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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

元正天皇の御製歌

巻第8-1637

はだすすき尾花(をばな)逆葺(さかふ)き黒木もち造れる室(むろ)は万代(よろづよ)までに 

【意味】
 はだすすきや尾花を逆さにして屋根を葺き、黒木で造った新室(にいむろ)は、万代の後まで栄えることであろう。

【説明】
 左注に「聞くところによると、太上天皇(元正天皇:太上天皇は上皇のこと)が左大臣長屋王の佐保の邸宅におでましになり、宴を催されたときの御歌だという」とあります。「はだすすき」は「尾花」の枕詞。「尾花」は、穂を出した薄(ススキ)。「逆葺き」とあるのは、ふつう薄で屋根を葺くには根に近いほうを下に向けるのを、反対に穂のほうを下に向けて葺いてあったもの。風流を演出したのでしょうか。「黒木」は、皮のついたままの木材。「造れる室」は、天皇の行幸を仰ぐために特に造った御座所。天皇は、室を通して長屋王の家に対しての賀の気持ちを詠んでいます。なお、この歌の次には、聖武天皇の御製歌も載っています。

〈1638〉あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室は座(ま)せど飽かぬかも
 ・・・奈良の山で取れた黒木で造ったこの室は、いつまでも座っていて飽きることがない。
 
 元正(げんしょう)天皇は、父・草壁皇子(天武天皇の子)と母・元明天皇の長女にあたります。名は氷高皇女といい、和銅7年(714年)年9月に母の譲位を受けて36歳で即位しました。このとき、皇太子として首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)がありましたが、まだ14歳で身体も虚弱だったらしく、一方、氷高皇女は落ち着いた考え深い人柄であり、社稷保持のため、また皇嗣候補として有力な他の諸皇子を抑えるためもあって即位に至ったとされます。その治世前半は、母上皇と藤原不比等が政権を担い、二人の死後は長屋王が担当しました。

巻第18-4057

玉 敷(し)かず君が悔(く)いて言ふ堀江(ほりえ)には玉敷き満(み)てて継ぎて通(かよ)はむ〈或いは云ふ、玉 扱(こ)き敷きて〉

【意味】
 玉を敷かないのをあなたが悔やむこの堀江には、私が隅まで玉を敷いて、何度も通い続けましょう。〈私が玉を散らして敷いて〉

【説明】
 左注に「御船で堀江をさかのぼって舟遊びをした日に、左大臣の橘諸兄が奏上した歌と御製」とあり、この歌の前に橘諸兄による歌があります。

〈4056〉堀江には玉敷かましを大君を御船(みふね)漕がむとかねて知りせば
 ・・・堀江に玉を敷き詰めておくのでした。わが大君がここで御船にお乗りになるとわかっていましたら。

 諸兄の自身の不注意を謝する歌に対し、天皇はおおらかにお答えになっており、君臣の親和のさまがうかがわれる御製です。「玉」は、道を清らかにするために敷く小石。「堀江」は、難波の堀江。今の天満橋あたりの大川とされます。

巻第18-4058

橘(たちばな)のとをの橘(たちばな) 八(や)つ代(よ)にも我(あ)れは忘れじこの橘を

【意味】
 橘のなかでも枝もたわわんばかりに実ったこの橘を、私はいつの代までも忘れはしない、この橘を。

【説明】
 元正太上天皇が、左大臣・橘諸兄の邸宅で宴を催した時、御座所近くに植えられていた橘を捉えての御製。「とを」は、枝がたわむほど豊かに実がなること。「とをの橘」は、諸兄の一家の繁栄をたとえた言葉。「八つ代」は、八千代、多くの年代の意。「橘」という氏は、元々その木になぞらえて賜わったものであり、非常に緊密した譬えとなっています。また「橘」の語が3度も繰り返されていることから、天皇による諸兄への絶大なる賛美と信頼が窺えます。なお、この歌の次に、供奉していた河内女王(こうちのおおきみ:高市皇子の娘)と粟田女王(あわたのおおきみ:系統未詳)が詠んだ歌があります。

河内女王の歌
〈4059〉橘の下照(したで)る庭に殿(との)建てて酒(さか)みづきいます我(わ)が大君(おほきみ)かも
・・・橘の実が木陰を照らしている庭に御殿を建て、わが大君は酒の宴に興じておいでになることだ。

粟田女王の歌
〈4060〉月待ちて家には行かむ我(わ)が插(さ)せる赤ら橘(たちばな)影(かげ)に見えつつ
 ・・・月の出を待ってから家に帰ることにいたしましょう。私どもが插頭(かざし)にしている赤くきれいな橘の実を月の光に照らしながら。
 
 4059の「橘の下照る庭に」は、間接ながら諸兄に対する賀でもあり、「殿」は、新たに建てられた天皇の御座所のことで、行幸を仰ぐ際には清浄を期すため新築するのが習いになっていました。「酒みづき」は、酒に浸る意。4060の「影」は、月の光。「見えつつ」は、見られつつ、照らされつつ。

