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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

藤原麻呂が大伴坂上郎女に贈った歌

巻第4-522~524

522
娘子(をとめ)らが玉櫛笥(たまくしげ)なる玉櫛(たまくし)の神(かむ)さびけむも妹(いも)に逢はずあれば
523
よく渡る人は年にもありといふをいつの間にぞも我(わ)が恋ひにける
524
蒸衾(むしぶすま)柔(なごや)が下に臥(ふ)せれども妹(いも)とし寝(ね)ねば肌(はだ)し寒しも
 

【意味】
〈522〉あなたの化粧箱にしまい込まれた櫛のように、私も古びてしまいました。あなたに逢えないままにいるうちに。
 
〈523〉まめによく川を渡る人(牽牛)は年に一度の逢瀬でさえ我慢しているというのに、私はどれほどの間が空いたからといってこんなに恋い焦がれているのだろう。

〈524〉ふっくらと暖かい布団で寝ているけれども、愛しいあなたと一緒に寝るのではないので、肌が寒々としていることだ。

【説明】
 京職大夫の職にあった藤原麻呂が、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)に贈った歌です。「京職」は、奈良京の政務一切を司る職で、地方の国庁にあたります。「大夫」はその長官。藤原麻呂は不比等の四男で、京家の祖。このころ大伴坂上郎女の恋人だったようで、麻呂が27歳くらい、郎女が20歳ころのことです。

 坂上郎女は、はじめ天武天皇の皇子である穂積皇子(ほづみのみこ)の寵愛を得ましたが、皇子が和銅8年(715年)に亡くなった後に麻呂と交際したとあります。養老6年(722年)年頃に異母兄の大伴宿奈麻呂(おとものすくなまろ)に嫁いだとみられますので、麻呂と交わされた一連の歌はその間に詠まれたものと考えられます。ここの歌は、何らかの事情で麻呂が郎女の許へ通うことができず、その言い訳としての歌とされます。二人が交際した期間は長くはなく、また、歌からは、お互いにあまり会っていないことが窺われ、関係はまもなく解消したものと推察されます。
 
 522の上3句は「神さぶ」を導く序詞。「玉櫛笥」の「玉」は、美称、「櫛笥」は、化粧道具を入れる箱。「神さびけむ」は、古くなっただろう。523は、彦星と自身を比較しており、巻第13-3264に「年渡るまでにも人はありとふを何時(いつ)の間にぞも我が恋ひにける」とあるのを取っています。巻第13は民謡集であり、それら古歌から取って自分の歌として詠むことは古くから行われていました。524の「蒸衾」は、暖かい掛布団または植物の苧(からむし)の繊維で作った布団。「柔(なごや)」は、柔らかなこと。「肌し」の「し」は、強意。

大伴坂上郎女が答えた歌

巻第4-525~529

525
佐保川(さほがは)の小石踏み渡りぬばたまの黒馬(くろま)の来る夜は年にもあらぬか
526
千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし我(あ)が恋ふらくは
527
来(こ)むと言ふも来(こ)ぬ時あるを来(こ)じと言ふを来(こ)むとは待たじ来(こ)じと言ふものを
528
千鳥鳴く佐保の川門(かはと)の瀬を広み打橋(うちはし)渡す汝(な)が来(く)と思へば
529
佐保河(さほがは)の岸のつかさの柴な刈りそね 在りつつも春し来たらば立ち隠(かく)るがね
 

【意味】
〈525〉天の川ならぬ佐保川の小石を踏みながら渡って、あなたを乗せた黒馬が来る夜は、年に一度はあってくれないものでしょうか。
 
〈526〉千鳥が鳴く佐保の川瀬のさざ波のように、やむときもありません、あなたを恋い焦がれるこの思いは。
 
〈527〉来るとおっしゃりながらいらっしゃらない時があるのに、まして来ないとおっしゃるなら来られるとお待ちしません。あなたがそうおっしゃるのですもの。
 
〈528〉千鳥が鳴いている佐保川の渡し場の瀬が広く、渡りにくいので橋板を架けます。あなたがいらしゃると思って。

〈529〉佐保川の岸の上の柴は刈らないでください、春になったら隠れて恋ができるように。

【説明】
 525~528は、大伴坂上郎女が藤原麻呂に答えた歌。525で、同じく七夕の牽牛を暗示しつつ、滅多に訪れてくれない麻呂への恨みを歌っています。「佐保川」は、奈良市・大和郡山市を流れる川。「ぬばたまの」は「黒馬」の枕詞。526の上3句は「やむ時もなし」を導く序詞。527では、「こむ・こぬ・こじ・こむ・こじ」と「こ」を5連発しており、なかなかやって来ない麻呂をからかったものとみえます。528の「川門」は、川の両岸が近くなっている所。「打橋」は、板を渡して自由に掛け外しできる簡単な橋。多くの場合、通ってくる夫を迎える時に、女が渡しました。「汝が来」は「長く」を懸けています。

