巻第5-800~801
800 父母(ちちはは)を 見れば貴(たふと)し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世間(よのなか)は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓(うけぐつ)を 脱(ぬ)き棄(つ)るごとく 踏み脱(ぬ)きて 行くちふ人は 石木(いはき)より なり出し人か 汝(な)が名(な)告(の)らさね 天(あめ)へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君(おほきみ)います この照らす 日月(ひつき)の下は 天雲(あまくも)の 向伏(むかぶ)す極み たにぐくの さ渡る極み 聞こし食(を)す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 801 ひさかたの天道(あまぢ)は遠しなほなほに家に帰りて業(なり)を為(し)まさに |
【意味】
〈800〉父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中はそうあるのが道理であり、鳥もちにかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い、行末も分からぬ私たちなのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように(父母や妻子を)捨てていくとかいう人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。名前を言いなさい。天へ行ったら、あなたの思いどおりにするのもよかろうが、この地上ならば、天皇がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、天皇のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれも思いのままにしようというのか、そうしたものではないよ。
〈801〉天への道は遠い。大人しく家に帰って、家業に励みなさい。
【説明】
題詞に「惑へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌」とあり、序によれば、「倍俗(ばいぞく・俗にそむく)先生」を自称し、世俗を超越した神仙としての理想の生活を追い求めるあまり、家族をもうち捨て、日常の生活を少しも顧みようとしない人物に反省させる目的でつくった歌とあります。歌中には、親子の関係を基本に据えた家族の倫理が強調されており、筑前守だった憶良が、筑前国内を巡察する間に作った歌とされます。国守の職分として、領民に対して王化の秩序や聖教を説くよう定められており、ここの歌はその動機によって作られたと見えます。
800の「めぐし」は、いとおしい。「かくぞことわり」の「かくぞ」は、そうあるのが、「ことわり」は道理。「もち鳥の」は、とりもちにかかった鳥のように。「かからはしもよ」は、離れがたく断ちきり難いものだ。「穿沓」は、穴のあいたくつ。「行くちふ」は、行くという。「向伏す」は、はるか向こうに横たわる。「たにぐく」は、ヒキガエル。「聞こし食す」は、お治めになる。「まほら」は、すぐれたよいところ。「かにかくに」は、あれこれと。「しかにはあらじか」は、そうではないのではないか。801の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「なほなほに」は、すなおにの意の「なほ」を重ねて強めたもの。「業」は、生業。
憶良がなぜこのような歌を作ったかについて、窪田空穂は次のように述べています。「教訓を目的とした歌は特殊なものであり、それを敢えてしたのは、憶良としては作らずにはいられない必要を感じてのことと思われる。一つは彼の人柄からである。国家主義の儒教を奉じていた憶良から見ると、それとは反対な、個人の享楽を目的としている神仙道の如きは、極めて憎むべきもので、中央に盛行していたそれが、任国の筑前国に波及しているのを見ると、黙止することの出来ない衝動を受けたものと思われる。又それだけではなく、国守の職責の中には、管下の民を教導することが主なる一条として規定されているので、職務に忠実なる彼は、職責としてそうした者を善導しなくてはならないという心を抱き、それとこれと相俟って、例のない教訓を目的とした作を思い立ったことと解される」。
