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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

阿倍女郎と中臣東人の歌

巻第4-514~516

514
わが背子(せこ)が着せる衣(ころも)の針目(はりめ)落ちず入りにけらしもわが情(こころ)さへ
515
ひとり寝(ね)て絶えにし紐(ひも)をゆゆしみとせむすべ知らに音(ね)のみしそ泣く
516
わが持てる三(み)つあひに縒(よ)れる糸もちて付(つ)けてましもの今そ悔(くや)しき
 

【意味】
〈514〉あなたに縫ってさしあげる着物の針目は、すっかり仕上がりました、糸といっしょに私の心も縫い込んで。
 
〈515〉独り寝をしていたら紐が切れて、縁起でもないと、どうしていいか分からず声を出して泣いている。
 
〈516〉私が持っているこの丈夫な三つ搓(よ)りの糸で付けてあげればよかったと、今になって悔やんでいます。

【説明】
 514・516は阿倍女郎(あべのいらつめ)の歌、515は中臣東人(なかとみのあずまひと)の歌。514は、女郎が東人に贈った着物に添えた歌とみられます。当時は、夫の着物は妻の手によって作られ、糸の入手から始まり、織り、染め、縫うことまでの一切をやっていました。「針目」は、針の縫い目。「落ちず」は、残らず全部。「けらし」は、「けるらし」が変化した語で、眼前の状態に基づく推定。

 515では、せっかく全部縫ってくれたのに、紐が切れてしまい縁起が悪いと大げさに言っており、516では、それをまともに受けながらもからかっているようです。「ゆゆしみと」は、縁起でもないと。「せむすべ知らに」は、するべき方法を知らずに。「音のみしそ泣く」は、声を立てて泣く。「三つあひ」は三筋の糸を搓り合わせたもので、丈夫なものの意。「付けてましもの」の「まし」は仮定の帰結で、付ければよかったのになあ。「今そ」は、今になって。
 
 たかが紐のことで、というなかれ、万葉人は、衣の紐には特別の呪力があると信じていました。夫の旅などで夫婦が一時離れるときは、お互いに衣の紐を結び合い、それを解くまいと誓いました。それによって本当に離れ離れになってしまうことを避けたのです。だから、紐が切れることは、夫婦の縁が切れることを暗示する深刻な事態だったわけです。その辺を理解しておかないと、東人の狼狽ぶりが、現代人には奇異に感じてしまいます。
 
 阿倍(安倍)女郎は、持統・文武朝ころの女性ですが、伝未詳です。『万葉集』には5首の短歌が載っており、大伴家持との贈答歌もありますが、時代の隔たりもあり、別人と見られています。中臣東人は、巻第15後半の歌群に登場する中臣宅守の父で、母は藤原鎌足の娘にあたります。天平年間に従四位下まで進んだ中堅官僚でした。『万葉集』にはここの1首のみ。

安倍女郎の歌

巻第4-505~506

505
今さらに何をか思はむ打ち靡(なび)き心は君に縁(よ)りにしものを
506
我(わ)が背子(せこ)は物な思ひこそ事(こと)しあらば火にも水にも我(わ)がなけなくに
 

【意味】
〈505〉今さら何をくよくよと思いましょう、私の心はすっかり靡いてあなたに任せていますものを。
 
〈506〉あなたはくよくよと思わないでください。何か障害があっても、火の中にも水の中にもこの私がついていますのに。

【説明】
 作者の安倍女郎は、上掲の阿倍女郎と同人とみる説、別人とみる説があります。同人とみる説は、「阿倍」「安倍」を通じて用いた例があることによっています。安倍氏はもともといまの岩手県あたりの一族といわれ、平安時代後期に奥州平泉で栄華を誇った藤原三代は、この一族の後裔にあたるとされます。

 505は、夫の身に何らかの憂え事が生じ、そのため、夫から身の去就を考えてもよいというようなことを言われての返事とみられます。「打ち靡き」の「打ち」は、接頭語。「縁り」は、任せて。506の「物な思ひそ」の「な~そ」は、禁止。「事しあらば」の「事」は事件、「し」は強意。「なけなくに」は、ないわけではないのに。思い悩む夫を強く慰め励ましており、夫は、中堅クラスの官人だったとみられています。もし安倍女郎が上掲の阿倍女郎と同一人なら、夫は中臣東人ということになります。

大伴家持が安倍女郎に贈った歌

巻第8-1631

今造る久迩(くに)の都に秋の夜(よ)の長きにひとり寝(ぬ)るが苦(くる)しさ 

【意味】
 今新しく造営している久迩の都にいると、秋の夜長にひとり寝ているのは苦しい。

【説明】
 ここの安倍女郎は、上の歌の女郎とは時代が異なるので別人であり、若き日の家持の恋人とみられます。窪田空穂は、この歌について「こうした訴え方は、相応に関係が久しく、心置きなくというよりも、むしろ甘え気分でいうものと思われる」と言っていますが、どのような関係だったのでしょうか。「久迩の都」の造営は、天平12年12月から同15年12月まで行われました。

