巻第4-530~531
530 赤駒(あかごま)の越ゆる馬柵(うませ)の標(しめ)結(ゆ)ひし妹(いも)が心は疑ひもなし 531 梓弓(あづさゆみ)爪引(つまび)く夜音(よおと)の遠音(とほと)にも君が御幸(みゆき)を聞かくし好しも |
【意味】
〈530〉赤駒が飛び越えてしまうかもしれない柵を縄でしっかり結び固めておくように、私のものだとしたあなたの心に、少しも疑いはない。
〈531〉梓弓を爪弾く夜半の弦音が遠くから響いてくるように、君のお出ましのお噂を遠くからでもお聞きするのはうれしいことです。
【説明】
530は、聖武天皇が海上女王(うなかみのおおきみ)に贈った歌。531は、海上女王がそれにお答えした歌。海上女王は、志貴皇子の娘、光仁天皇の姉妹で、天智天皇の孫にあたります。ここの歌から、聖武天皇の后の一人だったとみられています。
530の上2句は「標結ふ」を導く序詞。「赤駒」は、毛色の茶褐色の馬。「馬柵」は、馬を出さないように囲んだ柵。「標結ひし」は、領有のしるしに縄を張ることで、わが物とした意。一方、海上女王を赤駒に譬え「馬柵を越えるように自由なあなた」と、からかった歌だとする解釈もあります。また左注に「この歌は古風を模した作である。ただし時の事情に相応しいのでこの歌を賜わったのだろうか」との記載があります。古風というのは、「一、二句の譬喩で、この時代の御製としては、地方的であるとの意で、新風を慕う心よりいっているものと思われる」と、窪田空穂は言っています。
531の上2句は「遠音」を導く序詞。「爪引く夜音」は、夜に宮中を警護する者が魔除けのために弦をはじいて鳴らす音。「遠音」は、遠く離れて聞こえる音。「聞かくし」の「聞かく」は「聞く」の未然形に「く」を添えて名詞形にしたもの。「し」は、強意。「好しも」の「も」は、詠嘆。女王は「私の心をお疑いにならないのなら、私の所へお運びいただけるのですね」と、やんわりと応じています。
聖武天皇は文武天皇の第一皇子で、神亀元年(724年)に即位。その御製は、天皇としては最多の11首が収められており、ここの歌はもっとも早い時期のものとされます。
巻第4-624
道に逢ひて笑(ゑ)まししからに降る雪の消(け)なば消ぬがに恋ふといふ我妹(わぎも) |
【意味】
道で出逢って微笑みかけられたがゆえに、その人が、死ぬなら死んでもいいというほど恋しているという噂のあるそなたよ。
【説明】
聖武天皇が、酒人女王(さかひとのおおきみ)に賜った歌。酒人女王は、題詞の下に穂積皇子(ほずみのみこ)の孫娘とあるほかは経歴不明。「道に逢ひて」は、女王が道で人に逢って、の意。その人は男性で、身分のある人とみえますが、誰かは分かりません。「笑ます」は「笑む」の尊敬語。女性に対しては敬語を用いる風があったので、それに倣ったもの。「からに」は、~によって、ゆえに。「降る雪の」は「消」の枕詞。「がに」は、ごとくに、するほどに。
天皇が、何かの折に女王のそのような華のある噂を聞き、興を感じて賜ったというものです。皇室内ならではの、温かく大らかな品位が窺える歌柄です。なお、この歌の解釈を「私と道で会って、私が微笑んだので、雪の消え入るばかりにお慕いしますというそなたよ」とするものもありますが、歌の品位や趣は全く異なってきます。
巻第6-973~974
973 食(を)す国の 遠(とほ)の朝廷(みかど)に 汝(いまし)らが かく罷(まか)りなば 平(たひら)けく 我(わ)れは遊ばむ 手抱(たむだ)きて 我れはいまさむ 天皇(すめら)我(わ)れ うづの御手(みて)もち かき撫(な)でぞ ねぎたまふ うち撫でぞ ねぎたまふ 帰り来(こ)む日 相(あひ)飲まむ酒ぞ この豊御酒(とよみき)は 974 ますらをの行くといふ道そ凡(おほ)ろかに思ひて行くなますらをの伴(とも) |
【意味】
