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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

草嬢(くさのをとめ)の歌

巻第4-512

秋の田の穂田(ほだ)の刈りばかか寄りあはばそこもか人の我(わ)を言(こと)成(な)さむ

【意味】
 秋の田で穂を刈る分担の場で、お互いに近寄っていったら、それだけで他の人は私たちのことを噂するでしょうか。

【説明】
 作者の「草嬢」は「かやのおとめ」とも読みますが、伝未詳です。あるいは固有名詞ではなく、田舎の娘のことともいわれます。「穂田」は、稲穂が実った田。「刈りばか」は稲を刈り取る分担の意味で、「はか」は一つの区切られた場所、担当の箇所のことをいいます。「一はか」が、一人が一日に刈るべき区域だったのかもしれません。いま私たちが「はかどる」と言っているのは、決められた分担の仕事が進んでいることを意味します。「か寄りあはば」の「か」は接頭語。寄り合ったならば。「そこもか」は、そんなことでもか。「言」は、噂。
 
 当時の稲刈りは、稲穂の穂首だけを刈っていく穂首刈りだったといい、その時期になると、村人が一つに集まり、それぞれに分担の場所を決めて共同作業で行われたようです。この歌が詠まれた状況は、その稲刈りの作業が進んでいるうちに、はかの隣同士の若い男女が境界を挟んで、だんだん近づいてくる。すると周りの人たちが、「あれ、あの二人はずいぶん近寄って稲刈りをしている。ひょっとして怪しい関係なのではないか・・・」と噂をするかもしれない。と、そんな心配をしている歌です。
 
 この時代の結婚は、それに至るまでのある期間はお互いに秘密にしていましたから、偶然にも相接近するようなことがあれば、たちまち好奇の視線を浴び、格好の噂の種にされたのでしょう。この歌は、その対象とされやすい年ごろの娘の嘆きであり、語は単純ながらも、田舎の実生活に即した、切実な味わいのある歌です。なお「草嬢」を、舒明天皇の妃「蚊屋娘(かやのをとめ)」とみる説もあり、また、宴席での戯れ歌であり、「草嬢」といっているのも、この歌に合わせた戯れではなかったかともいわれます。

高田女王の歌

巻第4-537~539

537
言(こと)清くいともな言ひそ一日(ひとひ)だに君いしなくはあへかたきかも
538
人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み逢はずありき心あるごとな思ひ我(わ)が背子(せこ)
539
我(わ)が背子(せこ)し遂(と)げむと言はば人言(ひとごと)は繁(しげ)くありとも出(い)でて逢はましを
 

【意味】
〈537〉来られない言い訳に、そんな見え透いたきれいごとをおっしゃらないでください。あなたなしには一日とて耐えられないのです。

〈538〉人の噂がうるさくて煩わしいのでお逢いしなかっただけです。決してあだし心があるなどと思わないで下さい、あなた。

〈539〉あなたがどうしても逢おうと言って下されば、人の噂がうるさかろうとも、出て行ってお逢いしましょうものを。

【説明】
 高田女王(たかたのおおきみ)が今城王(いまきのおおきみ)に贈った歌6首のうちの3首。高田女王は、天武天皇の曾孫である高安王の娘で、長皇子の曾孫。今城王は、穂積皇子と大伴女郎(旅人の妻の大伴女郎と同一人とする説があるが、不詳)の子で、臣籍降下後の氏姓は大原真人今城。高田女王にとっては叔父にあたります。この時代、皇族や貴族では異母兄妹などの間でふつうに結婚が行われていましたから、叔父と姪の恋愛関係も珍しいことではなかったのです。ここの6首は、一度に詠まれたのではなく、別の折の歌を一組の歌群としてまとめたものと見られます。
 
 537の「いとも」は、そんなにも。「言清く」の修飾語ですが、音数の関係で逆になっています。「な言ひそ」の「な」は、禁止。「君いしなくは」の「い」は、間投助詞、「し」は、強意の副助詞。538の「繁み」は、多いので、激しいので。「言痛み」は、煩わしいので。「心あるごと」は、あだし心があるかのように。「な思ひ」の「な」は、禁止。537では来ることができなくなった今城王を責めた女王でしたが、538では王の来訪を拒んだことへの言い訳をしています。539の「我が背子し」の「し」は、強意。「遂げむ」は、逢うことを遂げる意。「出でて」は、家を出て人目のない所で密会する意。「逢はましを」の「まし」は、反実仮想。逢っただろうに。「を」は、詠嘆。

