巻第2-147~149
147 天の原ふりさけ見れば大王(おほきみ)の御寿(みいのち)は長く天(あま)足らしたり 148 青旗(あをはた)の木幡(こはた)の上を通ふとは目には見れども直(ただ)に逢はぬかも 149 人はよし思ひ止(や)むとも玉蔓(たまかづら)影(かげ)に見えつつ忘らえぬかも |
【意味】
〈147〉広い天を遠く仰ぎ見ますと、悠久にしてきわまりがありません。今、天皇のお命もその天に充ち足りていられます。
〈148〉木幡山の上を天皇の御魂(みたま)が往き来しておられるのは私の目にははっきり見えるけれども、じかにはお会いすることはできません。
〈149〉たとえ他の人はお慕いしないようになっても、私にはいつも御面影に見え続けていて、忘れようにも忘れられません。
【説明】
147・148は、題詞に「天智天皇がご病気のときに倭姫皇后がさし上げた」とある歌、149は天皇崩御の時の歌で、殯宮(もがりのみや)においての歌とみられます。『日本書紀』には、天智天皇の不豫と死について簡単な記事はあるものの、葬送についての詳細な記事はありません。このことは、壬申の乱の勝者である天武天皇の意を受けて削除されたものとみられています。幸い『万葉集』にはその経緯を示す9首の歌が載っており、ここの歌の作者である倭姫皇后は、舒明天皇の第一皇子・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の娘で、天智天皇からみれば姪にあたります。天皇が皇太子(中大兄皇子)の時からの妃で、即位に伴い皇后となりました。
天皇は、671年9月に発病、10月に重篤となり、12月近江京にて崩御。147の歌は9月か10月に作られたとみられ、病気に苦しむ天皇の命が空いっぱいに満ちていると歌い、その言葉の力で病の回復を図ろうとしています。148の歌は、天皇を山科に葬った折の詠とみられ、題詞の内容とは食い違っているようです。
147の「天の原」は、広々とした青空で、神聖な天空としてとらえた表現。「ふりさけ見れば」は、はるか遠くに仰ぎ見ると。「天足らしたり」は、天に充足していらせられる意。148の「青旗の」は「木幡」にかかる枕詞か。「木幡」は、京都府宇治市北部の地名。大和から近江を経て北陸に行くときの交通の要衝で、日本海地域の物資が集まりました。149の「よし~とも」は、たとえ~としても。「玉蔓」の「玉」は、美称、「玉蔓」の「玉」は美称で、は、蔓を編んで冠のようにしたもので、同音の「影」にかかる枕詞。「影」は、面影。
窪田空穂は147の歌について、「心と調べとが渾然と溶け合って、高い響となっているものである。王者のみのもちうる堂々たる貫禄のある御歌である」と述べ、また148の歌について、「一首全体を貫いている沈静なる美しさは、その信仰の徹底した深さはもとより、皇后の人柄のゆかしさをも十分にうかがわせる御歌である。上の作と相並んで珍重すべき御歌である」と述べています。
なお、倭姫皇后の父の古人大兄皇子は、母親が蘇我馬子の娘であったことから、645年の乙巳の変で蘇我氏が滅ぼされると同時に、有力な後ろ盾を失ったとみられます。皇位を継ぐこともなく、出家して隠棲しようとしたところを、異母弟の中大兄皇子(後の天智天皇)に謀反の罪で誅されました。その子たちも悉く殺され、妻たちもみな自害しましたが、まだいたいけな少女だった倭姫王だけが命を許され、中大兄皇子の後宮へと送り込まれました。668年に皇子が即位して天智天皇となったときに皇后に立てられますが、いわば父親の敵ともいえる男性の妻として生きた倭姫皇后は、その後も表面に出てくることはありません。そしてただ一度だけ、夫の死に際し、たとい他人が忘れても自分はずっと夫の面影を慕うとの長短4首(ここの歌と153)の歌をもって登場します。かろうじて歴史のなかに自らの思いをとどめているものの、上代の女性が置かれた複雑な人間関係と心情とが察せられます。皇后と天智天皇との間に子どもが生まれたという記録はありません。
巻第2-150~152・154
150 うつせみし 神に堪(あ)へねば 離(さか)り居て 朝嘆く君 放(さか)り居て わが恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて 衣(きぬ)ならば 脱(ぬ)く時もなく わが恋ふる 君そ昨(きぞ)の夜 夢に見えつる 151 かからむとかねて知りせば大御船(おほみふね)泊(は)てし泊(とま)りに標(しめ)結(ゆ)はましを 152 やすみしし我ご大君(おほきみ)の大御船(おほみふね)待ちか恋ふらむ志賀(しが)の唐崎(からさき) 154 楽浪(ささなみ)の大山守(おほやまもり)は誰(た)がためか山に標(しめ)結(ゆ)ふ君もあらなくに |
【意味】
〈150〉生身の体は神のお力には逆らえないので、遠くに去って隠れてしまいました。朝は朝とて私の嘆くあなた、玉ならば手にも巻いて持ちましょうに、衣だとしたら脱ぐときもないように身につけて、私の恋い慕うあなたは、昨夜の私の夢に現れました。
