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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

『柿本人麻呂歌集』から(巻第9)

巻第9-1682~1686

1682
とこしへに夏冬行けや裘(かはごろも)扇(あふぎ)放(はな)たぬ山に住む人
1683
妹(いも)が手を取りて引き攀(よ)ぢふさ手折(たお)り我(わ)が挿(かざ)すべく花咲けるかも
1684
春山は散り過ぎぬとも三輪山(みわやま)はいまだ含(ふふ)めり君待ちかてに
1685
川の瀬の激(たぎ)ちを見れば玉かも散り乱れたる川の常(つね)かも
1686
彦星(ひこほし)のかざしの玉し妻恋(つまごひ)に乱れにけらしこの川の瀬に
 

【意味】
〈1682〉いつだって夏と冬が同時にやってくるというのか、毛皮の衣を着て扇を放そうとはしない、この絵の中の仙人は。

〈1683〉あの娘の手を取って引き寄せるようにつかみとって、私の髪飾りにするほどに花を咲かせたことだ。
 
〈1684〉春の山の花々は散ってしまった。でも、三輪山だけはつぼみのままでいます。あなたのおいでを待ちかねて。
 
〈1685〉川瀬の激しい流れを見ると、きれいな玉が散り乱れているかのようだ。いつもこのような姿の川なのか。

〈1686〉天上の彦星の髪を飾っていた玉が、妻恋しさに乱れて散り落ちたらしい、この川の瀬に。

【説明】
 1682は「忍壁皇子(おさかべのみこ)に獻(たてまつ)る歌」で、脚注に「仙人(やまひと)の形を詠む」とあります。「形」は彩色しない絵のことで、皇子の邸にあった仙人の姿を描いた絵か何かを見て歌ったと考えられています。「とこしへに」は、永久に。「行けや」の「や」は反語で、行くというのか、いや行かないだろうに。「裘」は、毛皮で作った衣。「山に住む人」は、仙人のこと。神仙思想は、この時代には上流の知識階級にかなり浸透していたとされますが、この歌は、皇子の興を買おうとしての即興で、仙人を尊ぶ心は見られません。

 忍壁皇子は、天武天皇の第9皇子で、天武10年(681年)に川嶋皇子らと共に帝紀および上古諸事の記定を命じられ、大宝元年(701年)には藤原不比等らと共に律令の撰定に参画した人。さように文化的教養をそなえた人であり、皇子の周囲には大陸からの渡来人官僚も多くいたであろうと想像され、仙人の絵も彼らを通じて入手したのではないかと見られています。

 1683・1684は「舎人皇子(とねりのみこ)に献る歌」。舎人皇子は、天武天皇の第3皇子で、第47代淳仁天皇の父。養老4年(720年)5月『日本書紀』を撰集して奏上、同年8月、知太政官事。神亀6年(724年)には長屋王を窮問して自尽せしめ、同年、光明子立后の宣明を宣べた人です。『万葉集』には3首の作歌があります。『人麻呂歌集』には1704、1705にも皇子に献った歌があり、巻第2-196に皇子の同母妹の明日香皇女への人麻呂作の挽歌がありますが、人麻呂との関係がどのようなものだったのかは分かっていません。

 1683の「妹が手を」は「取りて」の枕詞。「引き攀ぢ」は、掴んで引き寄せる。「ふさ手折り」は、ふさふさと多くある物をそのまま手折って。宴席の装飾として花をかざしにする風習があったため、その席で詠まれた歌とみられています。「花咲けるかも」の「花」は、桜。1684の「三輪山」は、奈良県桜井市三輪の山で、大神(おおみわ)神社の神体とされている山。「含めり」は、花が開ききらないままである。「含(ふふ)む」は、もともと口の中に何かを入れる意で、その口がふくらんだ様子から蕾がふくらむ意に転じた語です。「待ちかてに」の「かて」は、可能の動詞「かつ」の未然形、「に」は打消の助動詞「ず」の連用形。待っていることができないで。

 1685・1686は「泉川の辺にして間人宿禰(はしひとのすくね)の作れる歌」。間人宿禰は、名が略されており、伝未詳。「泉川」は、京都府南部を流れる木津川。1685の「激ち」は、水の激しい流れ。「玉かも」の原文「玉鴨」とあるのを、タマモカモ、タマヲカモと訓み添える説もあります。「川の常かも」は、この川のいつもの姿なのか、の意。水流の豊かな泉川を初めて目にした感動と見えます。「玉かも」と4音句になっているのも、その強い感動の表れとの見方があります。

 1686の「彦星」は、七夕の牽牛星。「妻恋」は、織女を恋うる意。「乱れにけらし」は、乱れ散ったのであろう。連作となっており、川の水の泡立ち流れるのを玉と見ただけでは心足らず、それを天上の物であるとし、彦星の妻恋の嘆きを連想して歌っています。七夕の日が近い秋の時季だったのかもしれません。これらの歌が『人麻呂歌集』に収められているのは、あるいは人麻呂と共に山背道を旅したことによるのかもしれません。

巻第9-1687~1689

1687
白鳥(しらとり)の鷺坂山(さぎさかやま)の松蔭(まつかげ)に宿(やど)りて行かな夜(よ)も更け行くを
1688
あぶり干(ほ)す人もあれやも濡れ衣(ぎぬ)を家には遣(や)らな旅のしるしに
1689
荒磯辺(ありそへ)につきて漕(こ)がさね杏人(からたち)の浜を過ぐれば恋(こほ)しくありなり
 

