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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

海犬養岡麿(あまのいぬかひのおかまろ)の歌

巻第6-996

御民(みたみ)我(わ)れ生ける験(しるし)あり天地(あめつち)の栄(さか)ゆる時にあへらく思へば 

【意味】
 天皇の御民である私は、まことに生きがいを感じております。天も地も一体となって栄えているこの御代に生まれ合わせたことを思いますと。

【説明】
 天平6年(734年)、聖武天皇による、歌を詠めとの詔(ご命令)に応じて詠まれた、大御代の讃め歌。作者の海犬養岡麿は、海人系の氏族で、福岡市博多区住吉付近を本拠とし、もとは『日本書紀』に見える那津官家の守衛だったのが、その後中央に進出し、宮城門の守衛に従事したとされます。『万葉集』にはこの1首のみを残しています。「御民」の「御」は美称で、天皇の民。「生ける験」は、生き甲斐。「あへらく」は、めぐり合ったこと。
 
 斉藤茂吉によれば、「応詔歌であるから、謹んで歌い、荘厳の気を漲らしめている。そして斯く思想的大観的に歌うのは、この時代の歌には時々見当たるのであって、その思想を統一して一首の声調を完(まっと)うするだけの力量がまだこの時代の歌人にはあった。それが万葉を離れるともはやその力量と熱意が無くなってしまって、弱々しい歌のみを作るにとどまる状態となった。この歌などは、万葉としては後期に属するのだが、聖武の盛世にあって、歌人等も競い勤めたために、人麿調の復活ともなり、かかる歌も作らるるに至った」。

 過ぐる太平洋戦争の時代には、国家主義イデオロギーが高唱されるたび、この歌が伴奏曲として唱えられました。このことに関し、作家の田辺聖子は次のように述べています。「民族遺産の古典を、ひとにぎりの人々が私(わたくし)した時代の弊風を思わないではいられない。現代の女性たちがそれぞれの立場から思い思いに古典を愛しはじめた風潮を、私は楽しいことと思う。女性たちは今後、特定の古典に恣意的な彩りをほどこして、時代精神のより所とするといったあやまちを、再び犯すまいとするだろう」
 
 万葉集研究でも有名な賀茂真淵は、この歌を本歌取りし、「み民われ 生けるかひありて さすたけの 君がみことを 今日聞けるかも」という歌を詠んでいます。

市原王(いちはらのおほきみ)の歌

巻第4-662

網児(あご)の山(やま)五百重(いほへ)隠せる佐堤(さで)の崎さで延(は)へし子が夢(いめ)にし見ゆる

【意味】
 網児の山々が多く重なった向こうに隠している佐堤(さで)の崎、そこで小網(さで)を広げて漁りをしていたあの子の姿が夢に出てくる。

【説明】
 市原王(生没年未詳)は天智天皇5世の孫で、志貴皇子または川島皇子の孫、安貴王(あきおう)の子。天平15年(743年)従五位下、天平宝字7年(763年)に、造東大寺長官。『万葉集』には8首。なお、父の安貴王は、大伴家持が親しく交際していた紀女郎の元の夫。

 「網児の山」は、三重県志摩市阿児町の海岸近くの山か。「五百重」は、幾重にも、の意。「佐堤の崎」は志摩半島のどこかとされますが、所在未詳。「さで」は、小網。「延へし」は、広げていた。

巻第6-988・1007

988
春草(はるくさ)は後(のち)はうつろふ巌(いはほ)なす常盤(ときは)にいませ貴(たふと)き我(あ)が君
1007
言問(ことと)はぬ木すら妹(いも)と兄(せ)とありといふをただ独(ひと)り子にあるが苦しさ
  

