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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

大伴旅人の松浦川に遊ぶ歌

巻第5-853~854

松浦川(まつらがは)に遊ぶ序
余(やつかれ)、暫(たまさか)に松浦の県(あがた)に往(ゆ)きて逍遥(せうえう)し、聊(いささ)かに玉島の潭(ふち)に臨みて遊覧するに、忽(たちま)ちに魚を釣る女子等(をとめら)に値(あ)ひぬ。花の容(かほ)双(なら)びなく、光(て)りたる儀(すがた)匹(たぐひ)なし。 柳(やなぎ)の葉を眉(まよ)の中(うち)に開き、桃の花を頬(つら)の上に発(ひら)く。意気(いき)雲を凌(しの)ぎ、風流世に絶えたり。僕(やつかれ)問ひて曰く、「誰(た)が郷(さと)誰が家の児(こ)らそ、けだし神仙(しんせん)ならむか」といふ。娘等(をとめら)皆 咲(ゑ)み答へて曰く、「児等(われ)は漁夫(あま)の舎(いへ)の児、草の庵(いほ)の微(いや)しき者(ひと)なり。郷(さと)も無く家も無し。何そ称(あ)げ云ふに足らむ。ただ性(ひととなり)水に便(なら)ひ、また心山を楽しぶ。あるときには洛浦(らくほ)に臨みて徒(いたづ)らに玉魚を羨(とも)しび、あるときには巫峡(ぶかふ)に臥して空(むな)しく煙霞(えんか)を望む。今 邂逅(たまさか)に貴客(まらひと)に相遇(あ)ひぬ。感応に勝(あ)へず、輙(すなわ)ち歎曲(くわんきよく)を陳(の)ぶ。今より後に、豈偕老(あにかいらう)にあらざりべけむ」といふ。下官(やつかれ)対(こた)へて曰く、「唯々(をを)、敬(つつし)みて芳命を奉(うけたま)はらむ」といふ。時に、日は山の西に落ち、驪馬(りば)去(い)なむとす。遂に懐抱(くわいはう)を申(の)べ、因(よ)りて詠歌(えいか)を贈りて曰く、

853
あさりする海人(あま)の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人(うまひと)の子と
854
玉島(たましま)のこの川上(かはかみ)に家はあれど君をやさしみ表(あら)はさずありき
 

【意味】
松浦川に遊ぶ序
 私はたまたま松浦の地に赴いてあちらこちらを歩き、ふと玉島川に行き当たって眺めると、思いもかけず魚を釣っている乙女らに出会った。花のような顔立ちは並ぶものなく、照り輝くばかりの容姿はたとえようもない。しなやかな眉は柳の若葉が開いたようで、あでやかな頬には紅の桃が咲いたよう。凛とした気高さは雲をも凌ぎ、雅やかな品のよさはこの世のものとは思えない。私は尋ねた。「どこの郷(さと)のどなたの娘さんですか。もしや仙女ではないでしょうか」。乙女らはいっせいに微笑んで答えた。「私たちは漁師の子で、あばら家に住む名もない者です。決まった里もなければ、確かな家もございません。どうして名乗るほどの者でありましょう。ただ生まれつき水に親しみ、また心の底から山を楽しんでいます。あるときは洛水に臨んでいたずらに美しい魚の身の上を羨み、またあるときは巫山(ふざん)に横たわって、わけもなく煙霞の美景に眺めたりしています。今たまたま高貴なお方に出会い、嬉しさを包み隠すこともできず、心の内をお打ち明けする次第です。これから後は、どうして偕老(かいろう)のお約束を結ばずにいられましょうか」。私はこう答えた。「喜ばしいこと、謹んで仰せに従いましょう」。折りしも日は西に落ちかかり、私の乗る黒駒はしきりに帰りを急いでいる。そこで私は心の内を述べ、こんな歌を詠んで彼女らに贈った。

〈853〉魚を捕る漁師の子だとあなたは言うが、見ればすぐに分かりましたよ、良家の娘さんだと。

〈854〉玉島の川上に私どもの家はあります。でも、あなたがあまりにご立派なので、そのことは明かしませんでした。

【説明】
 4月に女性が、豊作豊漁を占って鮎釣りをするという『肥前風土記』を題材にした歌で、蓬客たる主人公が、たまたま川で鮎釣りをする娘らに出逢ったという設定になっています。「蓬客」は、蓬(よもぎ)が風に吹かれて転がっていくように、さすらう旅人(遊子)の意で、漢文によく使われた表現です。「松浦川」は、佐賀県唐津市を流れる玉島川で、今の松浦川とは別の川。