巻第4-540~542

540
我(わ)が背子(せこ)にまたは逢はじかと思へばか今朝(けさ)の別れのすべなかりつる
541
この世には人言(ひとごと)繁し来(こ)む世にも逢はむ我(わ)が背子(せこ)今ならずとも
542
常(つね)やまず通ひし君が使(つか)ひ来(こ)ず今は逢はじとたゆたひぬらし
 

【意味】
〈540〉あなたにもう二度と逢うことができないと思ったせいか、今朝の別れ際には、どうしようもなく、ただぼんやりしていたことです。

〈541〉この世では人の噂がうるさくてままなりません。せめて来世にこそお逢いしましょう、今でなくとも。

〈542〉いつも絶え間なくやってきたあの方の使いが来なくなった。もう逢うまいとためらっていらっしゃるのでしょうか。

【説明】
 上に続き、高田女王(たかたのおおきみ)が今城王(いまきのおおきみ)に贈った歌6首のうちの3首。540の「今朝の別れ」は、昨夜逢っての朝の別れ。「すべなかり」は、どうしようもなく。541の「人言」は、人の噂。「来む世」は、来世。「今ならずとも」は、逢うのは今でなくとも。542の「常やまず」は、いつも絶えず。「通ひし君が使」は、王から女王の許へ通っていた使者。「たゆたひぬらし」の「たゆたひ」は、ためらう意。「らし」は、現在の根拠に基づく推量。
 
 これらの歌からは、女王がずいぶんと世間の噂を気にしていることが窺えます。結婚前の単なる駆け引きだったのか、それとも人目を憚るような関係だったのか。いずれにしても、恋に対する女のほうの積極さが伝わってきます。一方の今城王は、だんだんと彼女から遠ざかっていったのではないかと察せられ、542では、女王の諦めの語気が感じられる歌となっています。この後の二人の関係がどうなったかは、『万葉集』には記されていません。
 
 なお、今城王の返歌は載っていませんが、臣籍降下して大原真人今城になって後の歌が『万葉集』には9首あり(ほかに伝誦・伝読歌8首)、大伴家持と親交があったことが知られます。

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笠金村の歌

巻第4-543~545

543
大君(おほきみ)の 行幸(みゆき)のまにま もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)と 出(い)でて行(ゆ)きし 愛(うるは)し夫(づま)は 天飛(あまと)ぶや 軽(かる)の道(みち)より 玉たすき 畝傍(うねび)を見つつ あさもよし 紀伊路(きぢ)に入り立ち 真土山(まつちやま) 越ゆらむ君は 黄葉(もみちば)の 散り飛ぶ見つつ にきびにし 我(わ)れは思はず 草枕(くさまくら) 旅をよろしと 思ひつつ 君はあるらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙(もだ)もえあらねば 我(わ)が背子(せこ)が 行きのまにまに 追はむとは 千度(ちたび)思へど たわやめの 我(あ)が身にしあれば 道守(みちもり)の 問はむ答へを 言ひ遣(や)らむ すべを知らにと 立ちてつまづく
544
後(おく)れ居(ゐ)て恋ひつつあらずは紀伊(き)の国の妹背(いもせ)の山にあらましものを
545
我(わ)が背子が跡(あと)踏み求め追ひ行かば紀伊(き)の関守(せきもり)い留(とど)めてむかも
  

【意味】
〈543〉天皇の行幸につき従って、多くの大宮人と出て行った、端正な我が夫は、軽の道から畝傍山を見ながら紀伊への道に足を踏み入れ、もう真土山を越えただろうか。夫は、黄葉の散り飛ぶ光景を見ながら、馴れ親しんだ私のことなどは忘れ、旅はいいものだと思っておいでだろうと、うすうす気づいているけれど、黙ってじっとしてられなくて、あなたが行かれた道筋の通りに、あとを追って行こうと、いくたび思ったことか。けれども、か弱い女の身のこととて、関所の役人に問いつめられたら何と答えてよいか、言い訳をする手立ても分からなくて、立ちすくんだまま途方に暮れるばかりです。

