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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

石川足人(いしかわのたりひと)の歌

巻第6-955

さす竹の大宮人(おほみやひと)の家と住む佐保(さほ)の山をば思ふやも君

【意味】
 大宮人が住んでいる所の、佐保山のことを思い起こしませんか、わが君。

【説明】
 石川足人は奈良時代の官吏で、このとき大宰少弐(だざいのしょうに:大宰府の次官)の役職にありました。「さす竹の」の意は諸説あって定まらないものの、ここは「大宮人」の枕詞。「大宮人」は、宮廷に勤める人のこと。「家と住む」は、家として住んでいる。「佐保の山」は、奈良市の西北部にある丘陵。廷臣の邸宅が多く、大伴家の邸も古くからそこにありました。「君」は大宰帥(だざいのそち)の大伴旅人をさします。老いて久しく大宰府の辺境の地にとどまっている旅人をいたわり、慰めの気持ちをもって問いかけた歌です。

 なお、石川足人の歌は『万葉集』にはこの1首のみですが、神亀5年(728年)に足人が都に遷任するに際して、筑前の国の蘆城(あしき)の駅(うまや)で送別の宴を開いたときの作者未詳歌が、巻第4-549~551に載っています。

〈549〉天地の神も助けよ草枕旅行く君が家にいたるまで
 ・・・天の神も地の神もお助け下さい。旅立つあなたが無事に大和の家に帰りつくまで。

〈550〉大船の思ひ頼みし君が去なば我れは恋ひむな直に逢ふまでに
 ・・・頼りにしていたあなたが行かれたら、私はきっと恋しいことだろう。再びお目にかかるまで。

〈551〉大和道の島の浦廻に寄する波間もなけむ我が恋ひまくは
 ・・・大和へ向かう途中の島々の岸辺に寄せる波のように、絶え間なく私は恋しく思うだろう。

大伴旅人の歌

巻第6-956~957

956
やすみしし我が大君(おほきみ)の食(を)す国は大和もここも同じとぞ思ふ
957
いざ子ども香椎(かしひ)の潟に白妙(しろたへ)の袖(そで)さへぬれて朝菜(あさな)摘みてむ
 

【意味】
〈956〉わが天皇が治めていらっしゃる国は、大和もここ大宰府も同じだと思う。

〈957〉さあみんな、香椎の干潟に白い袖を濡らして、朝の海藻を摘もう。

【説明】
 956は、部下の石川足人(いしかわのたりと)が「さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君」(上掲の955)と詠んだ歌に答えた歌です。「やすみしし」は「わが大君」の枕詞。「食す」は、国を支配する意で慣用された語。足人が、太宰帥として長く辺境にとどまっている老齢の旅人を労わり、旅人の私的な面に言及したのに対し、旅人はそれを斥け、あくまで公的生活の面に力点を置いて答えています。いわば立場上の公式見解といってよいものです。窪田空穂は、「旅人の歌は、歌に遊ぼうとの意識をもってのものは別だが、その他のものは、率直に淡泊に実情を詠んでおり、これなどもその範囲のものである。人を動かす力のある歌である」と述べています。

 957は、題詞に、冬11月、大宰府の官人たちが香椎の宮に参拝し、終わって大宰府に帰るときに、馬を香椎の浦にとめ、思いを述べて作った歌とあります。香椎の宮は、神功皇后を中座とし左右に八幡神・住吉神をを祭祀する神社、香椎の浦は現在の福岡市香椎浜。「子ども」は、部下の者を親しんで呼んだ語。「朝菜」は、ここでは食用の海藻。海人にとってはごく当たり前の朝菜摘みは、官人にとっては珍しく風流だったことが、行幸の供奉の歌に多くうたわれているので察せられます。なお、この歌に官人たちが和した歌が、続いて958・959に載っています。

大弐(だいに:次官)の小野老朝臣(おののおゆあそみ)の歌
〈958〉時つ風吹くべくなりぬ香椎潟(かしひかた)潮干(しほひ)の浦に玉藻(たまも)刈りてな
 ・・・満潮の風が吹きそうになっている香椎潟の潮干の浦に、早く玉藻を刈りたい。

