巻第5-810~811
810 いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝(ひざ)の上(へ)我が枕(まくら)かむ 811 言(こと)問はぬ木にはありともうるはしき君が手馴(たな)れの琴(こと)にしあるべし |
【意味】
〈810〉何時の日にか、私の音色を分かってくださる方の膝の上に、私は枕するのでしょうか。
〈811〉言葉を言わない木であっても、立派なお方が大切にしてくださる琴となるに違いありません。
【説明】
天平元年(729年)10月7日、大宰府にいる大伴旅人から、都の中衛府(ちゅうえいふ)大将・藤原房前(ふじわらのふささき)のもとへ、手紙とともに一面の琴が贈られてきました。藤原房前は不比等(ふひと)の子で、藤原四兄弟の一人、北家の祖となる人物です。手紙の文面は次のような内容でした。
「大伴旅人から謹んで言上します。これは、対馬の結石(ゆうし)山の孫枝(ひこえ)で作った、青桐の大和琴一面です。この琴が、夢の中で乙女の姿になって私に語りました。『私は、根を、はるか沖の遠い島の高山にのばし、幹を太陽の美しい光りにさらして、伸び伸びと育ちました。雲や霞を衣にまとい、山川の音に心を遊ばせ、遠く海の風波をのぞみ見ては、将来役に立つのか立たないのか、宙ぶらりんな気持ちで過ごしていました。このまま空しく生涯を終え、谷間に朽ち果てるのではないかと不安でした。ところが、たまたま立派な細工師に出会い、削られて小さな琴になりました。質も悪くよい音も出ないわが身を顧みず、いつまでも君子の傍らに置いていただきたいと思っています』と。そして乙女は次のように歌を詠みました。
いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上我が枕かむ(810)
そこで私はこう答え、詠いました。
言問はぬ木にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし(811)
琴の乙女は言いました。『謹んでお言葉を承りました。有難うございます』と。私はその僅か後に目を覚まし、夢の中の乙女の言葉に感じ入り、感激のあまり黙っていられません。そのため、公の用事のついでに、ともあれここに琴を献上いたします」
つまり、房前に琴を贈るに際し、擬人化したフィクションの手紙を添えたのです。公の用事で奈良の都に赴いたのは大伴百代で、旅人はこの手紙と琴を百代に託しました。この時の旅人は65歳、房前は49歳でした。なお、旅人と房前は、京で12年余も活動期間を共にした間柄でした。
巻第5-812
言(こと)問はぬ木にもありとも我が背子が手馴(たな)れの御琴(みこと)地(つち)に置かめやも |
【意味】
言葉を語らない木ではあっても、あなたが弾きなれた御琴を地に置くような粗末などいたしましょうか。
【説明】
天平元年(729年)10月7日、大宰府にいる大伴旅人から、都の中衛府(ちゅうえいふ)大将・藤原房前(ふじわらのふささき)のもとへ、手紙とともに一面の琴が贈られてきました(巻5-810~811)。この歌は、琴を受け取った房前から旅人への返事に添えられた歌です。
旅人は、なぜ房前に琴を贈ったのでしょうか。そこで、この背景にあった不穏な政情にも触れなければなりません。この手紙と琴が贈られたのと同じ年の2月、当時の最高権力者だった長屋王(ながやのおおきみ)が、藤原氏の陰謀により自害させられました(長屋王の変)。その理由の一つは、藤原氏出身の光明子を立后させることに長屋王が強力に反対していたことによります。この事件が起きる前に長屋王派の旅人が大宰府に追いやられたのも、藤原氏による陰謀の一環だったといわれます。
旅人の贈り物が長屋王の事件の直後だったのを見ると、にわかに哀しく屈辱的な意味合いが浮かび上がってきます。大伴氏は本来、新興の藤原氏と比べても、古くから政治の中枢にいた名門の皇親派の豪族です。その大伴家のトップの立場としての、一族の命運を左右する政治的判断を迫られた旅人の苦肉の意思表明だったのではないでしょうか。君が愛用する琴になりたい、と。房前の返事の歌の意味も、「了解した」ということなのでしょう。
ちなみに、この歌に添えられた房前の返事の内容は次のようなものでした。「お手紙をひざまずいて拝承、喜びでいっぱいです。琴をお贈り下さった御恩が、いやしい身の私にいかに厚いかを知りました。お逢いしたい気持ちが百倍です。白雲のはるか彼方から届いたお歌に謹んで唱和し、拙い歌を奏上します」。
しかしながら、このやり取りに全く異なった見方をする向きもあります。旅人の文に「君子の傍らに置いていただきたい(君子の左琴を希ふ)」とあったように、琴は君子、つまり立派な人物が奏でる楽器とされていました。旅人が琴を贈ったのには「悪事をやめ、琴を弾くような君子になってほしい」との意が込められており、房前の返事の「御琴地に置かめやも」は、大切にして奏でようというのではなく、「地べたに放り出したりはしない」とにべもなく言っており、きわどい腹の探り合いではないかというのです。
この翌年(730年)10月、大納言に昇任した旅人は、12月に帰京をはたすことができましたが、それから1年も経たない翌年7月に、旅人は67歳の生涯を終えました。また房前は天平9年(737年)4月に没し、政権の中枢にいた藤原氏の他の兄弟たちも相次いで病没しました。『続日本紀』にはこの年の春から秋にかけて疫病(天然痘)が大流行したことが記されています。それがきっかけとなって、社会は大きく変動していくことになります。
大伴旅人の略年譜
710年 元明天皇の朝賀に際し、左将軍として朱雀大路を行進
711年 正五位上から従四位下に
715年 従四位上・中務卿に
718年 中納言
719年 正四位下
720年 征隼人持説節大将軍として隼人の反乱の鎮圧にあたる
720年 藤原不比等が死去
721年 従三位
724年 聖武天皇の即位に伴い正三位に
727年 妻の大伴郎女を伴い、太宰帥として筑紫に赴任
728年 妻の大伴郎女が死去
729年 長屋王の変(2月)
729年 光明子、立后
729年 藤原房前に琴を献上(10月)
730年 旅人邸で梅花宴(1月)
730年 大納言に任じられて帰京(12月)
731年 従二位(1月)
731年 死去、享年67(7月)
海女の玉取伝説
四国八十八か所霊場の一つ、志度寺には、藤原不比等・房前親子にまつわる、次のような伝説が残されています。
かつて唐土から大和に送られてきた宝珠が、途中で竜神に奪われてしまった。そこで、藤原不比等は「淡海」という変名を使って志度の地に赴き、宝珠の行方を探索することとした。そのうち不比等は、その土地の玉藻という名の海女と出逢い、恋に落ちて男児をもうけるまでに至った。
時が経ち、不比等は玉藻に、自分の素姓とこの地へやって来た目的を明かした。玉藻は、宝珠が龍宮にあることを突き止め、乗り込んで奪い返そうとするが、龍神が常に守っている。決死の覚悟で奪い返したものの、龍神に襲われてしまう。傷つき息も絶え絶えとなった玉藻は、護身の短刀を自らの乳房下に突き刺して十字に切り裂くと、その中に宝珠を押し込めて海面にまで辿り着いた。駆け寄る不比等に取り出した宝珠を渡し、残された男児を藤原家の跡取りに、と頼むと、玉藻は息を引き取った。
不比等は、亡くなった玉藻の遺骸を志度寺に葬り、残された男児を都に連れて帰った。後にその児は藤原房前として政治の表舞台で活躍した。そしてある時、房前は自分の母親の最期の話を聞くと、志度寺に赴いて新たに堂宇を建て、さらに1000基の石塔を建立したという。
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