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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌

巻第6-1047~1049

1047
やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ)の 高敷(たかし)かす 大和の国は 皇祖(すめろき)の 神の御代(みよ)より 敷きませる 国にしあれば 生(あ)れまさむ 御子(みこ)の継(つ)ぎ継ぎ 天(あめ)の下 知らしまさむと 八百万(やほよろづ) 千年(ちとせ)をかねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山(かすがやま) 三笠の野辺(のへ)に 桜花(さくらばな) 木(こ)の暗(くれ)隠(がく)り 貌鳥(かほとり)は 間(ま)なくしば鳴き 露霜(つゆしも)の 秋さり来れば 生駒山(いこまやま) 飛火(とぶひ)が岳(たけ)に 萩の枝(え)を しがらみ散らし さを鹿(しか)は 妻呼び響(とよ)む 山見れば 山も見が欲(ほ)し 里見れば 里も住み良し もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)の うちはへて 思へりしくは 天地(あめつち)の 寄り合ひの極(きは)み 万代(よろづよ)に 栄え行かむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代(あらたよ)の 事にしあれば 大君の 引きのまにまに 春花(はるはな)の 移ろひ変り 群鳥(むらとり)の 朝立(あさだ)ち行けば さす竹の 大宮人(おほみやびと)の 踏みならし 通(かよ)ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも
1048
立ちかはり古き都となりぬれば道の芝草(しばくさ)長く生(お)ひにけり
1049
馴(な)つきにし奈良の都の荒れゆけば出(い)で立つごとに嘆きし増さる

  

【意味】
〈1047〉われらの大君が治めていらっしゃる大和の国は、皇祖の神の御代よりずっとお治めになっている国であるから、お生まれになる代々の御子が次々にお治めになるべきものとして、千年にも万年にもわたる都として定められたこの奈良の都は、かげろうの立つ春ともなれば、春日山や三笠の野辺に桜の花が咲き、その木陰でカッコウが絶え間なく鳴く。露霜の降りる秋ともなれば、生駒山の飛火が岳で、萩の枝をからませ散らして、牡鹿が妻を呼んで鳴き立てる。山を見れば見飽きることがなく、里は里で住み心地がよい。大宮人たちもずっと心に思っていたことは、天地の果ての先まで、万代の後までずっと栄え続けるだろうと頼みにしていた奈良の都。新しい御代になったということで、大君の仰せのままに、春の花々が移り変わるように都を遷され、群れ鳥が朝にいっせいに飛び立つように大宮人たちは立ち去っていった。今まで大宮人たちが踏みならして通っていた道は馬も人も通わなくなり、すっかり荒れ果ててしまった。
 
〈1048〉あんなに繁栄していた昔とかわって、今は故京となってしまったので、道の雑草もこんなに長く生い茂っている。
 
〈1049〉馴れ親しんだ奈良の都が荒れていくので、外に出て見るたびに嘆きがつのることだ。

【説明】
 「奈良の故郷を悲しびて作る歌」。天平12年(740年)12月、聖武天皇は京都南部・木津川あたりに恭仁宮(久邇宮)の造営に着手、和銅3年から30年余り続いた平城の都からの、唐突な遷都でした。その理由は諸説あり、大仏建立のための適地を求めた天皇の意思と、自らの勢力圏に都を移したい右大臣・橘諸兄の思惑が一致したからともいわれます。計画では平城京をしのぐ大規模な京域を設定していたようですが、途中で中止されました。
 
 田辺福麻呂(たなべのさきまろ)は『万葉集』末期の官吏で、天平 20年 (748年) に橘諸兄の使いとして越中国におもむき、国守の大伴家持らと遊宴し作歌しています。そのほか恭仁京、難波京を往来しての作歌や、東国での作もあります。柿本人麻呂や山部赤人の流れを継承するいわゆる「宮廷歌人」的な立場にあったかとされますが、橘諸兄の勢力退潮と呼応するかのように福麻呂の宮廷歌は見られなくなっています。『万葉集』に44首の歌を残しており、そのうち「田辺福麻呂の歌集に出づ」とある歌も、用字や作風などから福麻呂の作と見られています。
 
 1047の「やすみしし」「かぎろひの」「露霜の」「春花の」「群鳥の」「さす竹の」は枕詞。「高敷かす」は、立派に統治なさる意。「貌鳥」は、未詳ながらカッコウではないかとされます。「しば鳴き」の「しば」は、しきりに。「生駒山」は、奈良県生駒市と大阪府東大阪市の間にある山。「飛火が岳」は、合図のための烽火台がある峰で、ここでは春日山の麓、飛火野と呼ばれるあたり。「八十伴の男」は、朝廷に仕える多くの役人の意。「うちはへて」は、ずっと続けて。1049の「なつきにし」は、馴れ親しんだ。「嘆きし」の「し」は、強意。

