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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

山上憶良の歌

巻第8-1518~1519

1518
天(あま)の川(がは)相(あひ)向き立ちてわが恋ひし君 来ますなり紐(ひも)解き設(ま)けな [一云 川に向ひて]
1519
久方(ひさかた)の天の川瀬に舟 浮(う)けて今夜(こよひ)か君が我(わ)がり来(き)まさむ
 

【意味】
〈1518〉天の川に向かって立っていると、私の恋しいあなたがいらっしゃるようだ。紐を解く準備をしましょう。[その川に向かって]

〈1519〉天の川の渡りに船を浮かべて、今夜はあの方が私のもとにいらっしゃることだ。

【説明】
 「七夕の歌12首」とあるうちの2首。1518は、養老8年(724年)7月7日に、皇太子(聖武天皇)の命に応えて作った歌。憶良は、養老5年から皇太子の侍講となっていました。ただし、聖武天皇は養老8年2月に即位しているので、ここの歌が詠まれたのは同5年の誤写ではないかといわれます。「来ます」は「来る」の敬語。「紐解き設けな」の「設」は、準備する。「な」は、自分自身に対しての希望の助詞。

 1519は、神亀元年(724年)7月7日の夜に、左大臣、長屋王の佐保邸で作った歌。「我がり」は、私の許への意。いずれの歌も、七夕の夜に、牽牛との逢瀬を前にした織女のうきうきした気持ちを詠んでいます。「久方の」は「天」の枕詞。「我がり」は、私のところへ。

巻第8-1520~1522

1520
彦星(ひこほし)は 織女(たなばたつめ)と 天地(あめつち)の 別れし時ゆ いなむしろ 川に向き立ち 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 青波(あをなみ)に 望みは絶えぬ 白雲に 涙は尽きぬ かくのみや 息(いき)づき居(を)らむ かくのみや 恋ひつつあらむ さ丹塗(にぬ)りの 小舟(をぶね)もがも 玉巻きの 真櫂(まかい)もがも[一云 小棹(をさお)もがも] 朝なぎに い掻(か)き渡り 夕潮(ゆふしほ)に[一云 夕(ゆふへ)にも] い漕(こ)ぎ渡り ひさかたの 天(あま)の川原(かはら)に 天飛(あまと)ぶや 領巾(ひれ)片敷き 真玉手(またまで)の 玉手さし交(か)へ あまた夜(よ)も 寐(い)ねてしかも [一云 寐(い)もさ寝てしか] 秋にあらずとも[一云 秋待たずとも]
1521
風雲(かざくも)は二つの岸に通へども我が遠妻(とほづま)の [一云 愛(は)し妻の] 言(こと)ぞ通はぬ
1522
たぶてにも投げ越しつべき天(あま)の川(がは)隔(へだ)てればかもあまたすべなき
  

【意味】
〈1520〉彦星は織女と、天地が別れた遠い昔から天の川に向かって立ち、思う心は安からず、嘆く心の内も苦しくてならないのに、川に漂う青波に、逢う望みを絶たれてしまった。白雲に遮られて、涙も涸れてしまった。このように溜息ばかりつき、恋い焦がれてばかりおられようか。赤く塗った小舟でもあれば、玉で飾った櫂でもあれば(一に云う 小さな棹でもあれば)。朝の凪ぎ時に水をかいて渡り、夕方の滿潮時に(一に云う 夕べにも)漕ぎ渡り、天の川原に領巾(ひれ)を床代わりに敷いて、玉のような腕を差し交わし、幾夜も幾夜も寝たいものだ。(一に云う 心ゆくまで寝たいものだ)。七夕の秋でなくとも(一に云う 七夕の秋を待つことなく)。

〈1521〉風や雲は天の川の両岸を自由に行き来しているのに、遠くにいる我が妻(一に云う 私の愛しい妻)と、言葉も交わすこともできない。
 
〈1522〉小石を投げても越せそうな天の川なのに、どうしても渡る術がない。

【説明】
 「七夕の歌12首」のうちの2首。天平元年(729年)7月7日に天の川を仰ぎ見て作った歌で、ある本に、大伴旅人の邸宅で作ったというとの注記があります。

 1520の「いなむしろ」「ひさかたの」「天飛ぶや」は、それぞれ「川」「天」「領巾」の枕詞。「かくのみや」は、このように~ばかりしてはいられない。「さ丹塗りの」の「さ」は、接頭語で、赤く塗った。「領巾」は、女性が襟から肩にかけた細長い白布。「玉手」は美しい手。1522の「たぶて」は、つぶて、小石の意。「すべなき」は、どうしようもない。