【意味】
〈1687〉鷺坂山の松の木蔭に泊まろう。夜も更けてきたことだから。
 
〈1688〉ずぶぬれになった着物を火にあぶって乾かしてくれる人がいるはずもいない。いっそ家に送ろうか旅路にいるという証拠に。
 
〈1689〉岩場に沿って船を漕いでください。杏人の浜を過ぎれば恋してたまらなくなるそうだから。

【説明】
 1687は「鷺坂(さぎさか)にて作れる歌」。鷺坂は今の京都府城陽市久世にある坂道で、大和から近江へ行く街道にあたります。「白鳥の」は、白い意で「鷺」にかかる修飾語的枕詞。「鷺坂山」は、この付近の丘陵を鷺坂山と呼んだもの。「松蔭」は「松」に男を待つ意を懸けて、その地に住む女性をにおわせたものか、との見方があります。単なる木蔭での旅寝を歌うにしては第3句までの表現が美しいので、あるいはそうかもしれません。「行かな」の「な」は、意志・願望の助詞。

 1688・1689は「名木川(なきがわ)にて作れる歌」。名木川は、京都府宇治市南部を流れ、巨椋池(おぐらいけ)に注いでいた川ではないかとされます。1688の「人もあれやも」の「人」は、旅中の作者を気遣ってくれるような女性の意。「やも」は、反語。あろうか、ありはしない。「遣らな」の「な」は、意志・願望の助詞。「旅のしるし」は、旅中にある証拠に。この歌のように、衣を干すことが家妻の象徴のように歌われている歌は、巻第9の行旅歌群にも多く見られ、当時の男たちは妻のこの仕事に愛の姿を見出そうとしていたようです。

 1689の「荒磯辺」は、岩石が露わになっている海岸。「漕がさね」の「さ」は、敬語の助動詞「す」の未然形。「ね」は、他者への願望を表す助詞。「杏人の浜」は所在未詳ながら、名木川が巨椋池に注ぐ辺りの浜か。「杏人」の訓みも、カラヒト、カラモモ、モモサネ、オモヒトなど諸説あり、解釈もはっきりしません。あるいは、名木川ではなく琵琶湖を航行している時の作で、舟子に言った言葉を歌にしたものとする見方もあります。

巻第9-1690~1693

1690
高島(たかしま)の阿渡(あど)川波(かはなみ)は騒(さわ)けども我(わ)れは家(いへ)思ふ宿(やど)り悲しみ
1691
旅なれば夜中(よなか)をさして照る月の高島山(たかしまやま)に隠(かく)らく惜(を)しも
1692
我(あ)が恋ふる妹(いも)は逢(あ)はさず玉の浦に衣(ころも)片敷(かたし)き独(ひと)りかも寝(ね)む
1693
玉櫛笥(たまくしげ)明けまく惜(を)しきあたら夜(よ)を衣手(ころもで)離(か)れて独りかも寝(ね)む
 

【意味】
〈1690〉高島の安曇川は波だって騒がしいけれども、私はただひたすら家のことばかり思っている。旅のひとり寝が悲しくて。

〈1691〉旅の途上にあっても、ま夜中に向けて照り輝く月が、高島山に隠れていくのが惜しくてならない。

〈1692〉私が恋い焦がれるあの人は逢ってくれようとしない。この玉の浦で、着物を独りで敷いて寂しく寝るしかないのか。

〈1693〉このまま明けてしまうのが惜しい夜なのに、あなたと離れて私は独りで寝ることだ。

【説明】
 1690・1691は「高島にて作れる歌」。「高島」は、今の滋賀県高島市で、琵琶湖の西岸。1690の「阿渡川」は、現在の安曇川で、東流して琵琶湖に流れ出る川。「騒けども」は原文「驟鞆」で、サワクトモとも訓めます。「宿り悲しみ」は、旅寝の侘しさが悲しくて。巻第7に異伝歌があります(1238)。1691の「夜中」は原文「三更」で、本来は夜半の意ですが、ここでは地名とする説もあります。あるいは地名と時刻の夜中を懸けているのかもしれません。「高島山」は、高島の地の山であるものの、その名が伝わっておらず、高島の地の山の意か。「隠らく」は「隠る」のク語法で名詞形。

 1692・1693は「紀伊国にて作れる歌」。1692の「我が恋ふる妹」は、家で待つ妻ではなく、旅で見初めた女性を指しているとされます。夜の宴席に侍る女性に呼びかけた語か。「逢はさず」は「逢はず」の敬語。「逢ふ」は、共寝すること。「玉の浦」は、和歌山県那智勝浦町の海岸。「衣片敷く」は、自分の衣だけを敷くことから、独り寝する意。「独りかも寝む」の「か」は疑問、「も」は詠嘆。窪田空穂は、「語が美しく艶があり、調べも張っているので、魅力のあるものとなっている。すぐれた手腕である」と評しています。

 1693の「玉櫛笥」は、櫛などの化粧道具を入れる箱。その箱を開ける意で「明け」にかかる枕詞。「明けまく」は「明けむ」のク語法で名詞形。「あたら夜」は、明けるのが惜しい夜。「衣手離れて」の「衣手」は衣の意ですが、ここはその衣を着ている女性を間接的に指しています。上の歌との連作で、共寝もせずに過ごしてしまうには惜しい夜だと、社交辞令を言って嘆いてみせているものです。

巻第9-1694~1698

1694
栲領巾(たくひれ)の鷺坂山(さぎさかやま)の白つつじ我(わ)れににほはね妹(いも)に示さむ
1695
妹(いも)が門(かど)入(い)り泉川(いづみがは)の常滑(とこなめ)にみ雪残れりいまだ冬かも
1696
衣手(ころもで)の名木(なき)の川辺(かはへ)を春雨に我(わ)れ立ち濡(ぬ)ると家思ふらむか
1697
家人(いへびと)の使ひにあらし春雨の避(よ)くれど我(わ)れを濡(ぬ)らさく思へば
1698
あぶり干(ほ)す人もあれやも家人(いへびと)の春雨すらを間使(まつか)ひにする
 