巻第6-1050~1052

1050
現(あき)つ神 我(わ)が大君(おほきみ)の 天(あめ)の下 八島(やしま)の(うち)に 国はしも さはにあれども 里はしも さはにあれども 山並(やまなみ)の 宜(よろ)しき国と 川なみの 立ち合ふ里と 山背(やましろ)の 鹿背山(かせやま)のまに 宮柱(みやばしら) 太敷(ふとし)き奉(まつ)り 高知(たかし)らす 布当(ふたぎ)の宮は 川近み 瀬の音(おと)ぞ清き 山近み 鳥が音(ね)響(とよ)む 秋されば 山もとどろに さを鹿(しか)は 妻呼び響(とよ)め 春されば 岡辺(おかへ)も繁(しじ)に 巌(いはほ)には 花咲きををり あなおもしろ 布当(ふたぎ)の原 いと貴(たふと) 大宮所(おほみやどころ) うべしこそ 我(わ)が大君(おほきみ)は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮ここと 定めけらしも
1051
三香(みか)の原(はら)布当(ふたぎ)の野辺(のへ)を清みこそ大宮所さだめけらしも
1052
山高く川の瀬(せ)清(きよ)し百世(ももよ)まで神(かむ)しみ行かむ大宮所
   

【意味】
〈1050〉現人神でいらっしゃるわれらが大君が治めていらっしゃる天の大八島国の中には、多くの国々や多くの里がある。中でも山並みがよろしく、川の流れが集まってくる里とて、山城の鹿背山のふもとに、高々と立派な宮柱を立てられてお作りになった布当の宮は、川が近くて瀬の音が清らかであり、山が近くて鳥の鳴き声が響き渡る。秋になると、山もとどろくばかりに牡鹿が妻を呼び求めて鳴き叫び、春になると、岡の周辺いっぱいに、岩と岩の間に花々が咲き乱れる。なんとすばらしい、布当の原は本当に貴い、この大宮所の地は。だからこそ、われらの大君は臣下からお聞きになって、輝く大宮をここと決められたのだろう。
 
〈1051〉三香の原の布当の野辺が清らかだからこそ、ここを大宮の地とお定めになったのだろう。

〈1052〉山は高く、川の瀬は清らかで、百年の後までも神々しく栄えていくだろう、この大宮所よ。

【説明】
 「久邇(くに)の新京を讃(ほ)むる歌」。恭仁宮(久邇宮)は、天平13年(741年)の9月に左京右京が定められ、11月には「大養徳恭仁大宮」という正式名称が決定されました。平城京から大極殿を移築し、大宮垣や宮殿を造り、条坊地割りも行われ、木津川には大きな橋が架けられました。しかし、都としては完成しないまま天平15年(743年)の末にはこの京の造営は中止されました。
 
 1050の「現つ神」は、現世に姿を現している神で、天皇の尊称。「八島」は、日本の異名。「山背」は、京都府南部。「鹿背山」は、京都府木津市にある山。「布当の宮」は、恭仁京の宮殿。「繁に」は、いっぱいに。「ををり」は、枝がたわむほどに咲いて。「うべしこそ」は、だからこそ、もっともなことに。「さす竹の」は「大宮」の枕詞。1051の「三香の原」は、京都府木津川市加茂町とその周辺の瓶原(みかのはら)盆地。1052の「神しみ」は「神さぶ」と同意の語とされます。神々しくなって。

巻第6-1059~1061

1059
三香原(みかのはら) 久邇(くに)の都は 山高く 川の瀬清み 住み良しと 人は言へども あり良しと 我(わ)れは思へど 古(ふ)りにし 里にしあれば 国見れど 人も通はず 里見れば 家も荒れたり はしけやし かくありけるか 三諸(みもろ)つく 鹿背山(かせやま)の際(ま)に 咲く花の 色めづらしく 百鳥(ももとり)の 声なつかしき ありが欲(ほ)し 住みよき里の 荒るらく惜(を)しも
1060
三香(みか)の原(はら)久邇(くに)の京(みやこ)は荒れにけり大宮人(おほみやひと)の移ろひぬれば
1061
咲く花の色は変はらずももしきの大宮人(おほみやひと)ぞ立ちかはりける
  

【意味】
〈1059〉三香の原の久邇の都は、山が高く、川の瀬が清らかで住みよいところと人は言うけれど、私も居心地がよいところと思うけれども、今はもう古くなった里なので、国を見ても人は通わない。里を見ても家も荒れている。ああ、この都はこうなってしまう定めだったのか。神社が鎮座する鹿背山のあたり一帯に咲く花の色は美しく、たくさんの鳥たちの鳴き声もなつかしい。いつまでも居たいと思うこの住みよい里が、日に日に荒廃していくのが惜しい。