豊前守(ぶぜんのかみ)の宇努首男人(うののおびとおひと)の歌
〈959〉行き帰り常に我(わ)が見し香椎潟(かしひがた)明日(あす)ゆ後(のち)には見むよしもなし
 ・・・行きと帰りに私がいつも見ていた香椎潟は、明日から後は見ることができなくなってしまうのだ。

巻第6-960~961

960
隼人(はやひと)の湍門(せと)の磐(いはほ)も年魚(あゆ)走る吉野の滝になほ及(し)かずけり
961
湯の原に鳴く葦鶴(あしたづ)は我(あ)がごとく妹(いも)に恋ふれや時わかず鳴く
 

【意味】
〈960〉隼人の瀬戸の岩のすばらしさも、鮎の走り泳ぐ吉野の急流にはやはり及ばない。
 
〈961〉湯の原で鳴いている鶴たちは、私のように妻を恋しく思って絶えず鳴いているのだろうか。

【説明】
 960は、現在の鹿児島県阿久根市の黒の瀬戸(一説には関門海峡とも)を見て、遥かに吉野離宮を思って作った歌。大宰帥の役目として、筑紫の9国2島を巡察することになっていましたから、その途上での作歌と思われます。巻第3-316に「昔見し象(きさ)の小河を今見ればいよよ清(さや)けくなりにけるかも」という旅人の歌があり、旅人は吉野の風景をこよなく愛していたとみられます。筑紫のいろいろな新鮮な風土に接して感動している旅人ですが、やはり望郷の念を禁じ得なかったのでしょうか。
 
 961は、次田(すきた)の温泉に泊まって、鶴が鳴くのを聞いて作った歌。「次田の温泉」は、大宰府の南の二日市温泉。「湯の原」は、二日市温泉の地。「時わかず」は、時の区別なく、絶えず。旅人は、この年に亡くなった妻を思っています。

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葛井広成(ふぢゐのひろなり)の歌

巻第6-962

奥山の岩に苔(こけ)生(む)し畏(かしこ)くも問ひたまふかも思ひあへなくに 

【意味】
 奥山の岩にむす苔のように、私めにおごそかにお求めですが、気の利いた歌などとうてい思い及びません。

【説明】
 題詞に「天平2年(730年)、勅命で擢駿馬使(てきしゅんめし)の大伴道足宿祢(おおとものみちたりすくね)を派遣したときの歌」という旨の記載があり、左注には「勅使の大伴道足宿祢を大宰帥の家で饗応した。集まった人々が葛井連広成(ふじいむらじひろなり)に勧めて、「歌を作れ」と言った。即座にその声に応じてこの歌をうたった」との説明があります。広成が、即座に歌を作れと人々から言われて、その出来ないことを断わった歌です。
 
 「擢駿馬使」は、駿馬を選ぶために諸国に派遣された使者。大伴道足は正四位下で、大伴一族のなかでは旅人に次いで高位の人。葛井広成は渡来系の官人で、漢学の造詣が深く、聖武天皇の寵を得ました。この歌は、巻第7にある「奥山の岩に苔生し畏けど思ふ心をいかにかもせむ」(1334)とある古歌を踏んでおり、歌が詠めないことを歌で返した当意即妙さは、なまなかの歌よりもかえって喝采を浴びたと思われます。上2句は「畏くも」を導く序詞。「思ひ」は、歌を思う意。

大伴坂上郎女の歌

巻第6-963~964

963
大汝(おほなむち) 少彦名(すくなひこな)の 神こそば 名付(なづ)けそめけめ 名のみを 名児山(なごやま)と負(お)ひて 我(あ)が恋の 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)めなくに
964
我(わ)が背子(せこ)に恋ふれば苦し暇(いとま)あらば拾(ひり)ひて行かむ恋忘貝(こひわすれがひ)
 

【意味】
〈963〉大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名の神が名付けられたという、名児山。でも、その名児山のように心はなごまず、私の苦しい恋心を千に一つも慰めてくれないではないか。

〈964〉あの方を恋しく思えば思うほど苦しい。もしも浜に立ち寄る暇があったら拾っていきたい、辛い恋を忘れさせてくれるというあの忘れ貝を。

【説明】
 坂上郎女は、旅人の妻が亡くなった後に、大宰府の旅人の許に来ていましたが、天平2年(730年)12月に旅人が大納言に任じられ帰京するのに先立って、11月に京に向けて出立しました。963は、その途中、筑前国の名児山(福岡県福津市と宗像市の市境の山)という山を越えた時に作った歌、964は、都へ向かう海路で浜の貝を見て見て作った歌です。
 