 またこの次には、夏、難波堀江に納涼などなされ、御船が綱手(つなで=船につないで引く綱)で川をさかのぼり、遊宴した時の歌が載せられています。

〈4061〉堀江(ほりえ)より水脈引(みをび)きしつつ御船(みふね)さす賤男(しづを)の伴(とも)は川の瀬(せ)申せ
 ・・・堀江を通り水路をたどり、御船の棹を操っている下々の者どもよ、川の瀬によく注意してお仕えせよ。

〈4062〉夏の夜(よ)は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹(さを)さし上(のぼ)れ
 ・・・夏の夜は暗くて足元がおぼつかない。引き船をやめて船に乗り、流れの速い瀬ごとに棹をさして漕いで上れよ。

 これらは、供奉していた官人で、御船の責任者となっていた官人が、船頭をはじめ船人一同に向かって述べた歌です。

巻第20-4293

あしひきの山行きしかば山人(やまびと)の我れに得(え)しめし山づとぞこれ

【意味】
 人里離れた山を歩いていたら、その山に住む山人が私にくれた山のお土産なのです、これは。

【説明】
 元正太上天皇が山村に行幸した時、上皇がお供の親王や臣下たちに「この歌に返歌を作って奏上しなさい」と仰せられながら詠んだ御歌。「あしひきの」は「山」の枕詞。「山づと」は、山で採れた土産。「山人」は、山に住んでいる人の意ですが、天皇が尊んで言っているので、ここでは仙人を意味します。この時代に流行っていた神仙思想に基づいています。これに対して舎人皇子が詠んだ歌が載っています。

〈4294〉あしひきの山に行きけむ山人(やまびと)の心も知らず山人や誰(たれ)
 ・・・そもそも山にお住いのはずの仙女であられる陛下が、山に行かれたというお気持ちがわかりません、山人とは誰のことでしょう。

 上皇の御所を仙洞御所といったので、上皇を仙女にたとえて戯れています。

 なお、左注に次のような説明があります。「以上の歌は、天平勝宝5年(753年)5月に、大納言藤原朝臣(藤原仲麻呂)邸で、天皇に奏上するに際し請問する合間に、少主鈴(しょうしゅれい)の山田史土麻呂(やまだのふひとひじまろ)が少納言大伴宿祢家持に、『昔、この言を聞きました』と言って誦った」。時の左大臣は橘諸兄だったにもかかわらず、天皇(孝謙天皇)の在所となっている仲麻呂邸が政務遂行の中心となっており、天皇に奏上するに当たって相談する相手が、ほかでもない仲麻呂であったことが分かります。また、山田史土麻呂がこれらの歌を家持に伝えたのは、家持が広く皇族や貴族の詠歌を収集していたことが宮廷で周知されていたことを意味しています。

巻第20-4437

霍公鳥(ほととぎす)なほも鳴かなむ本(もと)つ人かけつつもとな我(あ)を音(ね)し泣くも

【意味】
 ホトトギスよ、もっと鳴いておくれ。亡くなった人を思い出してしきりに泣けてくるけれど。

【説明】
 「本つ人」は懐かしい人、亡き人の意。「かけつつ」は及ぼしつつ、関連しつつ。「もとな」は、わけもなく、みやみに。この時の元正天皇にとって懐かしい人とは、父の草壁皇子、母の元明天皇、弟の文武天皇が考えられますが、誰のことかは分かりません。霍公鳥の哀調を帯びた鳴き声は、人を思わせるものであったようです。
 
 なお、この歌の次に、命婦の薩妙観(さつのみょうかん)がお答えした歌が載っています。

〈4438〉ほととぎすここに近くを来(き)鳴きてよ過ぎなむ後(のち)に験(しるし)あらめやも
 ・・・ホトトギスよ、この近くまで来て鳴いておくれ。今という時が過ぎたあとで鳴いても何の甲斐もないので。

 また、冬の日、靫負(ゆけい)の御井(みい)に行幸なさったときに、内命婦石川朝臣(ないみょうぶいしかわのあそみ)が詔に応えて雪を詠んだ歌が4439にあります。

〈4439〉松が枝(え)の土に着くまで降る雪を見ずてや妹(いも)が隠(こも)り居(を)るらむ
 ・・・松の枝が重みで地に着くほどに降り積もる雪、こんなすばらしい雪を見ることなく、あなたは部屋に閉じ籠っておられるのでしょうか。

 内命婦石川朝臣は大伴安麻呂の妻で坂上郎女の母。「内命婦」は五位以上の女官。なお、左注に次のような補足説明があります。
 そのころ、水主内親王(もひとりのひめひこ:天智天皇の皇女)は睡眠も食事もろくにできない状態で、幾日も参内していなかった。そこで、この日、太上天皇(元正上皇)が女官たちに命じて、「水主内親王に贈るために雪を詠んだ歌を奉りなさい」と仰せられた。しかし、もろもろの命婦らは歌を作れなくて、ひとり石川命婦のみ歌を作って献上した。

