巻第6-1009
橘(たちばな)は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜(しも)降れどいや常葉(とこは)の木 |
【意味】
橘という木は、実も花もその葉さえも、冬、枝に霜が降っても枯れることのない常緑の樹である。
【説明】
天平8年(736年)11月、葛城王(かずらきのおおきみ=橘諸兄)らが、姓(かばね)と母方の橘の氏(うじ)を賜わったときの聖武天皇の御製歌。左注には「このとき、太上天皇(
元正天皇)、聖武天皇、皇后(光明皇后)が共に皇后宮においでになり、宴を催されて橘を祝う歌をお作りになり、併せて橘宿祢らに御酒を賜った」旨の記載があります。
橘の木そのものを讃えることによって一族を祝おうとする意をあらわされた御製で、その強さを表すため、「さへ」を3度も繰り返して誇張しています。この時の諸兄は53歳。これ以後、最高権力者へとかけのぼる出発を記念する歌として載せられています。「橘」は、当時きわめて賞美された木で、『日本書紀』には、垂仁天皇の御代に、田道間守が詔に従い常世の国から持ち帰ったという伝えがあります。
天皇の仰せに対し、諸兄の子の奈良麻呂が答えた歌が次にあります。
〈1010〉奥山の真木(まき)の葉しのぎ降る雪のふりは増(ま)すとも地(つち)に落ちめやも
・・・奥山の真木の葉を押し伏せるように降る雪が、いっそう降りしきるとも、橘の実が地に落ちることがありましょうか(橘家が長く続いて古い家柄となっても、決して家の名を貶めるようなことはありません)。
「真木」は、杉や檜などの良質の木。「しのぎ」は、押し伏せて。「ふり」は「降り」と「古り」を掛けています。「落ちめやも」の「やも」は、反語。奈良麻呂はこの時15、6歳であるにも関らず堂々たる歌いぶりであるため、実際は諸兄が作った歌ではないかとする見方もあります。この翌年、疫病(天然痘)の大流行によって藤原四兄弟が相次いで亡くなり、諸兄が政権を握ることになります。
巻第6-1030
妹(いも)に恋ひ吾(あが)の松原(まつばら)見渡せば潮干(しほひ)の潟(かた)に鶴(たづ)鳴き渡る |
【意味】
妻が恋しくなって吾の松原を見渡していると、潮の引いた干潟に鶴たちが鳴き渡っていくのが見える。
【説明】
「妹に恋ひ」は「吾の松原」の枕詞。逢う日を待つ意。「吾の松原」は、伊勢国三重郡にあった松原で、今の四日市市辺りではないかとされます。『新古今和歌集』での題詞には「天平12年(740年)10月、伊勢国に行幸し給ひける時、聖武天皇御製歌」とあり、光明皇后のことを想って詠んだとされます。
この年の8月、太宰少弐の藤原広嗣が、政界で急速に発言権を増す唐帰りの僧正玄昉と吉備真備を排斥するよう朝廷に上表しましたが、受容れられず、9月に筑紫で反乱を起こす事件が起きました。10月、都に異変が勃発するのを恐れた聖武天皇は避難のため東国へ出発し、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に入り、12月15日に恭仁宮へ行幸、そこで新都の造営を始めたのでした。
巻第8-1539~1540
1539 秋の田の穂田(ほた)を雁(かり)がね闇(くら)けくに夜(よ)のほどろにも鳴き渡るかも 1540 今朝(けさ)の朝明(あさけ)雁(かり)が音(ね)寒く聞きしなへ野辺(のへ)の浅茅(あさぢ)ぞ色づきにける |
【意味】
〈1539〉穂の出た秋の田を、雁がまだ夜の明けきらない暗いなかを鳴き渡っていくよ。
〈1540〉今朝の明け方、雁の鳴く声が寒々と聞えたが、それと時を同じくして野辺の浅茅は色づいたことだ。
【説明】
1539の「秋の田の穂田を」は「雁」を導く序詞。「穂田」は、稲の穂となった田。「雁がね」は雁で、「刈り」と「雁」を掛けています。「夜のほどろ」は、夜の闇が白み始めるころ。1540の「朝明」は朝明けの約で、明け方、早朝。「雁が音」は、雁の声。「聞きしなへ」の「なへ」は、とともに、と同時に。「ける」は「ぞ」の結。窪田空穂は、「上の作とともに、詩情の豊かな、気品ある御製である」と評しています。
巻第8-1638
あをによし奈良(なら)の山なる黒木もち造れる室(むろ)は座(ま)せど飽(あ)かぬかも |
【意味】
奈良の山にある黒木で造ったこの室は、いつまで居ても飽きることがない。
【説明】
