゆらめ心さへ消え失(う)せたれや言(こと)も通(かよ)はぬ 1783 松返(まつがへ)りしひてあれやは三栗(みつぐり)の中上(なかのぼ)り来(こ)ぬ麻呂(まろ)といふ奴(やつこ) |
【意味】
〈1782〉雪ならば春の日ざしに消えもしようが、そなたは心まで消え失せてしまったのか、そうでもあるまいに何の便りもない。
〈1783〉たわけ心か、任地へ行ったきり途中で都へ戻っても来ない、麻呂という奴は。
【説明】
1782は、春の雪解けのころ、旅先にある人麻呂が大和にいる妻に与えた歌、1783は妻が答えた歌。妻は誰とも分かりません。
1782の「こそ~らめ」は、逆接条件。~ならば~だろうが。「たれや」は、反語。この歌について、窪田空穂は次のように言っています。「人麿の相聞の歌としては類を絶したものである。相聞の歌といえば、いつも熱意を打込んで、盛り上がるような歌を詠んでいるのに、この歌はそれらとは反対に、微笑をふくんであっさりと皮肉をいっているような歌である。皮肉というよりもむしろ、駄々をこねているというべきかもしれぬ。人麿にもこうした面があったのである。もっとも物言いは、相手次第で決定させられることであるから、この事はこうした物言いで、十分心の通じる人だったのである」。
1783の「松返り」は、鷹狩の語で、鷹は待っていると帰ってくるという意とされます。「しひて」は、心身に問題があって。あるいは「渋って」と解するものもあり、それによると「待っているのに、帰りを渋っているのか」のような解釈になります。「やは」は、疑問。「三栗の」は「中」の枕詞。「中上り」は、地方官が任期中に報告のため上京すること。「奴」は、相手を罵り卑しんでいいう称ながら、多くは親しさからの戯れの語。妻によるこの歌も、非常にくだけた言い方でありながら、格別に気の合った親しい夫婦生活を思わされます。
巻第9-1795~1799
1795 妹(いも)らがり今木(いまき)の嶺(みね)に茂り立つ夫(つま)松の木は古人(ふるひと)見けむ 1796 もみち葉の過ぎにし児らと携(たずさ)はり遊びし磯を見れば悲しも 1797 潮気(しおけ)立つ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹(いも)が形見とそ来(こ)し 1798 古(いにしえ)に妹と我(わ)が見しぬばたまの黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも 1799 玉津島(たまつしま)礒の浦廻(うらみ)の真砂(まなご)にもにほひて行かな妹(いも)も触れけむ |
【意味】
〈1795〉今木の嶺に茂り立つ、夫の訪れを待つという松の木は、昔のあの皇子をきっと見ていたことだろう。
〈1796〉黄葉が散るように死んでしまった妻と、手を取り合って遊んだことのある磯を見ると悲しくなってくる。
〈1797〉潮煙が立つほどの荒磯だけれど、流れる水のように死んでしまったあなたを思い出す土地と思ってやって来た。
〈1798〉昔、私はあなたと二人して見に来たことのある黒牛潟に来たけれど、一人で見るのは寂しくてならない。
〈1799〉玉津島の磯の浦辺の白砂、この白砂にたっぷり染まって行きたい。亡くなったあなたも触れたであろうから。
【説明】
いずれも挽歌です。1795は、宇治若郎子(うじのわきいらつこ)の宮所(みやどころ)の歌一首。宇治若郎子は応神天皇の皇子で、異母兄の仁徳天皇と皇位を譲り合い、宇治の宮で自殺したといいます。「宮所」は、ここは古く宮のあった跡の意。「妹らがり」の「ら」は接尾語、妹のもとへ今来るの意で「今木」の枕詞。「今木の嶺」の所在は、未詳。「夫松の木」は、夫の訪れを待つように立つ松。「古人」は、宇治若郎子をさします。「見けむ」は、見たであろう。
1796~1799は、「紀伊の国にして作る歌」とある4首で、製作年代は不明ながら、かつて紀伊国に同行した妻を悼むものとなっています。そのかつてとは持統4年(690年)の行幸と考えられ、以後の紀伊国行幸が大宝元年(701年)しかないため、ここの歌はこの時の作であると見られます。4首はすべて11年前の行幸の折の追憶につながっています。1796の「もみち葉の」は「過ぎ」の枕詞。「児ら」の「ら」は、接尾語。1797の「行く水の」は「過ぎ」の枕詞。「過ぐ」は、死ぬこと。1798の「ぬばたまの」は「黒」の枕詞。「黒牛潟」は、和歌山県海南市の黒江湾のこと。黒牛に似た大石が潮の干満によって見え隠れしていました。「寂しも」の「寂し」は、楽しまぬ意。「も」は、詠嘆。1799の「玉津島」は、和歌山市和歌浦の玉津島神社の後方の山々。当時は島でした。「にほひて」は、美しい色にして。「行かな」の「な」は、願望。
斎藤茂吉は1797について、「句々緊張して然も情景とともに哀感の切なるものがある。この歌は、巻一(47)の人麻呂作、『真草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し』というのと類似しているから、その手法傾向によって、人麻呂作だろうと想像することが出来る」と述べ、他の3首も「哀深いものである」と評しています。また1799について窪田空穂は、「浦の砂を形見と見ることは、人麿の濃情からのことで、歌としても感覚的で立体感をもった、特殊なものである」と述べています。
黒牛潟の潮干の浦は、あでやかな紅の裳裾を引く女官たちが磯遊びに興ずる場所であり、人麻呂の妻も昔はそうだったのでしょう。人麻呂が持統朝初年の頃から情熱的に愛し続けてきたこの妻が、いつ亡くなったのかは不明ですが、彼の最晩年の作としてよい大宝元年に至るまで、忘れがたい傷痕を胸に深く刻み続けていたのです。この女性が巻向の女性と同一人である可能性はかなり高いと見られています。
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巻第9について
巻第9は、おもに『柿本人麻呂歌集』と『高橋虫麻呂歌集』から採録した歌が中心で、雑歌・相聞・挽歌の3部立になっています。ただし、歌の出典を記しているものの、その歌数の範囲が不明確なものもあるようです。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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