 元正天皇は、日本の女帝としては5人目ですが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇です。『続日本紀』には「物静かで美しい人だった」と書かれています。およそ8年の在位期間を経て、養老8年(724年)2月に退位し、位を譲られた首(おびと)皇子が即位して聖武天皇となりました。

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天武皇統の維持

 天武天皇崩御後に、ほどなく皇位継承するはずだった草壁皇子が、689年に皇太子のまま薨じたため、その母の持統天皇が正式に即位しました。この時、有力な皇位継承者と目されていたのは、天武天皇の皇子で序列3位の高市皇子でした。高市は、母の身分は低かったものの、天武の皇子の中で最年長であり、壬申の乱では天武の右腕となって活躍した人でしたから、人望もありました。持統は、さすがに大津皇子のように高市を抹殺することはできませんでした。持統の目論見は、草壁の遺児で孫にあたる軽皇子(かるのみこ)を立太子させ、後に即位させることでしたが、いかんせん軽皇子はこの時わずか7歳でしたので、無理がありました。

 そこで、自身が即位し、軽皇子が成長するまでの中継ぎ役となったのです。それでも、もし高市より自分が先に倒れたら、という不安はあったはずです。その時は高市に皇位が移っても仕方ないと考えたようです。しかし、持統にとって幸いなことに、696年7月に高市が病没します。ようやく軽皇子の立太子への道が開けたのです。しかし、天武の皇子たちが他にもいたためにすんなりとはいかず、諸臣の強い反対がある中で強行された立太子だったようです。

 そうして皇太子となった軽皇子は、697年8月に、持統天皇から譲位されて14歳で即位し、文武天皇となりました。ところが、文武天皇は、父の草壁と同様に病弱であったため、707年6月、まだ25歳の若さで崩御してしまいます。幸か不幸か、持統はその前の703年に亡くなっていましたから、文武の死を知りません。しかし、持統は、軽皇子の立太子、即位をめざす折に、藤原不比等の助力を得ていました。不比等の娘宮子を、文武天皇の後宮に入内させており、この宮子との間に生まれたのが、この時7歳になっていた首皇子(おびとのみこ)です。

 文武天皇の崩御後は、今度は不比等が主導して首皇子への皇位継承を画策します。まずは草壁の妃で文武の母である阿倍皇女(あへのひめみこ:天智の皇女)を中継ぎとして即位させ(元明天皇)、次いで715年9月、娘で文武の姉にあたる氷高皇女(ひだかのひめみこ)が元正天皇として即位します。そして、首皇子が、元正天皇から譲位を受けて即位したのは724年2月、24歳の時のことでした。それが聖武天皇です。

 このように、天武天皇から草壁皇子、そして文武、聖武天皇へと続く皇統は、間に2人の中継ぎの女帝を挟むことによって、何とか維持されてきたのです。 

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古典に親しむ

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万葉時代の天皇

第29代 欽明天皇
第30代 敏達天皇
第31代 用明天皇
第32代 崇俊天皇
第33代 推古天皇
第34代 舒明天皇
第35代 皇極天皇
第36代 孝徳天皇
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第46代 孝謙天皇
第47代 淳仁天皇
第48代 称徳天皇
第49代 光仁天皇
第50代 桓武天皇


(元正天皇)

律令制度の歴史

近江令
668年、天智天皇の時代に中臣鎌足が編纂したとされるが、体系的な法典ではなく、国政改革を進めていく個別法令群の総称と考えられている。重要なのは、670年に、日本史上最初の戸籍とされる庚午年籍が作成されたことで、氏姓の基準が定められ、その後の律令制の基礎ともなった。

飛鳥浄御原令
681年に天武天皇が律令制定を命ずる詔を発し、持統天皇の時代の689年に「令」の部分が完成・施行された。現存していないが、後の大宝律令に受け継がれる基本的な内容を含む、日本で初めての体系的な法典であったとされている。

大宝律令
藤原不比等や刑部親王らによって701年に制定・施行された。唐の律令から強い影響を受けた日本初の「律」と「令」が揃った本格的な法典であり、奈良時代以降の中央集権国家体制を構築する上での基本的な内容が盛り込まれた。

養老律令
大宝律令と同じく藤原不比等らにより718年から編纂が開始され、不比等の死後も編纂が続き、757年に完成・施行された。なお、律令制は平安時代の中期になるとほとんど形骸化したが、廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。 


(藤原不比等)

ホトトギスの故事

霍公鳥(ホトトギス)は、特徴的な鳴き声と、ウグイスなどに托卵する習性で知られる鳥で、『万葉集』には153首も詠まれています(うち大伴家持が65首)。霍公鳥には「杜宇」「蜀魂」「不如帰」などの異名がありますが、これらは中国の故事や伝説にもとづきます。

長江流域に蜀(古蜀)という貧しい国があり、そこに杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興、やがて帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の治水に長けた男に帝位を譲り、自分は山中に隠棲した。杜宇が亡くなると、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来ると、鋭く鳴いて民に告げた。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは、ひどく嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 帰りたい)と鳴きながら血を吐くまで鳴いた。ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになった。

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