巻第4-507
敷栲(しきたへ)の枕(まくら)ゆくくる涙にぞ浮寝(うきね)をしける恋の繁(しげ)きに |
【意味】
枕を伝って流れ落ちる涙で、波のまにまに漂う辛い浮き寝をしました。絶え間ない恋しさのために。
【説明】
作者は駿河出身の采女とされますが、伝不詳です。采女というのは、天皇の食事に奉仕した女官のことで、郡の次官以上の者の子女・姉妹の中から容姿に優れた者が選ばれました。身分の高い女性ではなかったものの、天皇の寵愛を受ける可能性があったため、天皇以外は近づくことができず、臣下との結婚は固く禁じられていました。この歌で言っているのは、任が解けてからのことか、あるいは宮廷に仕える男子を密かに思ってのことでしょうか。
「敷栲の」は「枕」の枕詞。「枕ゆくくる」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。。「くくる」は、水中を潜行することを言いますが、ここは、伝って流れる。「涙にぞ」の「ぞ」は、取り立てて言うときの助詞。「浮寝」は、水鳥が水に浮かんで寝ること、または水に浮かんだ舟の上で寝ること。「しける」の「ける」は「ぞ」の係り結びで連体形。浮寝をしたことであるよ。「恋の繁きに」の「繁き」は、多い、頻繁である。恋の深い意。「に」は、理由を示す助詞。
この歌について、国文学者の窪田空穂は次のように評しています。「吾が恋しさに流す涙の上に浮寐をしたというのは、心としては訴えの情を強めようがためのもので、また語(ことば)としては例のないもので、当時にあっては新しいものである。しかし結果から見ると、実際から遊離したものとなって、かえって訴えの情を弱めてしまっている。夫婦間の歌で、実用を主とすべきものが、文芸的にしようとしたため、その本旨を失うに至ったものである。実際的ということを性格とし、文芸性ということには限度のあるのを、その限度を超えたもので、この傾向が後の平安朝に続くものとなっている」
巻第8-1420
沫雪(あわゆき)かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何(なに)の花ぞも |
【意味】
淡雪がはらはらと降ってきたかと見えるほど、流れ散りつづけているのは何の花だろう。
【説明】
「沫雪」は、沫のように消えやすい雪。主として春の雪を言いますが、冬の雪にも言います。「はだれに」は、まだらに、か。「流らへ」は、「流る」の継続。古くは、雨が降り、風の吹く状態にも言った表現です。白梅の花がさかんに散っているようすを見て、ふと何の花だろうと訝った気持ちをうたっています。梅の散り方としては誇張した表現になっていますが、窪田空穂は、「気分になし得ているので、わざとらしさや厭味のないものとなっている」と評しています。また、平安期にはこうした技法の歌が盛んに詠まれるわけですが、飛鳥時代の作であるこの歌にも、すでにその原型が見えているのが興味深いところです。
巻第4-509~510
509 臣(おみ)の女(め)の 櫛笥(くしげ)に乗れる 鏡(かがみ)なす 御津(みつ)の浜辺(はまべ)に さ丹(に)つらふ 紐(ひも)解き放(さ)けず 我妹子(わぎもこ)に 恋ひつつ居(を)れば 明(あ)け闇(ぐれ)の 朝霧(あさぎり)隠(ごも)り 鳴く鶴(たづ)の 音(ね)のみし泣かゆ 我(あ)が恋ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる 心もありやと 家(いへ)のあたり 我(わ)が立ち見れば 青旗(あをはた)の 葛城山(かづらきやま)に たなびける 白雲(しらくも)隠(がく)る 天(あま)さがる 鄙(ひな)の国辺(くにへ)に 直(ただ)向かふ 淡路(あはぢ)を過ぎ 粟島(あはしま)を 背(そ)がひに見つつ 朝なぎに 水手(かこ)の声呼び 夕なぎに 梶(かぢ)の音(おと)しつつ 波の上を い行きさぐくみ 岩の間(ま)を い行き廻(もとほ)り 稲日都麻(いなびつま) 浦廻(うらみ)を過ぎて 鳥じもの なづさひ行けば 家の島 荒磯(ありそ)の上に うちなびき しじに生(お)ひたる なのりそが などかも妹(いも)に 告(の)らず来(き)にけむ 510 白栲(しろたへ)の袖(そで)解きかへて帰り来(こ)む月日(つきひ)を数(よ)みて行きて来(こ)ましを |
【意味】
〈509〉女官の櫛箱の上に載っている鏡のように、見るという名を負うこの御津の浜辺で、紅の美しい下紐を解くこともできずにあの子に恋い焦がれていると、折しも明け方の朝霧に隠れて鳴く鶴のように、声をあげて泣けてくるばかりだ。この悲しみの千分の一でも慰められないかと、家のある大和の方向を遠望してみるが、
