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万葉集の歌【目次】万葉集古典に親しむ

『柿本人麻呂歌集』から(巻第10)

巻第10-1812

ひさかたの天(あま)の香具山(かぐやま)このゆふべ霞(かすみ)たなびく春立つらしも 

【意味】
 天の香具山に、この夕暮れ、霞がたなびいている。どうやら、春になったらしいな。

【説明】
 「春の雑歌」。「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天の」は香具山を称えて添える語で、慣用されているものです。香具山は、畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)とともに大和三山の一つ。「春立つらしも」の「らし」は根拠に基づく推定、「も」は詠嘆。なお、この歌を本歌として、『新古今集』に「ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく」(巻第1-2、後鳥羽上皇)という歌があります。

 斉藤茂吉によれば、「この歌はあるいは人麿自身の作かも知れない。人麿の作とすれば少し楽に作っているようだが、極めて自然で、佶屈でなく、人心を引き入れるところがあるので、有名にもなり、後世の歌の本歌ともなった」。また、詩人の大岡信は、「いかにも人麻呂の作らしい、ゆったりした快い声調の歌であり、巻頭(巻第10)に置くにはまことにふさわしい歌といえる」と述べています。

 さらに、国文学者の池田彌三郎は、「この歌で、『このゆふべ』と、作者が展望している『時』をはっきりと言い出し、指定していることは、この叙景歌に特に生命を与えている。しかし、この言い方は多くの追随者を生んで、だんだん『この』が際どくなってきて、暦の上で春が来た『この』日、というような興味に堕していってしまう。あとに続く同類の歌のために、鑑賞を妨げられ、価値を減殺されることは致し方がないが、それはこの歌の責任ではない」とも述べています。

 なお、『万葉集』には、春の到来や秋の到来を「春立つ」「秋立つ」と表現する歌が散見されます。これらは二十四節気の「立春」「立秋」から来ているともいわれますが、しかし「立夏」「立冬」に対応するはずの「夏立つ」「冬立つ」の表現は見られません。「立つ」とは、神的・霊的なものが目に見える形で現れ出ることを意味する言葉であることから、農耕生活にもっとも大切な季節とされた春と秋が、そうした霊威の現れとして意識されていたと窺えます。

巻第10-1813~1815

1813
巻向(まきむく)の桧原(ひはら)に立てる春霞(はるかすみ)おほにし思はばなづみ来(こ)めやも
1814
いにしへの人の植ゑけむ杉(すぎ)が枝(え)に霞(かすみ)たなびく春は来(き)ぬらし
1815
子らが手を巻向山(まきむくやま)に春されば木(こ)の葉(は)凌(しの)ぎて霞(かすみ)たなびく
  

【意味】
〈1813〉巻向の檜林にぼんやりとに立ちこめている春霞、その春霞のように、軽々しい気持ちで思うのだったら、こんなに難渋しながらここまでやって来るだろうか。
 
〈1814〉昔の人が植えたのだろう、その杉木立の枝に霞がたなびいている。春がやって来たようだ。

〈1815〉あの子が手を巻くという、その名の巻向山に春がやってくると、木々の葉を押し伏せるように霞がたなびいている。

【説明】
 「春の雑歌」。1813の「巻向」は奈良県桜井市北部、穴師を中心とした一帯で、人麻呂の妻がいた地でもあります。上3句は「おほに」を導く序詞。「おほに」は、明瞭でない状態、ぼんやりとしたさまを示し、視覚的な不確かさを表す語ですが、いい加減なさま、なおざりなさまを表現する場合もあり、ここは後者の意。「し」は、強意。「なづみ」は骨を折って。「やも」は反語。

 1814の「植ゑけむ」の「けむ」は、過去推量。「春は来ぬらし」は、春は来たらしい。1815の「子らが手を」は「巻向山」の枕詞。「巻向山」は、桜井市穴師の東方にある標高567mの山。「春されば」は、春になると。「凌ぐ」は、押し伏せる、押さえつける。なお、これらの歌にある「霞」と同じように視界を遮る現象に「霧(きり)」がありますが、霞が自分とは距離を隔てた所にあるのに対し、霧は自らをも包み込んでしまうものと把握されていたといいます。

巻第10-1816~1818

1816
玉かぎる夕(ゆふ)さり来れば猟人(さつひと)の弓月(ゆつき)が岳(たけ)に霞(かすみ)たなびく
1817
今朝(けさ)行きて明日(あす)には来(き)なむと言ひしかに朝妻山(あさづまやま)に霞(かすみ)たなびく
1818
子等(こら)が名に懸(か)けのよろしき朝妻(あさづま)の片山(かたやま)ぎしに霞(かすみ)たなびく
 

【意味】
〈1816〉光がほのかな夕暮れになると、狩人の弓にちなむ弓月が岳に、霞がたなびいている。
 
〈1817〉今朝は帰って行き、明日は来ようと言いたいのに、朝妻山に霞がかかっているよ。

〈1818〉愛しい人の名のように呼んでみたい朝妻の、その片山の崖に霞がかかっている。

【説明】
 「春の雑歌」。1816の「玉かぎる」は、玉の発する光がほのかで、夕方の光に似ているところから、「夕」の枕詞。「猟人の」は、猟師が持つ弓の意で「弓月が岳」の枕詞。「弓月が岳」は巻向山の最高峰(標高567m)。

 1817の上3句は「朝妻山」を導く序詞。「朝妻」は、奈良県御所市朝妻。聖徳太子が建立した葛城寺のあたりで、「朝妻山」は金剛山だとされます。なお、2・3句の「明日は来なむとねと言ひしかに」の原文は「明日者来皐等云子鹿丹」で訓義とも定まらず、「明日には来ねと言ひし子か」として「(今夜はお帰りになっても)明日にはまたきっと来てくださいと言ったあの子か」と解するなど、いくつかの訓みと解釈例があります。