【意味】
〈1694〉鷺坂山の白つつじよ、私の衣をみごとに白く染めてくれ、帰って妻に見せるから。

〈1695〉妻の家の門を出入りする時に見る、泉川の石には雪が消え残っている、ここはまだ冬なのだろうか。
 
〈1696〉名木(なき)の川辺で、私が春雨に濡れて立っていると、家の妻は思ってくれているだろうか。

〈1097〉 これは家族の使いなのだろうか。春雨が、いくら避けようとしてもしつこく私を濡らしてしまうのを思えば。

〈1698〉濡れた着物を干してくれる人などありはしないのに、家の妻は疑って、春雨のようなものまでも使いに寄こしてくる。

【説明】
 1694は「鷺坂にて作れる歌」。鷺坂は今の京都府城陽市久世にある坂道で、大和から近江へ行く街道にあたります。「栲領巾の」の「栲領巾」は 楮(こうぞ)などの繊維で織った栲布(たくぬの)で作った領巾(ひれ)で、女性の肩にかける飾り布。その白く細いところが鷺の頭の長い毛に似ているところから「鷺坂山」にかかる枕詞。「鷺坂山」は、この付近の丘陵を鷺坂山と呼んだもの。「我ににほはね」の「にほふ」は、ここは色が染みつくこと。「ね」は、他に対しての願望。上掲の解釈のほか、「にほふ」は色に現れる、すなわち花と開く意だとし、「我のために咲き出てくれよ」とするものもあります。

 1695は「泉川にて作れる歌」。「泉川」は、奈良県を流れる木津川。「妹が門入り」は「出(い)づ」と続けて「泉川(いづみがは)」の7音の序詞になっています。「常滑」は、上面が床のように平らになっている大岩。「み雪」の「み」は、接頭語。「いまだ冬かも」は、まだ冬なのであろうか。

 1696~1698は「名木川にて作れる歌」。名木川は、京都府宇治市南部を流れ、巨椋池(おぐらいけ)に注いでいた川ではないかとされます。1696の「衣手の」は、続きの意が不確かながら「名木」の枕詞。衣の袖がなえて和(な)ぐ意の和(な)ぎを、同音で名木に続けたとする見方があります。「家」は、家の者たち、ここは家にいる妻。「思ふらむか」は、思っているだろうか。1697の「家人」も、妻のこと。「避くれど」は、避けても。「我れ」は原文「吾等」とあるので、旅の同行者の気持ちを代弁していると見られます。1698の「あれやも」の「やも」は、反語。あろうか、ありはしない。「間使ひ」は、二人の間を往来する使い。

 3首1組の歌で、この順序に従って、旅先で降られた春雨に触発された妻への思いが次第に昂揚していくさまを歌っています。1首目は、今ごろ妻は自分を思ってくれているだろうかと単に思い出したのに過ぎなかったのが、2首目では、自分を濡らす春雨はどうやら妻の意志によるらしいと疑い、3首目にいたっては、妻が自分の傍に他の女性がいるのを疑っているのではと、妻の嫉妬の感情まで推し量っています。同行する男性官人らの間で、旅中の慰めに披露されたものと見えます。

巻第9-1699~1700

1699
巨椋(おほくら)の入江(いりえ)響(とよ)むなり射目人(いめひと)の伏見(ふしみ)が田居(たゐ)に雁(かり)渡るらし
1700
秋風に山吹(やまぶき)の瀬の鳴るなへに天雲(あまくも)翔(かけ)る雁(かり)に逢へるかも
 

【意味】
〈1699〉巨椋池の入江が騒がしくなった。射目人が伏すという伏見の田園に、雁が飛び渡っていく音らしい。

〈1700〉秋風によって山吹の瀬の音が鳴り響いているが、折も折、はるか天雲の彼方を翔けていく雁の群れに出逢ったことだ。

【説明】
 「宇治川にて作れる歌」。宇治川は、琵琶湖の南端の瀬田から瀬田川となって流れ出て、宇治市付近から大きく北へ湾曲し、伏見を通過して八幡市付近で木津川・桂川と合流して淀川となります。1699の「巨椋の入江」は、宇治市の西にあった巨椋池(おぐらいけ)。宇治川が流入する辺りが入江になっていたとされます。「響むなり」は、ナルナリと訓むものもあります。「射目人の」は、狩猟のときに隠れ伏して弓を射る人の意で、「伏し」と続いて「伏見」にかかる枕詞。「伏見」は、京都市伏見区の一帯。「田居」は、田んぼ。斎藤茂吉は、「入江響むなり」と、ずばりと言い切っているのは古調のいいところであり、こうした使い方は万葉にも少なく簡潔で巧みなもの、さらに、調べが大きく、そして何処かに鋭い響きを持っているところは、或いは人麻呂的、とも言っています。

 1700の「秋風に」は、秋風によって。「山吹の瀬」は、所在未詳ながら、宇治橋下流の瀬ではないかとされます。美しい名であり、春に山吹が岸辺を彩る清らかな瀬なのでしょうか。「なへに」は、とともに、と同時に。「天雲翔る」は、雁が天雲の彼方を飛翔するさま。「かも」は、詠嘆。窪田空穂は、「自然界の大きな力をもって動乱するさまを、子細に見やって、その力を身に感じている」歌と評しています。2首連作で、1首目は音によって雁を推測し、2首目ではその姿を天空に見て感動しています。

巻第9-1701~1705

1701
さ夜中と夜(よ)は更けぬらし雁(かり)が音(ね)の聞こゆる空に月渡る見ゆ
1702
妹(いも)があたり繁(しげ)き雁(かり)が音(ね)夕霧(ゆふぎり)に来(き)鳴きて過ぎぬすべなきまでに
1703
雲隠(くもがく)り雁(かり)鳴く時は秋山の黄葉(もみち)片待つ時は過ぎねど
1704
ふさ手折(たを)り多武(たむ)の山霧(やまぎり)繁(しげ)みかも細川(ほそかは)の瀬に波の騒(さわ)ける
1705
冬こもり春へを恋ひて植ゑし木の実になる時を片待つ吾等(われ)ぞ
  

