巻第5-871~875
871 遠つ人 松浦佐用姫(まつらさよひめ)夫恋(つまご)ひに領巾(ひれ)振りしより負(お)へる山の名 872 山の名と言ひ継(つ)げとかも佐用姫(さよひめ)がこの山の上(へ)に領巾(ひれ)を振りけむ 873 万世(よろづよ)に語り継(つ)げとしこの岳(たけ)に領巾(ひれ)振りけらし松浦佐用姫(まつらさよひめ) 874 海原(うなはら)の沖行く船を帰れとか領布(ひれ)振らしけむ松浦佐用姫(まつらさよひめ) 875 ゆく船を振り留(とど)みかね如何(いか)ばかり恋しくありけむ松浦佐用姫(まつらさよひめ) |
【意味】
〈871〉松浦の佐用姫が夫恋しさに領巾(ひれ)を振った時から、名付けて呼ぶようになったという領巾振りの嶺。
〈872〉山の名として言い伝えてほしいというので、佐用姫はこの山の上で領巾を振ったのだろうか。
〈873〉後々までも語り継げよとばかり領巾を振ったらしい、松浦佐用姫は。
〈874〉海原の沖へと走り行く船に、帰ってきてと領布を振られたのだろうか、松浦の佐用姫は。
〈875〉遠ざかる船を、領布を振っても留めることができず、どんなに悲しかっただろう、松浦佐用姫は。
【説明】
佐賀県の松浦地方に伝わる伝説をもとに作った歌です。序文によれば、「朝廷の命令で朝鮮半島の任那、百済の救援に派遣された青年武将・大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は、停泊地である松浦の地で、身の回りの世話をしてくれた土地の長者の娘・佐用姫(さよひめ)と恋に落ちた。やがて、出帆の時が来て、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山に駆け登り、軍船をはるかに眺めたが、悲しみで胸はつぶれ、魂は消えてしまいだった。ついにたまらず身にまとっていた領巾を手にとって、打ち振ると、その姿を見て、傍らの者はみな涙を流した。これによってこの山を領巾振(ひれふ)りの嶺(みね)と名づけた。そこで歌を作った」。
871の「遠つ人」は「松浦佐用姫」の枕詞。「領布」は、女性が肩にかける細長い布の装身具。呪力があり、振ると願いが叶うと考えられていました。873の「語り継げとし」の「し」は、強意。874の「振らしけむ」の「し」は、尊敬、「けむ」は、過去推量。
佐用姫のこの伝説は、『肥前風土記』にも載っています。さらに後世(鎌倉~室町時代)になると、名残がつきない佐用姫は、山から飛び降り、呼子の加部島まで追いすがったものの、すでに船の姿はなく、悲しみのあまり七日七晩泣き続け、ついに石に化したという話が付加されています。
巻第5-868~870
868 松浦(まつら)がた佐用姫(さよひめ)の児(こ)が領巾(ひれ)振りし山の名のみや聞きつつ居(を)らむ 869 足日女(たらしひめ)神の命(みこと)の魚釣(なつ)らすとみ立たしせりし石を誰(た)れ見き 870 百日(ももか)しも行(ゆ)かぬ松浦道(まつらぢ)今日(けふ)行きて明日(あす)は来(き)なむを何か障(さや)れる |
【意味】
〈868〉松浦の県の佐用姫が領巾を振ったという、あの有名な山の名だけ聞かされているのでしょうか。
〈869〉足日女(神功皇后)が鮎を釣ろうとお立ちになった石を実際に見たのはどこのどなたでしょうか。
〈870〉百日もかけて行く道ではない松浦への道を、今日行って明日は帰って来られるのに何の支障があるのでしょうか。
【説明】
山上憶良が旅人に贈った歌で、次のような内容の手紙が添えられています。――憶良、畏れ謹んで申し上げます。聞くところによると、「郡県の長官なるものは、法の定めにより管内を巡ってその風俗を視察する」ということであります。しかるに、この私は同行できなかったことが無念でならず、心中思うことはあれこれございますが、それを言葉で申すことは困難です。それで、謹んで三首の拙い歌を詠み、五臓の鬱憤を晴らしたいと思います。―― 旅人の管下巡行で松浦の辺を遊覧したことを聞き、何らかの公務のせいで同行できなかったことを大変悔しがっている文面です。憶良は国司として中央から派遣された立場にあったものの、大宰府との関係、とりわけその長官である旅人との間は、一種の扈従(こしょう:貴人への随従)関係に近かったようで、旅人との親密な心の交流が窺えます。