〈151〉もしこうなると知っていれば、あらかじめ、大君の大船が泊まっている港に標縄を張ってお守りするのでしたのに。
〈152〉天皇の大船が帰って来るかも知れないと今も待ち焦がれているのか、近江の志賀の唐崎は。
〈154〉楽浪の御山の番人は、どなたのために標縄を張ってお守りするのか。領有なさる大君はもういらっしゃらないのに。
【説明】
天智天皇の挽歌は、上掲の皇后の歌をはじめ9首が並んでいます。全て後宮の女性による歌で、危篤、臨終、大殯、本葬等の時系列で配列され、最後は額田王の長歌(155)で締めくくられています。150は、姓氏未詳の婦人作。生前に天皇の寵愛を受けたであろう女性とみられています。151は、額田王の作。152は、舎人吉年(とねりのきね)という後宮の女性の作。154は、石川夫人(いしかわのぶにん)の作。石川夫人は伝未詳ながら、「夫人」は天皇の妻妾の第3位とされます。
崩御した天皇の遺体は殯宮(あらきのみや)に安置されます。当時、死は一定の期間を経て認められるものであり、本葬する前のしばらくは死者を安置した殯宮で、殯(もがり)をするのが習いでした。殯の儀礼が何を目的に行われていたかについては定説がなく、①魂を体に戻すため(招魂)、②霊魂の浄化を行うため(浄化)、③荒ぶる魂を鎮めるため(鎮霊)などの説があります。この時の殯は大津の新宮で営まれ、やがて遺体はいったん湖上に運ばれ、山科に運ばれたといいます。
150の「うつせみ」は、この世の人。「し」は、強意。この長歌は集中、初めて「夢」という言葉が出てくるもので、生身の人間と死者を結ぶ手段として夢がうたわれていることから、この女性との間の交流の真実味が察せられます。天皇の死を悼む挽歌にありがちな公的な響きはありません。151の「標を結う」は、縄を張り巡らすことで、当時の人たちが行っていた願掛けの行為の一つ。額田王によるこの歌を「いかにもよそよそしい態度のように思われる」との評もありますが、150の作者の場合とは打って変わって、公的な儀礼の歌というので、敢えて切ない個人的な感情を抑えたのでしょう。
152の「やすみしし」は、原文の「八隅知之」の表記から、八方を領有し治めていらっしゃる意で、「我ご大君」の枕詞。「大御船待ちか」の「か」は、疑問。「唐崎」は、大津宮があった場所から3kmほど北の、琵琶湖に突き出た岬。かつてこの岬には船着き場があり、ここから湖上に出て船遊びを楽しんでいたようです。154の「楽浪」は、琵琶湖西南沿岸地域の古名。「大山守」の「大」は美称で、天皇の御料地である山の番人。
『万葉集』では人の死を直接的に表現することを避け、「離(さか)る」「過ぐ」「臥(こ)やす」「雲隠(くもがく)る」などと、わざとあいまいな言葉を用いています。死者に対する思慕と敬意ゆえの言い換えであり、これを敬避(けいひ)表現といいます。
巻第2-155
やすみしし わご大君(おほきみ)の 恐(かしこ)きや 御陵(みはか)仕(つか)ふる 山科(やましな)の 鏡の山に 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 昼はも 日のことごと 音(ね)のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ |
【意味】
恐れ多くも我が大君の御陵にお仕えする、その山科の鏡の山で、夜は夜どおし、昼は日中ずっと、声をあげて泣き続けてばかりいた大宮人たちは、今はもう散り散りに去っていく。
【説明】
山科の天智天皇御陵に奉仕していた大宮人たちが、その期間を終えて退散するときに、額田王が作った歌。もっとも山科陵の造営は翌年の壬申の乱で遅れたため、これは仮の埋葬だったかもしれません。額田王も、その奉仕の中に加わっていたものとみえます。「やすみしし」は、原文の「八隅知之」の表記から、八方を領有し治めていらっしゃる意。「恐きや」は、申すも恐れ多い。「鏡の山」は、京都市山科区にある御陵の北側の山。「ことごと」は、ことごとく。「ももしきの」は「大宮人」の枕詞。「大宮人」は、宮中に仕える役人。
公的な儀礼の節目における歌であるため、事柄を述べることが主になり、ここでは「大宮人は去き別れなむ」だけが必要な事柄になっています。とはいえ、それまで天智、天武両帝の間にあって複雑な事情が身辺に錯綜した額田王にとって、一段落がついて、かえって様々な回想が胸中に去来したことでしょう。かつて若き天智と行動を共にし、軍令のままに出帆の歌(巻第1-8)を高らかに歌い上げたにもかかわらず、その挽歌を詠むことの無常感も大きかったのではないでしょうか。この歌からは、悲しみと虚脱感に打ちひしがれている様が浮かび上がってきます。窪田空穂はこの歌について、「語がきわめて少なく、また間(ま)がきわめて静かなのは、その悲哀の情をあらわすに適切なものである。この時宜に適させているところに手腕がうかがわれる」と述べています。