〈1060〉三香の原の久邇の都は荒れ果ててしまった。大宮人たちが移り去ってしまったから。
 
〈1061〉咲いている花の色は変わらないのに、大宮人は新しい都へ移ってしまってもう居ない。

【説明】
 「春の日に、三香原(みかのはら)の荒墟(こうきょ)を悲傷(かな)しびて作る歌」。恭仁京は、天平12年「740年)12月に聖武天皇の勅命によって平城京から遷都され造営が始まりましたが、同15年の末には中止され、同16年(744年)2月の難波遷都によって、未完成のまま旧都となりました。「三香原」は、京都府木津川市鹿背山の東北に広がる盆地。

 1059の「古りにし里」は、故里で、故京。「はしけやし」は、ああ慕わしい、ああ惜しいかな。「三諸」は、神の社。「鹿背山」は、京都府木津市にある山。「めづらしく」は、愛すべく、美しく。「百鳥」は、多くの鳥。「ありが欲し」は、住んでいたい。1061の「ももしきの」は「大宮」の枕詞。「立ちかはりける」は、移り去ってしまった。

巻第6-1062~1064

1062
やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ)の あり通(がよ)ふ 難波(なには)の宮は いさなとり 海(うみ)片付(かたづ)きて 玉(たま)拾(ひり)ふ 浜辺(はまへ)を近み 朝(あさ)羽振(はふ)る 波の音(おと)騒(さわ)き 夕なぎに 楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ 暁(あかとき)の 寝覚(ねざめ)に聞けば 海石(いくり)の 潮干(しほひ)の共(むた) 浦渚(うらす)には 千鳥(ちどり)妻呼び 葦辺(あしへ)には 鶴(たづ)が音(ね)響(とよ)む 見る人の 語りにすれば 聞く人の 見まく欲(ほ)りする 御食(みけ)向(むか)ふ 味経(あじふ)の宮は 見れど飽(あ)かぬかも
1063
あり通(がよ)ふ難波(なには)の宮は海(うみ)近み海人娘子(あまをとめ)らが乗れる舟見ゆ
1064
潮(しほ)干(ふ)れば葦辺(あしへ)に騒(さわ)く白鶴(しらたづ)の妻呼ぶ声は宮もとどろに
  

【意味】
〈1062〉安らかに天下を支配される我れらの大君が、いつも通われる難波の宮は、海に面していて玉を拾う浜辺が近いので、朝は勢いよく寄せる波の音が高く、夕なぎ時には舟を操る櫂の音が聞こえる。暁の目覚めに聞くと、潮がひいて海の中の石が美しい石が姿を見せ、現れる浦の州には千鳥が妻を呼ぶ声がし、葦辺には鶴の鳴き声があたりを響かせる。この光景を見た人は人に語り、それを聞いた人は自分も見て見たいと思う、この味経(あじふ)の宮は、見ても見ても見飽きることがない。

〈1063〉わが大君がいつも通われるここ難波の宮は、海が近いので、海人の娘子(おとめ)たちが乗っている舟が見える。
 
〈1064〉潮が引くと、葦辺で鳴き騒ぐ白鶴たちの妻を呼ぶ声が、大宮もとどろくばかりに響き渡る。

【説明】
 難波宮で作った歌。天平17年(745年)8~9月、聖武天皇の難波離宮行幸の折に詠まれた歌ではないかとされます。

 1062の「やすみしし」は「我が大君」の枕詞。「あり通ふ」は、何度も通う。「いさなとり」は「海」の枕詞。「片付きて」は、一方が面していること。「浜辺を近み」は、浜辺が近いので。「海石」は、海中の石。「潮干の共」は、潮干とともに。「御食向ふ」は「味経」の枕詞。「味経の宮」は、難波宮を小範囲の所在地によって言ったもの。「見れど飽かぬかも」は、最上の讃えの成語。1063の「海近み」は、海が近いので。1064の「とどろに」は、とどろくまでに。

巻第6-1065~1067

1065
八千桙(やちほこ)の 神の御代(みよ)より 百舟(ももふね)の 泊(は)つる泊(とま)りと 八島国(やしまくに) 百舟人(ももふなびと)の 定めてし 敏馬(みぬめ)の浦は 朝風(あさかぜ)に 浦波(うらなみ)騒(さわ)き 夕波に 玉藻(たまも)は来(き)寄る 白砂(しらまなご) 清き浜辺(はまへ)は 行き帰り 見れども飽(あ)かず うべしこそ 見る人ごとに 語り継ぎ 偲(しの)ひけらしき 百代(ももよ)経(へ)て 偲(しの)はえ行かむ 清き白浜
1066
まそ鏡(かがみ)敏馬(みぬめ)の浦は百舟(ももふね)の過ぎて行くべき浜ならなくに
1067
浜(はま)清み浦うるはしみ神代(かみよ)より千舟(ちふね)の泊(は)つる大和太(おほわだ)の浜
  