 主人公が娘らにそれとなく家のことを聞いているのは、男女の相聞のしきたりで、男が相手の名や家を問うのは求婚の意思を告げるものとされた古来の風習にのっとっています。それで娘らは、854で承諾の意を示すものの、作者としては、その先の展開まで歌物語で綴る自信がなかったのか、乗っている黒駒が早く帰ろうと言っているから、という口実で、彼女らと何ごともなく別れることにしました。しかし、それではあまりにあっけないため、さらに855~857と歌の贈答を重ねます。

 また、序文にある娘らの語りには、『論語』の「知者は水を楽(この)み、仁者は山を楽(この)む」の言葉や、『文選』で神女と出会える場所とされている「洛浦」や「巫峡」などが引用されており、この娘が只者ではないことを示しています。

 853の「あさりする」は、漁をする。「知らえぬ」は、ひとりでに分かった。「貴人」は、身分の高い人。854の「やさしみ」は、相手が立派ゆえ気後れする意。「表はさずありき」は、打ち明けずにいた。

巻第5-855~857

855
松浦川(まつらがは)川の瀬(せ)光り鮎(あゆ)釣ると立たせる妹(いも)が裳(も)の裾(すそ)濡(ぬ)れぬ
856
松浦(まつら)なる玉島川(たましまがは)に鮎(あゆ)釣ると立たせる子らが家路(いへぢ)知らずも
857
遠つ人松浦(まつら)の川に若鮎(わかゆ)釣る妹(いも)が手本(たもと)を我(われ)こそまかめ
 

【意味】
〈855〉松浦川の川の瀬は光り輝き、鮎を釣るために立っているあなたの着物の裾は水に濡れています。

〈856〉松浦の玉島川で鮎を釣ろうとに立っているあなたたちの家へ行く道がわからない。

〈857〉松浦の川で若鮎を釣るあなたの腕を枕に寝るのは、私の願いです。

【説明】
 「蓬客(ほうかく)等の更に贈りし歌3首」。857の「遠つ人」は「松浦」の枕詞。旅人が、このような神仙の女たちとの恋愛譚ともいうべき創作をなしたのは、もともと旅人が神仙に対する憧れを抱いていたことも影響しているでしょうが、当時、「柘枝伝(つみのえでん)」という神仙の伝説があったことが知られ(巻第3-385~387)、また「浦島伝説」などが当時の貴族社会で流行り、人気があったことも背景にあるようです。

娘等がさらに報(こた)ふる歌

巻第5-858~860

858
若鮎(わかゆ)釣る松浦(まつら)の川の川なみの並(なみ)にし思はば我(わ)れ恋ひめやも
859
春されば吾家(わぎへ)の里の川門(かはと)には鮎子(あゆこ)さ走(ばし)る君待ちがてに
860
松浦川(まつらがは)七瀬(ななせ)の淀(よど)は淀むとも我(わ)れは淀まず君をし待たむ
 

【意味】
〈858〉若鮎を釣る松浦の川の川波の、なみに(ふつうに)思うだけなら、どうして私が恋などいたしましょうか。

〈859〉春が来ると、私の里の川の渡し場では子鮎が走り回ります。あなたを待ちあぐんで。

〈860〉松浦川の七瀬の淀は淀んで流れないことがあっても、私は淀むことなく、ずっとあなたをお待ちしましょう。

【説明】
 853~857からの続きで、乙女らがさらに返した歌です。858が857に、859が856に、860が855に応じており、実作者は旅人、あるいは別の大宰府某官人ではないかとされます。858の上3句は「並にし」を導く序詞。「川なみ」は川の流れ。859の「川門」は、川の渡し場。「さ走る」の「さ」は、接頭語。「待ちがてに」は、待ちあぐんで、待ちきれなくて。

後の人の追和する歌

巻第5-861~863

861
松浦川(まつらがは)川の瀬(せ)速(はや)み紅(くれなゐ)の裳(も)の裾(すそ)濡れて鮎か釣るらむ
862
人(ひと)皆(みな)の見らむ松浦(まつら)の玉島を見ずてや我(わ)れは恋ひつつ居(を)らむ
863
松浦川(まつらがは)玉島の浦に若鮎(わかゆ)釣る妹(いも)らを見らむ人のともしさ
 

