巻第3-416
ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日(けふ)のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ |
【意味】
磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか。
【説明】
大津皇子(おおつのみこ)は天武天皇の御子。「詩賦の興(おこり)は大津より始まる」といわれたほど文筆を愛し、容貌も大柄で男らしく人望も厚かったといわれます。草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていましたが、686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして処刑されました。罪名は八虐(はちぎゃく)という最高罪のうちの「天皇殺害、国家転覆」に当たるとされました。ただし、謀反の罪で大津とともに逮捕された30余人は、配流された2人を除き、全員が「皇子にあざむかれた」のだとして赦免されています。大津皇子ひとりが標的だったことは明らかであり、そのため、この逮捕・処刑劇は、息子である草壁の安泰を図ろうとする皇后の思惑がからんでいたともいわれます。
この歌は、大津皇子が刑の宣告を受けて詠んだ歌です。題詞は「涕(なみだ)を流して作りませる御歌」。大津は捕縛された姿で自邸に戻され、そこで自殺させられました。この歌はその途上で詠まれたものでしょうか。もはや逃れることのできない死をはっきりと予感し、「磐余の池に鳴く鴨」たちの姿に、永らえる生命の確かさをしっかりと見つめる皇子の、空しくも悲痛な叫びが吐露されています。大津の妻・山辺皇女(やまべのひめみこ:天智天皇の皇女)は、夫の死に際して悲しみのあまり裸足で死刑場まで走っていき、夫の死骸にとりすがって自殺した、見る者は皆すすり泣いた、と『日本書紀』は伝えています。
「ももづたふ」は「磐余」にかかる枕詞。「磐余の池」は香具山の東北にあった池で、皇子が処刑された訳語田舎(おさだのいえ:皇子の邸宅だったか)の近く。現在はその姿を失い、田園の中に立つ歌碑がわずかに伝承を伝えるのみです。「雲隠る」というのは、貴人の霊魂は死せる肉体を離れて天上に上って行くという考えが背景にあり、死んでいくことを意味しています。さすがに『懐風藻』に多くの優れた詩を残しただけあり、24歳の皇子の辞世の歌とは思われないほどの豊かな詩才に恵まれた天分が表現されています。『懐風藻』は『万葉集』と同じ時期に編まれた漢詩集であり、それには、臨終の際の皇子の詩が残されています。
「金烏(きんう) 西の舎(や)に臨(て)り 鼓(つづみ)の声(ね)は 短き命を催(うなが)す 泉路(よみぢ)に賓主(ひんしゅ)無く 此の夕(ゆふ)べ 誰(た)が家に向かふ」
(日の光は西にある家を照らし、時を告げる鐘の音は、私の命の終わりを告げる。黄泉(よみぢ)には迎えてくれる主人も客もいない。独りぼっちで、いったい自分はどこの家に向かうのか)
【年表】
672年 壬申の乱
673年 大海人皇子が天武天皇として即位
679年 6皇子による「吉野の盟約」
681年 草壁皇子を皇太子とする
683年 大津皇子が初めて政を聞く
686年 9月9日、天武天皇が崩御
9月24日、大津皇子の謀反が発覚
10月3日、大津皇子が処刑される
巻第8-1512
経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず娘子(をとめ)らが織る黄葉(もみちば)に霜な降りそね |
【意味】
経糸もなく横糸もこしらえないで、色とりどりに娘たちが織る美しいもみじの葉に、霜よ降らないでおくれ。
【説明】
「経もなく緯も定めず」は、縦糸も横糸も定めないで。「な降りそね」の「な~そね」は、禁止の願望。紅葉を錦の布に喩えており、『懐風藻』にある皇子の漢詩の「山機霜杼、葉錦ヲ織ラム」の表現をとりいれた歌とされます。錦は金糸などを用いた華麗な文様の織物のこと。庶民にとってはなかなか手に入らない貴重品だったらしく、「錦」の文字が金扁なのは、金と同じ目方で取引されたので、このような形の文字になったといいます。本来、錦を織るには縦糸と横糸を材料とするのに、それもないまま織るという、神秘的なこととして言っており、従って、「娘子ら」を仙女らと見ています。
窪田空穂は、「当時知識人の間には一般化しようとしていた神仙思想を捉えて、それを眼前の紅葉につなぎ、その神秘性を文芸化したものであって、まさに皇子の独創と思われるものである。この想像は、形から見てもこなれきった、さわやかなもので、おおらかな調べで貫いているものである。二十四にして命を終わった皇子の才情のほどを思わせられる作である」と述べています。なお、「述志」と題された皇子の漢詩は次のようなものです。
天紙風筆画雲鶴
山機霜杼織葉錦
・・・天紙風筆(てんしふうひつ)雲鶴(うんかく)を画(えが)き、 山機霜杼(さんきそうちょ)葉錦(ようきん)を織(お)らむ。
(天の紙に風の筆で雲間を飛翔する鶴の絵を描き、山の機織り機に霜の杼をもって紅葉の錦を織りたい)
大津皇子の歌を音楽にしたショスタコーヴィチ
1912年に、サンクトペテルブルクで出版された『日本の叙情歌』によって、『万葉集』がロシアに紹介されました。ソ連時代の作曲家ショスタコーヴィチは、24編の万葉歌の中から大津皇子の辞世の歌「ももづたふ磐余の池に」を選んで題材とし、『自害の前に』という歌曲を作曲しています。その歌詞の日本語訳は次のようなものです。
木の葉は舞い散り
濃い霧が湖を覆っている
野生の鴨は驚いたように鳴いている
この聖なる磐余の池に
陰鬱な夢が私の頭を翳らせ
私の胸は重い
一年の後、再び鴨の鳴き声が響こうとも
もはや私は聞くことはないのだ
スターリン治世に生きたショスタコーヴィチが、敢えて大津皇子の歌を選んだのには、何か特別な思いがあったのでしょうか。彼もまた、自身の作曲態度によって命の危険を感じることがあった人です。その彼が、皇子の歌が潜在的にはらんでいる恐怖の生々しさを、余すところなく再現しています。
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時代別のおもな歌人
●第1期伝誦歌時代
磐姫皇后/雄略天皇/聖徳太子/舒明天皇
●第1期創作歌時代
有間皇子/天智天皇/鏡王女/額田王/天武天皇
●第2期
持統天皇/大津皇子/柿本人麻呂/高市黒人/志貴皇子/長意吉麻呂
◆第3期
山上憶良/大伴旅人/笠金村/高橋虫麻呂/山部赤人/大伴坂上郎女/湯原王
◆第4期
大伴家持/大伴池主/市原王/田辺福麻呂/笠女郎/中臣宅守/狭野茅上娘子
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