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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

柿本人麻呂の歌

巻第3-235

大君(おほきみ)は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも

【意味】
 天皇は神でいらっしゃるので、天雲にそそり立つ雷の上に仮の宮殿を造り、そこに籠っておいでになる。

【説明】
 題詞に「天皇(すめらみこと)、雷(いかづち)の岳(をか)に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」とあります。ここでの天皇は天武天皇、持統天皇、文武天皇のいずれかとされます。「大君は神にしませば」の「し」は、強意の副助詞。天皇を現人神(あらひとがみ)として讃える常套句であり、人間にはできない行為を「天雲の雷の上に廬りせるかも」と表現しています。「天雲の」は「雷」の枕詞。「雷」は、雷丘で、明日香村にある高さ10mばかりの小さな丘ですが、この歌のことばの力によって雲をつく雄大な岳のように感じられます。『日本霊異記』には、ここで雄略天皇の命によって小子部栖軽(ちいさこべのすがる)が雷を捕らえたと伝えています。「廬る」は、仮宮を建ててこもり精進すること。国見の準備のためか。
 
 斎藤茂吉はこの歌について次のように述べています。「雷丘は藤原宮から半里ぐらいの地であるから、今の人の観念からいうと御散歩ぐらいに受け取れるし、雷丘は低い丘陵であるから、この歌をば事々しい誇張だとし、あるいは『歌の興』に過ぎぬと軽く見る傾向もあり、あるい支那文学の影響で腕に任せて作ったのだと評する人もあるのだが、この一首の荘重な歌調は、そういう手軽な心境では決して成就し得るものではないことを知らねばならない。抒情詩としての歌の声調は、人を欺くことの出来ぬものである、争われぬものであるということを、歌を作るものは心に慎み、歌を味わうものは心を引き締めて、覚悟すべきものである。現在でも雷丘に立てば、三山をこめた大和平野を一望のもとに視界に入れることが出来る。人麻呂は遂に自らを欺かず人を欺かぬ歌人であったということを、吾等もようやくにして知る」。
 
 この歌が巻第3「雑歌」の冒頭歌とされたのは、公的な儀式などでよく披露される歌だったからではないかと見られています。

巻第3-239~241

239
やすみしし わが大君(おほきみ) 高(たか)照らす わが日の皇子(みこ)の 馬(うま)並(な)めて 御狩(みかり)立たせる 若薦(わかこも)を 猟路(かりぢ)の小野に 獣(しし)こそば い這(は)ひ拝(おろが)め 鶉(うづら)こそ い這ひもとほれ 獣(しし)じもの い這ひ拝(をろが)み 鶉(うづら)なす い這ひもとほり 恐(かしこ)みと 仕(つか)へまつりて ひさかたの 天(あめ)見るごとく まそ鏡(かがみ) 仰(あふ)ぎて見れど 春草(はるくさ)の いやめづらしき わが大君かも
240
ひさかたの天(あめ)行く月を網(あみ)に刺(さ)し我が大君(おほきみ)は蓋(きぬがさ)にせり
241
大君(おほきみ)は神にしませば真木(まき)の立つ荒山中(あらやまなか)に海を成(な)すかも
 

【意味】
〈239〉われらが大君の高々と光り輝く日の皇子、このわが皇子が、馬を勢揃いして御狩に立っておられるその狩路野では、鹿や猪は膝を折り、這いつくばって拝むであろう、鶉(うずら)は這い回るだろう。そんな獣たちのように、われらも這いつくばって皇子をうやまい、鶉(うずら)のように這い回って皇子のおそばを離れず、恐れ多いと思いながらお仕え申し上げ、はるか天を仰ぐように皇子を仰ぎ見れば、春草のようにお慕わしい大君であることだ。

