本文へスキップ

万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

高橋虫麻呂の歌

巻第9-1742~1743

1742
級(しな)照る 片足羽川(かたしはがは)の さ丹(に)塗りの 大橋(おほはし)の上ゆ 紅(くれなゐ)の 赤裳(あかも)裾(すそ)ひき 山藍(やまあゐ)もち 摺(す)れる衣(きぬ)きて ただ独(ひと)り い渡らす児(こ)は 若草の 夫(つま)かわるらむ 樫(かし)の実の 独りか寝(ぬ)らむ 問はまくの 欲(ほ)しき我妹(わぎも)が 家の知らなく
1743
大橋の頭(つめ)に家あらばま悲しく独り行く児(こ)に宿(やど)貸さましを
 

【意味】
〈1742〉片足羽川の丹塗りの橋を、美しい乙女がただ一人渡っていく。裾をひく紅の裳をはき、藍色の上着をまとって。あの乙女は夫のある身だろうか、それとも、どんぐりのように一人寝の身なのか、尋ねてみたいけれど、彼女の家も知らない。

〈1743〉大橋のたもとに家があればなあ、憂えながら一人で行くあの乙女に宿を貸してあげたいのに。

【説明】
 題詞に「河内の大橋を独り行く娘子(をとめ)を見る」とある長歌と短歌。「河内」は、大阪府東部を南北に連なる一帯。「大橋」は、柏原市安堂町と藤井寺市船橋の間にあったとされ、その大きなところから、このような名で呼ばれたようです。

 1742の「級照る」は、階段をなして火が照る意で、「片足羽川」の「片」の枕詞。『日本書紀』にある聖徳太子の歌に「しなてる片岡山に」とあるのによっています。「片足羽川」は、大和川が龍田から河内へ流れ出たあたりの名か。「さ丹塗り」の「さ」は接頭語で、赤い塗料による塗装。大橋と呼ばれる橋は渡来系の技術者が架けた唐風の丹塗りの橋で、当時は珍しいものだったといいます。「上ゆ」は、上を通って。「ゆ」は、経過を表す語。「紅の赤裳裾ひき」は、紅色のロングスカートのこと。「山藍」は、藍染のこと。「い渡らす」の「い」は接頭語、「渡らす」は「渡る」の敬語。「若草の」は「夫」の枕詞。「樫の実の」は「独り」の枕詞。「問はまく」は「問はむ」の名詞形。「知らなく」は「知らぬ」の名詞形。

 1743の「頭」は、橋のたもと。「ま悲しく」は、たよりなく悲しげにして。「あらば~貸さましを」の「あらばば~まし」は、反実仮想。寂しそうに歩いている娘を呼び止め、宿を貸してなぐさめてあげたい、すなわち彼女を泊めて一夜を共にしたいと、大胆なことを言っています。しかし、「宿貸さましを」というのは、たいへんきれいな言い方です。旅する男にとって、川にかかった大橋を一人で渡っていく若い女の姿は、大いに好奇心をそそられる光景だったのでしょう。橋のたもとは多く歌垣が行われた場所であり、そこに女性を誘う意味を含むとする見方もあります。

 作家の大嶽洋子は、この歌について次のように述べています。「ここには彼の他の作品に見るような物語性はないのだが、何かがこれから起こりそうな、何もストーリー性がないから、余計にしみじみと、彼の紡ぎだす朱色の橋と乙女になつかしさと幻影の影を感じさせる。現実ではありえない彼の願望を漲らせた一首といえる」

 高橋虫麻呂(生没年不明)は、藤原宇合(ふじわらのうまかい)が常陸守だった頃に知遇を得、その後も宇合に仕えた下級官人といわれます。奈良に住み、摂津・河内・難波などにも出かけており、自編と推定される『高橋虫麻呂歌集』の名が万葉集の中に見えます。常陸国の役人もつとめ、『常陸国風土記』の編纂に加わったのも虫麻呂だったようです。『万葉集』には30首あまりが入集しており、人麻呂などの宮廷歌人とは違い、天皇賛歌や皇族の挽歌などよりも、旅先での景色や人の営みなどを詠んだ歌が多くあります。