葛城山にたなびく白雲に隠れて見えもしない。こうして、都から遠く離れた田舎の国に向き合う淡路島を過ぎ、粟島を後ろに見ながら、朝なぎには漕ぎ手が声を揃え、夕なぎには櫓をきしらせて波を押し分けて岩の間を進んでいく。はるばる稲日都麻の浦のあたりを過ぎて、水鳥のようにもまれながら漂い行くと、聞くさえ懐かしい家島の荒磯の上になのりその藻がなびいてびっしり生えている。そのなのりそのように、どうして私はあの子に訳も告げずに別れて来てしまったのだろうか。
〈510〉互いの袖を解いて取り換えて形見とし、いつごろ帰って来られるのかその月日を数えて告げてから、筑紫まで行って来るのだったのに。
【説明】
丹比真人笠麻呂(伝未詳)が、筑紫の国に下ったときに作った歌。官命を帯びてのことと思われますが、事情は分かりません。夫婦の契りを交わし、きちんと将来の約束をしないまま慌しく離れてしまったことを悔いています。『万葉集』には、他に短歌1首があります(巻第3-285)。
509の「臣の女」は、宮廷の女官。「櫛笥」は、櫛や鏡などの、化粧道具を入れる箱。「鏡なす」は、鏡のように。その鏡を「見つ」と続け、「御津」(難波津)を導く同音反復式序詞。「さ丹つらふ」は、赤みを帯びた、で、「紐」の形容。「明け闇」は、夜明け方のほの暗さ。「鳴く鶴の」の「の」は、~のように。「青旗の」は、青々と茂り立つ山の姿を旗に譬え、「葛城山」に掛かる枕詞。「葛城山」は、奈良県と大阪府の境の葛城連山。「白雲隠る」は、白雲に隠れて見えない。「天ざかる」は、都から遠ざかっている意で、「鄙」に掛かる枕詞。「鄙」は、都から遠い所。「直向かふ」は、正面に向かう。「粟島」は所在未詳、四国の阿波あたりか。「背がひ」は。後ろ。「い行き」の「い」は、接頭語。「さぐくみ」は、間を縫うようにして進み。「稲日都麻」は、加古川の河口付近。「浦廻」は、入江の湾曲部。「なづさひ」は、浮き漂って。「家の島」は、姫路沖の家島群島。「しじに」は、ぎっしり。「なのりそ」は、今のホンダワラという海藻の古名で、日本沿岸の浅場に生育します。柔軟質で、被針形の葉は切れ込みがあるのが特徴。楕円や倒卵形の気泡を有し、浮力を得て流れ藻となります。「な告りそ(告げるな)」の掛詞としてしばしば用いられています。
510の「白栲の」は「袖」の枕詞。「袖解きかへて」は、夫婦のお互いの袖を解き離し、取り替えて縫いつけること。相手が身につけた物はその人の一部分であるとして、これを自身の身につけてその人と共にいることとした、当時の信仰による行為です。「月日を数みて」は、月日を数えて。「行きて来ましを」の「ましを」は、不可能なことを仮想するときに用いられる語。
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巻第4-696
家人(いへびと)に恋(こひ)過ぎめやもかはづ鳴く泉(いづみ)の里に年の経(へ)ぬれば |
【意味】
家で待つ妻への思いが消えるなどということがあるものか。河鹿が鳴くここ泉の里に来て年を経て過ごしてきたけれど。
【説明】
石川広成は、天平15年(743年)頃に内舎人、天平宝字2年(758)8月に従六位上から従五位下、同4年2月に高円朝臣を賜姓され、文部少輔となった人。その後、名を広世と改め、摂津亮、尾張守、山背守、同8年従五位上、播磨守、周防守、伊予守などを歴任。『万葉集』には3首の歌が残っています。
「家人」は、ここでは奈良の家で待つ妻のこと。「恋過ぎめやも」の「過ぎ」は、過去のものとなること、忘れること。「や」は反語で、恋うことを忘れようか、忘れはいない意。「かはづ」は、カジカガエルで、「かはづ鳴く」は「泉の里」の枕詞。「泉の里」は、恭仁京のあった泉川(今の木津川)沿いの地。「年の経ぬれば」は、年が経ってしまったので。公務を帯びて単身赴任していたものとみえます。恭仁京遷都は天平12年(740年)。
巻第8-1600~1601
1600 妻恋(つまご)ひに鹿(か)鳴く山辺(やまへ)の秋萩(あきはぎ)は露霜(つゆしも)寒(さむ)み盛り過ぎゆく 1601 めづらしき君が家(いへ)なる花すすき穂(ほ)に出(い)づる秋の過ぐらく惜(を)しも |
【意味】
〈1600〉妻を恋い慕って牡鹿が鳴く山辺の秋萩は、露霜の寒さに盛りを過ぎ色褪せていく。
〈1601〉親愛なるあなたの家の花すすきがいっせいに穂を出している秋、その秋が過ぎ去ってゆくのが惜しくてならない。
【説明】