 963の「大汝」は大国主神、「少彦名」は『古事記』によれば神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、大国主神とともに国造りに携わったとされる神。「名付けそめけめ」の「けめ」は、過去推量已然形。名児山の「名児」と「慰(な)ぐ」(慰めの意)を掛けています。964の「恋忘貝」は、二枚貝の片方または鮑貝。持っていると、恋の切なさを忘れられるという言い伝えがありました。

 これら2首は「恋仕立て」にはなっていますが、旅人への思いを歌った気配があります。旅人の傍らにあって家刀自として振る舞い、また家持の養育にも当たった郎女としては、一族の消長を荷う旅人の健否は気がかりだったはずで、わずかな間でも離れることを憂えたのではないでしょうか。大宰府に赴任して早々に妻を亡くし、その2年後には脚に瘡を生じて遺言をするほどに重篤になった旅人は、幸い回復したものの、完全に癒えたわけではなかったようで、都に帰って7か月後に亡くなりました。

大宰府について
 7世紀後半に設置された大宰府は、九州(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の9か国と壱岐・対馬の2島)の内政を総管するとともに、軍事・外交を主任務とし、貿易も管理しました。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれました。府には防人司・主船司・蔵司・税司・厨司・薬司や政所・兵馬所・公文所・貢物所などの機構が設置されました。

 府の官職は、は太宰帥(長官)、太宰大弐・太宰少弐(次官)、太宰大監・太宰少監(判官)、太宰大典・太宰少典(主典)の4等官以下からなっていました。太宰帥は、従三位相当官、大納言・中納言級の政府高官が兼ねるものとされていましたが、9世紀以後は、太宰帥には親王が任じられれる慣習となり、遙任(現地には赴任せず、在京のまま収入を受け取る)となり、権帥が長官(最高責任者)として赴任し、府を統括しました。なお、菅原道真の場合は左遷で、役職は名目なもので実権は剥奪されていました。
 
 

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巻第6について
 巻第6は、第5とともに、主に天平時代の雑歌を収めています。巻第5が大伴旅人が赴任した大宰府での筑紫歌壇の歌からなっているのに対し、巻第6の歌は、大和の宮廷が舞台の中心になっています。
  

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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万葉集の時代背景

万葉集の時代である上代の歴史は、一面では宮都の発展の歴史でもありました。大和盆地の東南の飛鳥(あすか)では、6世紀末から約100年間、歴代の皇居が営まれました。持統天皇の時に北上して藤原京が営まれ、元明天皇の時に平城京に遷ります。宮都の規模は拡大され、「百官の府」となり、多くの人々が集住する都市となりました。

一方、地方政治の拠点としての国府の整備も行われ、藤原京や平城京から出土した木簡からは、地方に課された租税の内容が知られます。また、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた大宰府は、北の多賀城とともに辺境の固めとなりましたが、大陸文化の門戸ともなりました。

この時期は積極的に大陸文化が吸収され、とくに仏教の伝来は政治的な変動を引き起こしつつも受容され、天平の東大寺・国分寺の造営に至ります。その間、多大の危険を冒して渡航した遣隋使・遣唐使たちは、はるか西域の文化を日本にもたらしました。

ただし、万葉集と仏教との関係では、万葉びとたちは不思議なほど仏教信仰に関する歌を詠んでいません。仏教伝来とその信仰は、飛鳥・白鳳時代の最大の出来事だったはずですが、まったくといってよいほど無視されています。当時の人たちにとって、仏教は異端であり、彼らの精神生活の支柱にあったのはあくまで古神道的な信仰、すなわち森羅万象に存する八百万の神々をおいて他にはなかったのでしょう。

大宰府の官職

大宰府の四等官(4等級で構成される各宮司の中核職員)は次の通り。

帥(そち:長官)
 従三位
弐(すけ)
 大弐・・・正五位上
 少弐・・・従五位下
監(じょう)
 大監・・・正六位下
 少監・・・従六位上
典(さかん)
 大典・・・正七位上
 少典・・・正八位上
 
その他、大判事、少判事、大工、防人正、主神などの官人が置かれ、その総数は約50名。


(大伴旅人)

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