巻第6-985・986・989
985 天にます月読壮士(つくよみをとこ)賄(まひ)はせむ今夜(こよひ)の長さ五百夜(いほよ)継ぎこそ 986 はしきやし間近(まちか)き里の君(きみ)来(こ)むとおほのびにかも月の照りたる 989 焼太刀(やきたち)の稜(かど)打ち放ち大夫(ますらを)の寿(ほ)く豊御酒(とよみき)に我れ酔(え)ひにけり |
【意味】
〈985〉天にいらっしゃる月読壮士よ、贈り物をいたしましょう、だから、どうかこの夜の長さを五百夜分、継ぎ足してください。
〈986〉近くに住んでいながらなかなか来てくださらない愛しいあの方が、今夜はいらっしゃるというので、こんなにも広く月が照っているのでしょうか。
〈989〉焼いて鍛えた太刀のかどを鋭く打って、雄々しい男子が祈りをこめる立派な酒に、私は酔ってしまった。
【説明】
湯原王は、天智天皇の孫、志貴皇子の子で、兄弟に白壁王(光仁天皇)・春日王・海上女王らがいます。天平前期の代表的な歌人の一人で、父の端正で透明感のある作風をそのまま継承し、またいっそう優美で繊細であると評価されており、家持に与えた影響も少なくないといわれます。兄弟の白壁王が聖武天皇の皇女(井上内親王)を妻として位階を進め、即位の約1年半後には、皇后や皇太子を廃して獄死させているのと比較すると、王は、人間らしい風雅の道を選んだらしくあります(本心や才能を隠しつつ政争から逃れ、一生無位だったともいわれます)。生没年未詳。『万葉集』には19首。→湯原王と娘子の歌(巻第4-631~642)
985・986は、題詞に「月の歌」とある2首。985の「天にます」の「ます」は「いる」の敬語。「月読壮士」は、月の神の人格化した名称。記紀の神話では月読神はあまり活躍していませんが、それは日神を皇祖神として重きを置いたからで、実際には多くの領域で信仰されていました。この歌では、夜の世界を統治する神という信仰に基づいて歌われています。「賄」は、願い事を聞き入れてもらうための贈り物。「五百夜」は、限りなく多くの夜ということを具象的にいったもの。「継ぎこそ」の「こそ」は、願望の助詞で、続けてください、の意。
986の「はしきやし」は、ああ愛しいの意。形容詞の「愛し」の連体形「愛しき」に、詠嘆の助詞「やし」が結合したもの。「おほのびに」は、原文「大能備尓」で、他に例が見られず語義未詳ながら、大伸びに、のびやかに、の意とする説や、「大伸び」とする説などがあります。「君」とあることから、女の立場の歌であり、恋人が来るのを待っている自分の気持ちに月が広く照って答えてくれたという喜びを歌ったものとされますが、「君」を男の友人と見る説もあります。「はしきやし」の類の語が男同士で用いられる例も少なくないようです。
989は題詞に「湯原王の打酒の歌」とあり、酒を打つとは、飲酒に先立って刀で悪霊を切り払う呪法かと言われますが、「打酒歌」は、酒宴の歌の意であるとの見方があります。「焼太刀」は、火で焼き鍛えた太刀。「稜打ち放ち」の「稜」は、刀の鎬(しのぎ)の部分。「打ち放ち」の具体的動作ははっきりしていません。一説には、勢いよく抜き放った刀を振って、よい発酵を願うような行為ではなかったかとも言われます。「寿く」は、祝う。「豊御酒」は、酒を讃えての称。「我れ酔ひにけり」は、謝酒の慣用句。神祭りに酒を捧げ、神事の後にその酒を神とともに頂く(直会:なおらい)のが、本来の日本人の酒の飲み方だったといわれます。ここでは酔いの楽しさを詠んでいますが、例の少ないものです。
1544 牽牛(ひこほし)の思ひますらむ心より見る我(われ)苦(くる)し夜(よ)の更(ふ)けゆけば 1545 織女(たなばた)の袖(そで)つぐ宵(よひ)の暁(あかとき)は川瀬の鶴(たづ)は鳴かずともよし |
【意味】
〈1544〉彦星が別れを惜しんでおられる心情もさりながら、地上で見ている私の方が心苦しくなる。年に一度の逢瀬の夜が更けてゆくので。
〈1545〉織女が彦星と袖を重ねて一夜を共にした宵の暁ばかりは、川瀬の鶴よ、暁を告げて鳴かなくともよい。
【説明】
湯原王の七夕(しちせき)の歌2首。1首目で牽牛を、2首目で織女を、第三者の立場から詠んでいます。1544の「思ひますらむ」の「ます」は敬語、「らむ」は現在推量の、いずれも助動詞。「見る我苦し」は、地上で見ている自分の方が心苦しい。1545の「袖つぐ」は、衣の袖と袖を重ねる意で、共寝の婉曲的表現。「宵」と「暁」は、原文ではそれぞれ「三更」「五更」と書かれており、「更」というのは上代の夜の時間をあらわす語で、今の2時間にあたります。初更は午後8時、二更は10時、三更は12時、四更は午前2時、五更は4時のことです。「川瀬」は、天の川の川瀬。「鳴かずともよし」は、鶴が鳴けば、別れねばならない夜明けの時なので、鳴くなということを柔らげて言ったもの。逢瀬の時間が少しでも長くあってほしいと祈った歌です。
巻第8-1550・1552
1550 秋萩(あきはぎ)の散りの乱(まが)ひに呼び立てて鳴くなる鹿(しか)の声の遥(はる)けさ 1552 夕月夜(ゆふづくよ)心もしのに白露(しらつゆ)の置くこの庭に蟋蟀(こほろぎ)鳴くも |