 1818の「子等」は男性が女性を親しんで呼ぶ語であり、複数形ではありません。「懸けのよろしき」は、関係させていうのによい意。「片山」は、平野側の方にだけ傾斜面がある山。「朝妻」という名から、妻の朝の様子を思い起こしていて、共に夜を過ごした男性から見て、翌朝の妻の様子というのは、夜にもまして親密で愛しいということなのでしょう。

巻第10-1890~1893

1890
春山(はるやま)の友鶯(ともうぐひす)の泣き別れ帰ります間(ま)も思ほせ我(わ)れを
1891
冬こもり春咲く花を手折(たを)り持ち千(ち)たびの限り恋ひわたるかも
1892
春山の霧(きり)に惑(まと)へる鴬(うぐひす)も我(わ)れにまさりて物思(ものも)はめやも
1893
出(い)でて見る向(むか)ひの岡に本(もと)茂(しげ)く咲きたる花の成(な)らずは止(や)まじ
  

【意味】
〈1890〉春山のウグイスが仲間同士で鳴き交わして別れるように、泣く泣く別れてお帰りになるその道すがらの間でも、思って下さい、この私のことを。
 
〈1891〉冬が去って春に咲いた花を手折り持っては、限りなくあなたを恋し続けています。

〈1892〉春山の霧の中に迷い込んだウグイスでさえ、この私にまさって物思いにまどうことはないでしょう。

〈1893〉家を出てすぐに見える向かいの岡に、根元までいっぱいに咲いている花が、やがて実を結ぶように、この恋を実らせないではおかないつもりです。

【説明】
 「春の相聞」。1890の上2句は「泣き別れ」を導く序詞。「友鶯」は、ウグイスが連れ立っているように見えるところから友といったもの。他には例のない表現ですが、漢籍には友を求めて鳴くウグイスの例が多く見られ、その知識が下敷きになっているようです。「帰ります」「思ほせ」は、それぞれ「帰る」「思へ」の尊敬語。1891の「冬こもり」は「春」の枕詞。「千たびの限り」は、際限のないほど数多く。

 1892の「霧」について、同じ視界を遮る現象である「霞」との区別は、霞が自分とは距離を隔てた所にあるのに対し、霧は自らをも包み込んでしまうものと把握されていたといいます。ここではウグイスを近く取り巻いているので「霧」と言っています。1893の「本」は、木の根元。上4句は「成る」を導く序詞。「成る」は恋を実らせる喩え。ここの歌は女の歌の連作で、前2首が現在の思い、後2首が将来の思いをうたったものとされます。

巻第10-1894~1896

1894
霞(かすみ)立つ春の長日(ながひ)を恋ひ暮らし夜(よ)も更けゆくに妹(いも)も逢はぬかも
1895
春されば先(ま)づ三枝(さきくさ)の幸(さき)くあらば後(のち)にも逢はむな恋ひそ我妹(わぎも)
1896
春さればしだり柳(やなぎ)のとををにも妹(いも)は心に乗りにけるかも
   

【意味】
〈1894〉霞がかかった春の長い一日を恋い焦がれて過ごし、夜も更けてきたけれど、あの子が現れて逢ってくれないものか。

〈1895〉春が来ると、まず咲き出す三枝(さきくさ)のように、無事でいたなら後に逢えるのだから、そんなに恋しがらないでおくれ、わが妻よ。

〈1896〉春が来て芽吹くしだれ柳の枝がたわむように、愛しいあの娘が私の心にずっしりと乗りかかってきて、心がいっぱいだ。

【説明】
 「春の相聞」で、いずれも男の歌。1894の「も~ぬか」は、願望。1895の「三枝」は、枝が三つに分かれている植物のことだといわれ、三椏(みつまた)、山百合、笹百合、沈丁花などのうちのどれかではないかとされますが、はっきりしません。上2句は二重の序詞になっており、「先づ」までが「三枝」を導き、上2句が「さき」の同音で「幸(さき)」を導いています。「な恋ひそ」の「な~そ」は、禁止。

 1896の「春されば」は、春が来て。上2句は「とををに」を導く序詞。「とををに」は、たわみしなうほどに。心の中を好きな女が占めており、その重みが嬉しい、と言っています。「乗る」は、霊魂などが取り憑いて離れなくなる意。「妹は心に乗りにけるかも」は、万葉人に好まれたフレーズだったようで、他の相聞歌にもいくつか用例が見られます。

巻第10-1996~1999

1996
天(あま)の川(がは)水さへに照る舟(ふね)泊(は)てて舟なる人は妹(いも)と見えきや
1997
ひさかたの天の川原(かはら)にぬえ鳥(どり)のうら泣きましつすべなきまでに
1998
我(あ)が恋を夫(つま)は知れるを行く舟の過ぎて来(く)べしや言(こと)も告(つ)げなむ
1999
赤らひく色(いろ)ぐはし子をしば見れば人妻(ひとづま)ゆゑに我(あ)れ恋ひぬべし
  

【意味】
〈1996〉天の川の水に照り映えるほど美しい舟を岸辺に着けて、その舟のお方は愛しい人に逢えたのだろうか。

〈1997〉天の川の川原で、その人は、ぬえ鳥のように忍び泣きしておられた。たまらなくいたわしく。

〈1998〉私のつらい思いをご存じのはずなのに、あの方の舟はここに立ち寄らずに行ってしまうのか、せめて言伝てだけでもほしい。

〈1999〉ほんのりと頬が朱に染まったその人をたびたび見れば、人妻なのに私は恋してしまいそうだ。

【説明】
 「七夕(しちせき)」の歌。ここから2033まで「七夕の歌」が38首続きます。これらは、宮廷詩宴に集った下級官人らの歌だろうといわれます。七夕伝説の陰暦7月は秋であり、7~9月は秋の季節、また恋の季節とされました。七夕伝説はもともと中国のもので、その内容は次のようなものです。―― 昔、天の川の東に天帝の娘の織女がいた。織女は毎日、機織りに励んでいて、天帝はそれを褒め讃え、川の西にいる牽牛に嫁がせた。ところが、織女は機織りをすっかり怠けるようになってしまった。怒った天帝は織女を連れ戻し、牽牛とは年に一度だけ、七月七日の夜に天の川を渡って逢うことを許した。――

