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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

石上乙麻呂が土佐国に流されし時の歌

巻第6-1019

石上(いそのかみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は た弱女(わやめ)の 惑(まどひ)に依(よ)りて 馬じもの 縄(なわ)取り付け 鹿猪(しし)じもの 弓矢囲みて 大君(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み 天(あま)離(ざか)る 夷辺(ひなべ)に退(まか)る 古衣(ふるごろも) 又打(まつち)の山ゆ 還(かへ)り来(こ)ぬかも 

【意味】
 石上の布留の君は、美しい女性への惑いによって、まるで馬のように縄をくくりつけられ、獣のように弓矢に囲まれて、天皇のご命令で遠い辺地へ流されていく。古い衣を打つ待乳山(まつちやま)から旅立って、もう帰ってはこないだろう。

【説明】
 天平11年(739年)3月、石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)が、服喪中の未亡人と恋に陥り、天皇の怒りに触れ、土佐に配流された時の歌です。「石上布留の尊」は、石上乙麻呂を地名によって呼び換えた尊称。「石上」は、奈良県天理市石上町で、石上氏は代々この地に住んでいました。「布留」は、石上の内の小字。「古衣」は「又打山」の枕詞。「又打山」は、奈良県五條市にある待乳山(まつちやま)。
 
 石上乙麻呂は、聖武天皇代の官人で、左大弁などの要職に任ぜられ、急速に昇進を重ねていましたが、故・藤原宇合の室・久米若売(くめのわかめ)と、まだ夫の喪が明けぬうちに姦通した罪により、土佐に流されました。宇合は天平9年に天然痘で亡くなり、乙麿が処罰されたのが天平11年ですから、通常1年であるはずの服喪期間がより長くなっていたとみられます。また、処罰の内容が厳しすぎるのは、時の権臣の藤原百川(宇合の子)や、藤原氏出身の皇后にとって好ましからぬことだったために勅勘を蒙ったもの、あるいは、藤原4兄弟没後に台頭してきた橘諸兄との政争が背後にあったともいわれます。

 この時、久米若売も同じ罪で下総国に配流され、翌年の大赦によって帰京を許されましたが、乙麻呂は赦免されませんでした。その翌年にも恭仁遷都に伴う大規模な大赦があり、すべての流人が許されましたから、乙麻呂もこの時に帰京できたようです。その後、天平15年(743年)には従四位上に昇叙され、翌年、西海道巡察使に。また天平18年(746年)正月に、大唐使の任命があり、この時大使を拝命しましたが、計画は結局中止されました。さらに常陸守・右大弁を経て、従三位に叙され、参議にも就任。孝謙天皇が即位すると中納言に昇進しましたが、翌年に死去しました。
 
 この歌は、土佐に流される乙麻呂を見送る人が作った体になっていますが、作者は乙麻呂自身とされます。未亡人と関係を結んだだけの大事とはいえない事件でしたから、乙麻呂としては心中穏やかではなかったようです。そのため、自身の言としては直に言い難い気持ちをが何らの形で表したいと思い、乙麻呂を「石上布留の尊」という尊称をもって呼ぶ庶民の気持ちとして詠んだものとされます。

巻第6-1020・1021

大君(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み さし並ぶ 国に出でますや わが背の君を 懸(か)けまくも ゆゆし恐(かしこ)し 住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとがみ) 船の舳(へ)に 領(うしは)き給ひ 着き給はむ 島の崎崎(さきざき) 寄り賜はむ 磯の崎崎 荒き波 風に偶(あ)はせず 恙(つつみ)無く 病(やまひ)あらせず 急(すむや)けく 還(かえ)し賜はね 本(もと)の国辺(くにへ)に 

【意味】
 天皇のご命令を謹んでお受けし、隣り合わせの土佐の国へとお出かけになるのか、わが背の君、口にするのも恐れ多い住吉の現人神さま、どうか船の舳先に鎮座なさり、お寄りになる島の岬々や磯の岬々では、荒い波に遭わせず、恙無く病気をすることもなく、すぐにもお帰しください、元のこの大和の国に。