【意味】
〈988〉春草は、どんなに生い茂ってものちには枯れてしまいます。どうか巌のようにいつまでも末永く元気でいて下さい、貴い我が父君よ。

〈1007〉ものを言わない木にさえも兄弟姉妹があるというのに、私はまったくの一人っ子であるのが悲しい。

【説明】
 988は「宴に父安貴王(あきのおほきみ)を祷(ほ)く」歌。「うつろふ」は、ここでは衰え枯れる意。「巌なす」は、そびえ立つ大岩のように。「常磐」は、ここでは永久不変の意。「いませ」は「いる」の敬語で、命令形。「貴き我が君」は、父を尊み親しんでの呼びかけ。移りやすい春草と不滅の巌とを対比させ、父親の健勝を賀しており、市原王の深い愛情と優しさが感じられる歌です。折口信夫はこの歌を「思想に曲折がある。佳作」と評しています。

 1007は、題詞に「市原王、独り子にあることを悲しぶる」とある歌。「言問はぬ」は、物を言わない。「木すら妹と兄とあり」というのは、同じ根から複数の幹が生えているもの、または雌株と雄株のある木をいっているのでしょうか。『万葉集』の歌では、多く男性から親愛の情を込めて女性を呼ぶ呼称として用いられる「妹」ですが、元来は男性から女性の姉妹をさす親族名称であり、ここでの「妹」はその原義で用いられています。

巻第8-1546・1551

1546
妹(いも)がりと我(あ)が行く道の川しあれば付目(つくめ)結ぶと夜(よ)ぞ更(ふ)けにける
1551
時(とき)待ちて降りししぐれの雨やみぬ明けむ朝(あした)か山の黄葉(もみ)たむ
  

【意味】
〈1546〉妻のもとへと私が行く道中には川があるので、付目を結んでいるうちに夜が更けてしまった。

〈1551〉その時節を待って降り始めたしぐれの雨が止んだ。明日の朝には、山の木々は黄葉しているだろうか。

【説明】
 1546は「七夕の歌」と題された歌で、彦星の立場で歌っています。この歌の前に湯原王の「七夕の歌」2首があり(1544・1545)、同じ席での歌とされます。「妹がり」の原文は「妹許」で、妻のもとへ。「付目」は、櫓を舷に結びつける突起した部分とされます。彦星が織女のもとへ行くのが遅くなった言い訳をしており、天上の人も地上の庶民と何ら変わらないという親近感が感じられる歌です。

 1551の「時待ちて」は、時節を待って。「黄葉む」は「もみつ」の未然形。「む」は推量。なお、「雨やみぬ」の原文「零零奴」を「降り降りぬ」と訓み、降りに降ったと解する説もあります。

葛井連大成(ふぢゐのむらじおほなり)の歌

巻第6-1003

海女娘子(あまをとめ)玉(たま)求むらし沖つ波(なみ)畏(かしこ)き海に舟出(ふなで)せり見ゆ 

【意味】
 海女たちが真珠を採りに行くらしい。沖の波が荒いにもかかわらず舟出していくのが見える。

【説明】
 作者の葛井大成は、題詞に「筑後守外従五位下」との肩書の記載があり、大伴旅人邸の梅花宴の歌に、同じく「筑後守」として列しています(巻第4-576)。「外従五位下」の「外」というのは、中央の貴族・官人に与えられた「内位」に対し、傍系とみなされる「外位(げい)」のことです。地方豪族や農民などから郡司・軍毅・国博士・国医師などの地方の在庁官人に登用された者、及び蝦夷・隼人などの有功者が授与の対象となりました。歌中の「玉」は鮑玉、真珠。「沖つ波」は沖の波。

按作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)の歌

巻第6-1004

思ほえず来ましし君を佐保川(さほがは)のかはづ聞かせず帰しつるかも 

【意味】
 思いがけずお越し下さったあなたですのに、佐保川の河鹿の声もお聞かせもせずお帰ししてしまいました。

【説明】
 作者の按作村主益人は伝未詳。「村主」は姓(かばね)の一つ。左注に次のような説明があります。「内匠寮(たくみりょう)の大属(だいさかん)按作村主益人が、とりあえず飲食の用意をして、長官の佐為王(さいのおおきみ)をもてなした。ところが、夕方になる前に王は帰ってしまった。益人は、王が満足せずに帰られたことを残念に思い、この歌を作った」。「内匠寮の大属」は、宮中の造作をつかさどる内匠寮の四等官。「佐為王」は橘諸兄の弟。
 