〈240〉空を渡って行く月を網を張ってとどめ、わが大君は、ご自身の傘にされていらっしゃる。

〈241〉大君は神でいらっしゃるから、人気のない山中に海をお作りになっている。

【説明】
 長皇子(ながのみこ)が猟路(かりじ)の池に狩猟をしに行かれたときに、柿本人麻呂の作った歌。長皇子は、天武天皇の第7皇子。『万葉集』には5首の歌を残しており、また、『小倉百人一首』歌人の文屋康秀とその子の文屋朝康は、それぞれ長皇子から5代、6代目の子孫にあたります。「猟路の池」は、奈良県宇陀市の宇田川と芳野川が合流する付近の池かといいます。

 239の「やすみししわが大君」は天武天皇、「日の皇子」「いやめづらしきわが大君」は長皇子をさします。「馬並めて」は、馬を並べ連ねて。「若薦を」は「猟路」の枕詞。「獣」は原文「十六」で、「四×四=十六」の九九が隠れています。「い這ひ拝め」の「い」は、接頭語。「もとほる」は、廻る、徘徊する。「獣じもの」は、獣のように。「まそ鏡」は「仰ぎ見る」の枕詞。「春草の」は「いやめづらし」の枕詞。「大君」は、長皇子のこと。

 反歌の240は、猟の帰途、夜になり、月が皇子の頭上に現れたのを見て詠んだ歌。「ひさかたの」は「天」の枕詞。「蓋(きぬがさ)」は、貴人の後ろから差しかける長柄の大傘のことで、月をきぬがさに見立てています。

 241は、或る本の反歌とされている1首。「真木」は、杉や檜など良材となる木。「荒山」は、人気のない荒れた山の意ですが、「荒」は、本来は始原的で霊力を強く発動している状態をあらわす言葉だともいわれ、「荒山」は、霊威が強くてむやみに近づいてはならない山を指すとされます。239にある「猟路の池」を、皇子の力によってできた海と見て言っています。

巻第3-249~256

249
御津(みつ)の崎(さき)波を恐(かしこ)み隠江(こもりえ)の船なる君は野島(ぬしま)にと宣(の)る
250
玉藻(たまも)刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島が崎に舟近づきぬ
251
淡路(あはぢ)の野島が崎の浜風に妹(いも)が結びし紐(ひも)吹きかへす
252
荒栲(あらたへ)の藤江の浦に鱸(すずき)釣る白水郎(あま)とか見らむ旅行くわれを
253
稲日野(いなびの)も行き過ぎかてに思へれば心恋しき可古(かこ)の島見ゆ
254
ともしびの明石(あかし)大門(おほと)に入(い)らむ日や榜(こ)ぎ別れなむ家のあたり見ず
255
天離(あまざか)る夷(ひな)の長道(なかぢ)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ
256
飼飯(けひ)の海の庭(には)好(よ)くあらし刈薦(かりこも)の乱れ出(い)づ見ゆ海人(あま)の釣船
 

【意味】
〈249〉御津の崎に打ち寄せる波を恐れ、深い入江で風待ちをしていた船のあるじである君は、さあ野島へと宣言なさった。

〈250〉美しい藻を刈っている敏馬の海をあとにして、夏草の茂る野島の崎に、いよいよ私の舟が近づいてきた。

〈251〉淡路の野島の崎の浜風に、妻が旅立ちのときに結んでくれた上着の紐を吹き返らせている。

〈252〉藤江の浦に鱸を釣る猟師とみるだろうか、旅行くこの私を。

〈253〉稲日野近くの海を航していると、船足が捗々しくなく、いろいろ物思いしていたが、ようやくにして恋しい可古の島が見え出した。

〈254〉明石の海門を通過するころには、いよいよ家郷の大和の山々とも別れることとなるんだ。

〈255〉遠く隔たった地方からの長い旅路に、ずっと故郷を恋しく思いつつ戻って来たら、明石海峡から懐かしい大和の山々が見えてきたぞ。

〈256〉飼飯の海は穏やからしい。刈り取った薦のように、猟師の釣船があちらこちらから漕ぎ出てくるのが見える。

【説明】
 柿本人麻呂が旅の途上に詠んだ歌8首。いずれも船旅で、公務で地方に下向したときの歌とみられます。この少しあとに「柿本朝臣人麻呂、筑紫の国に下る時に、海道にして作る歌」(巻第3-303・304)が出てくるので、その道中に詠んだものかもしれません。