また、国文学者の井村哲夫は次のように述べています。「国司としての職務を忠実に実行しつつ、人民の生活の実際に親しく触れることによって苦患に満ちた世間の解決し難い不条理というものに思いを潜めることは、すでに先の伯耆守時代にも経験したところであったろうが、これらの作品(800~805)を製作する中から憶良なりの解答の方向を、ようやく見出すに至ったらしい。たとえば、朝廷はこのころしきりに禁令を発して百姓の浮浪逃亡・課役忌避を取り締まり、『山沢亡命者(生業を捨て、戸籍を失って山沢に逃げ込む民のこと)』に対しては謀反に準ずる極刑をもって臨んでいた。だが憶良は、この種の不心得者を扱っては穏便な説諭処分くらいで済ませ、長官旅人への報告書代わりには『惑へる情を反さしむる歌一首』を提出し、とぼけた顔をしていたもののようにも思われる」。
巻第5-802~803
802 瓜(うり)食(は)めば 子ども思ほゆ 栗(くり)食めば まして偲(しぬ)はゆ 何処(いづく)より 来(きた)りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとな懸(かか)りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ 803 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝(たから)子に及(し)かめやも |
【意味】
〈802〉瓜を食べると子どもが思い出される。栗を食べるとまして偲ばれる。いったいどこからわが子として生まれてきたのか。目の前にしきりに面影がちらついて、ぐっすり眠らせてくれない。
〈803〉銀も黄金も玉も、いったい何になるというのか、そんな勝れた宝でさえ、子どもに及ぶものがあろうか。
【説明】
山上憶良が、離れて暮らす子どもらを思い詠んだ長歌と反歌。この歌の前には、次の意味の序文が付いています。「釈迦如来がその貴いお口で正に説かれたのには、『等しくあらゆる生き物をいつくしみ思うことは、わが子を思うのと同じである』。また、『愛は子に対する愛に勝るものはない』ともおっしゃった。この上ない大聖人ですらわが子を愛する心がある。まして世の中の人々のなかに、誰が子を愛さない者があろうか」
802の「瓜」は、まくわうり。中国経由で渡来したもので、当時、口にするには贅沢品だったようです。「子ども」の「ども」は、複数を表す接尾語。「眼交」は、眼前。「もとな」は、しきりに、わけもなく。瓜や栗は子供の好物だったとみえ、口にする度に子供が思われて仕方がないといっています。803の「何せむに」は、何になろうか。「及かめやも」の「やも」は反語で、及ぶだろうか、及びはしない。『万葉集』の中で、男親が子の愛おしさを詠んでいるのは、憶良ただ一人です。
憶良がいつこの歌を詠んだのかは明記されていませんが、神亀3年(733年)以来筑前国守として任地にあった頃という説が有力で、とすると、このころの推定年齢は67,8歳になります。そんな老齢の人に幼児が?との見方がありますが、日本史学者の北山茂夫は次のように述べています。「そういう高齢で幼児があるはずがない、というのは現代人の悪しき常識である。あくまでも、歌の内容から迫ってくる真実を尊重し、俗論はつよく退けたい。『瓜食めば』の歌において、憶良が『子どもを思ふ』親の感情一般に依拠していることは、その序の陳述からも明らかである。しかし、歌そのものは、自己の現実体験を離れた虚構ではない」。
また、作家の田辺聖子は次のように述べています。「憶良は七十で幼児をうたった作品が多いので、これは象徴的にいっているのか、知人に成り代わって歌ったのか、孫のことか、などともいわれているが、私の想像では彼は筑紫でか、またはそれ以前、都にいたときに若い妻を持ったのではないかと思われる。自身が若いころの最初の妻には子ができなかったのかもしれない。老年になってはじめて得た子であればその愛執はいよいよ深いであろうではないか。老い病みて、なお成人しない幼い子ら何人かを抱えたればこそ、彼の『沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)』の凄絶な苦悩が推しはかられる気がする」
巻第5-804~805
804 世の中の すべなきものは 年月(としつき)は 流るるごとし とり続(つつ)き 追ひ来るものは 百種(ももくさ)に せめ寄り来(きた)る 娘子(をとめ)らが 娘子さびすと 韓玉(からたま)を 手本(たもと)に巻(ま)かし〈或いはこの句有り、白(しろ)たへの 袖振りかはし 紅(くれない)の 赤裳裾引(あかもすそび)き と云ふ〉 よち子らと 手(て)携(たずさ)はりて 遊びけむ 時の盛りを 留(とど)みかね 過(すぐ)しやりつれ 蜷(みな)の腸(わた) か黒(ぐろ)き髪に 何時(いつ)の間(ま)か 霜の降りけむ 紅(くれなゐ)の〈一には、丹(に)のほなす と云ふ〉 面(おもて)の上に いづくゆか 皺(しわ)が来(きた)りし〈一には、常(つね)なりし 笑(え)まひ眉引(まよび)き 咲く花の 移ろひにけり 世の中は かくのみならし と云ふ〉 ますらをの 男子(をとこ)さびすと 