〈544〉あとに残って恋しさに苦しんでばかりいずに、紀伊の国の妹背の山にでもなって、ずっとおそばにいたい。

〈545〉あなたの通った跡を追っていったら、紀伊の関所の役人が咎めて留めてしまうでしょうか。

【説明】
 題詞に「神亀元年(724年)冬の10月の聖武天皇の紀伊行幸の折に、従駕の人に贈るため、大和に残った娘子に頼まれて作った歌」とありますが、そういう設定で行幸先の宴席で発表した作とされます。宮廷歌人たちの作品には、儀礼的な作品群と遊興的な作品群の2つの系列があり、金村は、とりわけ宴席における遊興的な作品で本領を発揮した歌人だったと見られ、ここの歌もそうした作品の一つです。主語を重ねたり同じ形の句を繰り返したりして、たどたどしい趣を出し、素人の女性が詠んだように仕立てており、家に残されて夫を恋い慕う気持ちを詠んでいます。
 
 543の「まにま」は、従って。「天飛ぶや」は「軽」の枕詞。「軽」は、畝傍山の東南の地。「玉たすき」は「畝傍」の枕詞。「あさもよし」は「紀伊」の枕詞。「真土山」は、大和国と紀伊国の境にある山。「にきびにし」は、馴れ親しんだ。「草枕」は「旅」の枕詞。「あそそ」は、うすうす。「かつは」は、一方では。「しかすがに」は、そうはいうものの。「えあらねば」は、いられないので。「道守」は、関守。関所の番人。「すべを知らにと」は、方法が分からないからといって。

 544の「妹背の山」は、和歌山県かつらぎ町の妹山と背の山。紀の川を挟んで2つの山が向かい合っていて、夫婦が仲良く一緒にいることの譬えに言われます。畿内外の境界に位置し、都に妻や恋人を残してここを通る旅人は、妹背の山を見て、強い望郷の念にかられたようで、『万葉集』には15首の歌が詠まれています。この妹背山は、当時、和歌の浦に浮かんでいた玉津島山の一つの妹背山とは異なります。「あらましものを」は、あろうものを。545の「関守い」の「い」は、強意。「かも」は、疑問の「か」と詠嘆の「も」。

巻第4-546~548

546
三香(みか)の原 旅の宿(やど)りに 玉桙(たまほこ)の 道の行き逢ひに 天雲(あまくも)の 外(よそ)のみ見つつ 言問(ことと)はむ 縁(よし)のなければ 心のみ 咽(む)せつつあるに 天地(あめつち)の 神(かみ)言(こと)寄せて 敷栲(しきたへ)の 衣手(ころもで)交(か)へて 己妻(おのづま)と 頼める今夜(こよひ) 秋の夜(よ)の 百夜(ももよ)の長さ ありこせぬかも
547
天雲(あまくも)の外(よそ)に見しより我妹子(わぎもこ)に心も身さへ寄りにしものを
548
今夜(こよひ)の早く明けなばすべをなみ秋の百夜(ももよ)を願ひつるかも
 

【意味】
〈546〉三香の原の旅寝にあって、道の行きずりに出逢い、よそ目に見るばかりで、声をかけるつてもないので、心の中だけで、咽るように強く憧れていたのに、天地の神様が引き合わせて下さり、共寝をする手はずになった。私の妻となってくれると思う今夜よ、秋の夜を百も重ねた長さであってくれないものか。

〈547〉空を行く雲のようによそ目に見た時からすでに、あなたに、心も身も寄り添ってしまったよ。

〈548〉今夜が早く明けてしまってはやるせないので、秋の長夜を百も重ねた長さがほしいと、神様にお願いしました。

【説明】
 題詞に「神亀2年(725年)春3月、三香原の離宮に行幸のあったとき、娘子を得て作った歌」とあります。この行幸の主体は、長屋王であり、聖武天皇ではありません。こちらは旅先での男心を述べており、旅先で一夜妻を楽しむのは、ごくふつうのこととして行われました。このとき従駕した人々の中では金村は上位に位置していたらしく、夜伽の女生と寝所が用意されていたと想像されます。その夜伽の女性たちと夜を過ごす前に旅の宴が開かれ、その宴で披露されて興を盛り上げたような趣で詠まれています。

