巻第3-375~377
375 吉野なる夏実(なつみ)の川の川淀(かはよど)に鴨(かも)ぞ鳴くなる山陰(やまかげ)にして 376 蜻蛉羽(あきづは)の袖(そで)振る妹(いも)を玉くしげ奥に思ふを見たまへ我(あ)が君 377 青山の嶺(みね)の白雲(しらくも)朝に日(け)に常に見れどもめづらし我(あ)が君 |
【意味】
〈375〉吉野の菜摘の川の淀んだあたりで鴨の鳴く声がする。山陰のあたりで、ここから姿は見えないけれども。
〈376〉とんぼの羽のように薄く美しい袖をひるがえして舞うあの子を、私は秘蔵の思いでいとしく思っているのです、よくよく御覧になって下さい、我が君よ。
〈377〉青い山の峰にかかる白雲のように、朝夕いつ見ても、ま新しく思われます、我が君は。
【説明】
湯原王は、天智天皇の孫、志貴皇子の子で、兄弟に光仁天皇・春日王・海上女王らがいます。天平前期の代表的な歌人の一人で、父の透明感のある作風をそのまま継承し、またいっそう優美で繊細であると評価されています。生没年未詳。
375は、湯原王が吉野で作った歌。「吉野なる」は、吉野にある。「夏実の川」は、奈良県吉野町宮滝の上流、菜摘の地を流れる吉野川。この辺りで川が湾曲し、半島状となった地の尖端にあたるのが菜摘で、ここは吉野でも佳景とされ、集中に他にも歌があり、『懐風藻』の詩にも扱われています。「川淀」は、流れが淀んだところ。斎藤茂吉は、「大景から小景へとしだいに狭められ、そこで鳴く鴨といういささかなものを捉え、結句の『山陰にして』は、一首に響く大切な句で、ここに作者の感慨がこもっている」と言っています。いかにもさわやかな響きのある歌です。
376・377は、宴席で作った歌。376の「蜻蛉羽」は、蜻蛉(とんぼ)の羽の意で、薄く、軽く、美しいさまを表現する語。「玉くしげ」は「奥」の枕詞。「奥に思ふ」は、秘蔵に思っている意。「我が君」と呼ぶ親しい客をもてなした時、王の侍女と思われる者に舞を舞わせ、その挨拶として詠んだ歌です。人に物を贈る時などに、その物が良い物であることや、その物を得るのに苦労したことをいうのが、上代の風習であったように、ここでも、今舞わせている女は、自分にとっては大切な者だというのが礼であって、その心をもって詠んだ歌です。さらには、王がいかにその女を愛しているかを露わに表現しています。
377の上2句は「朝に日に」を導く序詞。「朝に日に」は、朝に夕に。「めづらし」は「愛づらし」で、良いものは見飽きない意。
巻第4-670
月読(つくよみ)の光に来ませあしひきの山き隔(へな)りて遠からなくに |
【意味】
月の光をたよりにおいでになって下さい。山を隔てて遠いというわけではないのですから。
【説明】
月見の宴での歌とされ、女の立場で詠んでいます。「月読」は、月の異名。「あしひきの」は「山」の枕詞。「隔りて」は、隔てて。なお、この歌に和する歌として「月読の光はきよく照らせれど惑(まと)へる心思ひあへなくに」という作者未詳の歌(671)があり、「月の光は清らかに照らしていますが、心が乱れて思いきることができません」と男の立場から言っています。
「月読」はここでは月の異名として使われていますが、「月読尊(つくよみのみこと)」は、日本神話に登場する「月の神」です。それによれば、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)との間に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)らと共に生まれ、父神に夜の食国(おすくに)の支配を命じられたとあります。農耕のために月齢を数えたため、転じて「月の神」の意になったようです。
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巻第3-382~383
382 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国に 高山(たかやま)は さはにあれども 二神(ふたがみ)の 貴(たふと)き山の 並(な)み立ちの 見(み)が欲(ほ)し山と 神代(かみよ)より 人の言ひ継ぎ 国見(くにみ)する 筑波(つくは)の山を 冬ごもり 時じき時と 見ずて行かば 増して恋(こひ)しみ 雪消(ゆきげ)する 山道(やまみち)すらを なづみぞ我(あ)が来(け)る 383 筑波嶺(つくはね)を外(よそ)のみ見つつありかねて雪消(ゆきげ)の道をなづみ来(け)るかも |