【意味】
〈861〉松浦川の川瀬の流れが速いので、娘たちは紅の裳裾を濡らしながら、今ごろ鮎を釣っていることだろう。

〈862〉だれもが皆見ているであろう松浦の玉島なのに、一人見ることもかなわず、私はこんなにも恋し続けていなければならないのか。

〈863〉松浦川の玉島の岸で若鮎釣っている娘たち、その美しい娘たちをを見ているであろう人々が羨ましい。

【説明】
 題詞に「後の人の追和する歌三首」、その下に「帥老」とあり、大宰帥大伴旅人を尊んでいう語で、一連の歌が旅人ほかの共作であることを示すため、資料保管の際に憶良が注記したものとみられています。

 861の「川の瀬速み」は、川の浅瀬の流れが速いので。862の「見らむ」は、現在推量。863の「ともしさ」は、羨ましさ。
 
 なお、松浦川にまつわる伝説が『古事記』に載っており、神功皇后が玉島川で裳の糸を抜いて、飯粒を餌に鮎を釣ったとあり、また『日本書紀』には、新羅国を攻めるにあたり、神功皇后が占いをして吉兆の鮎を手に入れた、という話が書かれています。そこから、春になると松浦川の女性たちが鮎を釣るようになったといわれています。

 ここまでの11首の歌で構成された物語について、窪田空穂は次のように述べています。「玉島川の四月の若鮎釣の神事は、序では触れていないが、日本書紀によると、旅人時代には行なわれていたことが知られる。神事であるから良家の娘も無論加わっており、また当然礼装もしていて、その土地としては見る眼美しいものであったろうと想像される。管下を巡視する職分を負ってその地に行った旅人が、その光栄に接して甚しく心を引かれたことは想像しやすい。平生愛好している神仙趣味から迎えて見て、それを仙女の群れかと訝かったとしてもさして突飛なことでもない。その中の目立つ一人を『貴人(うまびと)の子』と見て、訝りの心からその家や名を問うということは、その時の彼の位置としてはありうべきことであり、したのでもあろう。また、問われた娘も、彼の身分に対する畏敬から、躊躇しながらも問に対する答はしたろう。そこまでは多分事実であり、そしてそれが事実の全部であったろう」

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吉田宣が答えた歌

巻第5-864~867

864
後(おく)れ居(ゐ)て長恋(ながこひ)せずは御園生(みそのふ)の梅の花にもならましものを
865
君を待つ松浦(まつら)の浦の娘子(をとめ)らは常世(とこよ)の国の天少女(あまをとめ)かも
866
はろはろに思ほゆるかも白雲(しらくも)の千重(ちへ)に隔(へだ)てる筑紫(つくし)の国は
867
君が行き日(け)長くなりぬ奈良道(ならぢ)なる山斎(しま)の木立も神(かむ)さびにけり
 

【意味】
〈864〉宴に参加もできないで長らく恋い慕っているくらいなら、いっそあなた様のお庭の梅の花になってしまおうものを。

〈865〉あなた様をお待ちしている松浦の浦の娘子たちは、常世の国の仙女なのでしょうか。

〈866〉遙か遠くから思いやられます。白雲が幾重にも隔てている筑紫の国は。

〈867〉あなた様が筑紫に行かれて長くなり、奈良道にあるお邸の木立はものすごく茂っております。

【説明】
 作者の吉田宣(きったのよろし)は百済からの渡来人で、都に住む医術家。もとは僧で恵俊と称していましたが、文武天皇4年(700)に勅命によって還俗、吉の姓、宜の名を賜った人です。ここの歌は、大伴旅人から贈られた梅花宴の歌と松浦川に遊ぶ歌(815~863)に対する返簡として旅人に贈った歌で、次のような内容の宣の手紙が添えられています。