〈973〉私が治める国の遠く離れた政庁に、そなたたちが出向いたなら、平穏でいられ、私は何もせず遊んでいられよう、腕を組んだまま時を過ごしていられよう。天皇たる私は、手でそなたたちの髪を撫でねぎらおう、そなたたちの頭を撫でてねぎらおう。そなたたちが無事帰って来る日に、また共に飲もうとする酒である、この素晴らしい御酒は。
〈974〉ますらおが行くという厳しい道であるから、おろそかな気持ちで行ってはならない、ますらおの仲間たちよ。
【説明】
天平4年(732年)に、東海・東山・山陰・西海の四道に節度使が置かれました。この歌は、聖武天皇が、任地に赴く節度使の卿たちを激励し、酒を賜ったときの御製歌です。この時の節度使は、藤原房前、藤原宇合、丹比県守の3人とされます。節度使とは、地方の軍事力を整備・強化するために、東海・東山・山陰・西海・南海道などに派遣された「令外(りょうげ)の官」のことです。
973の「食す」は自敬表現で、お治めになる。「遠の朝廷」は、都から遠く離れた役所。「我れは遊ばむ」は、神にとって穢れとされた日常の俗事にかかわらない意。「手抱きて」は、手をこまぬいて。「いまさむ」「うづの御手もち」「ねぎたまふ」はいずれも自敬表現で、それぞれ、おいでになるだろう、高貴なお手で、おいたわりになる意。「豊御酒」の「豊」は美称、「御酒」は神に捧げる酒。974の「凡ろかに」は、普通のことと思って、おろそかな気持ちで。長歌の激励の意をさらに進展させて、強く命令したものになっています。
なお、左注に「或いは太上天皇(元正天皇)の御製なりといふ」とありますが、天皇が賜る壮行歌の類型であるため、こうした異伝があるようです。
巻第4-626
君により言(こと)の繁きを故郷(ふるさと)の明日香(あすか)の川にみそぎしに行く [一には、尾に、龍田越え御津の浜辺にみそぎしに行く、といふ] |
【意味】
あなた様のせいであまりにも人が噂を立てるので、旧都の明日香の川へみそぎをしに参ります。(龍田の山を越えて、御津の浜辺にみそぎをしに参ります)
【説明】
八代女王(やしろのおおきみ)は系譜未詳ながら、「女王」が付いていることから、三世から五世の皇族だったと考えられます。天平9年(737年)に無位から正五位上に叙せられており、この頃に聖武天皇の嬪になったようです。しかし、天皇の崩御後に他の男性に心変わりしたかどで、その時の従四位下の位を削られたとあります(『続日本紀』)。その後の消息は不明。
「言の繁き」は、噂が多いこと。「故郷」は故京で、奈良京以前の飛鳥地方。「みそぎ」は、水で身を清め、罪や穢れを祓うこと。みそぎをしなければならないほどの「言」とは、単なる噂の域を超えた、競争と嫉妬の激しい後宮の人々からの、深刻で忌まわしい言葉だったとみえます。
聖武天皇
文武天皇の皇子。母は藤原不比等の娘宮子。和銅7年(714年)、立太子し、神亀元年(724年)、伯母の元正天皇より譲位されて即位。たびたび吉野や難波への行幸を行ない、山部赤人や笠金村らにに歌を奉らせた。
天平9年(737年)に流行した疫病で藤原四卿を失うと、橘諸兄を大納言に任じ、唐から帰国した玄昉・吉備真備らを重用して政治改革に着手した。
しかし同12年9月、筑紫で藤原広嗣の乱が起こると、急遽関東に行幸、そのまま平城京に帰ることなく、同年末、山背国恭仁に遷都。翌年国分寺建立の詔を発布。同15年、墾田永年私財法の詔を発布。その後も難波・紫香楽と遷都を繰り返すが、結局天平17年、平城京に還都した。
行基らの協力を得て東大寺の大仏造営を始め、天平勝宝4年(752年)4月9日、開眼供養会を挙行した。天平勝宝8年(756年)に56歳で崩御。古代律令制の成熟期に君臨した天皇として絶大な権威を有し、死後も偉大な聖王として官人・僧侶・民衆の崇敬を集めた。『万葉集』に11首の歌を残し、天皇としては最多。
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(元正天皇)
(聖武天皇)