【意味】
〈1065〉八千桙の神の御代から多くの舟が泊まる港であると、この八島の国中の舟人が定めてきた敏馬の浦には、朝風に波が立ち騒ぎ、夕波に玉藻が寄せてくる。白砂の清らかな浜辺は、行きつ戻りついくら眺めていても飽きることがない。なるほど、見る人の誰もが語り継ぎ、賞美し、思慕したことだろう。百代の後までも賞美し思慕されよう、この清らかな白浜よ。

〈1066〉敏馬の浦は、ここを通る舟という舟が、立ち寄らないで過ぎて行くことのできるような浜ではないのに。
 
〈1067〉その浜が清らかで、その浦も美しいゆえに、神代の昔から、ここを通る舟のことごとくが寄って来て泊まった大和太の浜なのだ、ここは。

【説明】
 敏馬の浦を過ぎる時に作った歌。「敏馬の浦」は、神戸市灘区岩屋付近の海岸。1065の「八千桙の神」は、大国主の神の別名。「百舟」は、多くの舟。「八島国」は、日本の異名。「うべしこそ」は、なるほど。1066の「まそ鏡」は「見(み)」の枕詞。1067の「浜清み」は、浜が清いので。「浦うるはしみ」は、浦が美しいので。「千舟」は、多くの舟。「大和太の浜」は、敏馬の浦のやや西、神戸市兵庫区の和田岬から北東方へかけての湾曲した入江。

巻第9-1792~1794

1792
白玉(しらたま)の 人のその名を なかなかに 言(こと)を下延(したは)へ 逢はぬ日の 数多(まね)く過ぐれば 恋ふる日の 重なり行けば 思ひやる たどきを知らに 肝(きも)向かふ 心砕けて 玉だすき 懸(か)けぬ時なく 口やまず 我(あ)が恋ふる児(こ)を 玉釧(たまくしろ) 手に取り持ちて まそ鏡 直目(ただめ)に見ねば したひ山 下(した)行く水の 上(うへ)に出(い)でず 我(あ)が思ふ心 安きそらかも
1793
垣(かき)ほなす人の横言(よこごと)繁(しげ)みかも逢はぬ日(ひ)数多(まね)く月の経(へ)ぬらむ
1794
たち変り月重なりて逢はねどもさね忘らえず面影(おもかげ)にして
  

【意味】
〈1792〉白玉のような彼女の美しい名を、なまじ言葉に出さず心密かに思うだけで、逢えない日が幾日も過ぎ、恋い焦がれる日が重なっていくものだから、思いを晴らすすべもなく、心も砕けて、気にかけない時もなく、絶えずつぶやきながら、恋してやまないあの子を、腕輪のように取り持つわけでも、鏡のように直に見るわけでもないから、紅葉した山の木陰を流れる水のように表に出さず、私が思っている心は安らかであろう筈がない。

〈1793〉垣根のように私を取り巻く他人の中傷がひどいので、逢おうにも逢えない日が続き、とうとう月が改まってしまった。
 
〈1794〉月が移り変わって、幾月経っても逢えないままだけれども、ちっとも彼女のことが忘れられない。いつまでも面影がちらついて。

【説明】
 「娘子を思ひて作る」歌。1792の「なかなかに」は、なまじっか。「下延へ」は、心の中で思って。「たどき」は、手段、手がかり。「肝向ふ」「玉だすき」「玉釧」「まそ鏡」は、それぞれ「「心」「懸く」「手に取り持つ」「直目に見る」の枕詞。「したひ山」は、紅葉した山。「安きそら」の「そら」は心。1793の「横言」は、中傷。1794の「さね」は、全く、ちっとも。

巻第9-1800

小垣内(をかきつ)の 麻(あさ)を引き干し 妹(いも)なねが 作り着せけむ 白栲(しろたへ)の 紐(ひも)をも解かず 一重(ひとへ)結(ゆ)ふ 帯(おび)を三重(みへ)結ひ 苦しきに 仕へ奉(まつ)りて 今だにも 国に罷(まか)りて 父母(ちちはは)も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 畏(かしこ)きや 神の御坂(みさか)に 和妙(にきたへ)の 衣(ころも)寒らに ぬばたまの 髪は乱れて 国問へど 国をも告(の)らず 家(いへ)問へど 家をも言はず ますらをの 行きのまにまに ここに臥(こ)やせる