【意味】
〈1701〉夜は更けて真夜中に入っているようだ。雁が鳴きながら渡っていく夜空を月も渡っていくのが見える。
 
〈1702〉妻の家のあたりで騒がしく雁の声が聞こえていたが、夕霧の中を鳴きながら来て通り過ぎていった。ああ、どうしようもなく切ないことだ。
 
〈1703〉雲に見え隠れし雁が鳴く時になると、秋山のもみじがひたすら待ち遠しい。その季節は来ないけれども。

〈1704〉枝を手折ってたくさんためるという、多武の峰に立ちこめた霧が濃いためか、ここ細川の瀬の波音が高い。

〈1705〉冬のさなかに、春が来るのを心待ちにして植えた木が、花開いて実になる時を、ただじっと待ち続けている我らであります。

【説明】
 1701~1703は弓削皇子に献上した歌。弓削皇子は、天武天皇の第9皇子。皇子の作歌は『万葉集』に8首ありますが、巻第9にはここと1709の題詞に名が見えるのみ。人麻呂との関係は、忍壁皇子を通じての縁だっただろうと推測されています。1701の「さ夜中と」の「さ」は、接頭語。夜中の状態となって。「雁が音」は、雁の声。「聞こゆる空に」は原文「所聞空」で、キコユルソラユ、キコユルソラヲと訓むものもあります。斎藤茂吉はこの歌について、「ありのままに淡々と言い放っているのだが、決してただの淡々ではない。本当の日本語で日本的表現だということもできるほどの、流暢にしてなお弾力を失わない声調」と評しています。この歌は巻第10-2224に類歌が存在し、『古今集』にも採録されており、人々に愛唱され、伝承されたものと見えます。

 1702の「妹があたり」は、妹の家のあたり。「繁き」は、しきりに、騒がしく。「夕霧に」は、夕霧の中を。「すべなきまでに」は、どうしようもないほどに。原文「及乏」で、トモシキマデニと訓み、羨ましいまでに、と解するものもあります。1703の「片待つ」は、ひたすら待つ。結句の「時は過ぎねど」は原文「時者雖過」で、トキハスグレド、トキハスグトモなどと訓み、その季節は過ぎるけれども、のように解するものもあります。3首とも雁を対象にしたもので、順を追って現れる美しいに心を寄せている歌です。

 1704~1705は舎人皇子に献上した歌。舎人皇子は、天武天皇の第3皇子で、第47代淳仁天皇の父。養老4年(720年)5月『日本書紀』を撰集して奏上、同年8月、知太政官事。神亀6年(724年)には長屋王を窮問して自尽せしめ、同年、光明子立后の宣明を宣べた人です。『万葉集』には3首の作歌があります。

 1704の「ふさ手折り」は、ふさふさと手折ってたわむ意で「多武」の枕詞。「多武の山」は、奈良県桜井市南方の多武峰(とうのみね)。「山霧繁みかも」は、山霧が濃く立ち込めるからか。「細川」は、多武の峰から発する谷川。窪田空穂は、「捉えていっていることは、多武の山と細川の、その目立った秋霧の状態という、微細なものであるから、これは皇子が目にしていられるものでなくては意味をなさない。皇子の少なくともその日の御座所がその辺りにあって、そこへ伺候した人麿が挨拶代わりに詠んだという関係のものと思われる。・・・感覚の微細に働いた歌である。こうしたことは、そこの状態を見馴れている者でないと興味を感じないことで、二人の間にのみ通じる心である。一首の調べが張っていて、心をこめて詠んだものである点から見て、皇子と人麿の関係が思わせられる」と述べています。

 1705の「冬こもり」は原文「冬木成」で、冬木が芽を出し茂る意で「春」にかかる枕詞。「春へ」は、春のころ。「片待つ」は、ひたすら待つ。この歌について窪田空穂は、「何事かを譬喩的にいっているもので、その本義の何であるかは、皇子と人麿以外にはわからないことである。舎人皇子は皇子の中でも勢力のある人であり、人麿はきわめて身分が低かったらしく、また、『吾』を『吾等』といっているので、代弁者という形である。秋、移植した木の、春、花が咲き実の結ぶのを片待つということは、常識的に考えると、春を定期の叙任の時とし、その時の推挙支持を皇子に乞いたいとの心をほのめかしたものではないかと思われる」と述べています。
 
 一方、斎藤茂吉は、さまざまな寓意が込められているとしていろいろな解釈を加えようとする向きがあるのに対し、斎藤茂吉は、これだけの自然観照をしているのに寓意寓意というのは鑑賞の邪魔物であると断じています。

巻第9-1707~1711

1707
山背(やましろ)の久世(くせ)の鷺坂(さぎさか)神代(かむよ)より春は張りつつ秋は散りけり
1708
春草(はるくさ)を馬(うま)咋山(くひやま)ゆ越え来(く)なる雁(かり)の使(つか)ひは宿(やど)り過ぐなり
1709
御食(みけ)向(むか)ふ南淵山(みなぶちやま)の巌(いはほ)には降りしはだれか消え残りたる
1710
我妹子(わぎもこ)が赤裳(あかも)ひづちて植ゑし田を刈りて収(をさ)めむ倉無(くらなし)の浜
1711
百伝(ももづた)ふ八十(やそ)の島廻(しまみ)を漕ぎ来れど粟(あは)の小島(こしま)は見れど飽(あ)かぬかも
  

【意味】
〈1707〉山城の久世の鷺坂には、遠い神代の昔から、春になると木々が芽吹き、秋にはこのように散ってきたことである。
 
〈1708〉春の草を馬が食う、その咋山を越えてやってきた雁の使いは、何の伝言も持たず、この旅の宿りを通り過ぎていくようだ。

〈1709〉南淵山の山肌の巌には、はらはらと降った淡雪がまだ消えずに残っている。

〈1710〉愛しいあの子が赤裳を泥まみれにして植えた田が、刈り入れの時期を迎えたのに、刈りとって収める倉がないという、この倉無の浜よ。

〈1711〉多くの島々を漕ぎ巡って来たけれど、粟の小島のこの景色はいくら見ても見飽きることがない。

【説明】
 1707は「鷺坂(さぎさか)にて作れる歌」。「山代」は、京都府の南半分にあたる旧国名。集中ではほかに「山背・開木代」などと表記されています。「久世の鷺坂」は、京都府城陽市久世の久世神社東方にある坂道。「張り」は、草木が芽を出すこと。「つつ」は、継続。「けり」は詠嘆で、事実が過去から現在まで繰り返し行われてきたことを表す用法。窪田空穂は、「『山代の久世の鷺坂』は、鷺坂としては最上の重い言い方であって、讃えの心よりのことである」と述べています。