 249の「御津の崎」は、難波の港の先端。「隠江」は、隠れて見えない入江。「船なる君は野島にと宣る」の句は、原文では「舟公宣奴嶋尓」となっており、難訓とされます。250の「玉藻刈る」は「敏馬」の枕詞。「敏馬」は、いまの神戸市灘区岩屋・大石の付近で、瀬戸内海を西へ向かう航路の最初の泊(とまり)とされていました。「夏草の」は「野」の枕詞。251の「野島が崎」は、淡路島の北西岸の地。夫婦が別れる時、互いの着物の紐を結び合い、再会するまで解かないことを誓う風習があり、その紐が風に翻るのを見て妻を思い出しています。
 
 252の「荒栲の」は「藤江」の枕詞。「藤江」は、いまの明石市藤江。253の「稲日野」は、印南野ともいい、いまの兵庫県高砂市から明石市にかけての平野。「可古の島」は、兵庫県加古川市にあったらしい加古川河口の島。254の「ともしびの」は「明石」の枕詞。「明石大門」は、明石市と淡路島との間の明石海峡。明石は畿内の西端とされ、これより西は「天離る鄙」となり、旅人の不安が募る所であると同時に、旅情をかき立てる地でもありました。255は、逆に西方からの帰路の歌。「長道ゆ」の「ゆ」は、~を通って。256の「飼飯」は、いまの淡路島津名郡五色町。「刈薦の」は「乱れ」の枕詞。
 
 斎藤茂吉はこれらの歌のうち、250・253・254・255を秀歌として採り上げており、254の歌に関しては次のように評しています。

「第4句で『榜ぎ別れなむ』と切って、結句で『家のあたり見ず』と独立的にしたのは、その手腕敬憬すべきである。由来、『あたり見ず』というような語には、文法的にも毫も詠嘆の要素が無いのである。『かも』とか『けり』とか、『はや』とか『あはれ』とか云って始めて詠嘆の要素が入ってくるのである。文法的にはそうなのであるが、歌の声調方面からいうと、響きから論ずるから、『あたり見ず』で十分詠嘆の響きがあり、結句として『かも』とか『けり』とかに匹敵するだけの効果をもっているのである」

 律令制の時代になると、中央と地方の行政機関との連絡のため、役人が頻繁に行き来するようになりましたが、古来の旅にまつわる信仰や旅の歌の伝統は踏襲されました。それによる旅の歌の原則は、第一に「訪れた土地の名を入れる」ことで、その土地の神の名でもある地名を入れた歌を作って賛美することによって、無事に通過できるよう願い、第二には「故郷や妻、家をうたう」ことによって魂がつながり、安全を保証するというものでした。

巻第3-261~262

261
やすみしし わが大君(おほきみ) 高照らす 日の御子(みこ) 敷きいます 大殿(おほとの)の上(うへ)に ひさかたの 天伝(あまづた)ひ来る 雪じもの 行き通ひつつ いや常世(とこよ)まで
262
矢釣山(やつりやま)木立(こだち)も見えず降りまがひ雪の騒(さは)ける朝(あした)楽(たの)しも
 

【意味】
〈261〉あまねく天下を支配しておられる我らが主君、高く照り輝く日の神の御子、統べていらっしゃる大殿の上に、天から降りしきる雪、その雪のように行き通い続けてお仕えしましょう、いついつまでも永遠に。