 左注には次のような記述があります。「郎女は佐保大納言卿(大伴宿祢安麻呂)の娘である。はじめ一品(いっぽん)穂積皇子(ほづみのみこ)に嫁ぎ、とても厚い寵愛を受けた。皇子が亡くなったあと、藤原麻呂大夫が郎女に求婚した。郎女は坂上の里に住んでいた。そこで一族の者は坂上郎女と呼んだ」。「坂上の里」は、奈良市法華寺町西北付近の丘陵地あたりとされます。
 
 529は旋頭歌。旋頭歌は5・7・7を2回繰り返した6句からなり、上三句と下三句とで詠み手の立場がことなる場合が多くなっています。頭句(第一句)を再び旋(めぐ)らすことから、旋頭歌と呼ばれ、短歌との先後は、旋頭歌のほうが古いものとみられています。『万葉集』には約60首があり、それも大体『柿本人麻呂歌集』のものです。この歌は、郎女が、擬古の心から興味をもって作ったものとみられています。「つかさ」は、小高いところ。「柴」は、雑木。「な~そ」は、禁止。「がね」は、格助詞の「が」と、願望の終助詞の「ね」。

 なお、『万葉集』の女性歌人で、長歌・短歌・旋頭歌の3種の歌体を詠んだのは坂上郎女一人のみです。男性歌人でも、大伴家持、高橋虫麻呂、山上憶良だけで、『柿本人麻呂歌集』の旋頭歌の何首かを人麻呂作だとしても、極めて少数の人しか一人で3首の歌体を残していません。

大伴坂上郎女の歌

巻第4-651~652

651
ひさかたの天の露霜(つゆしも)置きにけり家(いへ)なる人も待ち恋ひぬらむ
652
玉守(たまもり)に玉は授けてかつがつも枕と我(わ)れはいざふたり寝む

 

【意味】
〈651〉外を見れば、天から降った露が庭の地面に置いています。こんな寒い夜に家にいる人は、あなたを恋しくお待ちしているでしょう。

〈652〉大切にしていた玉はそれを守ってくれる人に託して、何はともあれ、私は枕と二人で寝るとしましょう。

【説明】
 大伴坂上郎女が、次女の二嬢を嫁がせた時に、娘の夫である大伴宿祢駿河麻呂(おおとものすくねするがまろ)に贈った歌です。駿河麻呂は同じ一族の男で、郎女も気に入った婿と見え、二人が会った時には、さながら恋人同士のような戯れ歌も交わしています。
 
 651の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「家なる人」は、家で待つ人の意で、二嬢を指しています。652の「玉守」は、宝玉を守る者。ここでは玉を二嬢、玉守を駿河麻呂に譬えています。「かつがつも」は、ともかくも、何はともあれ。娘が結婚するまでは娘と枕を並べて寝ていたのに、と、娘を嫁がせた母親の寂寥感を詠んでいます。娘を嫁がせた後の親の心は、古来幾多の親が体験しているものですが、歌として詠まれた例は少なく、これはその代表的なものです。
 
 なお、653~655に、駿河麻呂が二嬢に心を置いて詠んだ歌があります。

〈653〉心には忘れぬものをたまさかに見ぬ日さまねく月ぞ経にける
 ・・・決してあなたを忘れることはないのに、たまたまお逢いできない日々が続き、もうひと月も経ってしまいました。

〈654〉相見ては月も経なくに恋ふと言はばをそろと我れを思ほさむかも
 ・・・お逢いしてからまだひと月も経っていないのに恋しいなどと言ったら、粗忽者とお思いでしょうね。

〈655〉思はぬを思ふと言はば天地の神も知らさむ邑礼左変
 ・・・思ってもいないのに思っていると口先で言ったとしたら、天地の神様はお見通しのはずです。「邑礼左変」の訓義未詳。

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大伴坂上郎女の略年譜

大伴安麻呂と石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳(696年前後、あるいは701年か)

16~17歳頃に穂積皇子に嫁す

714年、父・安麻呂が死去

715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか

721年、藤原麻呂が左京大夫となる。麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる

724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す

坂上大嬢と坂上二嬢を生む

727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる

728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育

730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京

730年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る

746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任

750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)

没年未詳

万葉時代の年号

大化
 645~650年
白雉
 650~654年
 朱鳥まで年号なし
朱鳥
 686年
 大宝まで年号なし
大宝
 701~704年
慶雲
 704~708年
和銅
 708~715年
霊亀
 715~717年
養老
 717~724年
神亀
 724~729年
天平
 729~749年
天平感宝
 749年
天平勝宝
 749~757年
天平宝字
 757~765年


(聖武天皇)

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