 『万葉集』中、七夕伝説を詠むことが明らかな歌はおよそ130首あり、それらは、人麻呂歌集、巻第10の作者未詳歌、山上憶良、大伴家持の4つの歌群に集中しています。妻問い婚という形態と重ねられるゆえに流行しましたが、その範囲は限定的ともいえ、もっぱら宮廷や貴族の七夕宴などの特定の場でのみ歌われたようです。七夕伝説は、当時まだ一般化していなかったと見えます。

 1996の「舟なる人」は、牽牛のこと。1997の「ひさかたの」「ぬえ鳥の」は、それぞれ「天」「うら泣き」の枕詞。「すべなし」は、どうしようもない。1998の「知れるを」の「を」は、逆接。「告げなむ」の「なむ」は、願望。1999の「赤らひく」は、赤みを帯びる意で「色ぐはし子」にかかる枕詞。「色ぐはし」の「色」は顔立ち、容貌。「くはし」は、美しい、うるわしい。「しば」は、たびたび。

 なお、1996から2012の歌までは七夕当日以前の時を詠んだ歌が多く存在しており、「待つ」という動詞が多用されていることから、七夕の日や相手を待つ思いが歌われており、さらに「告ぐ」という、使者によって消息や思いを相手に伝える言葉も使われています。つまり、ここには牽牛と織女の他にもう一人、使者が登場しています。そして、その使者とは、同じ空にある「月」を擬人化した「月人壮士」です。これについては、月人壮士を登場させることによって、新たな「七夕」の物語をつくりあげようとしたのだろうとの見解があります。たとえば、1996は牽牛の月人壮士への問いかけとみると、「舟なる人」は牽牛のことではなく、「天の川の水に照り映えるほどの月の舟がとまっている。舟にいる月人壮士よ、お前には我が妻である織女の姿が見えたのだろうか」のように解釈できますし、それに続く1997は、月人壮士が七夕以前の織女の姿を答えた歌と見ることができます。 また、1999は、第三者として織女を見てその美しさに惹かれた心を詠んだ歌ですが、その第三者とは月人壮士であるかもしれません。

巻第10-2000~2003

2000
天(あま)の川(がは)安(やす)の渡りに舟(ふね)浮(う)けて秋立つ待つと妹(いも)に告げこそ
2001
大空ゆ通(かよ)ふ我(わ)れすら汝(な)がゆゑに天(あま)の川道(かはぢ)をなづみてぞ来(こ)し
2002
八千桙(やちほこ)の神の御代(みよ)よりともし妻(づま)人知りにけり告げてし思へば
2003
我(あ)が恋ふる丹(に)のほの面(おも)わ今夕(こよひ)もか天の川原(かはら)に石枕(いしまくら)まく
  

【意味】
〈2000〉天の川の安の船着き場で舟を浮かべ、七夕の秋がやってくるのをひたすら待っていると、あの子に伝えてほしい。

〈2001〉大空を自在に往き来している私だが、あなたに逢うために、定められた天の川の川道を難渋しながらやってきたよ。

〈2002〉遠い神の御代から、めったに逢えない妻であることを、人々に知れ渡ることになった。使いの者に思いを告げつづけてきたものだから。

〈2003〉我が恋い焦がれているほんのり赤い頬のあの子は、今宵も天の川原で石を枕にして独り寝ているだろうか。

【説明】
 「七夕(しちせき)」の歌。2000の「安の渡り」の「安」は、記紀の神話に出ている高天原にある川、「渡り」は渡し場で、日本神話と七夕伝説のそれぞれの川が融合されています。「浮けて」は、浮かべて。「秋立つ待つと」は、秋の立つのを待っていると。「妹」は、織女。「告げこそ」の「こそ」は、希求の助詞。

 2001の「大空ゆ」の「ゆ」は、通過点。「汝」は、織女を指したもの。「なづむ」は、行き悩むこと。2002の「八千桙」は大国主命のことで、国土開発の神。「ともし妻」は、逢えることがまれな愛しい妻。多く織女をさしていいます。「告げてし」の「し」は、強意の助詞。2003の「丹のほの面わ」の「丹」は、赤い色、「ほ」は、目立つもの、「面わ」は、顔。「わ」は輪郭のこと。「石枕まく」の「まく」は枕にする意で、独りで寝ること。

巻第10-2004~2007

2004
己夫(おのづま)にともしき子らは泊(は)てむ津の荒礒(ありそ)巻きて寝(ね)む君待ちかてに
2005
天地(あめつち)と別れし時ゆ己(おの)が妻しかぞ離(か)れてあり秋待つ我(わ)れは
2006
彦星(ひこほし)は嘆かす妻に言(こと)だにも告げにぞ来つる見れば苦しみ
2007
ひさかたの天(あま)つ印(しるし)と水無(みな)し川(がは)隔(へだ)てて置きし神代(かみよ)し恨(うら)めし
  