 ―― 宣が申し上げます。謹んで四月六日付の御手紙を拝受致しました。跪いて封函を開き、拝んで芳章を拝読致しました。心が朗々とするのは、泰初(たいしょ)が月を懐に入れた気持ちそのままであり、卑しい思いが消えるのは、楽広(がくこう)が天を披くが如くであります。
 「辺境の地に任務を果たすことになり、在りし昔を懐かしんで心を傷め、年月が過ぎ去るのは速く、若き日を偲んでは涙を落とす」と仰せになっていますが、そのような時にあっても、達人は物事の移ろいに安んじ、君子は独りいて煩悶がないといいます。伏してお願い申し上げることは、朝には、雉まで懐いたという魯恭(ろきょう)の徳化を敷き、暮には、亀を放って出世したという孔愉(こうゆ)の仁術を施し、かつ、漢の名臣、張敞(ちょうしょう)や趙広漢(ちょうこうかん)のような令名を百代ののちに凌ぎ、仙人の赤松子(せきしょうし)や王子喬(おうしきょう)に千年の後に学ばれんことを。なお、書簡で頂いた、梅苑の芳しい席で群がる英才が歌を詠まれ、松浦の美しい淵で仙女と贈答なされたその作は、孔子が杏壇(きょうだん)で門弟たちに各々述べさせた志の歌にも劣らず、また、曹植(そうしょく)が洛川(らくせん)で神女に逢った篇かと思われるほどです。ただ耽読し吟誦して、感謝し喜んでおります。この宜が、あなた様を慕う真心は、犬馬が主人を思う誠を越え、御徳を仰ぐ心は、冬葵(ふゆあおい)がいつも日の光を追うのと同じです。しかしながら、青海が地を分かち、白雲は幾重にも天を隔てています。いたずらに恋い慕う心を積もらせるばかりで、いかにしてご辛苦をお慰めしたらよいものか。時あたかも初秋七月七日の節句に当たります。伏して願いますのは、数々の天佑があなた様に日に新たにあらんことを。ここに、相撲の部領使(ことりづかい)に託して、謹んでこの紙片を差し上げ ます。――

 864の「後れ居て」は、後に残っていて。「御園生」は、大宰府の旅人の庭。「ならましものを」の「まし」は、反実仮想。865の「常世の国」は、不老不死の仙郷。「天少女」は、天上を飛ぶ仙女。天上からやって来た「海人娘子」と解する説もあります。866の「はろはろに」は、はるばる。867の「奈良道」は、旅人の邸のある奈良の佐保へ行く道。「なる」は、~にある。「山斎」は、池や築山のある庭。「神さびにけり」は、すごく茂った。

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大宰府

律令制下の7世紀後半、筑前国(福岡県)に置かれた役所。九州と壱岐・対馬を管理し、外敵の侵入を防ぎ、外国使節の接待などに当たりました。長官が帥(そち)で、その下に権(ごん)の帥、大弐、少弐などが置かれました。古くは「ださいふ」といい、また多くの史書では「太宰府」とも記されています。

政庁の中心の想定範囲は現在の福岡県太宰府市・筑紫野市にあたり、主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされます。その面積は約25万4000㎡に及び、甲子園球場の約6.4倍にあたります。国の特別史跡に指定されています。

長官の大宰帥は従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていましたが、平安時代になると、親王が任命され実際には赴任しないケースが大半となり、次席の大宰権帥が実際の政務を取り仕切るようになりました。


(大宰府跡)

大伴旅人の略年譜

710年 元明天皇の朝賀に際し、左将軍として朱雀大路を行進
711年 正五位上から従四位下に
715年 従四位上・中務卿に
718年 中納言
719年 正四位下
720年 征隼人持説節大将軍として隼人の反乱の鎮圧にあたる
720年 藤原不比等が死去
721年 従三位
724年 聖武天皇の即位に伴い正三位に
727年 妻の大伴郎女を伴い、太宰帥として筑紫に赴任
728年 妻の大伴郎女が死去
729年 長屋王の変(2月)
729年 光明子、立后
729年 藤原房前に琴を献上(10月)
730年 旅人邸で梅花宴(1月)
730年 大納言に任じられて帰京(12月)
731年 従二位(1月)
731年 死去、享年67(7月)


(大伴旅人)

窪田空穂

窪田空穂(くぼたうつぼ:本名は窪田通治)は、明治10年6月生まれ、長野県出身の歌人、国文学者。東京専門学校(現早稲田大学)文学科卒業後、新聞・雑誌記者などを経て、早大文学部教授。

雑誌『文庫』に投稿した短歌によって与謝野鉄幹に認められ、草創期の『明星』に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。また近代歌人としては珍しく、多くの長歌をつくり、長歌を現代的に再生させた。

『万葉集』『古今集』『新古今集』など古典の評釈でも功績が大きく、数多くの国文学研究書がある。詩歌集に『まひる野』、歌集に『濁れる川』『土を眺めて』など。昭和42年4月没。

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