【説明】
 土佐路すなわち紀伊国から土佐国へ船出する地に護送される時に、乙麻呂を「わが背の君」と呼ぶ身分の低い人の心で詠んだ歌、あるいは久米若売が詠んだ形をとっています。航海中の無事を住吉の神に祈り、あわせて、病気をすることなく、早く赦免になることまでも祈っています。

 「さし並ぶ」は、きちんと並ぶ。「懸けまく」は、言葉に出して言うこと。「住吉の現人神」は、海神を祀り航海の安全を守る大阪市の住吉神社。「領き給ひ」は、支配なさって、領有なさって。「恙無く」は、つつがなく、無事に。「還し賜はね」の「ね」は、願望。

 なお、この歌には、1首の長歌でありながら1020・1021の番号が振られていますが、古くは最初の5句「わが背の君を」までを独立した1首の短歌としており、『国歌大観』編者もそれを踏襲し2首に計算したためだとされます。本居宣長がこれを1首の歌として続け、以来、今の形になっています。

巻第6-1022~1023

1022
父君(ちちぎみ)に 我(われ)は愛子(まなご)ぞ 母刀自(ははとじ)に 我(われ)は愛子(まなご)ぞ 参上(まゐのぼ)る 八十氏人(やそうぢびと)の 手向(たむけ)する 恐(かしこ)の坂に 弊(ぬさ)奉(まつ)り 我(われ)はぞ追へる 遠き土左道(とさぢ)を
1023
大崎(おほさき)の神の小浜(をばま)は狭(せま)けども百舟人(ももふなびと)も過(す)ぐと言はなくに
 

【意味】
〈1022〉私は、父君にとってかけがえのない子だ。母君にとってはかけがえのない子だ。それなのに、都に参上するもろもろの官人たちが、手向けをしては越えて行く恐ろしい国境の坂に、幣を捧げて無事を祈りながら、私は進まねばならぬ。遠い土佐の国への道を。
 
〈1023〉ここ大崎の浜は狭い所だけれど、どんな舟人も楽しんで、素通りしていく人などいないのに、この私は配流の身なので、素通りしていかなくてはいけない。

【説明】
 土佐路すなわち紀伊国から土佐国へ船出する地に護送される時に、乙麻呂自身が本人の立場で作った歌とされます。1022の「刀自」は、主婦に対する敬称。「八十氏人」の「八十」は、多数を具象的にいったもの。「手向」は、神仏に幣帛や花、香などを供えること。「幣」は、神に祈るときに捧げるもの。1023の「大崎」は、和歌山県海南市下津町大崎。「神の小浜」は、大崎付近の地。

 1019から1023までの歌は、「土佐の国に配(なが)さゆる時の歌3首併せて短歌」と題して一続きのものとしてあり、都→紀伊→土佐の道順に従って物語風に仕立てられています。一方で、これらの歌は乙麻呂の作ではなく、すべて第三者が詠んだものとする見方もあります。

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右大臣橘家で宴する歌

巻第6-1024~1027

1024
長門(ながと)なる沖つ借島(かりしま)奥(おく)まへて我(あ)が思ふ君は千年(ちとせ)にもがも
1025
奥(おく)まへて我(わ)れを思へる我(わ)が背子(せこ)は千年(ちとせ)五百年(いほとせ)ありこせぬかも
1026
ももしきの大宮人(おほみやひと)は今日(けふ)もかも暇(いとま)をなみと里に行かずあらむ
1027
橘(たちばな)の本(もと)に道(みち)踏(ふ)む八衢(やちまた)に物をぞ思ふ人に知らえず
 