巻第9-1744~1746

1744
埼玉(さきたま)の小埼(をさき)の沼に鴨(かも)ぞ羽(はね)霧(き)る 己(おの)が尾に降り置ける霜を掃(はら)ふとにあらし
1745
三栗(みつぐり)の那賀(なか)に向へる曝井(さらしゐ)の絶えず通はむそこに妻(つま)もが
1746
遠妻(とほづま)し多珂(たか)にありせば知らずとも手綱(たづな)の浜の尋ね来(き)なまし
 

【意味】
〈1744〉埼玉の小埼の沼で、鴨が羽ばたいてしぶきを飛ばしている。尾に降り置いた霜を払いのけようとしているらしい。

〈1745〉那賀の向かいにある曝井の水が絶え間なく湧くように、絶えず通おう。そこで布を洗う女たちの中に、都の妻がいるかもしれない。
 
〈1746〉遠く大和にいる妻がここ多珂郡にいるとすれば、たとえ道がわからなくても、私が今いる手綱の浜の名のように、私を訪ねて来てくれるだろうに。

【説明】
 いずれも虫麻呂が常陸国に赴任していた時の作。1744は「武蔵の小崎の沼の鴨を見て作る」歌で、虫麻呂唯一の旋頭歌形式の歌。「小埼の沼」は、埼玉県行田市の埼玉にあった沼。「霧る」は、しぶきを上げる意。1745は「那珂郡の曝井の歌」。上3句は「絶えず」を導く序詞。「三栗の」は「那賀」の枕詞。「那賀」は、常陸国那賀郡。「曝井」は、水戸市愛宕町の滝坂の泉とされ、村の女たちが洗濯した布を曝すためにこの名がついたといいます。1746は「手綱の浜の歌」。「手綱の浜」は、茨城県高萩市の海岸。「多珂」は、茨城県にあった郡。「ありせば~来なまし」の「せば~まし」は、反実仮想。1745・1746は、遠い旅先で都の妻が現れるという非現実的なことを空想し、それをひそかに願う心を詠っています。

【PR】

時代別のおもな歌人
 

●第1期伝誦歌時代
 磐姫皇后/雄略天皇/聖徳太子/舒明天皇
 
●第1期創作歌時代
 有間皇子/天智天皇/鏡王女/額田王/天武天皇
 
●第2期
 持統天皇/大津皇子/柿本人麻呂/高市黒人/志貴皇子/長意吉麻呂
 
◆第3期
 山上憶良/大伴旅人/笠金村/高橋虫麻呂/山部赤人/大伴坂上郎女
 
◆第4期
 大伴家持/大伴池主/湯原王/田辺福麻呂/笠女郎/中臣宅守/狭野茅上娘子 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

バナースペース

【PR】

『万葉集』以前の歌集

■「古歌集」または「古集」
 これら2つが同一のものか別のものかは定かではありませんが、『万葉集』巻第2・7・9・10・11の資料とされています。

■「柿本人麻呂歌集」
 人麻呂が2巻に編集したものとみられていますが、それらの中には明らかな別人の作や伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではありません。『万葉集』巻第2・3・7・9~14の資料とされています。

■「類聚歌林(るいじゅうかりん)」
 山上憶良が編集した全7巻と想定される歌集で、何らかの基準による分類がなされ、『日本書紀』『風土記』その他の文献を使って作歌事情などを考証しています。『万葉集』巻第1・2・9の資料となっています。

■「笠金村歌集」
 おおむね金村自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第2・3・6・9の資料となっています。

■「高橋虫麻呂歌集」
 おおむね虫麻呂の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第3・8・9の資料となっています。

■「田辺福麻呂歌集」
 おおむね福麻呂自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第6・9の資料となっています。
 
 なお、これらの歌集はいずれも散逸しており、現在の私たちが見ることはできません。
 

【PR】

【目次】へ