 1708は「泉河の辺(ほとり)にて作れる歌」。「泉河」は、木津川。「春草を馬」は、春の草を馬が咋(く)うと続け「咋山」の「咋」に転じて7音の序詞としたもの。「咋山」は、京田辺市飯岡の丘。「ゆ」は、経過地点を表す格助詞。「越え来なる」の「なる」は、結句の「なり」とともに伝聞推定の助動詞。「使ひ」は、他所へ出かけて行き伝言したりすること、また、その人。「雁の使ひ」は、漢の蘇武(そぶ)が匈奴(きょうど)に捕らえられた時、雁の足に手紙を付けて故郷に送ったという『漢書』蘇武伝の故事を踏まえた表現で、『万葉集』中に何例か見られます。

 1709は、弓削皇子に献上した歌。「御食向ふ」は「南」に掛かる枕詞で、ここでは同音の「南淵山」の枕詞。「御食」は貴人の食事の意ですが、掛かり方は未詳。「南淵山」は、明日香村稲淵の山。「はだれ」は、薄く降り敷いた雪。この歌も寓意云々が指摘されますが、斎藤茂吉は「学者等の一つの迷いである」として、「叙景歌として、しっとりと落ち着いて、重厚にして単純、清厳ともいうべき味わい」と言っており、国文学者の池田彌三郎は、「春先の雪を歌っているのだから、この歌は初春の言寿(ことほぎ)の歌で、それを弓削皇子に献上したのだ」と言っています。南淵山と皇子との関係は不明ながら、皇子の邸から近くに見える山だったともいわれます。

 1710・1711は、左注に「或いは柿本人麻呂が作といふ」とあります。1710の「我妹子」は、ここでは妻や恋人ではなく、田植えをする乙女に親しみを込めて表現したもの。「ひづちて」は、泥によごれて。上4句までが「倉無」を導く序詞という極端な形になっており、旅をしている都の人(人麻呂?)が倉無という地名に出会って、その名から物語を作ったものという見方があります。したがって田も乙女も実景ではないことになります。なお、「倉無の浜」の所在未詳ながら、大分県中津市竜王町にある竜王浜だとする説があります。

 1711の「百伝ふ」は、数えていって百に達する意から「八十」の枕詞。「八十の島廻」は、たくさんの島々。「粟の小島」は、播磨灘のいずれの島かとされますが、未詳。「粟の小島は」の原文「粟小嶋者」は、本によっては「粟小嶋志」とあるので、アハノコジマシと訓むものもあります。その場合の「し」は、強意の副助詞。アハノコジマハとする立場は、「者」の草書体が「志」のそれに似ており誤写の可能性があること、「見れど飽かぬかも」で結んだものは全例「は」を受けていることなどを根拠としています。

巻第9-1715・1720~1722

1715
楽浪(ささなみ)の比良山風(ひらやまかぜ)の海吹けば釣りする海人(あま)の袖(そで)返る見ゆ
1720
馬 並(な)めてうち群(む)れ越え来(き)今日(けふ)見つる吉野の川をいつかへり見む
1721
苦しくも暮れゆく日かも吉野川(よしのがは)清き川原(かはら)を見れど飽(あ)かなくに
1722
吉野川(よしのがは)川波(かはなみ)高み滝(たき)の浦を見ずかなりなむ恋(こひ)しけまくに
   

【意味】
〈1715〉比良山から湖上に吹き下ろす風に、釣り人の着物の袖がひらひらと翻っているのが見える。

〈1720〉馬を並べ鞭をくれながらみんなで山を越えてきて、今日やっと吉野川を見ることができた。この美しい川の流れをいつまた見ることができるだろう。
 
〈1721〉残念なことに日が暮れて行く。吉野川の清らかな川原は、いくら見ていても飽きることがないというのに。
 
〈1722〉吉野川の波が高いので、上流の滝の入江までは見ずに終わってしまいそうだ。後で悔やむことになりそうだ。

【説明】
 1715は、題詞に「槐本(えにすのもと)の歌一首」とあるものの、「槐本」は「柿本」の誤写だとして、人麻呂の作とみる説があります。「楽浪」は、琵琶湖の西南沿岸。「比良山風」は、比良山から吹き降ろす風。「比良山」は、京都府と滋賀県との境に立つ山で、伊吹山と相対しています。急峻で、早春、琵琶湖西岸に吹き降ろす風は激しく、「比良八荒(ひらはっこう)」と呼ばれます。「海」は、琵琶湖。「返る」は、ひるがえる。斎藤茂吉はこの歌を、「張りのある清潔音の連続で、ゆらぎの大きい点も人麻呂調を連想せしめる、まず人麻呂作といっていいものだろう」と言っています。

 1720~1722は「元仁(ぐわんにん)の歌三首」。元仁は伝未詳で、「元」は氏、「仁」は名で、渡来系の人か、あるいは学者の漢風名か、僧侶名などとする説があります。いずれも吉野へ遊んだ歌であり、次の3首と一連の歌となっています。1720の「馬並めて」は、友と乗馬を並べて。1721の「苦しくも」は、残念なことに。1722の「高み」は、高いので。「浦」は、流れが湾曲した入江。当時の人は、池や川に対して、海の名を流用して喜んでいたようです。「見ずかなりなむ」は、見ずに終わるのだろうか。「恋しけ」は、形容詞「恋し」の未然形。「まく」は、推量の助動詞「む」の名詞形。「に」は、詠歎。