【意味】
〈1024〉私の任国、長門にある沖の借島のように、心奥深く思い慕っているあなた様は、千年先までご健勝であられますように。
 
〈1025〉心の奥深くに私を思っていて下さるあなたこそ、五百年も千年もご健勝でいて下さらないでしょうか。

〈1026〉帝にお仕えする方々は、今日もまた忙しくて暇なく、都の外に出ることもなく勤めに励んでおられるのでしょうか。

〈1027〉橘の並木の下を歩んでいく多くの分かれ道のように、あれやこれやと思い悩んでいます。この思いをあの人に知ってもらえずに。

【説明】
 天平10年(738年)秋の8月20日に、右大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)邸で宴(うたげ)する歌。橘諸兄は、もとは敏達天皇の後裔にあたる葛城王(かづらきのおおきみ)でしたが、臣籍降下して橘姓を名乗るようになり、この年の1月に右大臣に就任しました。この宴は、長門国から上京した客人を迎えて開かれたものですが、なぜ一介の地方役人が右大臣に招かれたのか定かではありません。
 
 1024は、長門守の巨曽倍対馬朝臣(こそべのつしまあそみ)の歌。当日の客人は4名、長門守の官位はその中では最下位でした。「長門」は、山口県北西部。「沖つ借島」は、下関市の蓋井(ふたおい)島か。上2句が「奥まへて」を導く序詞。「もがも」は、願望。1025は、右大臣諸兄が答えた歌。「ありこせぬかも」は、そうあってほしいという強い願望。遠来の長門守を温かく迎えており、何らかの縁故があったとみえます。

 1026は、右大臣が「亡き豊島采女の歌である」と伝えて詠んだ歌。豊島采女は豊島出身の采女とされますが伝未詳。采女は天皇の近くに仕えた地方豪族の娘で、容姿端麗な女性が選ばれました。「ももしきの」は「大宮」の枕詞。「暇をなみ」は、暇がないので。
 
 1027は、左注に次のような記載があります。「右の歌は、右大弁の高橋安麻呂卿(たかはしのやすまろきょう)が語って、『亡き豊島采女の作である』と言った。ただし或る本には、『三方沙弥(みかたのさみ)が妻の苑臣(そののおみ)を恋い慕って作った歌である』という。すると豊島采女は、その時その場でこの歌を口吟(うた)ったのだろうか」。1026の歌を右大臣が豊島采女の歌として披露し話題にしたことで、安麻呂もまた同じく豊島采女がよく口ずさんでいたこの歌を披露したのだと思われます。上3句が「物をぞ思ふ」を導く序詞。「橘」は、都大路の街路樹として植えられていたもの。「八衢」は道が四方八方に分かれているところ。

 なお、同じ宴席で詠まれた歌が1574~1580に載っています。

巻第8-1574~1575

1574
雲の上に鳴くなる雁(かり)の遠けども君に逢はむとた廻(もとほ)り来(き)つ
1575
雲の上に鳴きつる雁(かり)の寒きなへ萩(はぎ)の下葉(したば)はもみちぬるかも
 

【意味】
〈1574〉雲の上で鳴いている雁のように、遠いところに住んでいる私ですが、あなた様にお会いしたいと、巡り巡ってやって参りました。

〈1575〉雲の上で鳴いている雁の声が寒々と聞こえますが、折も折、この庭の萩の下葉はすっかり色づいていますね。

【説明】
 作者名は記されていませんが、1574が主賓である高橋安麻呂の挨拶の歌で、1575が宴の主人の諸兄が答えた歌ではないかとされます。1574の「廻り」は、あちこち巡って。宴が行われたのは、諸兄の別邸で、奈良京から離れた井手(京都府綴喜郡)にありました。川に面しており、その水を導き入れた庭園は花で埋め尽くされていたといいます。1575の「なへ」は、とともに、につれて。