巻第8-1523~1526

1523
秋風の吹きにし日よりいつしかとわが待ち恋ひし君そ来ませる
1524
天の川いと川波は立たねどもさもらひかたし近きこの瀬を
1525
袖振らば見も交(かは)しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば
1526
玉かぎるほのかに見えて別れなばもとなや恋ひむ逢ふ時までは
  

【意味】
〈1523〉秋風が吹き始めたころから、いついらっしゃるかと恋しく思っていたあなたが、今日こそいらっしゃるのです。
 
〈1524〉それほど波立つことのない天の川なのに、なかなか漕ぎ出せないでいます。この瀬は近いのに。
 
〈1525〉袖を振ったらお互いに見交わせるほど近いのに、渡る手段がありません、秋にならないので。
 
〈1526〉少しお逢いしただけですぐにお別れすれば、無性に恋しく思うでしょう、次にお逢いするまでは。

【説明】
 「七夕の歌12首」のうちの4首。左注に、天平2年(730年)7月8日の夜、大宰帥大伴旅人卿の家に集まって作ったとあります。雨が降ったか何かで、この日に延期したものとみられます。

 1523の「いつしか」は、それは何時か、早く。1524の「いと」は、甚だしく。「さもらふ」は、様子をうかがう。1525の「見も交しつべく」は、顔を見合わせられそうに。1526の「玉かぎる」は「ほのかに」の枕詞。「ほのかに見えて」は、少し逢っただけで。「もとなや」は、むやみやたらに。

巻第8-1527~1529

1527
牽牛(ひこほし)し嬬(つま)迎へ舟(ぶね)漕ぎ出(づ)らし天の川原(かはら)に霧の立てるは
1528
霞(かすみ)立つ天の川原に君待つとい行き帰るに裳(も)の裾(すそ)濡(ぬ)れぬ
1529
天の川 浮津(うきつ)の波音(なみおと)騒(さわ)くなり我(あ)が待つ君し舟出(ふなで)すらしも
 

【意味】
〈1527〉牽牛が妻を迎える船を漕ぎ出したらしい。天の川のほとりに霧が立っているのはそのせいだろう。

〈1528〉霞がかかっている天の川の川原を、行ったり来たりしてあなたをお待ちしていたら裳の裾が濡れてしまいました。

〈1529〉天の川の船着き場の波音が高くなってきた。お待ちするあの方が舟出されたらしい。

【説明】
 「七夕の歌12首」のうちの3首。1527は第三者の立場、1528・1529は織女の立場の歌。1527の「彦星し」の「し」は、強意の助詞。「嬬迎へ舟」は、妻の織女星を迎えに行くための舟。1528の「い行き帰るに」の「い」は接頭語。行ったり来たりして。1529の「浮津」は、天の川にある船着き場。天空に浮かぶものとしてこのように言ったとみえます。

 もとは中国の伝説である七夕が日本に伝来した時期は定かではありませんが、七夕の宴が正史に現れるのは天平6年(734年)で、「天皇相撲の戯(わざ)を観(み)る。是の夕、南苑に徒御(いでま)し、文人に命じて七夕の詩を腑せしむ」(『続日本紀』)が初見です。ただし『万葉集』の「天の川安の河原・・・」(巻10-2033)の左注に「この歌一首は庚辰の年に作れり」とあり、この「庚辰の年」は天武天皇9年(680年)・天平12年のいずれかで、前者とすれば、すでに天武朝に七夕歌をつくる風習があったことになります。七夕の宴の前には天覧相撲が行われました。

 『万葉集』中、七夕伝説を詠むことが明らかな歌はおよそ130首あり、それらは、人麻呂歌集、巻第10の作者未詳歌、山上憶良、大伴家持の4つの歌群に集中しています。その範囲は限定的ともいえ、もっぱら宮廷や貴族の七夕宴などの特定の場でのみ歌われたようです。七夕伝説は、当時まだ一般化していなかったと見えます。
 
 なお、元の中国の七夕伝説は次のようなものです。昔、天の川の東に天帝の娘の織女がいた。織女は毎日、機織りに励んでいて、天帝はそれを褒め讃え、川の西にいる牽牛に嫁がせた。ところが、織女は機織りをすっかり怠けるようになってしまった。怒った天帝は織女を連れ戻し、牽牛とは年に一度だけ、七月七日の夜に天の川を渡って逢うことを許した。
 
