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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

山上憶良の歌

巻第5-880~882

880
天離(あまざか)る鄙(ひな)に五年(いつとせ)住まひつつ都のてぶり忘らえにけり
881
かくのみや息づき居(を)らむあらたまの来経行(きへゆ)く年の限り知らずて
882
我(あ)が主(ぬし)の御霊(みたま)賜(たま)ひて春さらば奈良の都に召上(めさ)げ給(たま)はね
  

【意味】
〈880〉都から遠い田舎に五年も住み続けて、私は都の風俗もすっかり忘れてしまった。

〈881〉私は、ここ筑紫でこうしてため息をつくばかりなのか。年が改まり去っていくのも知らぬまま。

〈882〉貴方様のご配慮を賜り、春になったら私を奈良の都に召し上げて下さいませ。

【説明】
 天平2年(730年)12月6日、役人としては憚られるが、敢えて自分の思いを述べるという3首です。上司の大伴旅人が大納言に昇進して帰京することとなり、その送別宴で詠まれた作者未詳歌4首(巻第5-876~879)の次に載っているもので、同じ席で詠んだものと見えます。筑前守として赴任して5年が経ち、奈良の都が懐かしい、都に帰りたいと、切実な思いを詠っています。880の「天離る」は「鄙」の枕詞。「てぶり」は、風俗、ならわし。881の「息づき」は、ため息をついて。「あらたまの」は「年」の枕詞。

 地方政治は中央から派遣される守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)が行い、地方に派遣されるパターンは大きく2つに分かれていました。その一つは若いエリート貴族が出世コースの一端として地方民政を体験する場合であり、もう一つはこつこつ勤め上げて60~80代になって最終ポストとして国守に任ぜられる場合です。前者の例が26歳で常陸守として赴任した藤原宇合であり、後者の例が山上憶良にあたります。憶良の年を取ってからの「天離る鄙」への長期の赴任には、なおさら望郷の念をかき立てられたことでしょう。
 
 882は、昇進して帰京する大伴旅人に対し、自分への取り計らいを歎願した歌です。「御霊賜ひて」の「御霊」は、旅人の霊力を指します。直接に期待しているのは旅人の政治的な影響力ですが、それを霊(たま)の作用と見ています。旅人と憶良は官位の差(旅人が正三位中納言・大宰帥、憶良が従五位下筑前守)を越え、こうした遠慮のないやり取りができる関係を築けていたようです。間もなく憶良の願いは叶い、都に帰ることができましたが、その翌年に亡くなってしまいます。

巻第5-886~891

886
うち日さす 宮へ上ると たらちしや 母が手離れ 常(つね)知らぬ 国の奥処(おくか)を 百重山(ももへやま) 越えて過ぎ行き 何時(いつ)しかも 京師(みやこ)を見むと 思ひつつ 語らひ居(を)れど 己(おの)が身し 労(いたは)しければ 玉桙(たまほこ)の 道の隈廻(くまみ)に 草(くさ)手折(たを)り 柴取り敷きて 床じもの うち臥(こ)い伏して 思ひつつ 嘆き臥(ふ)せらく 国に在(あ)らば 父とり見まし 家に在(あ)らば 母とり見まし 世間(よのなか)は かくのみならし 犬(いぬ)じもの 道に臥(ふ)してや 命過ぎなむ
887
たらちしの母が目見ずておほほしく何方(いづち)向きてか吾(あ)が別るらむ
888
常(つね)知らぬ道の長手(ながて)をくれくれと如何(いか)にか行かむ糧米(かりて)は無しに
889
家に在(あ)りて母がとり見ば慰(なぐさ)むる心はあらまし死なば死ぬとも
890
出(い)でて行きし日を数へつつ今日(けふ)今日(けふ)と吾(あ)を待たすらむ父母(ちちはは)らはも
891
一世(ひとよ)にはニ遍(ふたたび)見えぬ父母(ちちはは)を置きてや長く吾(あ)が別れなむ
  