【意味】
〈2004〉自分の夫に滅多に逢えない織女は、今宵もまた舟の着く港の荒磯を枕にして寝るのだろう、夫を待ちかねて。

〈2005〉天と地が分かれた遠い昔から、妻とこのように離れ離れに暮らしつつ、ひたすら秋が来るのを待っている、この私は。

〈2006〉嘆き悲しむ妻に、せめて言葉だけでも伝えようと思ってやって来た。逢うと辛いので。
 
〈2007〉大空の境界として水無し川を置き、二人を隔ててしまった神代の定めがうらめしい。

【説明】
 「七夕(しちせき)」の歌。2004の「ともしき」は、珍しく思う。「子ら」の「子」は女の愛称、「ら」は接尾語。「待ちかてに」は、待ちかねて。2005の「別れし時ゆ」の「ゆ」は、動作の起点。「しかぞ離れてあり(然叙手而在)」は、訓が定まらない部分です。2006の「嘆かす」は「嘆く」の敬語。「言だにも」は、言葉だけでも。ただ、定説となっている上掲の解釈に対し、逢うのが辛いと言いつつ言葉を告げようというのは、対面を前提にしていることと意味が繋がらないとの批判から、「嘆き悲しむ妻に逢うとお互いに苦しいので、言葉さえ告げないで来た」のように解すべきとの説があります。2007の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「水無し川」は、地表を水が流れない川で、ここは天の川のこと。「天つ印」は、天上の標識の意。「神代し」の「し」は、強意の助詞。

巻第10-2008~2012

2008
ぬばたまの夜霧(よぎり)に隠(こも)り遠くとも妹(いも)が伝へは早く告(つ)げこそ
2009
汝(な)が恋ふる妹(いも)の命(みこと)は飽き足(だ)らに袖(そで)振る見えつ雲隠(くもがく)るまで
2010
夕星(ゆふつづ)も通ふ天道(あまぢ)をいつまでか仰(あふ)ぎて待たむ月人壮士(つきひとをとこ)
2011
天の川い向(むか)ひ立ちて恋しらに言(こと)だに告げむ妻(つま)どふまでは
2012
白玉(しらたま)の五百(いほ)つ集(つど)ひを解(と)きもみず我(わ)れは寝(ね)かてぬ逢はむ日待つに
  

【意味】
〈2008〉暗い夜霧に隠された道のりは遠く大変だろうけれど、愛しい彼女の伝言は一刻も早く伝えてほしい。

〈2009〉あなたの愛する奥方の、物足りなさゆえに、しきりに袖を振って別れを惜しむ姿が見えましたよ、あなたが雲に隠れてしまうまで、ずっと。

〈2010〉もう日が暮れて、宵の明星も空の道を往き来しているのに、いつまで見上げて彦星が川を渡るのを待てばいいの、月人壮士よ。

〈2011〉天の川にずっと向かい合っていると、妻が恋しくてならず、せめて言葉だけでも伝えよう、逢える日が来るまでは。
 
〈2012〉白玉がいっぱい連なった首飾りをかけたまま、私は独り寝られないでいます。お逢い出来る日をひたすら待ち焦がれて。

【説明】
 「七夕」の歌。2008の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。2009の「妹の命は」は、尊称。歌の解釈について、「いつまでも飽きずに袖を振る奥方の姿が、雲に隠れるまで見えていたよ」とするものもあります。2010の「夕星」は、宵の明星。金星。「月人壮士」は、月を擬人化した呼び名。2011の「い向かひ」の「い」は、接頭語。「恋しらに」は、恋しさゆえに。「ら」は、情態を示す語。2012の「白玉」は、真珠。「白玉の五百つ集ひ」は、多くの真珠を緒に貫いて集めた物で、礼装として着けた物。

 以上、1996からここまでの歌は、七夕当日以前の時が多く詠まれている歌群であり、さらには、月人壮士が、年に一度しか逢うことのできない二星の様子を伝える使者の役割を果たしているとして、月人壮士と牽牛との対詠であるとの見方もあります。二人の対詠によって、七夕以前の牽牛・織女が逢うことのできる当日を待ちわびる様が描かれているといいます。

巻第10-2013~2017

2013
天(あま)の川(がは)水蔭草(みづかげくさ)の秋風に靡(なび)かふ見れば時は来にけり
2014
我(あ)が待ちし秋萩(あきはぎ)咲きぬ今だにもにほひに行かな彼方人(をちかたひと)に
2015
我(わ)が背子(せこ)にうら恋ひ居(を)れば天(あま)の川(がは)夜舟(よふね)漕ぐなる楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ
2016
ま日(け)長く恋ふる心ゆ秋風に妹(いも)が音(おと)聞こゆ紐(ひも)解き行かな
2017
恋ひしくは日(け)長きものを今だにもともしむべしや逢ふべき夜(よ)だに
  

【意味】
〈2013〉天の川の水陰に生えている草々が秋風に靡くのを見ると、ああ、いよいよ年に一度の逢瀬の時がやってきたのだ。

〈2014〉私が待ちに待っていた秋萩が咲いた。さあ、今すぐ色に染まりに行こう、川向こうのあの人に。

〈2015〉あの人に早く逢いたいと恋い焦がれていると、天の川から、夜舟を漕いでやってくる楫の音が聞こえてきた。

〈2016〉幾日もずっと恋い焦がれてきたので、吹く秋風に乗って、あの子の気配が聞こえてくる。さあ、衣の紐を解いて行こう。
 
〈2017〉恋い焦がれて長い日々を過ごしてきたのだから、今だけは、物足りない思いはさせないでおくれ、逢える今夜だけは。

【説明】
 「七夕(しちせき)」の歌。ここからは2028まで、いよいよ七夕の夜、牽牛と織女の逢会から翌朝の別れまでの様子がうたわれます。ストーリーの展開に沿って配列されており、『人麻呂歌集』における七夕歌の物語的性格がとくに指摘されているところです。

 2013・2014・2016・2017は牽牛の立場で詠んだ歌、2015は織女の立場で詠んだ歌。2013の「水蔭草」は水辺の物陰に生える草。2014の「にほふ」は美しい色に染まる。「行かな」の「な」は、願望。「彼方人」は、遠くにいる人。2015の「うら恋ひ居れば」の「うら」は心。2016の「ま日長く」の「ま」は接頭語。「心ゆ」の「ゆ」は、理由を表す「よって」「せいで」の意。「行かな」の「な」は、願望の終助詞。2017の「ともしむ」は、不満足にさせる。「や」は、反語。