巻第9-1723~1725

1723
かわづ鳴く六田(むつた)の川の川柳(かはやぎ)のねもころ見れど飽(あ)かぬ川かも
1724
見まく欲(ほ)り来(こ)しくも著(しる)く吉野川(よしのがは)音(おと)のさやけさ見るにともしく
1725
いにしへの賢(さか)しき人の遊びけむ吉野の川原(かはら)見れど飽(あ)かぬかも
  

【意味】
〈1723〉河鹿が鳴く六田の川の川柳、その根のように念入りに見ても、見飽きることのない川だ。

〈1724〉一度見てみたいと思ってやって来た甲斐があって、吉野川の瀬音の何とすがすがしいことか。見れば見るほど魅せられる。

〈1725〉昔の賢人たちも来て遊んだという吉野の川原、この川原は、見ても見ても見飽きない。

【説明】
 1723は、題詞に「絹が歌」とあるものの、「絹」は伝未詳。土地の遊行女婦あるいは絹麻呂などの略称か。「かはづ」は、カジカガエル。「六田の川」は、吉野川の奈良県吉野郡の六田の地での呼称。「川柳」は、川岸の柳。以上3句は、実景であると共に、根と続いて「ねもころ」を導く序詞。「ねもころ」は、念入りに。

 1724は、題詞に「島足(しまたり)が歌」とあるものの、「島足」は伝未詳。「見まく欲り」は、見たいと願って。「来しく」は「来し」の名詞形。「著く」は、効果があって。「ともしく」は、心惹かれて、珍しくして。佐佐木信綱はこの歌を、「視覚と聴覚との感銘が二つに分裂することなく、一首中によく統合されている」と評しています。

 1725は、題詞に「麻呂が歌」とあるものの、「麻呂」は伝未詳。人麻呂かともいわれます。「いにしへの賢しき人」は、天武天皇の御製(巻第1-27)の「よき人」を意識しているとされます。「遊びけむ」の「けむ」は、過去の伝聞。窪田空穂は、「吉野川の河原を見て、言い伝えとなっている古の賢い人の遊んだ所だと思ってなつかしむというのは、この当時としては深みのある心で、上の五首とは類を異にしている。人麿の詠み口ではあるが、それとしては凡作である」と述べています。しかし、『人麻呂歌集』の歌でありながら「麻呂」と記しているのは不審とされます。

巻第9-1761~1762

1761
三諸(みもろ)の 神奈備山(かむなびやま)に 立ち向かふ 御垣(みかき)の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝月夜(あさづくよ) 明けまく惜しみ あしひきの 山彦(やまびこ)響(とよ)め 呼び立て鳴くも
1762
明日(あす)の宵(よひ)逢はざらめやもあしひきの山彦(やまびこ)響(とよ)め呼び立て鳴くも
  

【意味】
〈1761〉神奈備山に向き合う御垣の山並みの中で、秋萩の花妻と手枕を交わそうと、有明の月の夜が明けてゆくのを惜しむように、山彦を響かせて、雌鹿がしきりに呼び立てて鳴いている。

〈1762〉今宵に逢えないはずはなかろう。それなのに山彦を響かせて、雌鹿がしきりに呼び立てて鳴いている。

【説明】
 「鳴く鹿を詠んだ」一首と短歌。1761の「三諸」は、神の降臨する場所。「神奈備山」は、神霊が鎮座する山で、三諸と殆ど同義。ここでは明日香の雷丘(いかずちのおか)か。「御垣の山」は、皇居の垣をなしている山で、皇居は明日香の清見原宮。「秋萩」は、牡鹿の妻の譬えで、秋の萩を鹿の妻とする見方の最初の例か。萩は集中最多の用例をもつ植物で140余例あり、鹿、雁、露と取り合わせて多く詠まれています。「朝月夜」は、明け方になっても夜空にある月。「山彦響め」は、やまびこを響かせて。「鳴くも」の「も」は、詠嘆。

 1762の「明日の宵」は、今宵。日没から一日が始まるという見方からの表現。「あしひきの」は「山彦」の枕詞。「やも」は、反語。左注にこれらの歌は「或は云ふ、柿本朝臣人麿の作なりと」とあります。題詞に「鹿」とあるものの、歌句に主格である鹿の語はなく、内容によって理解されるもので、意識的にそのようにしたものか。国文学者の金井清一は、「当該歌は鹿を歌う常識の枠内で歌い、美しく飾り立てた表現もあり、人麻呂の特色を発揮した作とは言い難い。そこに『或は云ふ』の注がつく所以があろう」と述べています。

巻第9-1773~1775

1773
神奈備(かむなび)の神寄(かみよ)せ板(いた)にする杉(すぎ)の思ひも過ぎず恋の繁(しげ)きに
1774
たらちねの母の命(みこと)の言(こと)にあらば年の緒(を)長く頼め過ぎむや
1775
泊瀬川(はつせがは)夕(ゆふ)渡り来て我妹子(わぎもこ)が家の金門(かなと)に近づきにけり
  

【意味】
〈1773〉神奈備山の神寄せ板に用いる杉のように、私の恋心も過ぎ去り消えることがない、その激しさに耐え難くて。
 
〈1774〉母の言われることなので、気をもたせたまま長く頼みにさせてやり過ごすことなどありましょうや。

〈1775〉泊瀬川を夕方に渡ってきて、いとしい女の家の門が近くなってきた。

【説明】
 1773は、弓削皇子に献上した歌。「神奈備」は、神が鎮座する山や森のことをいう普通名詞で、ここでは三輪山。「神寄せ板」は、神を寄せる板で、神事を行う前に神を招くために叩くものとされます。原文「神依板」で、カムヨセイタ、カムヨリイタと訓むものもあります。上3句は「杉」の同音反復で「思ひも過ぎず」を導く序詞。「思ひも過ぎず」の「思ひ」は、恋の嘆き。「過ぎず」は、消えない。

