巻第7-1194~1195
1194 紀の国の雑賀(さひか)の浦に出(い)で見れば海人(あま)の燈火(ともしび)波の間(ま)ゆ見ゆ 1195 麻衣(あさごろも)着ればなつかし紀の国の妹背(いもせ)の山に麻(あさ)蒔(ま)け我妹(わぎも) |
【意味】
〈1194〉紀伊の国の雑賀の浦に出てみたら、海人のともす漁火(いさりび)が波間から見える。
〈1195〉麻の衣を着ると、庶民的な懐かしい思いがする。紀の国の妹背の山に、そんな思いになる麻の種を蒔けよ、我が妻。
【説明】
紀伊国への行幸に従駕した藤原卿の歌。「藤原卿」とは誰を指すのかについては、神亀元年(724年)10月の紀伊行幸の時、藤原房前(ふささき)または麻呂(まろ)が作った歌という説があります。ただ、「卿」は三位以上の者につけられる尊称であり、麻呂が従三位になったのは天平元年(729年)であるため、「藤原卿」は房前とする説が有力となっています。房前は藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で、藤原北家の祖となった人物です。房前は不比等が讃岐の志度の海人に生ませた子ですが、その母が卑しい身分の自分の命と引き換えに、息子の将来を約束してもらったという伝説があります。
1194の「雑賀の浦」は、和歌山市雑賀崎の海岸。「波の間ゆ」の「ゆ」は起点を示す格助詞。1195の「麻衣」は庶民の常用服。この歌は、京にいる妻に宛てたもので、貴族的でなかなか打ち解けない妻を物足りなく思い、庶民的でなつかしい思いのする麻の種を、夫婦の譬えである妹背の山に蒔けよ、と望んだ比喩歌になっています。やや複雑な言葉遣いになっていますが、お互いの間ではただちに分かり合える性質のものだったのでしょう。「妹背の山」は、紀の川を挟んで並ぶ妹山と背山。
和歌山市南部の雑賀野(さいかの)に聖武天皇が造営した離宮があり、そこから、この一帯の海上の小島が望見できたのです。天皇はこのあたりの美しい景色をことのほか愛したといわれています。
なお、1194~1195は、7連作中の2首であり、下の1218~1222の5首に続くべきところ、本の閉じ方の混乱から分断され、順序も逆になっています。
巻第7-1218~1222
1218 黒牛(くろうし)の海(うみ)紅(くれなゐ)にほふももしきの大宮人(おほみやびと)しあさりすらしも 1219 若(わか)の浦に白波立ちて沖つ風寒き夕(ゆうへ)は大和し思ほゆ 1220 妹(いも)がため玉を拾(ひり)ふと紀の国の由良(ゆら)のみ崎にこの日暮らしつ 1221 我(わ)が舟の楫(かぢ)はな引きそ大和より恋ひ来(こ)し心いまだ飽かなくに 1222 玉津島(たまつしま)見れども飽かずいかにして包み持ち行かむ見ぬ人のため |
【意味】
〈1218〉黒牛の海が紅に照り映えている。従駕の女官たちが、岸辺で魚をとったり貝をあさったりしているらしい。
〈1219〉和歌浦に白波が立って沖から吹く風を寒く感じる夕暮れは、大和のことが偲ばれる。
〈1220〉家にいる妻のために美しい石や貝殻を拾おうと、紀の国の由良の岬に一日中過ごしてしまった。
〈1221〉私の乗る舟の梶を休めてくれ。大和からここに憧れてやって来た心は、まだ十分に飽き足りていないのに。
〈1222〉玉津島の美しいこと、いくら見ても見飽きない。どうやってこの島を包んで持ち帰ろうか、まだここを見ていない人のために。
【説明】
紀伊国への行幸に従駕した藤原卿の歌。1218の「黒牛の海」は、いまの和歌山県海南市黒江の黒江湾。「紅」は、大宮人の裳の色。「にほふ」は、色が映えている。「ももしきの」は「大宮」の枕詞。「あさり」は、魚介や海藻をとること。柿本人麻呂にも同様の情景を詠んだ歌があり(巻第1-40)、海辺に立つ女官たちの赤い裳は、官人らにとって格別に印象的だったようです。1219の「若の浦」は、和歌山市和歌浦。1220の「拾(ひり)ふ」は「ひろふ」の古形。「由良のみ崎」は、和歌山県日高郡由良町の岬。1221の「な引きそ」の「な~そ」は禁止。1222の「玉津島」は、和歌の浦にあった小島で、現在は陸続きになっています。
万葉時代の旅は、行幸の従駕、官命による出張や赴任の場合が殆どで、私用の旅や個人的な遊山は庶民のものではありませんでした。旅は、万葉人にとっては、未知の世界に触れる数少ない機会であり、海に縁のない大和の国に住み慣れた人たちは、美しい和歌の浦の景色にどれほど感動したでしょうか。旅先で思い出すのは故郷のことであり、1222の歌では、この美しい景色をみた感動を、いかに故郷にいる人たちのために持ち帰ろうかと思案しています。