巻第10-2018~2022

2018
天(あま)の川(がは)去年(こぞ)の渡りで移ろへば川瀬を踏むに夜(よ)ぞ更(ふ)けにける
2019
古(いにしへ)ゆ上げてし服(はた)も顧みず天(あま)の川津(かはづ)に年ぞ経(へ)にける
2020
天の川 夜船(よふね)を漕ぎて明けぬとも逢はむと思へや袖(そで)交(か)へずあらむ
2021
遠妻(とほづま)と手枕(たまくら)交(か)へて寝たる夜(よ)は鶏(とり)がねな鳴き明けば明けぬとも
2022
相(あひ)見(み)らく飽(あ)き足(だ)らねどもいなのめの明けさりにけり舟出(ふなで)せむ妻
  

【意味】
〈2018〉天の川の、去年渡った渡し場がすっかり変わっていたので、川瀬を踏んで捜しているうちに夜が更けてしまった。

〈2019〉ずっと前から織り続けていた機(はた)も放ったらかしにして、あなた恋しさに舟着き場でこの一年を過ごしてしまいました。

〈2020〉天の川に夜舟を漕いで、たとえ夜が明けてしまったとしても、思う夜には袖を交わし、共寝せずにはいられない。

〈2021〉いつも遠くにいる妻と手枕を交わし、こうしてやっと寝ることができた夜は、鶏よ鳴かないでくれ、夜が明けようとも。

〈2022〉どれほど交わってもまだ満足できないが、すっかり夜が明けたから、舟出するとしよう、わが妻よ。

【説明】
 「七夕」の歌。2018・2020~2022は、牽牛の立場で詠んだ歌、2019は織女の立場で詠んだ歌。2018の「渡り」は、渡し場または渡るのに便利な地点。2019の「服」は、織物を織る機械。2021では、織女を「遠妻」と表現しています。「鶏がね」は、鶏。「な鳴き」は、禁止。「明けば明けぬとも」の「~ば~とも」は、どうにでもなれの気持ち。共寝をする部屋は相手の顔も見えない閉じ籠った暗闇でしたから、夜が明けても明るくはなりません。だから鳥の声によって夜明けが告げられるというわけです。2022の「相見らく」は、男女が関係を結ぶこと。「いなのめの」は稲の目で、古代家屋の明り取りかともいわれ、「明け」の枕詞。

巻第10-2023~2028

2023
さ寝(ね)そめていくだもあらねば白栲(しろたへ)の帯(おび)乞(こ)ふべしや恋も過ぎねば
2024
万代(よろづよ)にたづさはり居(ゐ)て相見(あひみ)とも思ひ過ぐべき恋にあらなくに
2025
万代(よろづよ)に照るべき月も雲隠(くもがく)り苦しきものぞ逢はむと思へど
2026
白雲(しらくも)の五百重(いほへ)に隠(かく)り遠くとも宵(よひ)さらず見む妹(いも)があたりは
2027
我(あ)がためと織女(たなばたつめ)のそのやどに織(お)る白栲(しろたへ)は織りてけむかも
2028
君に逢はず久しき時ゆ織る服(はた)の白栲衣(しろたへごろも)垢(あか)づくまでに
  

【意味】
〈2023〉一緒に寝始めてからまだ幾らも時間は経っていないのに、もう帯をお求めになるのですか。積もりに積もった恋心も晴れていないのに。

〈2024〉千年も万年も手に手を取り合って二人一緒にいようとも、簡単に思いが晴れてなくなるような、そんななまじっかな恋ではない。

〈2025〉千年も万年も照り続ける月も、時に雲に隠れるのは辛い。そのように、思うように逢えないのは本当に苦しい。いついつまでも逢っていたいのに。

〈2026〉白雲の幾重にも重なる彼方に隠れ、遠く隔たっていても、毎夜毎夜欠かさずに見よう。あの子がいるあたりを。

〈2027〉私のためにと織女が家で織っていたあの白布は、もう織り上げてしまっただろうか。

〈2028〉あなたにお逢いできない長い間、ずっと織り続けた真っ白な着物は、もう手垢がつくまでになっています。

【説明】
 「七夕」の歌。2023は、上の2022に呼応した織女の歌。「さ寝」の「さ」は接頭語。「いくだも」は、幾らも。「白妙の」は「帯」の枕詞。「も~ねば」は、しないうちに。着物を着ようと帯を欲する牽牛に対し、織女はまだ続きを求めています。2024~2027は牽牛の歌。2024の「思ひ過ぐ」の「過ぐ」は、なくなる。「恋にあらなくに」は、恋ではないことだ。2026の「五百重」は、幾重にもということを具象的にいったもの。「宵さらず」は、宵にはいつも。2027の「織りてけむかも」の「けむ」は、過去推量。「かも」は、疑問。2028は、上の2027に呼応した織女の歌。「久しき時ゆ」の「ゆ」は、~より。
 
 1996からここまで、七夕の夜以前の逢えぬ嘆き、それに続き当夜の逢会と翌朝の別れの様子を、登場人物に身を置いて詠んだ歌が配列され、「七夕」の物語が完成しています。このあとに5首続きますが、時間の逆行や第三者の立場で詠んだものもあり、補遺歌とみられます。

巻第10-2029~2033

2029
天の川 楫(かぢ)の音聞こゆ彦星(ひこぼし)と織女(たなばたつめ)と今夜(こよひ)逢ふらしも
2030
秋されば川霧(かはぎり)立てる天の川川に向き居て恋ふる夜(よ)ぞ多き
2031
よしゑやし直(ただ)ならずともぬえ鳥(どり)のうら泣き居(を)りと告げむ子もがも
2032
一年(ひととせ)に七日(なぬか)の夜(よ)のみ逢ふ人の恋も過ぎねば夜(よ)は更(ふ)けゆくも [一云 尽きねばさ夜ぞ明けにける]
2033
天の川 安(やす)の川原(かはら)定而神競者磨待無
  

