巻第2-199~201
199 かけまくも ゆゆしきかも[一に云ふ、ゆゆしけれども] 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神(まかみ)の原に ひさかたの 天(あま)つ御門(みかど)を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面(そとも)の国の 真木(まき)立つ 不破山(ふはやま)越えて 高麗剣(こまつるぎ) 和射見(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あも)りいまして 天(あめ)の下 治めたまひ[一に云ふ、掃ひたまひて] 食(を)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 御軍士(みいくさ)を 召したまひて ちはやぶる 人を和(やわ)せと まつろはぬ 国を治めと[一に云ふ、掃へと] 皇子(みこ)ながら 任(よさ)し給へば 大御身(おほみみ)に 太刀(たち)取り佩(は)かし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を 啐(あども)ひたまひ 整(ととの)ふる 鼓(つづみ)の音は 雷(いかづち)の 声と聞くまで 吹き鳴(な)せる 小角(くだ)の音も[一に云ふ、笛の音は] 敵(あた)見たる 虎が吼(ほ)ゆると 諸人(もろひと)の おびゆるまでに[一に云ふ、聞き惑ふまで] ささげたる 旗のなびきは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の[一に云ふ、冬こもり 春野焼く火の] 風のむた なびくがごとく 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒(さわ)き み雪降る 冬の林に[一に云ふ、木綿の林] つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏(かしこ)く[一に云ふ、諸人の見惑ふまでに] 引き放つ 矢の(しげ)けく 大雪の 乱れて来たれ[一に云ふ、霰なす そち寄り来れば] まつろはず 立ち向かひしも 露霜(つゆしも)の 消(け)なば消(け)ぬべく 行く鳥の 争ふはしに[一に云ふ、朝霜の消なば消と言ふに うつせみと 争ふはしに] 渡会(わたらひ)の 斎宮(いつきのみや)ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑(まと)はし 天雲(あまくも)を 日の目も見せず 常闇(とこやみ)に 覆(おお)ひたまひて 定めてし 瑞穂(みづほ)の国を 神(かむ)ながら 太敷(ふとし)きまして やすみしし 我が大君の 天の下 奏(まを)したまへば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと 木綿花(ゆふばな)の 栄ゆる時に 我が大君 皇子(みこ)の御門(みかど)を[一に云ふ、刺す竹の 皇子の御門を] 神宮(かむみや)に 装(よそ)ひまつりて 使はしし 御門の人も 白たへの 麻衣(あさごろも)着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿(しし)じもの い這(は)ひ伏し(ふ)つつ ぬばたまの 夕(ゆふへ)になれば 大殿(おほとの)を 振り放(さ)け見つつ 鶉(うずら)なす い這(は)ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひえねば 春鳥(はるとり)の さまよひぬれば 嘆(なげ)きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済(くだら)の原ゆ 神葬(かむはぶ)り 葬りいませて あさもよし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高くし奉り(まつ)りて 神ながら 鎮(しづ)まりましぬ しかれども 我が大君の 万代(よろずよ)と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天(あめ)のごと 振り放け見つつ 玉たすき かけて偲(しの)はむ 畏(かしこ)くあれども 200 ひさかたの天(あめ)知らしぬる君ゆゑに日月(ひつき)も知らず恋ひわたるかも 201 埴安(はにやす)の池の堤(つつみ)の隠(こも)り沼(ぬ)の行くへを知らに舎人(とねり)は惑(まと)ふ 202 哭沢(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据(す)ゑ祈(いの)れども我(わ)が大君(おほきみ)は高日(たかひ)知らしぬ |