巻第9-1764~1765
1764 ひさかたの 天(あま)の川(がは)に 上(かみ)つ瀬に 玉橋(たまはし)渡し 下(しも)つ瀬に 舟(ふね)浮(う)けすゑ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 裳(も)濡(ぬ)らさず 止(や)まず来(き)ませと 玉橋渡す 1765 天の川(がは)霧(きり)立ちわたる今日(けふ)今日(けふ)と我(あ)が待つ君し舟出(ふなで)すらしも |
【意味】
〈1764〉天の川の、上流には美しい橋を渡し、下流には舟を並べて舟橋を設け、雨が降って風が吹かないときでも、風が吹いて雨が降らないときでも、裳裾を濡らすことなくいつもおいで下さいと、私は美しい橋を渡しています。
〈1765〉天の川に霧がたちこめてきた。今日か今日かと私がお待ちしているあの方が、今、舟出をなさるらしい。
【説明】
七夕の歌。左注に「右の件の歌は、或いは中衛大将(ちゅうえいだいしょう)藤原北卿の宅にして作る、といふ」とあります。藤原北卿は藤原房前のことですが、作者が誰とは明記されていません。七夕の宴で作られた歌とみられます。
1764の「玉橋」は、美く飾った橋。「止まず」は、絶えず、いつも。1765の「霧」は、舟が進むことによって立つ水煙。「我が待つ君し」の「し」は強意。長歌は、女の衣装である「裳」濡らさずとあるので、織女が牽牛を訪ねていく中国伝説に従っています。一方、反歌は牽牛が訪ねていく日本の発想に従っていて、両者は調和していません。
巻第3-398~399
398 妹(いも)が家(いへ)に咲きたる梅のいつもいつも成(な)りなむ時に事は定めむ 399 妹(いも)が家(いへ)に咲きたる花の梅の花(はな)実(み)にし成(な)りなばかもかくもせむ |
【意味】
〈398〉あなたの家に咲いている梅の花が、いつなりとも実になった時に、二人の結婚を決めましょう。
〈399〉あなたの家に咲いている梅の花が実になったなら、その時はよろしいようにしたいと思っています。
【説明】
想い人を梅に喩えて詠んだ歌。相手が誰であるかは分かりません。398の「いつもいつも」は、絶えずとの意もありますが、ここは、いつなりとも。「事は定めむ」の「事」は、結婚のこと。なお、「妹」を少女(梅)の母親として解釈するものもあります。399の「実にし」の「し」は、強意。「かもかくも」は後世の「とにかくに」の古語で、とにかくに、いずれかにの意。
藤原八束は、藤原四兄弟の一人、藤原房前(ふじわらのふささき)の第3子で、後に真楯(またて)と改名。天平12年(740年)に従五位下から従五位上となり、右衛士督、式部大輔、左少弁、治部卿などを歴任し、天平勝宝2年(750年)ごろには従四位上、ついで参議、大宰帥に任じられました。『続日本紀』薨伝に、「度量弘深、公輔の才あり。官にあっては公廉にして慮私に及ばず、聖武天皇の寵愛厚く、詔して奏宣叶納(天皇への奏上と勅旨の伝達)に参ぜしめられ、明敏にして時に誉れあり、その才を従兄仲麻呂に妬まれて病と称し家に籠もって書籍を弄んだ」旨の記載があります。藤原一族でありながら、大伴家持と親交があったようで、『万葉集』にもそのことが窺える記述があります。また、天平5年ころ、山上憶良の病床にも見舞いの使者を立てています(巻第6-978)。『万葉集』には短歌7首、旋頭歌1首。
巻第6-987
待ちかてに我(あ)がする月は妹(いも)が着る御笠(みかさ)の山に隠(こも)りてありけり |
【意味】
待って待ちきれないでいる月は、まだ御笠の山に隠れているのだな。
【説明】
月の歌。「待ちかてに」は、待って待ちきれない。「妹が着る」の「着る」は、古くは笠をかぶることを言ったことから「御笠」にかかる枕詞。「けり」は、詠嘆。
巻第8-1547・1570・1571
1547 さを鹿(しか)の萩(はぎ)に貫(ぬ)き置ける露(つゆ)の白玉(しらたま) あふさわに誰(た)れの人かも手に巻かむちふ 1570 ここにありて春日(かすが)やいづく雨障(あまつつ)み出(い)でて行かねば恋ひつつぞ居(を)る 1571 春日野(かすがの)に時雨(しぐれ)降る見ゆ明日(あす)よりは黄葉(もみち)かざさむ高円(たかまと)の山 |
【意味】
〈1547〉牡鹿が、萩の上に、別れる時に貫いて残していた白玉よ。それをだしぬけに、どういう人であるのか、手に巻こうという。