〈262〉矢釣山は、木立も見えないほどに降り乱れ、雪の乱舞するこの朝は何と心楽しいことだろう。

【説明】
 柿本人麻呂が、新田部皇子(にいたべのみこ)に献上した歌。新田部皇子は天武天皇の子。261は、おりからの大雪に寄せて皇子を賀しているもので、人麻呂の長歌のなかで最小の歌となっています。「やすみしし」「高照らす」「ひさかたの」は、それぞれ「わが大君」「日」「天」の枕詞。「わが大君」は、ここでは天武天皇。「敷きいます」は、宮殿を構えて住むこと。「雪じもの」は、雪ではないがまるで雪のようにの意で、「行き」を導いています。

 262は長歌から転じて、臣下として奉仕する気持ちを詠んだ歌です。「矢釣山」は、奈良県明日香村矢釣の東北にある山。「雪の騒ける」の原文「雪驟」は難訓で、「雪にうくづき」「雪につどへる」などと訓む説があり、定まっていません。

巻第3について
 巻第1・2が密接な関係にあったように、巻第3は第4とともに巻第1・2を継ぐ意図をもって構成され、また、互いに相補的関係をなしています。部立は雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌の3つからなり、ここで譬喩歌がはじめて見えます。
 譬喩歌は、人の営為や感情を何かの物にたとえて述べる歌で、万葉集においては相聞のなかの表現形式による下位の分類の一つといわれています。恋の歌が殆どです。  

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古典に親しむ

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万葉時代の年表

629年
舒明天皇が即位
古代万葉を除く万葉時代の始まり
630年
第1回遣唐使
645年
大化の改新
652年
班田収授法を制定
658年
有馬皇子が謀反
660年
唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす
663年
白村江の戦いで敗退
664年
大宰府を設置。防人を置く
667年
大津宮に都を遷す
668年
中大兄皇子が即位、天智天皇となる
670年
「庚午年籍」を作成
671年
藤原鎌足が死去
天智天皇崩御
672年
壬申の乱
大海人皇子が即位、天武天皇となる
680年
柿本人麻呂歌集の七夕歌
681年
草壁皇子が皇太子に
686年
天武天皇崩御
大津皇子の変
689年
草壁皇子が薨去
690年
持統天皇が即位
694年
持統天皇が藤原京に都を遷す
701年
大宝律令の制定
708年
和同開珎鋳造
このころ柿本人麻呂死去か
710年
平城京に都を遷す
712年
『古事記』ができる
716年
藤原光明子が首皇子(聖武天皇)の皇太子妃に
718年
大伴家持が生まれる
720年
『日本書紀』ができる
723年
三世一身法が出される
724年
聖武天皇が即位
726年
山上憶良が筑前守に
727年
大伴旅人が大宰帥に
729年
長屋王の変
731年
大伴旅人が死去
733年
山上憶良が死去
736年
遣新羅使人の歌
737年
藤原四兄弟が相次いで死去
740年
藤原広嗣の乱
恭仁京に都を移す
745年
平城京に都を戻す
746年
大伴家持が越中守に任じられる
751年
家持、少納言に
越中国を去り、帰京
752年
東大寺の大仏ができる
756年
聖武天皇崩御
754年
鑑真が来日
755年
家持が防人歌を収集
757年
橘奈良麻呂の変
758年
家持、因幡守に任じられる
759年
万葉終歌

斎藤茂吉

斎藤茂吉(1882年~1953年)は大正から昭和前期にかけて活躍した歌人(精神科医でもある)で、近代短歌を確立した人です。高校時代に正岡子規の歌集に接していたく感動、作歌を志し、大学生時代に伊藤佐千夫に弟子入りしました。一方、精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学をはじめ、青山脳病院院長の職に励む傍らで、旺盛な創作活動を行いました。

子規の没後に創刊された短歌雑誌『アララギ』の中心的な推進者となり、編集に尽くしました。また、茂吉の歌集『赤光』は、一躍彼の名を高らかしめました。その後、アララギ派は歌壇の中心的存在となり、『万葉集』の歌を手本として、写実的な歌風を進めました。1938年に刊行された彼の著作『万葉秀歌』上・下は、今もなお版を重ねる名著となっています。


(斎藤茂吉)

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