【意味】
〈886〉都へ上ろうと、いとしい母の手を離れ、普通に生活していたら知ることもなかった異郷の奥地へと、多くの山を越えて旅をし、いつになったら都が見られるだろうかと思いながら、皆と語っていたけれど、自分自身が病気で苦しいので、道の曲がり角に草を手折り小枝を取り敷いて、その上に寝床であるかのように倒れ伏し、思いに沈みながら嘆くのは、故郷にいたなら父が看病してくださるだろう、わが家にいたなら母が看病してくださるだろう。世の中はこのようでばかりあるらしい、犬でもないのにまるで犬のように道に倒れ伏して、私の命は絶えていくのか。

〈887〉母の目も見ずに、心は沈み、どちらの方角を向いて、私は別れていくのか。

〈888〉ふだんの生活では知ることもなかった長い道のりを、悲しみに沈みながらどのように進もうか、食べる物もないのに。

〈889〉わが家にいて母が看病してくれたなら心も慰められるだろうに、たとえ死ぬとしても。

〈890〉旅に出てからの日を数えながら、今日は帰るか今日は帰るかと今ごろ私を待っていらっしゃるだろう、父は母は。

〈891〉この世では二度と会うことのできない父母を残し、永遠に私は別れていくのか。

【説明】
 わずか18歳の若さで病に倒れて亡くなった熊凝(くまごり)を悼み、その気持ちを述べた歌6首。序文によれば、

 ―― 大伴君の熊凝は肥後の国、益城(ましき)郡の人である。18歳のときの天平3年6月17日、相撲使(すまいのつかい)の国府の役人某の従者となって奈良の都に向かった。しかし、天命なのか、不幸にも旅の途中で病になり、そのまま安芸の国佐伯郡の高庭(たかはし)の宿駅で亡くなった。臨終のとき、熊凝は長く嘆息をついてこう言った。

「伝え聞くところによると『この世は仮の世だから人の体は滅びやすく、命は水の泡のようにはかなくとどめることが難しい』とのことです。だから多くの聖人や賢者たちは皆この世を去り、だれも残っていません。まして愚かで卑しい者がどうして死から逃れられましょう。ただ、年老いた両親は、共に粗末な家で私の帰りを待ち、約束の日が過ぎても帰らなければ心を痛めて悔やむでしょう。いくら待っても帰らない私に、きっと失明するまで涙を流し続けるでしょう。父が哀れで、母が痛ましい。私ひとりが死出の旅に発つことは辛くありません。ただあとに残った両親が苦しむことが悲しいのです。今日永遠にお別れしたら、次のいつの世でか、お目にかかりたい」。そして歌を6首作って死んだ――。
 
 序文にある「相撲使」は、宮中で七夕に催された相撲節会(すまいのせちえ)のため、諸国から集められた相撲人を引率する官のことで、熊凝はその従者として奈良の都へ向かったのでした。相撲節会は、皇極天皇の元年(642年)に百済の使者をもてなすために宮廷の衛士を集めて相撲を取らせたのが史実としての始まりとされ、聖武天皇の時代の天平6年(734年)7月7日には、豊作を祈る公式行事として相撲節会が行われました。なお、相撲節会の真の目的は国を守る強力な人材を選抜することにあり、健児を連れて来られなかった部領史は罰せられたといいます。
 
 886の「うち日さす」「たらちしや」「玉桙の」は、それぞれ「宮」「母」「道」の枕詞。「奥か」は、奥まった所。「労しければ」は、病気で苦しいので。「床じもの」は、寝床のように。「とり見まし」の「とり見る」は、看病する。「まし」は、反実仮想。「かくのみならし」の「ならし」は「なるらし」の約。887の「たらちしの」は「母」の枕詞。「おほほしく」は、心晴れずに。888の「長手」は、長い道のり。「くれくれと」は、悲しみに沈むさま。889の「心はあらまし」の「まし」は、反実仮想。890の「父母らはも」の「は」「も」は、ともに詠嘆の終助詞。