巻第2-153
鯨魚(いさな)取り 近江(あふみ)の海を 沖 放(さ)けて 漕ぎ来る船 辺(へ)付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂(かい) いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ |
【意味】
鯨を取るような大きな近江の海、その沖遠くから漕ぎ来る船よ、岸近くに漕ぎ来る船よ、沖船の櫂よ、ひどく波を立てないで、岸船の櫂よ、ひどく波を立てないで、夫がいとしんだ水鳥が飛び立ってしまうではないか。
【説明】
夫、天智天皇の死後、「殯(もがり)」の期間に倭姫大后が作った挽歌です。まだ墓も定まっていない時期で、琵琶湖上をひろく展望し、沖からこなたへ向かって来る船、岸寄りをこなたへ向かって来る船の、その来るがままに、水面に浮かんでいる鳥の驚いて飛び立とうとするさまを詠い、生前の天皇が御覧になられたであろう水鳥に思いを馳せています。また当時は、鳥は霊魂を運ぶものと考えられていました。「鯨魚取り」は「近江の海」の枕詞。淡水湖である近江の海(琵琶湖)に鯨がいたわけはありませんが、琵琶湖も海と同じに見られていましたから、このような表現になっています。「沖放けて」の「放けて」は、離れること。「沖つ櫂」の「つ」は「の」の意の格助詞。「櫂」は舟を漕ぐ道具。「いたくな撥ねそ」の「な~そ」は禁止。「若草の」は「夫」の枕詞。
窪田空穂はこの歌について、「眼前の湖水を、『鯨魚取り近江の海を』と、客観的に、荘重に言い起こされ、続く二句対二回の畳用は、あくまで事象に即して、しかも感覚的の細かさを交へ、結末、『若草の夫の思ふ鳥立つ』と、太后以外の者にはいうを許されない親愛の情を、余情をもって言いおさめられて、一首を渾然としたものにしているところ、長歌の方面にも手腕の秀でていられたことを示すものである」と評しています。
中大兄皇子(天智天皇)略年譜
645年 中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)
叔父の孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子に
異母兄の古人大兄皇子を謀反の疑いで自害に追い込む
646年 孝徳天皇が難波に遷都
改新の詔
653年 孝徳天皇を置き去りにし、群臣らを率いて大和に戻る
654年 孝徳天皇が崩御、母の斉明天皇(皇極)が重祚して即位
658年 有間皇子を謀反の罪で処刑(有間皇子の変)
660年 百済が滅亡
661年 百済救援に派兵しようとするも、筑紫で斉明天皇が崩御
663年 白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗
667年 近江大津宮に遷都
668年 天智天皇として即位し、弟の大海人皇子が東宮となる(1月)
668年 蒲生野で、宮廷をあげての薬狩りが行われる(5月)
669年 中臣鎌足が死去、前日に藤原姓を与える(10月)
670年 日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成
671年 大友皇子を太政大臣に任命(1月)
671年 発病(9月)
671年 大海人皇子を病床に呼び寄せる(10月)
大海人皇子はその日のうちに出家、吉野に下る
大友皇子を皇太子とする
672年 崩御(1月)
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万葉人の死
古代の人々は、人は肉体と霊魂から成るという観念をもっていました。だから、死後、肉体が滅びてからも霊魂は存続すると考えました。霊魂のことを「タマ」と呼び、病気を患ったり死んだりするのは、霊魂の衰弱や遊離によるもので、遊離しそうになっている霊魂を捕え、呼び戻せば人は甦ると信じていたのです。
人が死んだときに死者の名を呼ぶことは、遊離した死者の霊魂を呼び戻し、鎮めることを意味しました。また、霊的なものを身に着ければ、霊魂は充足し、活力が得られると信じていました。
そして万葉人は、歌を詠むことによって、死者への鎮魂と悲しみを尽くそうとしました。愛する人や敬う人の死に際して、万葉人は鎮魂の思いを込めて挽歌を詠んだのです。
古代の葬送は、「殯(もがり)」と「葬(はふ)り」と呼ばれる埋葬に分けられました。殯とは、埋葬前に遺骸を喪屋に安置し、死者の蘇生、復活の儀礼を行うことです。その期間はさまざまで、舒明天皇は約2か月、天武天皇の場合は2年2か月にも及んだといいます。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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