 ところが日本では牽牛と織女の立場が逆転し、牽牛が天の川を渡り、織女が待つ身となっています。なぜそうなったかについて、民俗学の立場から次のように説明されています。「かつて日本には、村落に来訪する神の嫁になる処女(おとめ)が、水辺の棚作りの建物の中で神の衣服を織るという習俗があった。この処女を『棚機つ女(たなばたつめ)』といい、そのイメージが織女に重なったため、織女は待つ女になった。また、当時の日本の結婚が「妻問い婚」という形をとっていたためだと考えられている」。女が男に逢いに行くというのは、日本人の共感を呼ぶには無理なストーリーだったのでしょう。

巻第8-1537~1538

1537
秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数(かぞ)ふれば七種(ななくさ)の花〈その一〉
1538
萩(はぎ)の花(はな)尾花(をばな)葛(くず)花なでしこの花をみなへしまた藤袴(ふぢはかま)朝顔の花〈その二〉
  

【意味】
〈1537〉秋の野に咲いている花を指折り数えてみると、七種類あります。

〈1538〉秋の野に咲く七種類の花は、萩、すすき、くず、なでしこ、おみなえし、そして藤袴、朝顔です。

【説明】
 秋野の花を詠んだ歌で、2首1組という珍しい形になっています。1538は、秋の七草を旋頭歌形式(5・7・7・5・7・7)で詠っています。短歌形式では七草すべてを詠み込むことができなかったからです。「尾花」はススキで、花が尾に似ているための名。「朝顔」は、現在のアサガオではなく、桔梗(ききょう)、むくげ等ではないかとの諸説があります。春の七草が、七草粥など食用にされるのに対し、秋の七草はもっぱら鑑賞用となっています。憶良のこの歌によって「秋の七草」が定着したと考えられています。

巻第9-1716

白波(しらなみ)の浜松の木の手向(たむ)けくさ幾代(いくよ)までにか年は経(へ)ぬらむ

【意味】
 白波の打ち寄せる浜辺の松の枝に結ばれたこの手向けの紐は、結ばれてからどのくらいの長い年月を経てきたのだろう。

【説明】
 有馬皇子にちなむ岩代の浜松を詠んだ歌です。題詞に「山上が歌」とあり、山上憶良の作とみられますが、左注には「或いは川島皇子の御作歌といふ」とあります。巻第1-34には「白波の浜松が枝の手向けぐさ幾代までにか年の経ぬらむ (一云 年は経にけむ)」の歌が載っており、こちらは「紀伊の国に幸す時に、川島皇子の作らす歌或いは山上臣憶良作るといふ」とあります。

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古典に親しむ

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七夕と万葉集

年に一度、7月7日の夜のみ逢うことを許された牽牛と織女の二星の物語は、もともと古代中国で生まれた伝説で、漢水流域で、機織りを業とする処女と若い農夫との漢水を隔てての恋物語が、初秋の夜空に流れる天の川に投影されたのがその原型とされます。

この「七夕伝説」がいつごろ日本に伝来したかは不明ながら、七夕の宴が正史に現れるのは天平6年(734年)で、「天皇相撲の戯(わざ)を観(み)る。是の夕、南苑に徒御(いでま)し、文人に命じて七夕の詩を腑せしむ」(『続日本紀』)が初見です。ただし『万葉集』の「天の川安の河原・・・」(巻10-2033)の左注に「この歌一首は庚辰の年に作れり」とあり、この「庚辰の年」は天武天皇9年(680年)・天平12年のいずれかで、前者とすれば、天武朝に七夕歌をつくる風習があったことになります。七夕の宴の前には天覧相撲が行われました。

『万葉集』中、七夕伝説を詠むことが明らかな歌はおよそ130首あり、それらは、人麻呂歌集、巻第10の作者未詳歌、山上憶良、大伴家持の4つの歌群に集中しています。その範囲は限定的ともいえ、もっぱら宮廷や貴族の七夕宴などの特定の場でのみ歌われたようです。七夕伝説は、当時まだ一般化していなかったと見えます。

山上憶良の略年譜

701年
第8次遣唐使の少録に任ぜられ、翌年入唐。この時までの冠位は無位
704年
このころ帰朝
714年
正六位下から従五位下に叙爵
716年
伯耆守に任ぜられる
721年
東宮・首皇子(後の聖武天皇)の侍講に任ぜられる
726年
このころ筑前守に任ぜられ、筑紫に赴任
728年
このころまでに太宰帥として赴任した大伴旅人と出逢う
728年
大伴旅人の妻の死去に際し「日本挽歌」を詠む
731年
筑前守の任期を終えて帰京
731年
「貧窮問答歌」を詠む
733年
病没。享年74歳
 

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