【意味】
〈199〉心にかけるだけでももったいなく(もったいないけれど)、まして言葉に出すのも恐れ多い。明日香の真神の原に神聖な御殿を、畏くもお定めになって天の下をお治めになり、今は神として天の岩戸にお隠れになった我らが天皇(天武)がお治めになる、北の国の不破山を越え、和射見が原の行宮に神々しくお入りになり、天下を治められ(掃い浄められ)諸国を平定すべく、東の国々の軍勢を召し集め、人々を和らげ、従わぬ国を平定せよ(掃い浄めよ)と皇子に託された。皇子は大君に成り代わられた尊い御身に太刀をはかれ、御手に弓をかざして軍勢を統率なさったが、叱咤する鼓の音は、雷の声かと聞きまごうばかり、吹き鳴らすつの笛の音も(笛の音も)敵に向かって虎が吠えるかと人々が恐れおののくばかり(聞き惑うばかり)である。兵士たちが捧げ持つ旗がなびくさまは、冬があけた春野に燃え立つ野火が(冬があけた春の野を焼く火が)、風にあおられて広がるかとまごうばかりである。また、兵士が取り持つ弓の弓弭(ゆはず)のどよめきは、雪が降り積もる冬の林(真っ白な木綿の林)につむじ風が渦巻き渡るかと思うほどに(誰もが惑うほどに)恐ろしく、引き放つ矢のおびただしさといえば大雪が降り乱れるように飛んでくるので(霰のように降りそそいで来るので)、従わずに抵抗する者どもも、露霜のように消えて無くなれば消えてよしと争う(朝霜のように消えるなら消えろとばかりに命がけで争う)。折しも、渡会の神の宮から神風が吹いてきて、敵を惑わせ、天雲を呼び寄せて、敵に日の光も見せぬほどに真っ暗に覆い尽くした。このようにして平定した瑞穂の国を、神のままに統治なさろうと、我らが大君(高市皇子)が天下に向かって奏上なされたので、いつまでもそのようになるだろうと(かくのごとくだろうと)木綿花のように白く美しく栄えていらっしゃった。その折も折り。大君の御殿を(刺す竹の皇子の御殿を)御霊殿として飾り付けることになってしまった。仕えていた人々も白い麻の喪服を着て、埴安の御門の広場に集まって、昼は日がな一日、獣のように腹這いになって悲しんだ。夕方になれば、御殿を振り仰ぎ、鶉のように這い回って御霊殿に仕え申し上げるけれども、それではどうしようもなく、春鳥のようにさまよい泣いていると、その吐息も静まらず、悲しみも尽きぬのに、言葉もうまく出てこないうちに百済の原を通って神として葬り参らせ、城上の宮を殯宮(あらきのみや)として高々と営み申し、神のままお鎮まりになってしまわれた。けれども、大君が万代にとおぼしめられて作られた香具山の宮、この宮がいついつまでに消えてしまうことなどと考えられようか。天を仰ぐように振り仰ぎながら、深く深く心に懸けてお偲びしよう。恐れ多いけれども。
〈200〉天をお治めになるはずだったわが大君、いつの間にか月日は流れていくけれど、私たち臣下はずっと皇子をお慕い申し上げています。
〈201〉埴安の池、堤に囲まれて流れ出るところもないその隠り沼のように、行く先の処し方も分からないまま、舎人たちはただ途方に暮れている。
〈202〉泣沢の女神に御酒を捧げてお祈りしたけれど、わが大君は皇子は空高く昇って天上を治めておられる。
【説明】
天智天皇の死後、皇位継承をめぐって大友皇子と大海人皇子との間で戦われた壬申の乱(672年)で活躍した、大海人の子・高市皇子(たけちのみこ)の勇猛ぶりをほめたたえ、柿本人麻呂が作った長歌と短歌です。長歌は全149句にも及び、『万葉集』中、最も長編となっています。
天皇家の叔父と甥との戦いとなった古代最大の争乱は、高官や武将が居並ぶ大友軍に対し、大海人軍の軍勢には訓練の行き届かない農民兵が多く、まことに心細い状況だったといいます。そこで総指揮官に任命された19歳の高市皇子が諸国から集められた兵を率いて奮戦、東国から近江に向かう各地で連戦連勝します。さらに渡会の神の宮(伊勢神宮)から吹いてきた神風が追い風になって勝利したというのです。
大海人皇子はそのことに心から感謝し、即位して天武天皇になると、長らく廃れていた斎宮を復興して手厚く祀りました。もとは一地方の神にすぎなかった伊勢神宮は、やがて天皇家の祖先をお祀りする聖地へと高められたのです。なお、現代まで続く伊勢神宮の式年遷宮は天武天皇の発案によって始まったとされます。