 行路死人を詠んだ歌は、集中ほかにも例があり、いずれも死者の魂を鎮めるための呪術的な意味をもつ歌となっています。憶良は、そうした歌の伝統の上に立ちながら、さらに死者の内面深くに立ち入り、また、父母への愛執の念を述べています。斎藤茂吉は、888の歌について、「この歌は六首の中で一番優れており、想像で作っても、死して黄泉へ行く現身(げんしん)の姿のようにして詠んでいるのがまことに利いて居る。糧米も持たずに歩くと云ったのも、後代の吾等の心を強く打つものである」と評しています。

大伴君熊凝の歌(大典麻田陽春の作)

巻第5-884~885

884
国(くに)遠き道の長手(ながて)をおほほしく今日(けふ)や過ぎなむ言(こと)どひもなく
885
朝露(あさつゆ)の消(け)やすき我(あ)が身(み)他国(ひとくに)に過ぎかてぬかも親の目を欲(ほ)り
  

【意味】
〈884〉故郷から遠い旅路にあって、恨めしくも今日この命を終えなければならないのか、親たちにお別れを告げることもなく。

〈885〉朝露のようにはかない我が命だけれど、このような他国では死ぬに死にきれない。親に一目会いたい。

【説明】
 臨終の大伴熊凝(おおとものくまごり)の気持ちを、麻田陽春(あさだのやす)が代作した歌。肥後(熊本)から旅立った熊凝は、都へ向かう道半ばの安芸(広島)で亡くなりました。麻田陽春は、天平2、3年ころに大宰府に大典(書記官)として在任し、大伴旅人が上京の際に餞として詠んだ歌など4首を『万葉集』に残しています。
 
 884の「国遠き」の「国」は、熊凝の生国である肥後の国。「長手」は、長い道のり。「おほほしく」は、心晴れずに。「過ぎ」は、死ぬ意。「言どひ」は、言葉をかけること。885の「朝露の」は「消」の枕詞。「過ぎかてぬ」は、死に得ぬ、死ぬに死なれぬ。「親の目を欲り」は、親の顔を見たくて。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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山上憶良の略年譜

701年
第8次遣唐使の少録に任ぜられ、翌年入唐。この時までの冠位は無位
704年
このころ帰朝
714年
正六位下から従五位下に叙爵
716年
伯耆守に任ぜられる
721年
東宮・首皇子(後の聖武天皇)の侍講に任ぜられる
726年
このころ筑前守に任ぜられ、筑紫に赴任
728年
このころまでに太宰帥として赴任した大伴旅人と出逢う
728年
大伴旅人の妻の死去に際し「日本挽歌」を詠む
731年
筑前守の任期を終えて帰京
731年
「貧窮問答歌」を詠む
733年
病没。享年74歳
 

長歌と短歌

長歌は、「5・7・5・7・7」の短歌に対する呼び方で、5音と7音を交互に6句以上並べて最後は7音で結ぶ形の歌です。長歌の後にはふつう、反歌と呼ぶ短歌を一首から数首添え、長歌で歌いきれなかった思いを補足したり、長歌の内容をまとめたりします。

長歌の始まりは、古代の歌謡にあるとみられ、『古事記』や『日本書紀』の中に見られます。多くは5音と7音の句を3回以上繰り返した形式でしたが、次第に5・7音の最後に7音を加えて結ぶ形式に定型化していきました。

『万葉集』の時代になると、柿本人麻呂などによって短歌形式の反歌を付け加えた形式となります。漢詩文に強い人麻呂はその影響を受けつつ、長歌を形式の上でも表現の上でも一挙に完成させました。短歌は日常的に詠まれましたが、長歌は公式な儀式の場で詠まれる場合が多く、人麻呂の力量が大いに発揮できたようです。

人麻呂には約20首の長歌があり、それらは平均約40句と長大です。ただ、長歌は『万葉集』には260余首収められていますが、平安期以降は衰退し、『古今集』ではわずか5首しかありません。
 

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