【意味】
〈2029〉天の川に、艪を漕ぐ音が聞こえる。彦星と織女が今夜いよいよ共寝をするらしい。

〈2030〉秋がやってくると、川霧がしきりに立ちこめる天の川。その天の川に向かって座り、妻を恋うる夜が幾晩も幾晩も続いている。

〈2031〉たとえ直接逢えないとしても、私がぬえ鳥の泣くように忍び泣きをしていることを、あの人に告げてくれる使いの子がいたらよいのに。

〈2032〉一年のうち七日の一夜だけ逢う人の、恋の苦しさもまだ晴れないうちに、夜はいたずらに更けてゆく。[恋も尽きないうちに、夜が明けてしまった]

〈2033〉(解釈保留)

【説明】
 「七夕」の歌。2030は牽牛の歌。「秋されば」は、秋になると。「川霧立てる」は「川ぞ霧らへる」と訓むものもあります。2031は織女の歌。「よしゑやし」は、えい、ままよ。「ぬえ鳥の」は「うら泣き」の枕詞。「うら泣き」の「うら」は、内心。「がも」は、願望の助詞。2032の「恋も過ぎねば」は、恋も尽きないのに。2033の「定而神競者磨待無」の訓義未詳のため、解釈を保留。
 
 以上、1996から2033までの38首が、『柿本人麻呂歌集』から採録された「七夕の歌」です。ごく稀に、織女が牽牛を訪ねて行く中国由来の場面をうたったものもありますが、大部分はすでに日本化された恋の歌ばかりとなっています。

巻第10-2094~2095

2094
さを鹿の心(こころ)相(あひ)思ふ秋萩(あきはぎ)のしぐれの降るに散らくし惜(を)しも
2095
夕されば野辺(のへ)の秋萩(あきはぎ)うら若み露(つゆ)にぞ枯(か)るる秋待ちかてに
  

【意味】
〈2094〉牡鹿が心に思う秋萩が、時雨が降るので散ってしまうのが惜しいことです。

〈2095〉夕方になると野原の萩は、まだ枝が若いので露にあたって枯れてしまいます、秋を待たずに。

【説明】
 「花を詠む」歌。2094の「さを鹿」の「さ」は接頭語で、牡鹿。「散らくし」の「散らく」は「散る」の名詞形。「し」は強意。2095の「夕されば」は、夕方になると。「うら若み」の「うら」は、枝の先端。「秋待ちかてに」は、秋を待たずに。

巻第10-2178~2179

2178
妻ごもる矢野(やの)の神山(かみやま)露霜(つゆしも)ににほひそめたり散らまく惜(を)しも
2179
朝露(あさつゆ)ににほひそめたる秋山にしぐれな降りそありわたるがね
  

【意味】
〈2178〉矢野にある神山が露霜に当たってすっかり色づき始めた。やがて散っていくのが惜しいことだ。

〈2179〉朝露に濡れて色づき始めた秋山に、時雨は降らないでほしい、このままずっと続いてほしいから。

【説明】
 「紅葉を詠む」歌。2178の「妻こもる」は「矢野」の枕詞。「矢野の神山」は所在未詳ながら、島根県出雲市の矢野神社ではないかとする説があります。「にほひ」は、美しい色になる。「そめたり」は、始めている。2179の「な降りそ」の「な~そ」は禁止。「ありわたる」は、存在し続ける。「がね」は、してほしい。

巻第10-2234

一日(ひとひ)には千重(ちへ)しくしくに我(あ)が恋ふる妹(いも)があたりに時雨(しぐれ)降る見ゆ

【意味】
 一日の間に、幾度も重ね重ね私が恋い焦がれるあの子の家のあたりに、時雨がしきりに降っている。

【説明】
 「雨を詠む」歌。「一日には」は、一日のうちには。「千重」は、幾度もを強調した語。「しくしくに」は、しきりに、絶え間なく。この歌について窪田空穂は、「奔放であるとともに統一があって、技巧としても超凡なものである。人麿以外の者には詠めない歌で、若き日の人麿を思わせるに足りる歌である」と述べています。

巻第10-2239~2243

2239
秋山のしたひが下(した)に鳴く鳥の声だに聞かば何か嘆(なげ)かむ
2240
誰(た)そかれと我(わ)れをな問ひそ九月(ながつき)の露(つゆ)に濡れつつ君待つ我(わ)れを
2241
秋の夜(よ)の霧(きり)立ちわたりおほほしく夢(いめ)にぞ見つる妹(いも)が姿を
2242
秋の野の尾花(をばな)が末(うれ)の生(お)ひ靡(なび)き心は妹(いも)に寄りにけるかも
2243
秋山に霜(しも)降り覆(おほ)ひ木(こ)の葉(は)散り年は行くとも我(わ)れ忘れめや
  

【意味】
〈2239〉秋のもみじの陰で鳴く鳥の声のように、思う人の声だけでも聞けたなら、どうしてこんなに嘆くことがあろう。

〈2240〉誰なのか、などと私にお聞きにならないで下さい。九月の冷たい露に濡れながら、あなたを待っている私なのです。

〈2241〉秋の夜に一面に立ちこめている霧のように、おぼろげに夢に見た。いとしいあの子の姿を。
 
〈2242〉秋の野のススキの穂先が風に靡くように、私の心はすっかりあの子に靡き寄ってしまった。

〈2243〉秋の山い霜が降り、木の葉も散って年がすぎてゆくけれど、私はあの子のことを忘れようにも忘れられない。

【説明】
 「秋の相聞」。2239の上3句は「声」を導く序詞。「したひ」は「したふ」の名詞形で、木の葉が色づくこと。「何か」は反語。声だけを聞いて近づくこともできずに恋い続けている人を、秋山の木陰で泣く鳥の声を聞いて連想し、嘆いている歌です。