壬申の乱に勝利した天武天皇が亡くなったのは乱から14年後の686年、歌中にある、高市皇子が天下に向かって奏上したのは690年、しかし、高市皇子は、長子であったものの、母親が皇族でなかったため皇嗣とはなり得ず、696年に43歳で亡くなりました。この歌は題詞に「高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の城上(きのえ)の殯宮(ひんきゅう)の時に、柿本朝臣人麻呂が作った歌」とあります。人麻呂は草壁皇子の舎人として出仕してからわずか数年で皇子を失い、その後、高市皇子の舎人となりましたが、さらに悲痛にもその皇子も薨去し、彼の悲嘆はますます深化します。
199の「かけまくも」は、心にかけて思う意。「真神の原」は、奈良県明日香村の飛鳥寺がある辺り。「ひさかたの」「やすみしし」「高麗剣」「鶏が鳴く」「冬こもり」「露霜の」「行く鳥の」「やすみしし」「木綿花の」「あかねさす」「ぬばたまの」「言さへく」「あさもよし」「玉たすき」はいずれも枕詞。「天つ御門」は、天武天皇の清御原宮。「背面」は、北。「不破山」は、岐阜県不破郡と滋賀県米原市の境にある山。「和射見が原」は、岐阜県関ケ原町関ヶ原。「行宮」は、仮に造った宮殿。「食す国」は、統治なさる国。「ちはやぶる」は、凶暴な。「まつろはぬ」は、服従しない。「啐ひたまひ」は、率いておられ。「風のむた」は、風とともに。「渡会」は、伊勢の国の郡名。「瑞穂の国」は、日本国の美称。「埴安」は、奈良県橿原市の地名。「百済の原」は、奈良県北葛城郡広陵町百済。
この長歌の前半は、高市皇子が父君の天武天皇の命にしたがって敵軍を撃破した物語であり、その時に「神風」が吹いて乱を平定したことがほとんど叙事詩風に歌われています。とりわけ和射見が原の戦場で皇子が一軍の将として奮戦する情景の描写は詳細かつ鮮明です。このような叙事詩的な要素を採り入れている挽歌は多くなく、そのため人麻呂が何らかの形で従軍したのではないかとも見られています。後半の部分は、皇子が城上の宮を永久の神宮として、神となり鎮まり給うのを万代までもお祭りしようという鎮魂の歌となっています。
200の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天知らしぬる」は、天を治める身となられた。皇子が亡くなったことの表現。201の「隠り沼」は、流れ出るところのない沼。「知らに」は、分からないので。
人麻呂は、草壁皇子の死に際しても挽歌(巻第2-167~169)を詠んでいますが、分量が少なく美辞麗句を並べた、いかにも宮廷官人の立場で作っただけのような印象を受けます。それに対して高市皇子をうたった長歌は分量が極めて多く、壬申の乱での皇子の活躍ぶりを詳細にわたって堂々たる文言を列ねて詠んでいます。人麻呂の、高市皇子の人柄や生きざまに心酔していたことが窺える歌であり、ひょっとしたらこの二人は親交があったのではないかともいわれています。
202は、題詞に「或る書の反歌」とある歌で、さらに「『類聚歌林』によれば、檜隈女王(ひのくまのおおきみ)が泣沢神社を恨んで作った歌である」旨の注記がなされています。檜隈女王はこの歌の作者としてのみ名が伝わり、歌の内容から高市皇子の妃の一人だったとみられます。系譜や生没年は不明ですが、渡来系の出自ともいわれます。「哭沢の神社」は、香具山西麓の神社で、イザナギがイザナミの死を悲しんで泣いた涙から生まれた泣沢女神(なきさわめのかみ)を祀っています。「高日知らす」は「天知らす」と同じく、貴人の死を表現する語。
【PR】
高市皇子について
『日本書紀』の天武天皇の項には、大海人皇子の時のこととみられる多彩な女性関係と、もうけた子のことが記されています。婚姻によって朝廷内の重臣や各地の豪族との関係を深めるためだったとみられます。その一環として、筑紫の豪族、胸形君徳善(むなかたのきみのとくぜん)の娘の尼子娘(あまこのいらつめ)を妃として迎え、その間に生まれたのが高市皇子です。大海人皇子が20歳代のこととみられ、その後、成人した高市皇子は、壬申の乱で武将格として活躍、みごと大海人側に勝利をもたらします。
しかし、高市皇子は、そんな大功があったにもかかわらず、母の身分が低かったために、皇太子とはなれませんでした。天武天皇が亡くなり、持統天皇の世になって、皇太子の草壁皇子亡きあと、太政大臣として迎えられました。晩年には「後皇子尊(のちのみこのみこと:皇太子に準ずる扱いの称)」の扱いを受け、43歳で亡くなるまで皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えました。のちに親王として権勢をふるった長屋王の父でもあります。
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |
【PR】
【PR】