 546の「三香の原」は、京都府木津川市の木津川北部の一帯で、平城宮跡から徒歩で2時間半ほどの場所。三香の原の離宮は、恭仁京遷都の以前に、すでにあった元明・聖武天皇の離宮です(所在地は未詳)。「玉桙の」は「道」の枕詞。「天雲の」は「外」の枕詞。「言問はむ」は、声をかけようとする。「縁」は、つて。「咽せつつあるに」は、強い憧れからひどく喘ぐようす。「言寄せて」は、仲を取り持って下さって。「敷栲の」は「衣」の枕詞。「ありこせぬかも」の「ぬかも」は願望で、あってくれたらよいのに。548の「すべをなみ」は、どうしようもないので。

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長歌と短歌

長歌は、「5・7・5・7・7」の短歌に対する呼び方で、5音と7音を交互に6句以上並べて最後は7音で結ぶ形の歌です。長歌の後にはふつう、反歌と呼ぶ短歌を一首から数首添え、長歌で歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりします。

長歌の始まりは、古代の歌謡にあるとみられ、『古事記』や『日本書紀』の中に見られます。多くは5音と7音の句を3回以上繰り返した形式でしたが、次第に5・7音の最後に7音を加えて結ぶ形式に定型化していきました。

『万葉集』の時代になると、柿本人麻呂などによって短歌形式の反歌を付け加えた形式となります。漢詩文に強い人麻呂はその影響を受けつつ、長歌を形式の上でも表現の上でも一挙に完成させました。短歌は日常的に詠まれましたが、長歌は公式な儀式の場で詠まれる場合が多く、人麻呂の力量が大いに発揮できたようです。

人麻呂には約20首の長歌があり、それらは平均約40句と長大です。ただ、長歌は『万葉集』には260余首収められていますが、平安期以降は衰退し、『古今集』ではわずか5首しかありません。

万葉の植物

オミナエシ
秋の七草のひとつに数えられ、小さな黄色い花が集まった房と、枝まで黄色に染まった姿が特徴。『万葉集』の時代にはまだ「女郎花」の字はあてられておらず、「姫押」「姫部志」「佳人部志」などと書かれていました。いずれも美しい女性を想起させるもので、「姫押」は「美人(姫)を圧倒する(押)ほど美しい」意を語源とする説があります。

サネカズラ
常緑のつる性植物で、夏に薄黄色の花を咲かせ、秋に赤い実がたくさん固まった面白い形の実がなります。別名ビナンカズラといい、ビナンは「美男」のこと。昔、この植物から採れる粘液を男性の整髪料として用いたので、この名前がついています。

センダン
センダン科の落葉高木で、古名は「あふち」「おうち」。生長が早く、大きくなると20mにもなり、夏には大きな木陰を提供してくれます。初夏に淡紫色の花が咲き、 秋には多くの黄色い実をつけます。なお、「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」の諺にある栴檀は、これとは異なる木です。

ヌバタマ
アヤメ科の多年草。平安時代になると檜扇(ひおうぎ)と呼ばれるようになりました。花が終わると真っ黒い実がなるので、名前は、黒色をあらわす古語「ぬば」に由来します。そこから、和歌で詠まれる「ぬばたまの」は、夜、黒髪などにかかる枕詞になっています。

ハギ
マメ科の低木で、夏から秋にかけて咲く赤紫色の花は、古くから日本人に愛され、『万葉集』には141首もの萩を詠んだ歌が収められています。名前の由来は、毎年よく芽吹くことから「生え木」と呼ばれ、それが「ハギ」に変化したといわれます。

ヤブコウジ
山橘(やまたちばな)ともいわれるヤブコウジは、夏に咲く小さな白い花はまったく目立たないのですが、冬になると真っ赤な実をつけます。その実が美しいので、鑑賞用に栽培もされます。

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