左大臣・長屋王(ながやのおおきみ)の邸で酒宴があった時に、聖武天皇が詠んだ儀礼の歌。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「奈良の山なる」は、奈良山にある。長屋王の邸は佐保にあったので、奈良山が最も近い山でした。「黒木」は、皮を剥いでいない材木。「座せど」と自敬表現になっているので、代作ではないかとの見方もありますが、天皇が自身に対して敬語を用いる例はあります。
長屋王は高市皇子の長男で、天武天皇の孫にあたります。元明・元正天皇に重用され、藤原不比等が没した後に右大臣に、また、聖武天皇が即位すると、正二位左大臣に昇任しました。美しい自邸を造っていた長屋王ですが、この後しばらくして藤原四兄弟との政争に敗れ、自害して果てることになります(長屋王の変)。
巻第19-4269
よそのみに見ればありしを今日(けふ)見ては年に忘れず思ほえむかも |
【意味】
遠目にばかり見ているだけのあなたの宅であったが、今日こうして見てからは、一年中忘れずに思われることであろう。
【説明】
天平勝宝4年(752年)11月8日、太上天皇(聖武天皇)が、左大臣橘朝臣(橘諸兄)の宅に行幸し宴をなさった時の歌。「見ればありしを」は、見ているだけだったらともかく。ただし「見れば」の原文「見者」で、「見ては」あるいは「見乍」の誤記だとして「見つつ」と訓むものもあります。「年に」は、毎年。「思ほえむかも」は、思われることであろう。君臣の親しい関係が窺える御製であり、この次に諸兄がお返しした歌が載っています。
〈4270〉葎(むぐら)延(は)ふ賎(いや)しき宿(やど)も大君(おほきみ)の座(ま)さむと知らば玉(たま)敷(し)かましを
・・・葎がはびこるむさ苦しい庭でございますが、大君がおでましになると分かっていたら、玉を敷いておくのでしたのに。
「葎」は、山野や路傍に生えるつる草の総称。「玉」は、美しい小石。また、この宴に少納言として列席した大伴家持の歌が4272に載っています(但し奏上しなかった、とあります)。
〈4272〉天地(あめつち)に足(た)らはし照りて我(わ)が大君(おほきみ)敷(し)きませばかも楽しき小里(をさと)
・・・天地をあまねく照らし、わが大君が治めていらっしゃるからか、この里も楽しく平穏であることです。
なお、家持のこの歌に対し、窪田空穂は次のように述べています。「皇威をたたえることで終始している歌である。結句『楽しき小里』も、皇威をこうむってのことではあるが、この句には行幸を忝くした諸兄に対するよろこびがあり、また肆宴に列し得た家持自身のよろこびもあるのであるが、それらは極めて隠約な言い方になっている。このような詠み方をしているのは、その場合としては、自身の地位の低い遠慮から、これ以上の言い方はできなかったものと思われる。すなわち自身を引き下げて距離を置いて、おおらかな言い方をするより他はなかったと思われる。左注の『いまだ奏さず』とあるのも、遠慮よりのことと思われる。その意味では地位にふさわしい心を、豊かな形において詠み得ている歌である」
巻第8-1614~1615
1614 九月(ながつき)のその初雁(はつかり)の使(つかひ)にも思ふ心は聞こえ来(こ)ぬかも 1615 大(おほ)の浦(うら)のその長浜(ながはま)に寄する波ゆたけく君を思ふこのころ |
【意味】
〈1614〉九月にやって来る初雁の使いでなりとも、大君が私を思って下さる心は聞こえてこないものでしょうか。
〈1615〉大の浦のその長浜に打ち寄せる波のように、心ゆったりとあなたのことを思っているこのころです。
【説明】
1614は、遠江守の桜井王(さくらいのおおきみ)が聖武天皇に奉った歌、1615は、聖武天皇がお答えになった歌。遠江は静岡県西部。琵琶湖を近江とするのに対し、かつて淡水湖だった浜名湖を遠江としています。桜井王は、長皇子の孫で、天平3年(731年)に従四位下。遠江守、大蔵卿などを歴任、「風流侍従」の一人として活躍。同11年(739年)に兄弟の高安王、門部王らと共に大原真人姓を賜与され臣籍降下しました。『万葉集』には2首。
1614は、秋になり、京から何らかの人事発令があるのではと心待ちにしている気持ちを「九月のその初雁の使にも」と言い換えています。おそらく地方官から京の中央官への召し上げを望んでのもので、当時の君臣間の、雅ながらも親密なありようが窺われます。また「初雁の使」は、前漢の蘇武が匈奴に使いして囚われの身となった時、雁の足に文を托して故国に送ったという故事を踏まえています。これに対して天皇の御歌は、言葉少なにも含みのある高貴な物言いになっています。