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き さつ弓を 手握(たにぎ)り持て 赤駒(あかごま)に 倭文鞍(しつくら)うち置き 這(は)ひ乗りて 遊び歩きし 世の中や 常にありける 娘子(おとめ)らが さ寝(な)す板戸(いたと)を 押し開き い辿(たど)り寄りて 真玉手(またまで)の 玉手(たまて)さし交(か)へ さ寝(ね)し夜(よ)の いくだもあらねば 手束杖(たつかづゑ) 腰にたがねて か行けば 人に厭(いと)はえ かく行けば 人に憎(にく)まえ 老(お)よし男(を)は かくのみならし たまきはる 命(いのち)惜しけど 為(せ)むすべもなし 805 常磐(ときは)なすかくしもがもと思へども世の事なれば留(とど)みかねつも |
【意味】
〈804〉この世の中でどうにもならないことは、年月は遠慮なく流れ去り年を取ること、それにつれて迫ってくる様々な苦しみである。娘子(をとめ)が娘子らしく舶来の玉を手首に巻いて(あるいは真っ白な袖を振り交わし、真っ赤な裳裾を引きずって)、同じ年ごろの子らと手を携えて遊んでいたのに、娘盛りを留められずにやり過ごしてしまうと、黒かった髪にいつの間にか白髪がまじってきて、ほの紅かった(真っ赤な土のようだった)顔にはどこからか皺が寄ってくる。(変わりなかった眉引きの笑顔も、咲く花のように消えてしまった。世の中というのはこんなものなのだろう)。また、勇ましい若者がいかにも男らしく剣太刀を腰に帯び、狩弓を手に握りしめ、馬に和風模様を織り出した鞍を置いき、乗って遊び回った、そんな楽しい時はいつまで続いただろうか。娘子の寝ている板戸を押し開いて探り寄り、真珠のような白い腕を交わして共寝した夜はいくらもなかったのに、いつの間にか杖を握りしめて、腰にあてがい、よぼよぼとあちらに行けば人に嫌がられ、こちらに行けば人に憎まれる。老いれば人はこんなものらしい。命は惜しいけれど、施す手だてはない。
〈805〉岩のように永遠不変でありたいと思うけれども、老いや死は世の常であるから、留めようにも留めようがない。
【説明】
大宰府時代の憶良が69歳ごろに作った「世間の往(とどま)り難きを哀(かな)しびたる歌」。前文には「集まりやすく払いにくいものは八つの大きな苦しみであり、成し遂げにくく尽きやすいものは人生の楽しみだ。これは古人が嘆いたところで、今日でも同じことだ。そういう次第で、一篇の歌を作って、白髪が日々増えていく老いの嘆きを払いのけようと思う」旨の記載があります。憶良のいう「八つの大きな苦しみ」とは、涅槃経にいう、生・老・病・死・愛別離・怨憎会・求不得・五陰盛の八苦とされます。
804の「百種」は、さまざま、多くの種類。「娘子さびすと」は、乙女らしくしようと。「韓玉」は、唐から渡来した玉。「よち子」は同年輩の子。「留みかね過しやりつれ」は、留められずに過ごしてしまうと。「蜷の腸」は「黒」枕詞。「さつ弓」は、狩りに用いる弓。「倭文鞍」は、美しい文様のある織物で覆った鞍。「真玉手」は、手の美称。「いくだ」は、どれほど。「手束杖」は、手で握る杖。「たがねて」は、あてがって。「厭はえ」は、嫌われ。「たまきはる」は「命」の枕詞。805の「常磐」は、いつまでも変わらない大きな岩石。「かくしもがも」は、このようでありたい。
長歌の描写は極めてリアルであり、若い日の男女の愛のよろこびを具象で示したあと、老醜へと急転し、まことに辛辣な表現となっています。これほどまでに言葉を費やし、表現を尽くすのは、老いの嘆きがいかに大きかったかを物語っています。高齢者が日常的に口にする、老いと病の辛さを歌った万葉歌人は、山上憶良ただ一人です。老・病・死を歌い、漢詩や漢文を書くなど、老齢を迎えてよほど悩んだのか、それとも後悔しきれないほどの大きな未練があったのでしょうか。
なお、以上の3つの作の末尾に「神亀五年七月二十一日、嘉摩郡にて撰定す」とあることから、「嘉摩三部作」などと呼ばれます。嘉摩郡があったのは遠賀川の支流、嘉摩川流域で、なぜこれらの作が嘉摩郡の地名とともにあるのかは、よく分かっていません。憶良が国守として部内を巡行中に詠まれたものであるとか、かねて詠んでいたものをここで整理加筆したとか言われています。とまれ、これら三部作には憶良の並々ならぬ熱意が感じられ、また、それぞれに惑・愛・無常という明確な主題があるため、決して無関係に詠まれたものではなく、緊密に連絡した作品であろうと見られています。
巻第5-813~814