【意味】
 垣の内の庭の麻を引いては干し、妻が作って着せたのであろう白い服、その紐も解かぬまま、一重の帯が今では三重に巻けるほど痩せ細ってしまった身。辛さに耐えて、大君に仕え奉ってきた任務が終わり、いっときも早く、国に帰って父母に会い、妻にも逢おうと帰路についたであろう君。遠い東の国の恐れ多い神の峠にさしかかって、やわらかな着物も寒々として、髪はばらばらに乱れたまま。国はどこかと尋ねても答えず、家はどこかと聞いても答えない。その士たる君は、今ここに行き倒れになって横たわっている。

【説明】
 題詞に「足柄の坂を過るに、死人(しにひと)を見て作る」とある歌。行路死人(行き倒れたまま死んでいる人)に対する鎮魂歌です。「足柄の坂」は、駿河と相模の国境の箱根山の北の足柄峠。「小垣内」の「小」は、接頭語。垣の内。「妹なね」の「なね」は、女性の肉親に対する愛称。「一重結ふ帯を三重結ひ」は、ひどく瘦せ衰えてしまったことを言う慣用句。「仕へ奉りて」は、公に奉仕して。「鶏が鳴く」は「東」の枕詞。「和妙」は、柔らかい繊維の布。「寒ら」の「ら」は、形容詞の語幹に付いて名詞化する接尾語。「ぬばたまの」は「髪」の枕詞。
 
  福麻呂が公務を帯びて東国に向かい、足柄峠の難所を通過しようとした折に、行き倒れになった死者を見て詠んだ歌です。「苦しきに仕へ奉りて」のところで、死者の身分とその任務への共感が示されています。このような、旅の途中で死人を見つけて詠んだ「行路死人歌」とされる歌が、『万葉集』には21首あります。それらから、旅の途中で屍を目にする状況がこの時代には頻繁にあり、さらに道中で屍を見つけたら、鎮魂のために歌を歌う習慣があったことが窺えます。諸国から賦役のため上京した者が故郷に帰る際に飢え死にするケースが多かったとみられています。

 『日本書紀』には、人が道端で亡くなると、道端の家の者が、死者の同行者に対して財物を要求するため、同行していた死者を放置することが多くあったことが記されています。また、養老律令に所収される『令義解』賦役令には、役に就いていた者が死んだら、その土地の国司が棺を作って道辺に埋めて仮に安置せよと定められており、さらに『続日本紀』によれば、そうした者があれば埋葬し、姓名を記録して故郷に知らせよとされていたことが分かります。こうした行路死人が少なくなかったことは律令国家の闇ともいうべき状況で、大きな社会問題とされていました。

巻第9-1801~1803

1801
古(いにしへ)の ますら壮士(をとこ)の 相競(あひきほ)ひ 妻問(つまど)ひしけむ 葦屋(あしのや)の 菟原処女(うなひをとめ)の 奥(おく)つ城(き)を 我(わ)が立ち見れば 永(なが)き世の 語りにしつつ 後人(のちひと)の 偲(しの)ひにせむと 玉桙(たまほこ)の 道の辺(へ)近く 岩(いは)構(かま)へ 作れる塚(つか)を 天雲(あまくも)の そきへの極(きは)み この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ 或る人は 音(ね)にも泣きつつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎ来る 処女(をとめ)らが 奥(おく)つ城(き)所(ところ) 我(わ)れさへに 見れば悲しも 古(いにしへ)思(おも)へば
1802
古(いにしへ)の信太壮士(しのだをとこ)の妻問(つまど)ひし菟原処女(うなひをとめ)の奥(おく)つ城(き)ぞこれ
1803
語り継ぐからにもここだ恋(こひ)しきを直目(ただめ)に見けむ古壮士(いにしへをとこ)
  

【意味】
〈1801〉はるか昔に、雄々しい男たちが競い争って求婚したという、葦屋の菟原乙女の墓所の前に立って眺めると、行く末長く語り草にして、後の人々が偲ぶよすがにしようと、道の近くに岩を組み合わせて造った塚。天雲のたなびく遠い果てからも、この道をやってくる誰もが立ち寄って、足を止めて嘆き、ある人は声を上げて泣き、後の世に語り継ぎ、偲び続けてきた乙女の眠る墓所。この私さえ、眺めていると悲しくなる。はるか昔のことを思うと。

〈1802〉はるか昔、遠くからやってきた信太壮士が求婚した菟原乙女。その乙女が眠る墓所なのだ、ここは。
 
〈1803〉語り継ぐだけでもこんなに恋しくてならないのに、じかに目にした古への男たちはどれほど恋いこがれたことだろうか。

【説明】
 葦屋(あしや)の処女(おとめ)の墓に立ち寄ったときに作った歌。先の時代に高橋虫麻呂がこの地に伝わる妻問い伝説を詠んだ歌(巻第9-1809~1811)をふまえての作歌ではないかとされます。菟原乙女は二人の男に求婚され、その板ばさみに苦しみ自殺したという伝説の美女です。