 1774・1775は、舎人皇子に献上した歌。1774は、女の立場での詠。「たらちねの」は「母」の枕詞。かかり方未詳。「母の命」は、母を敬っていう語。「言にあらば」は、お言葉ならば。「年の緒長く」は、いつまでも年月長く。「頼め過ぎむや」の「や」は反語で、頼みに思われないだろうか、いや思う。この歌の事情は複雑で、窪田空穂によれば、「娘が母に知らせずに男と結婚し、夫をその家へ通わせようとして、承認を得るために打明けると、母は自身としては承認するが、父や周囲の者に打明けることはしばらく時機を待ってのことにしようと言い、それを娘が男に話したところ、男はある不安を感じ、その時機というのはいつのことであろうか、ひどく先のことではなかろうかと危んだのに対して娘が、わが母のいうことなので、何年も先などということがあろうかと打消した」というものです。

 1775は、許しを得た男の妻問いの歌。「泊瀬川」は、奈良県桜井市初瀬の峡谷に発し、三輪山の南を通り大和川に合流する川。「金門」は、門、金属で扉や柱を補強した門。恋人や妻を訪ねる時には、男は夜に出かけて朝暗いうちに帰るのがエチケットとされましたが、夕方に泊瀬川を渡ったというのは、道のりが遠かったためでしょう。次第に目ざす女の家に近づいた時のはやる心が感じられる歌であり、斎藤茂吉は、「快い調子を持っており、伸々と、無理なく情感を湛えている」と評しています。なお、これらの歌がなぜ舎人皇子に献上されたかについては諸説があり未詳です。

巻第9-1782~1783

1782
雪こそは春日(はるひ)消(き)ゆらめ心さへ消え失(う)せたれや言(こと)も通(かよ)はぬ
1783
松返(まつがへ)りしひてあれやは三栗(みつぐり)の中上(なかのぼ)り来(こ)ぬ麻呂(まろ)といふ奴(やつこ)
 

【意味】
〈1782〉雪ならば春の日ざしに消えもしようが、そなたは心まで消え失せてしまったのか、そうでもあるまいに何の便りもない。

〈1783〉たわけ心か、任地へ行ったきり途中で都へ戻っても来ない、麻呂という奴は。

【説明】
 1782は、春の雪解けのころ、旅先にある人麻呂が大和にいる妻に与えた歌、1783は妻が答えた歌。妻は誰とも分かりません。

 1782の「雪こそは春日消えゆらめ」の「こそは~已然形」の係り結びの形式で、~ならば~だろうが、と逆説的に下に続きます。「消え失せたれや」の「や」は、強い疑問。「言も通はぬ」は、何の音沙汰もない。この歌について、窪田空穂は次のように言っています。「人麿の相聞の歌としては類を絶したものである。相聞の歌といえば、いつも熱意を打込んで、盛り上がるような歌を詠んでいるのに、この歌はそれらとは反対に、微笑をふくんであっさりと皮肉をいっているような歌である。皮肉というよりもむしろ、駄々をこねているというべきかもしれぬ。人麿にもこうした面があったのである。もっとも物言いは、相手次第で決定させられることであるから、この事はこうした物言いで、十分心の通じる人だったのである」。

 1783の「松返り」は、鷹狩の語で、鷹は待っていると帰ってくるという意とされます。「しひて」は、心身に問題があって。あるいは「渋って」と解するものもあり、それによると「待っているのに、帰りを渋っているのか」のような解釈になります。「やは」は、疑問。「三栗の」は、栗の〝いが〟の中に実が3つ入っているその真ん中の意で「中」にかかる枕詞。「中上り」は、地方官が任期中に報告のため上京すること。「奴」は、相手を罵り卑しんでいいう称ながら、多くは親しさからの戯れの語。妻によるこの歌も、非常にくだけた言い方でありながら、格別に気の合った親しい夫婦生活を思わされます。

巻第9-1795~1799

1795
妹(いも)らがり今木(いまき)の嶺(みね)に茂り立つ夫(つま)松の木は古人(ふるひと)見けむ
1796
もみち葉の過ぎにし児らと携(たずさ)はり遊びし磯を見れば悲しも
1797
潮気(しおけ)立つ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹(いも)が形見とそ来(こ)し
1798
古(いにしえ)に妹と我(わ)が見しぬばたまの黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも
1799
玉津島(たまつしま)礒の浦廻(うらみ)の真砂(まなご)にもにほひて行かな妹(いも)も触れけむ
  

【意味】
〈1795〉今木の嶺に茂り立つ、夫の訪れを待つという松の木は、昔のあの皇子をきっと見ていたことだろう。
 
〈1796〉黄葉が散るように死んでしまった妻と、手を取り合って遊んだことのある磯を見ると悲しくなってくる。
 
〈1797〉潮煙が立つほどの荒磯だけれど、流れる水のように死んでしまったあなたを思い出す土地と思ってやって来た。

〈1798〉昔、私はあなたと二人して見に来たことのある黒牛潟に来たけれど、一人で見るのは寂しくてならない。

〈1799〉玉津島の磯の浦辺の白砂、この白砂にたっぷり染まって行きたい。亡くなったあなたも触れたであろうから。

【説明】
 いずれも挽歌です。1795は、「宇治若郎子(うじのわきいらつこ)の宮所(みやどころ)の歌一首」。宇治若郎子は応神天皇の皇子で、異母兄の大雀命(おおさざきのみこと:後の仁徳天皇)と皇位を譲り合い、宇治の宮で自殺したといわれます。『日本書紀』には百済から渡来した王仁に師事して典籍を学んだとあります。「宮所」は、ここは古く宮のあった跡の意。「妹らがり」の「ら」は接尾語、妹のもとへ今来るの意で「今木」にかかる枕詞。「今木の嶺」の所在は、未詳。「夫松の木」は、夫の訪れを待つように立つ松。「古人」は、宇治若郎子をさします。「見けむ」は、見たであろう。