813 かけまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ) 神の命(みこと) 韓国(からくに)を 向(む)け平(たひ)らげて 御心(みこころ)を 鎮(しづ)めたまふと い取らして 斎(いは)ひたまひし 真玉(またま)なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代(よろづよ)に 言ひ継ぐがねと 海(わた)の底 沖(おき)つ深江(ふかえ)の うなかみの 子負(こふ)の原に 御手(みて)づから 置かしたまひて 神(かむ)ながら 神(かむ)さびいます 奇(く)し御魂(みたま) 今の現(をつつ)に 尊(たふと)きろかむ 814 天地(あめつち)のともに久しく言ひ継(つ)げとこの奇(く)し御魂(みたま)敷(し)かしけらしも |
【意味】
〈813〉口に出すのも恐れ多いが、神功皇后が韓の国を平らげるにあたり、御心をお鎮めになろうと、御手にお取りになり祀られた、玉のような二つの石、その尊い石を世の人々にお示しになって、霊験のあらたかさを後世に語り継ぐようにと、深江の里の海のほとりの子負の原に御自ら置かれて以来、その二つの石は神そのものとして神々しく鎮まっておいでになる。この霊妙な御霊の石は、今の世にもまことに尊い。
〈814〉天地とともに末永く語り継げとて、この霊妙な霊石を、ここにお置きになったものらしい。
【説明】
前文に次のような記載があります。――筑前の国、怡土郡(いとぐん)深江村(ふかえむら)子負(こう)の原の、海に臨む丘の上に二つの石がある。大きいのは高さ一尺二寸六分、周囲一尺八寸六分、重さ十八斤五両。小さいのは高さ一尺一寸、周囲一尺八寸、重さ十六斤十両。どちらも楕円形で、形は鶏卵のようだ。その美しく立派なことは言いようもない。世にいう「径尺の璧(直径一尺の璧)」とはまさしくこれをいうのであろう。(或いは、この二つの石は、もとは肥前の国彼杵郡(そのきぐん)平敷(ひらしき)にあった石で、占いをするために取り寄せたものだという) 深江の駅家(うまや)から二十里ほどの道のほとりにある。そのため、公私を問わず往来に馬を下りて拝まない人はいない。古老が言い伝えるには、「むかし神功皇后が新羅(しらぎ)を征伐なさったときに、この二つの石を御袖の中に挟んで御心をお鎮めになった。(本当は御裳の中に入れた) そういうわけで旅する人はこの石を拝礼するのだ」という。そこで作った歌。――
「筑前の国怡土郡深江村」は、福岡県糸島市二丈深江。鎮懐石八幡宮には、神功皇后にまつわる伝説の「鎮懐石(ちんかいせき)」が祀られています。
813の「かけまく」は口に出して言うこと。「あやに」は、甚だ。「足日女」は、神功皇后。「神の命」は、神として尊んでの称。「韓国」は、新羅。「向け平らげて」は、平定して。「い取らして」の「い」は、接頭語。お取りになって。「斎ひたまひし」は、お祀りになった。「真玉なす」の「真」は美称。玉のような。「言ひ継ぐがね」の「がね」は、願望。「海の底」は「沖」の枕詞。「うなかみ」は、海のほとり。「神ながら神さびいます」は、神として神々しくいらせられる。「尊きろかむ」の「ろ」は、接尾語。「かむ」は「かも」と同じ。814の「敷かし」は、お置きになる。「けらし」は「けるらし」の略で、過去の強い推量。
なお、左注に、このことを伝承したのは那珂郡(なかぐん)伊知郷(いちのさと)蓑島(みのしま)の人、建部牛麻呂(たけべのうしまろ)なり、とあり、また、本文に作者名はないものの、目録に「山上憶良が鎮懐石を詠んだ歌」とあります。
神功皇后について
神功皇后は『日本書紀』などにみえる仲哀天皇の皇后で、名は気長足姫(おきながたらしひめ)といいます。神と交感する能力を持つ巫女的な女性で、夫の仲哀天皇が神の託宣を信じず祟りにあって頓死したため、皇后は託宣に従い、自ら先頭に立って新羅を攻めます。このとき大小の魚が寄り集まって、船の進行を助けたといいます。新羅の王は皇后の軍団の勢いに圧倒されて戦わずして降り、高句麗、百済もこれに倣いました。
この軍旅に際し、身籠っていた皇后は臨月を迎えていましたが、鎮懐石(ちんかいせき)という石をお腹に当てて出産を遅らせ、筑紫へ凱旋してから、現在の宇美八幡宮(福岡県宇美町)で御子(のちの応神天皇)を生みます。また、このときの鎮めの石を祀る八幡宮が、福岡県糸島市にあります。上の山上憶良の歌には、石の具体的な寸法と共に、人々が盛んにお参りしていた様子が詠われています。
皇后は出産ののち、反乱の企てなども粉砕し、大和で御子を皇太子に立てて後見に当たり、応神が即位するまで69年間も政治を執っていたといいます。記紀の記載では、皇后は皇位に就かなかったことになっていますが、天皇に匹敵する存在であり、『日本書紀』でも天皇に準じた扱いをしています。『日本書紀』にはさらに多くの日朝関係の記事が記され、なかには史実と考えられるものもあり、また4か所にわたって『魏志(ぎし)』や『晋書(しんじょ)起居注』が引用され、編者が神功皇后を倭の女王(卑弥呼)に比定していたことが窺えます。
【PR】
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
【PR】
【PR】