天平15年(743年)秋の作とみられ、やはり恭仁京にあっての作とされます。1600の「鹿」は、旧訓「しか」を本居宣長の説として「か」と改めています。調べの上からもそういったものとされます。1601の「めづらしき」は、親愛なる、懐かしい。「君」は、友のこと。「家なる」は、家にある。「花すすき」は、薄(すすき)の穂を花に見立てての称ながら、他はみな「はた薄」と言っており、この用例は集中この1首のみです。山野に群生して風になびく姿や、萩や月とともに眺める薄の風情は古くから愛され、尾花や萱などの呼称も合わせると、薄は『万葉集』に46首も詠われています。「過ぐらく」は「過ぐる」の名詞形。
巻第4-664
石上(いそのかみ)降るとも雨につつまめや妹(いも)に逢はむと言ひてしものを |
【意味】
石上の布留(ふる)ではないが、いくら降っても、雨に妨げられてなどいようか。妻にに逢おうと約束しているのだから。
【説明】
大伴像見は、天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱で功を上げ従五位下を授けられ、後に従五位上に進んだ人。『万葉集』には5首。「石上」は、奈良県天理市石上で、その地にある「布留(ふる)」を転じて「降る」の枕詞にしたもの。「つつまめや」の「つつむ」は、妨げられる。「や」は反語で、妨げられてなどいようか。妻の家へ出かけようとした際、雨模様となってきたのを気にかけつつ、わが心を励ましています。
巻第4-697~699
697 我(わ)が聞(き)きに懸(か)けてな言ひそ刈(か)り薦(こも)の乱れて思ふ君が直香(ただか)ぞ 698 春日野(かすがの)に朝(あさ)居(ゐ)る雲のしくしくに我(あ)れは恋ひ増す月に日に異(け)に 699 一瀬(ひとせ)には千(ち)たび障(さは)らひ行く水の後(のち)にも逢はむ今にあらずとも |
【意味】
〈697〉私の耳に聞こえよがしに言わないでください。心乱れて思っているあの方のことを。
〈698〉春日野の朝に立ちこめている雲が次第に重なってくるように、しきりに恋しさが増すばかりです。月ごとに日ごとに。
〈699〉一つの瀬に、岩や岸辺に幾度も妨げられて流れ行く水のように、後になってきっと逢いましょう。今でなくとも。
【説明】
「大伴宿祢像見が歌三首」。697の「懸けて」は、言葉に出して。「な言ひそ」の「な~そ」は、禁止。「刈り薦の」は、刈った薦のごとくで、その乱れやすいところから、「乱る」の枕詞。「君」は一般に男性を指して言う語ですが、ここは憚りの多い女性に対して用いたものか。「直香」は、その人自身、ありさま。この歌について窪田空穂は、次のように解説しています。「像見は仲介者を通じて女に求婚の交渉をし、女もそれを否んでいるのではないが、周囲にさしつかえがあるため事が進捗せず、懊悩をしていたとみえる。それがこの歌の背後にある。・・・歌は、その仲介者が像見の許へ来て、女の有様を伝えた時のもので、像見としてはそれを聞くことがつらく、そうしたことは聞かないほうが幸いだとして制した心のものである」。一方、作者の傍らで会話している第三者同士の話題が、たまたま作者の思い人のことに及び、しかもその話しぶりや内容があまり好意的ではないのを聞いて不満に感じ、これをたしなめたものとする見方もあります。
698の「朝居る雲」は、朝にかかっている雲。上2句は、雲の重なっている意で「重(し)く」と続き、それを「しくしくに」に転じての序詞。「しくしくに」は、しきりに。「月に日に異に」は、月が変わるごとに、日が変わるごとに。699の「瀬」は、川の流れの浅い所。「千たび」は、千度で、数の多い意。「障らひ」は、妨げられ。「後にも逢はむ」は、後には逢おう。この「も」は「だに」に近く、せめて後にでも、の気持ち。
巻第8-1595
秋萩(あきはぎ)の枝(えだ)もとををに置く露(つゆ)の消(け)なば消(け)ぬとも色に出(い)でめやも |
【意味】
秋萩の枝がたわむほど置いている露のように、この身が消えるなら消えてしまおうとも、人に覚られたりするものか。
【説明】
上3句は「消なば」を導く序詞。「とをを」は、たわみしなうさま。今で言う「たわわ」に近いかもしれません。「消なば消ぬとも」は、消えるなら消えてしまおうとも。「色」は、表面、顔色。「やも」は、反語。何らかの抜き差しならない理由があって、この恋は絶対に他人に知られてはならないと歌っており、典型的な相聞歌となっています。
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