【意味】
〈1550〉萩の花が散り乱れている。折しも、妻を呼び立てて鳴く牡鹿の声が、遥かに聞こえてくる。
〈1552〉月の出ている暮れ方、白露が降りたこの庭にコオロギが鳴いているのを聞いていると心がしんみりする。
【説明】
1550は「鳴く鹿の歌」。「散りの乱ひ」は、散って乱れること、散りまごう状態。他にも用例があり、成句になっていた語です。「呼び立てて」は、牡鹿が牝鹿を呼び立てて鳴いている意。広大な萩原の眺望を楽しんでいた時の瞬間的な光景を詠んだ歌であり、秋風によって萩の花が盛んに散るのに驚いた牡鹿が、牝鹿を呼び立てている声が聞こえると言っています。窪田空穂は、「『散りの乱ひ』の目前の景と、『声の遙けさ』のやや遠い景を対させ、萩原の広さを暗示にしているのも、用意をもってのことである」と述べています。
1552は「蟋蟀(こほろぎ)の歌」。「夕月夜」は、夕月の出ている日暮れ方。「心もしのに」の「しのに」は、しおれてしまうばかりに、の意。「しのに」は『万葉集』中10例見られますが、そのうち9例が「心もしのに」の形であり、定型表現だったことが知られます。「こほろぎ」は、秋に鳴く虫の総称で、松虫や鈴虫なども含んでいたようです。「鳴くも」の「も」は、詠嘆。斎藤茂吉はこの歌を評し、「後世の歌なら、助詞などが多くて弛むところであろうが、そこを緊張せしめつつ、句と句とのあいだに間隔を置いたりして、端正で且つ感の深い歌調を全うしている」と述べています。
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巻第6-990~991
990 茂岡(しげをか)に神(かむ)さび立ちて栄えたる千代松(ちよまつ)の木(き)の年の知らなく 991 石走(いはばし)りたぎち流るる泊瀬川(はつせがは)絶ゆることなくまたも来て見む |
【意味】
〈990〉茂岡に神々しく立って茂り栄えている千代松が何歳になるのか、見当もつかない。
〈991〉岩の上を激しくほとばしり流れ続ける泊瀬川、絶えることなくまたやってきて見よう。
【説明】
紀鹿人は、大伴家持の恋人だった紀女郎(巻第4-643~645)の父。天平12年(740年)に外従五位上。『万葉集』には3首。990は、「跡見(とみ)の茂岡の松の樹」の歌。「跡見」は、桜井市東方の地。巻第8-1560に大伴坂上郎女の「跡見田庄にて作れる歌」があり、大伴氏の領地であったと知られる地です。「茂岡」は、木々の茂る岡、または地名。「神さび」は、神々しく。「千代松」の「千代」は千年で、松の樹齢とされていました。「知らなく」は、知られないことよ。尊い老末に寄せて大伴氏を祝ったものかもしれません。
991は、「泊瀬川の河辺に来て作った」歌。「泊瀬川」は、桜井市の東方、初瀬渓谷に発し、三輪山の南を流れ、佐保川に合流するまでの川。「石走り」は、石の上や石の間を走って。「たぎち流るる」は、激しく流れる。「絶ゆることなく」は、「泊瀬川」と「またも来て見む」の両方に掛かっています。
巻第8-1549
射目(いめ)立てて跡見(とみ)の岡辺(をかへ)のなでしこの花 ふさ手折(たを)り我れは持ち行く奈良人(ならひと)のため |
【意味】
跡見の岡に咲いているなでしこの花を、たくさん折り取って私は持って行く。奈良京にいる人のために。
【説明】
旋頭歌形式(5・7・7・5・7・7)の歌。題詞に「典鋳正(いもののかみ)紀朝臣鹿人(きのあそみかひと)、衛門大尉(えもんのだいじょう)大伴宿祢稲公(おおとものすくねいなきみ)が跡見(とみ)の庄に至りで作る」歌とあります。典鋳正は、典鋳司(金銀銅鉄の造鋳などを掌る役所)の長官で、正六位相当。「衛門大尉」は、衛門府(宮中の諸門の警護等を掌る役所)の三等官で、従六位相当。大伴稲公は、旅人の異母弟。「跡見の庄」は大伴氏の領地で、稲公はそこに住んでいました。
「射目」は、狩猟のときに弓を射る人が隠れて狙う場所。「射目立てて」は、射目を設けて獣の足跡を見る意で「跡見」にかかる枕詞。「なでしこの花」は、秋の七草の一つ。「ふさ」は、たくさん。「奈良人」は奈良京にいる人で、なでしこの花を珍しがる人として言っているもの。上の990~991と同じ折の歌とみられます。
時代別のおもな歌人
●第1期伝誦歌時代
磐姫皇后/雄略天皇/聖徳太子/舒明天皇
●第1期創作歌時代
有間皇子/天智天皇/鏡王女/額田王/天武天皇
●第2期
持統天皇/大津皇子/柿本人麻呂/高市黒人/志貴皇子/長意吉麻呂
◆第3期
山上憶良/大伴旅人/笠金村/高橋虫麻呂/山部赤人/大伴坂上郎女
◆第4期
大伴家持/大伴池主/田辺福麻呂/笠女郎/中臣宅守/狭野茅上娘子/湯原王
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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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