【意味】
〈382〉ここ東の国には高い山がたくさんあるけれども、男神と女神の二神の貴い山が並び立つ姿はぜひ見ておくべきと、神代の昔から言い継がれ、国見が行われてきた筑波山。冬の終わりはその時期ではないというので、見ずに過ぎればいっそう恋しくなるだろうと、雪解けの山道にかかわらず、難渋しながら私はやって来た。
〈383〉筑波山をよそながら見ているだけではいられなくて、雪解け道にかかわらず、難渋しながらやってきた。
【説明】
題詞に「筑波の岳(たけ)に登りて作る」とある歌。丹比真人国人(たじひのまひとくにひと)は、出雲守、播磨守、大宰少弐(だざいのしょうに)を歴任、天平勝宝3年(751年)に従四位下に進み、のち摂津大夫、遠江守となりましたが、橘奈良麻呂の乱に連座して伊豆に流された人です。この歌は、何らかの官命を帯びてこの地に来て詠んだ歌のようです。
「筑波の岳」は、筑波山。「鶏が鳴く」は「東」の枕詞。「鶏が鳴く、起きよ吾夫(あづま)」の意で「あづま」に続くといわれます。「さは」は、物の多い意。「二神」は、筑波山の男山と女山の2峰のこと。「国見」は、高い所に登って国の形成や民の状態を見ること。「冬ごもり」は、冬の終わり。枕詞ではなく、単に季節を表しています。「時じき時と」は、その時ではない時。「なづみ」は、難渋する意。
巻第3-385~387
385 霰(あられ)降り吉志美(きしみ)が岳(たけ)を険(さか)しみと草取りかなわ妹(いも)が手を取る 386 この夕(ゆふへ)柘(つみ)のさ枝(えだ)の流れ来(こ)ば梁(やな)は打たずて取らずかもあらむ 387 いにしへに梁(やな)打つ人のなかりせばここにもあらまし柘(つみ)の枝(えだ)はも |
【意味】
〈385〉吉志美が岳が険しいので、草をつかみつつ登ったが、うっかりつかみ損ない、あなたの手をつかんだよ。
〈386〉この夕方、柘の枝が流れて来たなら、梁を仕掛けていないので、枝を取らずじまいになるのではなかろうか。
〈387〉遠い昔に梁を仕掛けた味稲(うましね)という人がいなかったら、今もここに柘の枝があるだろうに。
【説明】
「仙柘枝」は、柘枝(つみのえ)という名の仙女のことで、その仙女に関する歌。『懐風藻』や『続日本後記』などにもある記述を総合すると、次のような伝説があったことが知られます。
遠い昔、吉野に味稲(うましね)という男がいて、川に梁(やな)を仕掛けて鮎をとる生活をしていた。ある日、川上から柘(つみ:山桑の枝)が流れてきて梁にかかったので、取り上げて家に持ち帰ったところ、突然、絶世の美女に変身した。味稲は大いに驚き、かつ喜び、妻にして仲睦まじく暮らしていた。しかし、この美女は仙女の仮の姿であったので、やがて領巾布(ひれぬの)をまとって昇天した。
385の左注に、右の一首は、あるいは味稲(うましね)が、柘枝の仙媛(やまびめ)に贈った歌であるというが、柘枝伝(しゃしでん)にこの歌は見えない、とあり、当時は『柘枝伝』という書物があったようです。386は作者未詳。387は、若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ:伝未詳)の作。
385の「霰降り」は、霰に打たれた物がきしむ音を立てることから、類音の「吉志美」にかかる枕詞。「吉志美が岳」は、吉野山中の一嶺とみられるものの、所在未詳。「険しみ」は、険しいので。「かなわ」は語義未詳。「かねて」の意か。「手を取る」は、求婚の意を表すしぐさ。386の「梁」は、川に杭を並べて流れを狭くし、網や簀を張って魚を獲る仕掛け。387は、386と共に、味稲を羨んでいる歌です。