1614の「ぬかも」は、願望。1615の「大の浦」は「遠江国の海浜の名なり」との注記があり、静岡県磐田市付近にあった湖とされます。上3句は「ゆたけく」を導く序詞。「ゆたけく」は、ゆったりと。なお、「ゆたけく(原文:寛公)」を「君」にかかる「ゆたけき」と訓んで、ゆったりとしているあなたを、と解釈し、桜井王の風格を愛でたものとする説もあります。しかし、恨み言を言ってきた相手に対し「ゆたけき君」と言うよりは、天皇らしく心ゆったりと思っているとした方がよいように思いますが、いかがでしょう。
巻第8-1650
池の辺(へ)の松の末葉(うらば)に降る雪は五百重(いほへ)降り敷け明日(あす)さへも見む |
【意味】
池のほとりの松の梢の葉に降る雪よ、幾重にも幾重にも降り積もれ。明日もまた見ようものを。
【説明】
作者未詳ながら、左注に「竪子(じゅし)の阿倍朝臣虫麻呂(あへのあそみむしまろ)が伝誦した」歌とあります。竪子は、宮中で雑務にあたる少年のこと。ただし、阿倍虫麻呂は天平9年12月に従五位下に昇った人なので、竪子という称は不適当とされています。「西の池」は、平城京の内裏にあった池。「末葉」は、梢にある葉。「五百重」は、幾重にも。「降り敷く」は、一面にむらなく降る。
聖武天皇
文武天皇の皇子で、母は藤原不比等の娘宮子です。和銅7年(714年)に立太子し、神亀元年(724年)、伯母の元正天皇より譲位されて即位しました。たびたび吉野や難波への行幸を行ない、山部赤人や笠金村らにに歌を奉らせています。
天平9年(737年)に流行した疫病で藤原四卿を失うと、橘諸兄を大納言に任じ、唐から帰国した玄昉・吉備真備らを重用して政治改革に着手しました。
しかし同12年9月、筑紫で藤原広嗣の乱が起こると、急遽関東に行幸、そのまま平城京に帰ることなく、同年末、山背国恭仁に遷都。翌年国分寺建立の詔を発布。同15年、墾田永年私財法の詔を発布。その後も難波・紫香楽と遷都を繰り返しますが、結局天平17年、平城京に還都しました。
行基らの協力を得て東大寺の大仏造営を始め、天平勝宝4年(752年)4月9日、開眼供養会を挙行しました。天平勝宝8年(756年)に56歳で崩御。古代律令制の成熟期に君臨した天皇として絶大な権威を有し、死後も偉大な聖王として官人・僧侶・民衆の崇敬を集めました。『万葉集』に11首の歌を残し、天皇としては最多。
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律令政治の展開
律令国家は、大化の改新から50余年にわたる経験をいかし、公地公民の制度を実現しようとしました。全国の耕地が区分けされ、6年ごとに戸籍が改められ、6歳以上の男女に口分田が与えられました。口分田は一生の間、耕作を認められましたが、売買は禁止され、死後は国家に返す決まりになっていましたた(班田収授法)。
口分田を支給された公民は、租・調・庸という税を課されました。税の内容はかなり厳しいものでしたが、多数の農民に一様に田地を分け与え、豪族の任意とされていたまちまちの税額を全国的に一律に定めたことは、国民にとって公正の前進を意味していました。
ただし、公民(良民)と賤民との区別があり、人口の1割弱だった賤民は差別されていました。とくに賤民のうち奴婢(ぬひ)とよばれる人々は、所有者の財産として扱われたのです。
政治については、中央の役人が国司として地方に派遣され、そのもとで地方の豪族が郡司として起用されました。中央と地方を結ぶ主要道路には駅が設けられ、役人が乗り継ぐ馬が用意されていました。
奈良時代の日本の人口は約600万人で、そのうち平城京の人口は約10万人、官僚が約1万人いて、うち貴族は200人ほどだったといいます。
聖武天皇の治世(724~749年)になると、疫病や天災が頻繁に起こり、土地を離れ逃亡する農民も増えてきました。朝廷は、開墾を奨励し、それまで国の統治が及ばなかった未墾地も規制するために、743年、墾田永年私財法を出して、新しく開墾した土地の私有を認めました。この法律は人々の開墾への意欲をかきたて、水田の拡大につながりました。
しかし、有力な貴族や寺院、地方豪族などが逃亡農民などを使って私有地を拡大したため、班田収授法はしだいに厳格には行われなくなりました。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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(聖武天皇)
(藤原不比等)
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