 2240は、女が男の来るのを戸外に立って待っていて、男は来たけれども、薄暗い中で、人影を誰とも分からず、訝って尋ねたという歌です。「誰そ彼」は、今では薄暮をいう語になっていますが、ここはその語源的なものです。「な問ひそ」の「な~そ」は、禁止。なお、解釈について「誰なのかあの人は、などと私に尋ねないで下さい。・・・あの方を待っている私ですのに」として、恋人を見咎めた第三者に対しての言葉とするものもあります。どちらにせよ、逢引が戸外でも行われたことが窺えます。そのときには当然時間と場所の打ち合わせをする必要があったわけですが、その役割は使いの者が担ったと考えられます。

 2241の上2句は「おほほしく」を導く序詞。「おほほしく」は、おぼろげに。2242の上2句は「生ひなびき」を導く序詞。2243の「年は行くとも」は、年が過ぎて行こうとも。

巻第10-2312~2315

2312
我(わ)が袖(そで)に霰(あられ)た走(ばし)る巻き隠(かく)し消(け)たずてあらむ妹(いも)が見むため
2313
あしひきの山かも高き巻向(まきむく)の岸の小松(こまつ)にみ雪降り来る
2314
巻向(まきむく)の檜原(ひはら)もいまだ雲(くも)居(ゐ)ねば小松が末(うれ)ゆ沫雪(あわゆき)流る
2315
あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿(しらかし)の枝もとををに雪の降れれば [或云 枝もたわたわ]
  

【意味】
〈2312〉私の袖にあられが降りかかってきて飛び散る。それを袖をに包み隠し、なくならないようにしよう。妻に見せたいから。

〈2313〉巻向山は高い山なのだなあ、麓の崖に生えている小松にまで雪が降ってくる。

〈2314〉巻向山の檜林にまだ雲もかかっていないのに、松の梢を通して沫雪が流れ飛んでくるよ。

〈2315〉どこが山道なのか分からない。白橿の枝がたわむほどに雪が降り積もったので。

【説明】
 「冬の雑歌」。2312の「た走る」の「た」は接頭語で、走っている、激しく落ちる状態。激しく降りかかる状態。「巻き隠し」は、袖に巻いて隠して。妻のもとに通って行く途中に霰に逢い、自身珍しく面白く思うとともに、それを持っていって妻にも見せようと言っています。ほほ笑ましい情愛の伝わる歌であり、窪田空穂は「若い人麻呂の何物も面白がり、心を躍らせるさまが断面的にみえる。この生趣は人麻呂のみのものである」と述べています。

 2313の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山かも高き」は、山が高いからだろうか。「巻向山」は、奈良県桜井市三輪の東北にある山。「岸」は山と平地の境あたり。「小松」の「小」と、「み雪」の「み」は、接頭語。「けり」は、詠嘆の助動詞。

 2314の「檜原」は、ヒノキの林、「雲居ねば」は、雲がかかっていないのに。「末ゆ」の「末」は木の枝葉の先端、「ゆ」は、~を通して。「淡雪」は、うっすらと積もってすぐに消えていく雪。ふつうなら空に雲がかかってから雪が降り始めるのに、先に雪が降り始めたようすが詠われています。

 2315の「あしひきの」は「山」の枕詞。「とををに」は、たわみしなうほどに、の意。なお、左注には、「或本には三方沙弥(みかたのさみ)が作といふ」とあります。窪田空穂はこの歌について、「清らかな拡がりをもった境が、調べに導かれて、ただちに気分となって浮かんで来る歌である。気分本位の詠風となった奈良朝時代の先縦をなしているとみえる歌であるが、それとは異なった趣がある。奈良朝時代には、気分によって材を捉えているのであるが、人麻呂は取材を通して気分にまで到らせているのである。実際に即し、それを単純に捉え、調べによって気分として行く態度を、この歌は明らかに示している」

巻第10-2333~2334

2333
降る雪の空に消(け)ぬべく恋ふれども逢ふよしなしに月ぞ経(へ)にける
2334
沫雪(あわゆき)は千重(ちへ)に降り敷(し)け恋ひしくの日(け)長き我(わ)れは見つつ偲(しの)はむ
  

【意味】
〈2333〉降る雪は、空中で消え入ってしまいそう、そのように恋い慕っているのに、逢う方法もなく、数ヶ月を経てしまった。

〈2334〉沫雪よ、幾重にも降り積もってほしい。焦がれる日の長かった私は、雪を見ながらあなたを偲びます。

【説明】
 「冬の相聞」の冒頭2首。2333の「降る雪の空に」は「消」を導く序詞。「逢ふよしなしに」は、逢う方法がなく。ここの雪は、どんどん降り積もるような雪ではなく、地上にたどり着くまでに消えていくような雪で、恋人に逢う手段さえない自分の立場を、消えゆくはかない存在の雪に言寄せています。詩人の大岡信は「空間性の把握の仕方が、いかにも人麻呂歌集らしい大きさがある」と評しています。

 2334は、前歌の空の雪に対し、庭に降り積もる雪を捉えた歌。「降り敷け」は一面に降れ。「恋ひしくの」の「し」は過去の助動詞、「く」はこの語を名詞形にしたもので、恋しかったこと。長い間恋い慕ってきた思いを厚く積もる雪に託そうとしていますが、「沫雪」はぼたん雪のような、柔らかく溶けやすい雪。地面に落ちてもすぐに消えてしまったのかもしれません。

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巻第10について
 巻第10は、巻第8と同様に、春夏秋冬の四季に分類した歌を、さらに雑歌と相聞に分けています。ただしこちらは作者名が不明で、『柿本人麻呂歌集』と『古歌集』を出典とする歌と、出典不明の歌とがあります。
  