なお、「仙柘枝」に関して、窪田空穂は次のように解説しています。「仙人は、山に住み、仙草を食うことによって不老の身となり、また仙術によって空を飛行し、自由にその身の形を変じうる者とされていた。これは中国から渡来した思想であって、やや古い時代から行なわれており、流布もしていたものである。しかしわが国に喜ばれたのは、その仙人の中の仙女のほうで、仙女というよりもむしろ天女というべきものであった。仙人は地上の人の仙術を得た者で、畢竟(ひっきょう)人間であるが、天女は天の神の侍女で、中国で信ずる天の神、あるいは仏教の範囲のもので、本来天上のものである。わが国で最も喜ばれたのは天女のほうで、神の譴(とが)めをこうむって下界に下り、または自身の意志で、時あって下って来、さまざまな形において人間との交渉をもつという方面である。風土記にある天女、竹取物語のかぐや姫などがそれである。この柘枝もその範囲のものである」
巻第3-388~389
388 海神(わたつみ)は くすしきものか 淡路島(あはぢしま) 中に立て置きて 白波(しらなみ)を 伊予(いよ)に廻(めぐ)らし 居待月(いまちづき) 明石(あかし)の門(と)ゆは 夕(ゆふ)されば 潮(しほ)を満たしめ 明(あ)けされば 潮を干(ひ)しむ 潮騒(しほさゐ)の 波を畏(かしこ)み 淡路島 磯隠(いそがく)り居て 何時(いつ)しかも この夜(よ)の明けむと さもらふに 寐(い)の寝(ね)かてねば 滝の上(うへ)の 浅野(あさの)の雉(きぎし) 明けぬとし 立ち騒(さわ)くらし いざ子ども あへて漕(こ)ぎ出(で)む 庭(には)も静けし 389 島伝ひ敏馬(みぬめ)の崎を漕ぎ廻(み)れば大和(やまと)恋しく鶴(たづ)さはに鳴く |
【意味】
〈388〉海神は何と霊妙なものであることか。淡路島を海の真ん中に立てて置いて、白波を伊予の国までめぐらし、明石海峡からは、夕方になれば潮が満ちて来て、明け方になるとその潮を干させる。潮騒が恐ろしくて、淡路島の磯の陰に船を隠し、いつになったら夜が明けるだろうと様子をうかがって、寝るに寝られずにいると、滝の上の浅野の雉が、夜明けを告げて立ち騒ぎ出した。さあ皆の者、押し切って漕ぎ出そうではないか。ちょうど海面も静かだ。
〈389〉島伝いに敏馬の崎を漕ぎめぐって行くと、故郷大和への恋しさをつのらせて、鶴たちが多く鳴いている。
【説明】
公用での船旅で、瀬戸内海の西方から難波津に向かい、一夜を淡路島で過ごし、翌朝出航するまでを詠んだ歌。左注に、若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ:伝未詳)が伝誦し、作者は分からないとあります。
388の「くすしき」は、不思議な、霊験あらたかな。「淡路島中に立て置きて」は、淡路島を本州と四国の間に置いての意。「伊予」は、四国の伊予の国。「居待月」は、旧暦18日の月。夜を明かして待つ意で「明石」にかかる枕詞。「さもらふ」は、波風の様子を見て待機する。「浅野」は、淡路島北淡町浅野。山中に浅野の滝があります。「庭」は、労働を行う場所のことで、ここは海上。389の「敏馬」は、神戸市灘区岩屋町付近。「さはに」は、多く。
万葉集の時代区分
「万葉集」の全巻を通じて、最も古い歌は仁徳天皇の皇后・磐姫の作と伝えられているもので、最も新しい歌は天平宝字3年の大伴家持の作です。この間ざっと450年もの長い期間にわたりますが、実際は舒明天皇前後から1世紀の間に作られた歌が殆どです。
この時代は、政治的には聖徳太子の指導による大陸文化の流入、大化の改新、壬申の乱などの大変動、皇室中心の官僚社会国家の樹立など、わが国の歴史上きわめて重要な時期でもありました。
「万葉集」の時代区分にはいくつかの方法がありますが、次の4期に分けるのが普通です。
【第1期】
近江朝以前(壬申の乱・672年)まで
【第2期】
飛鳥・藤原期(平城京遷都・710年)まで
【第3期】
奈良時代前期(天平5年・733年)まで
【第4期】
奈良時代中期(天平宝字3年・759年)まで
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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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(大伴家持)
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