巻第8-1576~1580

1576
この岡に小鹿(をしか)踏(ふ)み起(おこ)しうかねらひかもかもすらく君(きみ)故(ゆゑ)にこそ
1577
秋の野の尾花(をばな)が末(うれ)を押しなべて来(こ)しくもしるく逢へる君かも
1578
今朝(けさ)鳴きて行きし雁(かり)が音(ね)寒(さむ)みかもこの野の浅茅(あさぢ)色づきにける
1579
朝戸(あさと)開けて物思(ものも)ふ時に白露の置ける秋萩(あきはぎ)見えつつもとな
1580
さを鹿(しか)の来(き)立ち鳴く野の秋萩(あきはぎ)は露霜(つゆしも)負(お)ひて散りにしものを
 

【意味】
〈1576〉この岡で鹿を追い立てて狙うように、あれこれ心を尽くすのは、あなた様を思ってのことです。
 
〈1577〉秋の野のススキの穂先を押し伏せてやってきた甲斐があって、あなた様にお会いできました。

〈1578〉今朝鳴いて飛んでいった雁の鳴き声が寒々としていたせいか、この野の浅茅も色づいてきました。

〈1579〉朝の戸を開けて物思う時、白露が降りた萩の美しくあわれな風情が目について仕方がありません。

〈1580〉雄鹿がやって来てしきりに鳴いている野の萩は、露霜を浴びてすっかり散ってしまったではありませんか。

【説明】
 1576は、長門国守の巨曽倍対馬朝臣の歌。「うかねらひ」は、窺い狙い。「かもかも」は、あれこれ、とにもかくにも。「すらく」は「する」の名詞形。1577・1578は、阿倍朝臣虫麻呂(あべのあそみむしまろ)の歌。1578の「寒みかも」は、寒いせいか。「かも」は、疑問。1579・1580は、文忌寸馬養(ふみのいみきうまかい)の歌。2首とも、宴席での歌ではなく、邸で一夜を明かしての朝の歌です。当時の宴が夜を徹して行うものとされたのは、宴は神祭りを起源とし、神の時間は夜とされたからです。1579の「もとな」は、わけもなく、しきりに。

 宴には原則として主人と正客(主賓)とがあり、他の客は正客のいわばお相伴にあずかるような形で行われました。またその次第も、最初に主人が挨拶の言葉を述べ、正客が招待への謝意をあらわす。酒杯を取り交わす際にも、各人の挨拶が求められる。宴が果てると、もてなしへの礼と辞去の言葉が正客から、また引き留めの言葉が主人から述べられる。さらに、そうした挨拶には、歌を伴う、というものでした。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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万葉時代の年号

大化
 645~650年
白雉
 650~654年
 朱鳥まで年号なし
朱鳥
 686年
 大宝まで年号なし
大宝
 701~704年
慶雲
 704~708年
和銅
 708~715年
霊亀
 715~717年
養老
 717~724年
神亀
 724~729年
天平
 729~749年
天平感宝
 749年
天平勝宝
 749~757年
天平宝字
 757~765年

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国司について

 国司(こくし、くにのつかさ)は、令制により、地方行政単位である国を支配する行政官として中央から派遣された官吏のことです。四等官からなる守(かみ:長官)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)を指し、その下に書記や雑務を担う史生(ししょう)がいました。国を大・上・中・下の4等級として、それに応じた一定数の国司をおいたとされます。大国、上国の守は、中央では中級貴族に位置しました。

 任期は6年(のちに4年)で、国衙(政庁)において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、赴任した国内では絶大な権限を与えられました。国司たちは、その国内の各郡の官吏(郡司)へ指示を行ないました。郡司は中央官僚ではなく、在地の有力者、いわゆる旧豪族が任命されました。その郡司の業務監査や、農民への勧農などの業務を果たすため、責任者である守は、毎年1回国内の各郡を視察する義務がありました。これを部内巡行といいます。

 国司は、家族を連れて任国に赴くことが認められていました。また、公務の都合などで在任中もたびたび上京しており、在任中ずっと帰京できなかったわけではありません。


(再現された国司の姿)

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