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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。

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『柿本人麻呂歌集』

『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。

この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。

ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。

文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。

また詩人の大岡信は、これらの歌がおしなべて上質であり、仮に民謡的性格が明らかな作であっても、実に芸術的表現になっているところから、人麻呂の関与を思わせずにおかない、彼自身が自由にそれらに手を加えたことも十分考えられると述べています。

『万葉集』以前の歌集

■「古歌集」または「古集」
 これら2つが同一のものか別のものかは定かではありませんが、『万葉集』巻第2・7・9・10・11の資料とされています。

■「柿本人麻呂歌集」
 人麻呂が2巻に編集したものとみられていますが、それらの中には明らかな別人の作や伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではありません。『万葉集』巻第2・3・7・9~14の資料とされています。

■「類聚歌林(るいじゅうかりん)」
 山上憶良が編集した全7巻と想定される歌集で、何らかの基準による分類がなされ、『日本書紀』『風土記』その他の文献を使って作歌事情などを考証しています。『万葉集』巻第1・2・9の資料となっています。

■「笠金村歌集」
 おおむね金村自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第2・3・6・9の資料となっています。

■「高橋虫麻呂歌集」
 おおむね虫麻呂の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第3・8・9の資料となっています。

■「田辺福麻呂歌集」
 おおむね福麻呂自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第6・9の資料となっています。
 
 なお、これらの歌集はいずれも散逸しており、現在の私たちが見ることはできません。
 

各巻の主な作者

巻第1
雄略天皇/舒明天皇/中皇命/天智天皇/天武天皇/持統天皇/額田王/柿本人麻呂/高市黒人/長忌寸意吉麻呂/山上憶良/志貴皇子/長皇子/長屋王

巻第2
磐姫皇后/天智天皇/天武天皇/藤原鎌足/鏡王女/久米禅師/石川女郎/大伯皇女/大津皇子/柿本人麻呂/有馬皇子/長忌寸意吉麻呂/山上憶良/倭大后/額田王/高市皇子/持統天皇/穂積皇子/笠金村

巻第3
柿本人麻呂/長忌寸意吉麻呂/高市黒人/大伴旅人/山部赤人/山上憶良/笠金村/湯原王/弓削皇子/大伴坂上郎女/紀皇女/沙弥満誓/笠女郎/大伴駿河麻呂/大伴家持/藤原八束/聖徳太子/大津皇子/手持女王/丹生王/山前王/河辺宮人

巻第4
額田王/鏡王女/柿本人麻呂/吹黄刀自/大伴旅人/大伴坂上郎女/聖武天皇/安貴王/門部王/高田女王/笠女郎/笠金村/湯原王/大伴家持/大伴坂上大嬢

巻第5
大伴旅人/山上憶良/藤原房前/小野老/大伴百代

巻第6
笠金村/山部赤人/車持千年/高橋虫麻呂/山上憶良/大伴旅人/大伴坂上郎女/湯原王/市原王/大伴家持/田辺福麻呂

巻第7
作者未詳/柿本人麻呂歌集

巻第8
舒明天皇/志貴皇子/鏡王女/穂積皇子/山部赤人/湯原王/市原王/弓削皇子/笠金村/笠女郎/大原今城/大伴坂上郎女/大伴家持

巻第9
柿本人麻呂歌集/高橋虫麻呂/田辺福麻呂/笠金村/播磨娘子/遣唐使の母

巻第10~13
作者未詳/柿本人麻呂歌集

巻第14
作者未詳

巻第15
遣新羅使人等/中臣宅守/狭野弟上娘子

巻第16
穂積親王/境部王/長忌寸意吉麻呂/大伴家持/陸奥国前采女/乞食者

巻第17
橘諸兄/大伴家持/大伴坂上郎女/大伴池主/大伴書持/平群女郎

巻第18
橘諸兄/大伴家持/大伴池主/田辺福麻呂/久米広縄/大伴坂上郎女

巻第19
大伴家持/大伴坂上郎女/久米広縄/蒲生娘子/孝謙天皇/藤原清河

巻第20
大伴家持/大原今城/防人等


(大伴家持)

七夕の歌

中国に生まれた「七夕伝説」が、いつごろ日本に伝来したかは不明ですが、上代の人々の心を強くとらえたらしく、『万葉集』に「七夕」と題する歌が133首収められています。それらを挙げると次のようになります。

巻第8
山上憶良 12首
 (1518~1529)
湯原王 2首
 (1544~1545)
市原王 1首
 (1546)
巻第9
間人宿祢 1首
 (1686)
藤原房前 2首
 (1764~1756)
巻第10
人麻呂歌集 38首
 (1996~2033)
作者未詳 60首
 (2034~2093)
巻第15
柿本人麻呂 1首
 (3611)
遣新羅使人 3首
 (3656~3658)
巻第17
大伴家持 1首
 (3900)
巻第18
大伴家持 3首
 (4125~4127)
巻第19
大伴家持 1首
 (4163)
巻第20
大伴家持 8首
 (4306~4313)

このうち巻第10に収められる「七夕歌」について、『日本古典文学大系』の「各巻の解説」に、次のように書かれています。

―― 歌の制作年代は、明日香・藤原の時代から奈良時代に及ぶものと見られ、風流を楽しむ傾向の歌、繊細な感じの歌、類想、同型の表現、中国文化の影響などが相当量見出される点からして、当代知識階級の一番水準の作が主となっていると思われる。同巻のうちにも、他の巻にも、類想・類歌のしばしば見られるのはその為であろう。――

また、巻第10所収の『柿本人麻呂歌集』による「七夕歌」には、牽牛と織女のほかに、二人の間を取り持つ使者「月人壮士」が登場しており、中国伝来のものとは違う、新たな「七夕」の物語をつくりあげようとしたことが窺えます。

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