 「菟原」は、兵庫県芦屋市から神戸市にかけての地とされ、神戸市東灘区御影町には「処女(おとめ)塚」が、その東西1kmほどの所には二人の男の「求女(もとめ)塚」が残っています。菟原乙女は同じ郷里の菟原壮士よりも、他所から来た信太壮士(茅渟壮士)が好きだったようです。しかし、いくら心が傾いても、よそ者を受け入れることができなかったのです。
 
 1801の「奥つ城」は、奥深く眠っている所、墓の意。「玉桙の」は「道」の枕詞。「そきへ」は、遠方。「い立ち」の「い」は、接頭語。「嘆かひ」、嘆き続けること。1802の「信太」は、大阪府和泉市信太の地。1803の「ここだ」は、甚だしく、こんなにひどく。

巻第9-1804~1806

1804
父母(ちちはは)が 成(な)しのまにまに 箸(はし)向かふ 弟(おと)の命(みこと)は 朝露(あさつゆ)の 消(け)やすき命(いのち) 神の共(むた) 争ひかねて 葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)の国に 家なみや また帰り来(こ)ぬ 遠(とほ)つ国 黄泉(よみ)の界(さかひ)に 延(は)ふ蔦(つた)の 己(おの)が向き向き 天雲(あまくも)の 別れし行けば 闇夜(やみよ)なす 思ひ惑(まと)はひ 射(い)ゆ鹿(しし)の 心を痛み 葦垣(あしかき)の 思ひ乱れて 春鳥(はるとり)の 音(ね)のみ泣きつつ あぢさはふ 夜昼(よるひる)知らず かぎろひの 心燃えつつ 悲しび別(わか)る
1805
別れてもまたも逢ふべく思ほえば心乱れて我(あ)れ恋ひめやも [一云 心尽して]
1806
あしひきの荒山中(あらやまなか)に送り置きて帰らふ見れば心(こころ)苦(くる)しも
 

【意味】
〈1804〉父母が生んでくださった順序のままに、二本の箸のように揃って育った弟は、朝露のように消えやすい命だったのか、神の思し召しに抗うことはできず、この葦原の瑞穂の国に家がないと思うのか、二度と帰って来ない。遠い黄泉の国に、一人別れて行ったので、闇夜のように惑い続け、矢に射られた鹿のように心が痛み、葦垣のように思い乱れ、春の鳥のように声をあげて泣き続け、夜も昼も分からなくなり、途方もなく心は嘆いている、この別れを。

〈1805〉別れてもまた逢えると思えるのなら、これほど心を取り乱して私が恋い慕うことなどあろうか。(お前だけに心を傾けて)

〈1806〉荒涼とした山中に野辺送りを済ませ、人が次々に帰っていくのを見ていると、心が苦しい。

【説明】
 「弟の死去を哀(かな)しびて作る」歌。1804の「成しのまにまに」は、生んだ順序のままに。「箸向かふ」は、箸のように仲良く向き合う意で「弟」の枕詞。「朝露の」は「消」の枕詞。「神の共」は、ここは神意のままに。「葦原の瑞穂の国」は、わが国の古名。「家なみや」は、家がないのだろうか。「遠つ国」「延ふ蔦の」は、それぞれ「黄泉」「向き向き」の枕詞。「己が向き向き」は、それぞれ別々の方向に。「天雲の」「闇夜なす」「射ゆ鹿の」「葦垣の」「春鳥の」は、それぞれ「別れ」「惑はひ」「痛み」「乱る」「泣き」の枕詞。「あぢさはふ」は語義未詳。「かぎろひの」は「燃え」の枕詞。1805の「あしひきの」は「山」の枕詞。
 
 福麻呂自身の弟が死んだのを嘆き悲しんで作った歌で、『万葉集』では、大伴家持が越中にあって弟の書持(ふみもち)の死を聞いて作った歌(巻第17-3957~3959)とともに、弟を悼む兄の歌の代表2作です。

巻第18-4032~4036

4032
奈呉(なご)の海に舟しまし貸せ沖に出(い)でて波立ち来(く)やと見て帰り来(こ)む
4033
波立てば奈呉の浦廻(うらみ)に寄る貝の間(ま)なき恋にぞ年は経(へ)にける
4034
奈呉の海に潮(しほ)の早(はや)干(ひ)ばあさりしに出(い)でむと鶴(たづ)は今ぞ鳴くなる
4035
霍公鳥(ほととぎす)いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
4036
如何(いか)にある布勢(ふせ)の浦(うら)そもここだくに君が見せむと我(わ)れを留(とど)むる
  