 1796~1799は、「紀伊の国にして作る歌」とある4首で、製作年代は不明ながら、かつて紀伊国に同行した妻を悼むものとなっています。そのかつてとは持統4年(690年)の行幸と考えられ、以後の紀伊国行幸が大宝元年(701年)しかないため、ここの歌はこの時の作であると見られます。4首はすべて11年前の行幸の折の追憶につながっています。1796の「もみち葉の」は「過ぎ」の枕詞。「過ぎにし児ら」の「ら」は接尾語で、死んでしまった愛しい妻。1797の「潮気立つ」は、潮の匂いが立ちのぼってくる。「行く水の」は「過ぎ」の枕詞。「過ぐ」は、死ぬこと。「形見」は、故人の思い出のゆすがとなるもの。ここは物ではなく風景。1798の「ぬばたまの」は「黒」の枕詞。「黒牛潟」は、和歌山県海南市の黒江湾のこと。黒牛に似た大石が潮の干満によって見え隠れしていました。「寂しも」の「寂し」は、楽しまぬ意。「も」は、詠嘆。1799の「玉津島」は、和歌山市和歌浦の玉津島神社の後方の山々。当時は島でした。「浦廻」は、浦の湾曲している所。「真砂」は、細かな砂。「にほひて」は、美しい色にして。「行かな」の「な」は、願望。

 斎藤茂吉は1797について、「句々緊張して然も情景とともに哀感の切なるものがある。この歌は、巻一(47)の人麻呂作、『真草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し』というのと類似しているから、その手法傾向によって、人麻呂作だろうと想像することが出来る」と述べ、他の3首も「哀深いものである」と評しています。また1799について窪田空穂は、「浦の砂を形見と見ることは、人麿の濃情からのことで、歌としても感覚的で立体感をもった、特殊なものである」と述べています。

 黒牛潟の潮干の浦は、あでやかな紅の裳裾を引く女官たちが磯遊びに興ずる場所であり、人麻呂の妻も昔はそうだったのでしょう。人麻呂が持統朝初年の頃から情熱的に愛し続けてきたこの妻がいつ亡くなったのかは不明ですが、彼の最晩年の作としてよい大宝元年に至るまで、忘れがたい傷痕を胸に深く刻み続けていたのです。この女性が巻向の女性と同一人である可能性はかなり高いと見られています。

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巻第9について
 巻第9は、おもに『柿本人麻呂歌集』と『高橋虫麻呂歌集』から採録した歌が中心で、雑歌・相聞・挽歌の3部立になっています。ただし、歌の出典を記しているものの、その歌数の範囲が不明確なものもあるようです。
  

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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『柿本人麻呂歌集』

『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。

この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。

ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。

文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。

また詩人の大岡信は、これらの歌がおしなべて上質であり、仮に民謡的性格が明らかな作であっても、実に芸術的表現になっているところから、人麻呂の関与を思わせずにおかない、彼自身が自由にそれらに手を加えたことも十分考えられると述べています。

『万葉集』以前の歌集

■「古歌集」または「古集」
 これら2つが同一のものか別のものかは定かではありませんが、『万葉集』巻第2・7・9・10・11の資料とされています。

■「柿本人麻呂歌集」
 人麻呂が2巻に編集したものとみられていますが、それらの中には明らかな別人の作や伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではありません。『万葉集』巻第2・3・7・9~14の資料とされています。

■「類聚歌林(るいじゅうかりん)」
 山上憶良が編集した全7巻と想定される歌集で、何らかの基準による分類がなされ、『日本書紀』『風土記』その他の文献を使って作歌事情などを考証しています。『万葉集』巻第1・2・9の資料となっています。

■「笠金村歌集」
 おおむね金村自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第2・3・6・9の資料となっています。

■「高橋虫麻呂歌集」
 おおむね虫麻呂の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第3・8・9の資料となっています。

■「田辺福麻呂歌集」
 おおむね福麻呂自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第6・9の資料となっています。
 
 なお、これらの歌集はいずれも散逸しており、現在の私たちが見ることはできません。
 

万葉集に詠まれた動物

あきさ
あきづ
あゆ
あわび
いかるが
いぬ

うぐいす
うさぎ
うし
うずら
うなぎ
うま
おしどり
かいこ・くはこ
かいつぶり・におどり
かじか
かつお
かも
かり
きざし
こおろぎ・きりぎりす
さぎ
さる
しか
しぎ
すずき
たい
たか
たにぐく
ちどり
ぬえどり
ひぐらし
ひばり
ほたる
ほととぎす
まぐろ
むささび
もず
やまどり
わし

和歌の修辞技法

枕詞
 序詞とともに万葉以来の修辞技法で、ある語句の直前に置いて、印象を強めたり、声調を整えたり、その語句に具体的なイメージを与えたりする。序詞とほぼ同じ働きをするが、枕詞は5音句からなる。
 
序詞(じょことば)
 作者の独創による修辞技法で、7音以上の語により、ある語句に具体的なイメージを与える。特定の言葉や決まりはない。
 
掛詞(かけことば)
 縁語とともに古今集時代から発達した、同音異義の2語を重ねて用いることで、独自の世界を広げる修辞技法。一方は自然物を、もう一方は人間の心情や状態を表すことが多い。
 
縁語(えんご)
 1首の中に意味上関連する語群を詠みこみ、言葉の連想力を呼び起こす修辞技法。掛詞とともに用いられる場合が多い。
 
体言止め
 歌の末尾を体言で止める技法。余情が生まれ、読み手にその後を連想させる。万葉時代にはあまり見られず、新古今時代に多く用いられた。
 
倒置法
 主語・述語や修飾語・被修飾語などの文節の順序を逆転させ、読み手の注意をひく修辞技法。
 
句切れ
 何句目で文が終わっているかを示す。万葉時代は2・4句切れが、古今集時代は3句切れが、新古今時代には初・3句切れが多い。
 
歌枕
 歌に詠まれた地名のことだが、古今集時代になると、それぞれの地名が特定の連想を促す言葉として用いられるようになった。

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