〈1570〉ここから見て、春日はどちらの方角だろうか。雨に妨げられて出かけることができず、ただ恋いこがれながらじっと待っている。
〈1571〉春日野にしぐれが降っているのが見える。明日からは、黄葉をかざしにするであろう、高円山は。
【説明】
1547は旋頭歌形式。「萩」は牡鹿の妻で、「露の白玉」は、別れを惜しんで泣いた涙の譬え。「あふさわに」は、だしぬけに、または軽はずみに、たやすく。「ちふ」は、~という。「誰れの人かも」の「かも」は、疑問と詠嘆。萩の上の朝露の白珠のように美しいのを見て、だしぬけに手玉にしたいという人のあるのを、いかにもあわれを知らないと訝り咎めています。
1570の「春日」は、春日野から春日山にかけての地。「雨障み」は、雨に妨げられて家に籠ること。「居る」は、じっとしている。1571の「かざさむ」の「かざす」は、草木の花や枝を髪や冠に飾ること。「む」は、推量。「高円の山」は、奈良市の東南、春日山の南にある山。このあたりの連山の中の最高峰であるため、黄葉の早い山です。
巻第19-4271・4276
4271 松蔭(まつかげ)の清き浜辺(はまべ)に玉(たま)敷(し)かば君(きみ)来(き)まさむか清き浜辺に 4276 島山(しまやま)に照れる橘(たちばな)うずに挿(さ)し仕(つか)へまつるは卿大夫(まへつぎみ)たち |
【意味】
〈4271〉松の木陰になっている清らかな浜辺に玉を敷き詰めたなら、大君はお越しいただけるのだろうか、この清らかな浜辺に。
〈4276〉庭山に照り映える橘を髪飾りにして頭に挿し飾り、お仕えしている卿大夫たちよ。
【説明】
4271は、天平勝宝4年(752年)11月8日、聖武太上天皇が、左大臣橘朝臣(橘諸兄)の宅に行幸し宴をなさった時、諸兄が挨拶として詠んだ歌(4270:下記)に和した歌です。「松蔭(まつかげ)の清き浜辺」は、橘諸兄邸の庭の池のこと。「来まさむか」の「来まさむ」は、敬語。「か」は、疑問の助詞。
橘諸兄の歌
〈4270〉葎(むぐら)延(は)ふ賎(いや)しき宿も大君の座(ま)さむと知らば玉敷かましを
・・・葎がはびこるむさ苦しい庭でございますが、大君がおでましになると分かっていたら、玉を敷いておくのでしたのに。
4276は、同年11月25日、新甞会(しんじょうえ)に列席し宴をたまわっている時、天皇の仰せに応えて作った歌。「島山」は、御苑の築山。「照れる橘うずに挿し」は、大甞会に列するための礼装を指しています。「うず」は、草木の花や枝葉を冠や髪にさして飾りとしたもの。「卿大夫」は、天皇の御前に伺候する高官の尊称。「卿」は三位以上、「大夫」は四位および五位。
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海女の玉取伝説
四国八十八か所霊場の一つ、志度寺には、藤原不比等・房前親子にまつわる、次のような伝説が残されています。
かつて唐土から大和に送られてきた宝珠が、途中で竜神に奪われてしまった。そこで、藤原不比等は「淡海」という変名を使って志度の地に赴き、宝珠の行方を探索することとした。そのうち不比等は、その土地の玉藻という名の海女と出逢い、恋に落ちて男児をもうけるまでに至った。
時が経ち、不比等は玉藻に、自分の素姓とこの地へやって来た目的を明かした。玉藻は、宝珠が龍宮にあることを突き止め、乗り込んで奪い返そうとするが、龍神が常に守っている。決死の覚悟で奪い返したものの、龍神に襲われてしまう。傷つき息も絶え絶えとなった玉藻は、護身の短刀を自らの乳房下に突き刺して十字に切り裂くと、その中に宝珠を押し込めて海面にまで辿り着いた。駆け寄る不比等に取り出した宝珠を渡し、残された男児を藤原家の跡取りに、と頼むと、玉藻は息を引き取った。
不比等は、亡くなった玉藻の遺骸を志度寺に葬り、残された男児を都に連れて帰った。後にその児は藤原房前として政治の表舞台で活躍した。そしてある時、房前は自分の母親の最期の話を聞くと、志度寺に赴いて新たに堂宇を建て、さらに1000基の石塔を建立したという。
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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
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