【意味】
〈4032〉あの奈呉の海の沖に出て行くのに、ほんのしばし舟を貸してください。波が立ち寄せて来るかどうか見て来たいものです。

〈4033〉波が立つと、奈呉の浦辺に絶え間なく寄ってくる貝。そのように絶え間もない恋のせいで、いつのまにか年が過ぎてしいました。
 
〈4034〉奈呉の海で、潮が引いたらすぐに餌を取りに出ようと、鶴たちは今しきりに鳴き立てています。

〈4035〉ホトトギスの声はいつも聞いていたいが、菖蒲草で髪を飾る日には、必ずここを鳴き渡ってくれ。
 
〈4036〉どんなようすなのですか、布勢の浦とは。こんなにも強くあなたが見せようとして私をお引き留めになる。

【説明】
 詞書に「天平20年(748年)春の3月23日、左大臣橘の家(橘諸兄)の使者、造酒司令史(さけのつかさのさかん)の田辺福麻呂が、国守の大伴宿祢家持(おおとものすくねやかもち)の館でもてなしを受けた。そこで新しく歌を作り、併せて古歌を歌うなどして互いに思いを述べた」とある歌です。「造酒司」は、宮内省に属し、酒の醸造を司る役所。「令史」はその三等官。何の用件でやって来た使者であるかは不明です。

 「奈呉の海」は、国司の館から見える富山湾。4032の「しまし」は、しばらく、少しの間。4033の上3句は「間なき」を導く序詞。4035の「あやめぐさ」は、菖蒲(しょうぶ)。5月5日の節句にあやめぐさを縵にする習俗がありました。「こゆ」は、ここを通って、ここから。この歌は巻第10-1955にあり、詞書で言っている古歌にあたります。4036の「ここだくに」は、これほどに甚だしく。「君」は、家持のこと。

巻第18-4038~4042

4038
玉櫛笥(たまくしげ)いつしか明けむ布勢(ふせ)の海の浦を行きつつ玉も拾(ひり)はむ
4039
音(おと)のみに聞きて目に見ぬ布勢(ふせ)の浦を見ずは上(のぼ)らじ年は経(へ)ぬとも
4040
布勢(ふせ)の浦を行きてし見てばももしきの大宮人(おほみやひと)に語り継ぎてむ
4041
梅の花咲き散る園(その)に我(わ)れ行かむ君が使(つかひ)を片待(かたま)ちがてら
4042
藤波(ふぢなみ)の咲き行く見れば霍公鳥(ほととぎす)鳴くべき時に近づきにけり
    

【意味】
〈4038〉早く夜が明けてほしい。明けたら布勢の海の浦を歩みながら、玉でも拾おう。

〈4039〉評判だけ聞いてまだ目にしたことのない布勢の浦を、見ないまま都には帰るまい、たとえ年が過ぎようと。

〈4040〉布勢の浦に出かけて見てきたら、都へ帰って大宮人たちに必ず語り継ぎましょう。

〈4041〉梅の花が咲いて散るあの美しい園に私は出かけようと思う。あの方のお誘いの使いを待ってばかりはいられない。

〈4042〉藤の花が次から次へと咲いてゆくのを見ると、いよいよホトトギスが鳴く時が近づいてきましたね。

【説明】
 上からの続きで、翌日は布勢の水海(みずうみ)に遊覧しようと約束して、思いを述べて作った歌。「布勢の水海」は、富山県氷見市南方にあった湖。4038の「玉櫛笥」は「明け」の枕詞。「玉」は、美しい小石、貝。4039の「音」は、噂、評判。4040の「ももしきの」は「大宮人」の枕詞。「大宮人」は、宮中に仕える人。4041は巻第10-1900にあり、詞書にいう古歌。4042の「霍公鳥鳴くべき時」は、陰暦の4月を指します。
 
 なお、次の4043に、大伴家持が答えた歌が載っています。

〈4043〉明日の日の布勢の浦廻(うらみ)の藤波(ふぢなみ)にけだし来鳴かず散らしてむかも
 ・・・明日の布勢の入江の藤の花は、ホトトギスが来て鳴くこともなく散ってしまうのかな。

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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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遷都の歴史

斉明天皇
655年
難波京(難波長柄豊碕宮)から飛鳥川原宮)へ
656年
飛鳥川原宮から岡本宮(後飛鳥岡本宮)へ
661年
後飛鳥岡本宮から朝倉橘広庭宮へ
天智天皇
667年
朝倉橘広庭宮から近江大津宮へ
天武天皇
672年
近江宮から飛鳥浄御原宮へ
持統天皇
694年
飛鳥浄御原宮から藤原宮へ
元明天皇
710年
藤原京から平城京へ
聖武天皇
740年
平城京から恭仁京へ
743年
恭仁京から紫香楽宮へ
745年
紫香楽宮から平城京へ