 按作益人は、思いもかけずに長官の佐為王が訪れてきたこの機会に、自慢の和歌を聞いて頂きたかったようです。ところが、その前に同僚たちと酒や料理で乱れてしまったようで、早々に帰ってしまわれたのでした。歌中の「思ほえず」は思いがけなく。「佐保川」は、春日山に発し、大和川に合流する川。「かはづ」は、河鹿。清流に棲む小さなカエルで、初夏のころから美しい声で鳴きます。「かも」は、詠嘆。

日本語の確立
 文字のない社会だった日本が漢字に触れ、自分たちの言語にこれを利用するまでには4~5世紀にわたる期間を要しました。
 奈良時代にまとめられた『古事記』や『万葉集』は、漢字を並べて書かれてはいますが、漢文ではないので、中国人が読んでも意味が分かるものではありませんでした(『古事記』の序文だけは漢文)。
 たとえば『万葉集』で恋(こい)という語は、「古比」「古飛」「故非」「孤悲」などと記され、また衣(ころも)という語は、「乙呂母」「去呂毛」「許呂母」などと表記されました。これらは、万葉仮名とよばれる音仮名の例です。
 当時の日本人は、日本語をあらわすに際し、中国語からは音に応じた文字だけを借りました。やがて平安時代になると、万葉仮名のくずし字が発達して、そこから平仮名が生まれました。こうして日本人は、漢字の音を借りて日本語を表記する方法を確立したのです。 

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万葉集の時代背景

万葉集の時代である上代の歴史は、一面では宮都の発展の歴史でもありました。大和盆地の東南の飛鳥(あすか)では、6世紀末から約100年間、歴代の皇居が営まれました。持統天皇の時に北上して藤原京が営まれ、元明天皇の時に平城京に遷ります。宮都の規模は拡大され、「百官の府」となり、多くの人々が集住する都市となりました。

一方、地方政治の拠点としての国府の整備も行われ、藤原京や平城京から出土した木簡からは、地方に課された租税の内容が知られます。また、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた大宰府は、北の多賀城とともに辺境の固めとなりましたが、大陸文化の門戸ともなりました。

この時期は積極的に大陸文化が吸収され、とくに仏教の伝来は政治的な変動を引き起こしつつも受容され、天平の東大寺・国分寺の造営に至ります。その間、多大の危険を冒して渡航した遣隋使・遣唐使たちは、はるか西域の文化を日本にもたらしました。

ただし、万葉集と仏教との関係では、万葉びとたちは不思議なほど仏教信仰に関する歌を詠んでいません。仏教伝来とその信仰は、飛鳥・白鳳時代の最大の出来事だったはずですが、まったくといってよいほど無視されています。当時の人たちにとって、仏教は異端であり、彼らの精神生活の支柱にあったのはあくまで古神道的な信仰、すなわち森羅万象に存する八百万の神々をおいて他にはなかったのでしょう。

律令下の中央官制

二官八省を基本とする体制で、天皇の下に、朝廷の祭祀を担当する神祇官と国政を統括する太政官が置かれ、太政官の下に実務を分担する八省が置かれました。二官八省のほかにも、行政組織を監察する弾正台、宮中を護衛する衛府がありました。
 
太政官の長官は太政大臣ですが、通常はこれに次ぐ左大臣右大臣が実質的な長官の役割を担いました。この下に事務局として少納言局と左右の弁官局がありました。

[八省]
中務省
式部省
治部省
民部省
(以上は左弁官局が管轄)
兵部省
刑部省
大蔵省
宮内省
(以上は右弁官局が管轄)

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