大伴女郎の歌ほか

巻第4-519~520

519
雨障(あまつつ)み常(つね)する君はひさかたの昨夜(きぞ)の夜(よ)の雨に懲(こ)りにけむかも
520
ひさかたの雨も降らぬか雨障(あまつつ)み君にたぐひてこの日暮らさむ
  

【意味】
 
〈519〉雨を口実にいつも家に籠っておられるあなたは、夕べ来られた時に降った雨に、すっかり凝りてしまわれたのでしょうか。

〈520〉雨が降ってこないものか、それを口実に、あなたに寄り添って今日一日暮らそうものを。

【説明】
 519は大伴女郎(おおとものいらつめ)の歌、520は後にある人が追和した歌。大伴女郎は、大伴安麿(おおとものやすまろ)と石川郎女(いしかわのいらつめ)の娘で、最初、今城王(いまきのおほきみ)の父に嫁いで今城王を生みましたが、夫と死別したのか、その後、異母兄妹の大伴旅人の妻となりました。家持の実母であり、筑紫で他界し、旅人が亡妻挽歌を詠んだのがこの女性ではないかとされます。520は「後の人の追同(おひなぞら)ふる歌」とあり、作者は不明ながら、編者の家持が、母である女郎の歌に目をとめて詠んだものではないかとする見方もあります。

 「雨障み」は、雨に妨げられて家に籠る意。この時代、雨は天から降り注ぐ畏ろしい霊気を帯びたものとされていましたから、恋人に逢いたくとも、雨に濡れて出かけることは忌避されました。519では、昨夜の雨に濡れた男が、今夜はもうやって来ないかもしれないという不安にかられながらも、いたわりの気持ちが感じられる歌になっています。窪田空穂は、「おおらかで、優しさがあり、その階級を思わせる人柄である」と述べています。「ひさかたの」は、悠久の天の彼方の意で「雨」の枕詞。

 520の「雨も降らぬか」は、降らないのか、降ってくれよの意。「たぐひて」は、寄り添って。上の歌の女郎の心を思いやり、女郎に代わって詠んだ形のものですが、窪田空穂は、「上の歌のつつましやかな、人柄なのに較べると、この歌はただ媚態を示しているだけのものである」と評し、また「女郎がもしこの歌を見たならば、斥けたであろうと思われる」と述べています。

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巻第4について
 巻第1・2が密接な関係にあったように、巻第3・4とともに巻第1・2を継ぐ意図をもって構成され、また、互いに相補的関係をなしています。巻第4では、天平以前の古い歌をまず掲げ、次いで天平の歌を配列しており、相聞のみを収めています。
  

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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万葉集の時代背景

万葉集の時代である上代の歴史は、一面では宮都の発展の歴史でもありました。大和盆地の東南の飛鳥(あすか)では、6世紀末から約100年間、歴代の皇居が営まれました。持統天皇の時に北上して藤原京が営まれ、元明天皇の時に平城京に遷ります。宮都の規模は拡大され、「百官の府」となり、多くの人々が集住する都市となりました。

一方、地方政治の拠点としての国府の整備も行われ、藤原京や平城京から出土した木簡からは、地方に課された租税の内容が知られます。また、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた大宰府は、北の多賀城とともに辺境の固めとなりましたが、大陸文化の門戸ともなりました。

この時期は積極的に大陸文化が吸収され、とくに仏教の伝来は政治的な変動を引き起こしつつも受容され、天平の東大寺・国分寺の造営に至ります。その間、多大の危険を冒して渡航した遣隋使・遣唐使たちは、はるか西域の文化を日本にもたらしました。

ただし、万葉集と仏教との関係では、万葉びとたちは不思議なほど仏教信仰に関する歌を詠んでいません。仏教伝来とその信仰は、飛鳥・白鳳時代の最大の出来事だったはずですが、まったくといってよいほど無視されています。当時の人たちにとって、仏教は異端であり、彼らの精神生活の支柱にあったのはあくまで古神道的な信仰、すなわち森羅万象に存する八百万の神々をおいて他にはなかったのでしょう。

窪田空穂

窪田空穂(くぼたうつぼ:本名は窪田通治)は、明治10年6月生まれ、長野県出身の歌人、国文学者。東京専門学校(現早稲田大学)文学科卒業後、新聞・雑誌記者などを経て、早大文学部教授。

雑誌『文庫』に投稿した短歌によって与謝野鉄幹に認められ、草創期の『明星』に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。また近代歌人としては珍しく、多くの長歌をつくり、長歌を現代的に再生させた。

『万葉集』『古今集』『新古今集』など古典の評釈でも功績が大きく、数多くの国文学研究書がある。詩歌集に『まひる野』、歌集に『濁れる川』『土を眺めて』など。昭和42年4月没。

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