万葉時代の年表

629年
舒明天皇が即位
古代万葉を除く万葉時代の始まり
630年
第1回遣唐使
645年
大化の改新
652年
班田収授法を制定
658年
有馬皇子が謀反
660年
唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす
663年
白村江の戦いで敗退
664年
大宰府を設置。防人を置く
667年
大津宮に都を遷す
668年
中大兄皇子が即位、天智天皇となる
670年
「庚午年籍」を作成
671年
藤原鎌足が死去
天智天皇崩御
672年
壬申の乱
大海人皇子が即位、天武天皇となる
680年
柿本人麻呂歌集の七夕歌
681年
草壁皇子が皇太子に
686年
天武天皇崩御
大津皇子の変
689年
草壁皇子が薨去
690年
持統天皇が即位
694年
持統天皇が藤原京に都を遷す
701年
大宝律令の制定
708年
和同開珎鋳造
このころ柿本人麻呂死去か
710年
平城京に都を遷す
712年
『古事記』ができる
716年
藤原光明子が首皇子(聖武天皇)の皇太子妃に
718年
大伴家持が生まれる
720年
『日本書紀』ができる
723年
三世一身法が出される
724年
聖武天皇が即位
726年
山上憶良が筑前守に
727年
大伴旅人が大宰帥に
729年
長屋王の変
731年
大伴旅人が死去
733年
山上憶良が死去
736年
遣新羅使人の歌
737年
藤原四兄弟が相次いで死去
740年
藤原広嗣の乱
恭仁京に都を移す
745年
平城京に都を戻す
746年
大伴家持が越中守に任じられる
751年
家持、少納言に
越中国を去り、帰京
752年
東大寺の大仏ができる
756年
聖武天皇崩御
754年
鑑真が来日
755年
家持が防人歌を収集
757年
橘奈良麻呂の変
758年
家持、因幡守に任じられる
759年
万葉終歌

『万葉集』以前の歌集

■「古歌集」または「古集」
 これら2つが同一のものか別のものかは定かではありませんが、『万葉集』巻第2・7・9・10・11の資料とされています。

■「柿本人麻呂歌集」
 人麻呂が2巻に編集したものとみられていますが、それらの中には明らかな別人の作や伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではありません。『万葉集』巻第2・3・7・9~14の資料とされています。

■「類聚歌林(るいじゅうかりん)」
 山上憶良が編集した全7巻と想定される歌集で、何らかの基準による分類がなされ、『日本書紀』『風土記』その他の文献を使って作歌事情などを考証しています。『万葉集』巻第1・2・9の資料となっています。

■「笠金村歌集」
 おおむね金村自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第2・3・6・9の資料となっています。

■「高橋虫麻呂歌集」
 おおむね虫麻呂の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第3・8・9の資料となっています。

■「田辺福麻呂歌集」
 おおむね福麻呂自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第6・9の資料となっています。
 
 なお、これらの歌集はいずれも散逸しており、現在の私たちが見ることはできません。
 

行路死人歌

『万葉集』には、行路死人歌として、行き倒れになった屍を目の前にして詠んだと考えられる歌が21首あります。

巻第2-220~222
讃岐の狭岑の島にして、石の中の死人を見て、柿本人朝臣麻呂が作る歌

巻第2-228~229
和銅四年、歳次辛亥、河辺宮人、姫島の松原に娘子が屍を見悲嘆いて作る歌

巻第3-415
上宮聖徳皇子、竹原井に出遊でましし時に、竜田山の死人を見悲傷して作らす歌

巻第3-426
柿本人麻呂が香久山の屍を見て悲慟して作る歌

巻第3-434~437
和銅四年辛亥、河辺宮人、姫島の松原に娘子が屍を見悲嘆いて作る歌

巻第9-1800
足柄の坂に過るに、死人を見て作る歌

巻第13-3335~3343

これらの歌から、旅の途中で屍を目にする状況がこの時代には頻繁にあり、さらに道中で屍を見つけたら、鎮魂のために歌を歌う習慣があったことが窺えます。諸国から賦役のため上京した者が故郷に帰る際に飢え死にするケースが多かったとみられています。

『日本書紀』には、人が道端で亡くなると、道端の家の者が、死者の同行者に対して財物を要求するため、同行していた死者を放置することが多くあったことが記されています。また、養老律令に所収される『令義解』賦役令には、役に就いていた者が死んだら、その土地の国司が棺を作って道辺に埋めて仮に安置せよと定められており、さらに『続日本紀』によれば、そうした者があれば埋葬し、姓名を記録して故郷に知らせよとされていたことが分かります。こうした行路死人が少なくなかったことは律令国家の闇ともいうべき状況で、大きな社会問題とされていました。

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