868の「佐用姫」の伝説は、上掲参照。869の「足日女」は、神功皇后のこと。『古事記』に、神功皇后が松浦川(現在の玉島川)で裳の糸を抜いて、飯粒を餌に鮎を釣ったとあり、また『日本書紀』には、新羅国を攻めるにあたり、神功皇后が占いをして吉兆の鮎を手に入れた、という話が書かれています。870の「百日し」の「し」は、強意の助詞。旅人と憶良に神功皇后にかかる歌があるのは、太宰帥や筑前守という役職上、神功皇后を祀る香椎の宮との関係が深かったこと、香椎の宮の造営されて間もなくその祭祀と神功皇后信仰が生き生きと働いていた時期であったこと、また当時、新羅との緊張関係が高まっている時期であったこと等が背景にあると見られています。
巻第5-883
音(おと)に聞き目にはいまだ見ず佐用姫(さよひめ)が領布(ひれ)振りきとふ君(きみ)松浦山(まつらやま) |
【意味】
噂には聞いて目にはまだ見たことがない、佐用姫が領布を振ったという、君待つと言う名の松浦山は。
【説明】
三島王(みしまのおおきみ)は、天武天皇の孫で、舎人皇子(とねりのみこ)の子。この歌は、帰京した旅人から披露された歌(871~875)に和したもののようです。「君松浦山」は、君を待つ意を同音の「松」に続けた序詞の形になっています。
巻第5-876~879
876 天(あま)飛ぶや鳥にもがもや都まで送り申(まを)して飛び帰るもの 877 人もねのうらぶれ居(を)るに龍田山(たつたやま)御馬(みま)近づかば忘らしなむか 878 言ひつつも後(のち)こそ知らめとのしくも寂(さぶ)しけめやも君いまさずして 879 万代(よろづよ)にいましたまひて天(あめ)の下(した)奏(まを)したまはね朝廷(みかど)去らずて |
【意味】
〈876〉空飛ぶ鳥になれたなら、都までお送り申し上げて、飛んで帰ってこれますものを。
〈877〉私たち一同ががっかりしていますのに、龍田山にお馬がさしかかる頃には、私たちのことをお忘れになってしまわれるのでしょうか。
〈878〉お別れの寂しさを今は口先であれこれ申していますが、後になって本当に思い知らされるのでしょう、貴方様がいらっしゃらなくなったら。
〈879〉万年もご健勝でいらして、天下の政(まつりごと)をご立派に司ってくださいませ、朝廷を去られることなく。
【説明】
天平2年(730年)10月、大宰帥として筑紫に赴任していた大伴旅人が大納言に昇進し、平城京に帰任することになり、その送別宴で山上憶良が詠んだ倭歌(やまとうた)4首(作者未詳)です。題詞に「倭歌」とあるのは、当日の宴では漢詩も披露されたので、わざわざ「倭歌」と記しているものと思われます。文人の旅人の送別会らしく、大宰府の書殿(書院または文書館)で行われていますが、見送り歌はずいぶん拗ねた気分で詠まれています。ただ、憶良一人の作ではなく、数人による作とみる説もあります。
876の「天飛ぶや」は「鳥」の枕詞。や」は、感動の助詞。「もがも」は、願望。「もの」は、ものを、の意。877の「人もね」は、語義未詳、あるいは「人みなの」の筑紫の方言か。「うらぶれ」は、憂えしおれて。「龍田山」は、生駒連峰の一峰で、難波から奈良に向かう道がある山。大和を象徴する山であり、西から戻ってくる都人の帰京の目途とされていました。878の「とのしくも」は、語義未詳。879の「天の下奏し」は、天下の政事を奏上しで、政事を執る意の成語。「朝廷去らずて」は、朝廷を離れずに。
窪田空穂は、877について、「旅人が道中無事で、京近くまで行った時の楽しい心持を、想像で具象的に描き出したものである。それをするに、後に残される諸人の深いさみしさを絡ませてやすらかに綜合させているのは、非凡な手腕というべきである。儀礼のもので、一種の題詠であるが、いささかもその匂いを見せていない」と評し、878についても、「旅人が居なくなった後に感じる寂莫の感を思いやることによって、その徳望の高く温情の深かったことを讃えて言っている歌である。きわめて要を得た讃え方であるが、同時にきわめて捉えて言い難い境でもある。それを、その事を感じ合っている官人の雰囲気をとおして言うという、実際に即しての詠み方をしているもので、きわめて手腕の現われている歌である」と評しています。憶良の、上司である旅人との交遊は短い期間であったものの、何物にも換えがたい大切な経験だったのでしょう。この歌の次には、同じ席で詠んだ歌3首(巻第5-880~882)が載っています。
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(大伴旅人)
(聖武天皇)